リュクルス
——ラケディア、麗しの
永久に、栄あれ
◆
ペルピネの大地を支配する偉大なる都市。戦士の地ラケディア。
真冬のある日、払暁に、街道の石畳を粗末な履き物で踏みしめて、襤褸を纏った一人の男が現れた。脇には薄汚れた一頭の、しかし堂々たる羊を従えて。
手に槍を持ち、現れた。
男は木造の城門を叩き、全身を震わせ叫ぶ。
「ラケディア! 麗しの! テセウスの子リュクルスが御身より賜りし使命を果たし、ここに帰ってきた。ラケディア!」
◆
「何をしている! おい! リュクルス?」
背に刺さる友の叫びが男の意識を引き戻した。
我に返った男は組み敷いた眼下の幼生体に焦点を合わせ、素早く右手の剣を突き立てた。
取り立てて難しいことはない。過去に何度となく行ってきた処理である。肋骨の間に切っ先を入れる。始め一瞬の抵抗は皮膚のものだ。それを超えれば柔らかい内部はもはや抗わない。
どす黒い体液は間歇泉のごとく吹き出す。そして男の貫頭衣を斑に染めた。
それは誉れの模様であった。
「パレイオス。すまない」
駆けつけた友にリュクルスは軽く頭を下げる。”処理”の最中に陥る注意散漫は危険の最たるもの。たとえ相手が幼生体といえども不測の事態は十分起こりうる。
彼は鈍く輝く剣を数度振り、”魔物”の体液を振り落とすと友人に向き直る。
「どうした、テセウスの子よ。最近不調じゃないか。”隊列”の友として捨て置けぬほどに」
パレイオス。そう呼ばれた青年はリュクルスを圧する大きな肩を軽くすくめ、言語に落としがたい微妙な感情を表現する。芝居がかった言い回しと相まって、その様は微かな笑みをリュクルスにもたらした。
「そう見えるか。――確かにその通りかもしれない」
「ここ数ヶ月ずっとだ。エイレーネと契りの予感に気もそぞろか?」
「否定はしない。エイレーネはいい女だ。豊かな尻をしている。よい子を産む。おれと彼女の子は…」
「”ラケディアの偉大な戦士になる”か」
友の言葉に若干のとげが含まれていることを知りながらも、リュクルスはあえて受け流す。
「共同体を支える堅固な柱を産みだすこと以上の奉仕はない。おれの後は君だ。君も彼女と交わり、また我らの都ラケディアの戦士を作り出す」
森の周縁部とはいえ、木々がかけた天蓋は初夏の陽光を減衰させるに十分な密度を備えている。”魔物”の体液と草いきれ、そして二人の男が発する汗。それらが混じり合い独特の臭気に結実していた。
そこに低い女声が響く。
「二人とも。無事終わった?」
まだ人影を隠すには不十分な木々の幹を縫うように女が近づいてくる。後ろで一本に絞られた黒髪はほとんど揺れることはない。滑るように、静かに女の足は動く。
「ああエイレーネ! おまえは罪な女だ。”初のつがい”の男を仕事の最中まで虜にしてしまう」
「あら。今更気がついたの? ガノスの子パレイオスは。あなたの子もその鈍感を引き継ぐかもしれないわ」
「賞賛と受け取ろう。戦士にとって鈍感は最上の武器だからな。なぁリュクルス!」
刃を袖布で拭き鞘に戻したリュクルスは、先ほど友が見せたように肩をすくめて答えた。
「同意しよう。珍しく正しいことを言う君に」
「そしておまえは常に正しい。常にラケディアの模範的な市民だ」
「そうありたいと望んでいる」
二人の元に女がたどり着く。途端に空気の味が変わる。血と男の汗に女のそれが加わったのだから不変ではありえない。
「私とパレイオスで成体2匹。リュクルスが幼体1匹。これで全部?」
「ああ。狩り残しはいない。最小の群れだ。これは逃げ足が速かったが何とか追いついた」
リュクルスは深い茶の瞳を足下の死体に向けた。
襤褸を体に巻き付けた”小鬼”の小さな眼球は小さく眼窩を飛び出している。小さく。
「じゃあ仕事は終わりね。帰りましょう。麗しのラケディアに」
エイレーネは大きく盛り上がった皮の胸甲を軽く叩く。その様はリュクルスにはとても好ましく映った。
エイレーネはよい女だ。
つまり健康な子を孕む女だ。彼が健康な子を仕込む男であるように。
「とりあえず村で一泊。酒だ! ただし交わりはやめてくれよ」
「当然だろう。交わりはラケディアでするものだ。猛きマヌ神の館で」
「このパレイオス、テセウスの子に言ってはいない。模範的な市民には釘を刺さないぞ。問題はエイレーネだ」
「全く! ちゃんとわかってるわ。隷民の村で子を孕むなんて冗談じゃない」
女は筋張った腕を大仰に動かし下腹部に押し当てた。艶やかな唇を少し尖らせながら。
◆
ラケディアはペルピネ半島の中部平原を支配する都市である。
北部を高地に、南部を大森林に挟まれた沃野を、ラケディア建国の父祖達は力で占めた。軍神マヌの子孫を自称する彼らは高地を抜けてやってきて、現地に住まう部族を純然たる力で隷属せしめた。
ラケディアは市民の都市である。
建国王アルトクレスの血を引く者が伝統に従い王の座を占めたが、それは名誉以上の意味を持たない。血による支配はここラケディアの地では軽蔑される。支配は力によって為されねばならず、力は同等の権利を持つ市民の団結によってのみ生み出されるべきものだからだ。
ラケディアは一個の都市として存在しながら、その手に余るほどに広大な領土を手にした。盛時にも人口1万を超えることがない市民達は、周縁に住まう”隷民”たち——およそ市民の数十倍にも及ぶ人々の群を治めることを求められた。純然たる力によってである。
ゆえにラケディアは戦士の国である。
テセウスの子リュクルスはそのような存在であるところの都市に生を受けた。
彼は同世代の子ども達にとって、あるいは年長の市民たちにとっても一個の模範であった。二年前、国王ガノスの治世15年、東方の唾棄すべき隷民共の群れ——「帝国」の侵攻を受けた折には、初陣であるにもかかわらず”隊列”の最前において立派な振る舞いをなした。
ラケディアの戦闘における基本陣形たる”隊列”は最前に若者を置き、二列、三列目に成熟した壮年を配置する。年若い者達は恐怖ゆえに複雑な行動を取ることはできない。ただ無我夢中に槍を握りしめるのみ。それをときには嗾け、ときには引き戻し、巧みな操縦を行うのが壮年兵の役割である。
若年者は戦の中で後列の市民達にその”仕上がり具合”を吟味される。怯懦の振る舞いはないか。恐慌に陥らないか。あるいは純粋に、貧弱でないか。
リュクルスは立派に最前列を勤め上げた。自身のみならず、横に並ぶ同僚を静かに鼓舞し、息を合わせ、与えられた役割を全うした。
10歳から”少年団”で共同生活を送った仲間の顔面が敵の刃にかち割られてさえ、友の血潮を存分に浴びてさえ眉一つ動かしはしなかった。昂ぶりも怯えもせず、黙々と槍を構えた。
リュクルスと並んで最高の評価を得たのは同じ”隊列”に属するパレイオスである。こちらは意気盛ん、過剰なまでの戦意と剛毅を全身から発した。リュクルスよりも一回り大ぶりな身体はそこに在るだけで場を支配する存在感を放っていた。獅子の如きパレイオス。戦の後、彼はそう呼ばれた。
対称的に、リュクルスはこう呼ばれた。石の如きリュクルス、と。
同い年の二人、リュクルスとパレイオスは今年20歳になる。
10歳になるとラケディアの子ども達が加入する”少年団”で出会って以来、およそ10年を共に生きてきた。周囲からは次代の執政官候補と目される彼らは互いを認め合った。語義の奥行きを認めるならば彼らは「友人」と呼んで差し支えない関係を築いた。
ラケディアの子ども達が常にそうであったように二人は全てを共有した。頑強な身体を育むべく敢えて粗末に作られた麻服も、武具も、食事も。そして成人のときを迎える今、もう一つ大切なものを共有しようとしている。
エイレーネ。
同世代の中で最も頑健な——つまり最も美しい女である。
ラケディアはペルピネに存する他の”堕落都市”群に蔓延する悪習を持たない。偉大な戦士を生み出すために最も重要なもの、つまり母体を健やかに育て上げることに意を用いた。ゆえに”堕落都市”群にあるような、家屋の最奥、薄暗い中に囚人よろしく息を潜めて生きる女は存在しない。機織りと料理以外には用途のない奴隷の如き女はいない。
ラケディアの女は弓を引き、槍を持ち、荒野を駆ける。そして立派な男と健康な子を為す。
エイレーネがリュクルスあるいはパレイオスのどちらかと”初のつがい”を為すことは大分前から定められていた。世代において彼らは最良の個体であると衆目一致するところであった。リュクルスとパレイオスの二人の雄は、”初のつがい”を求めて競った。戦闘、訓練、”仕事”、食事、それら生活の全てが査定の対象となった。
最終的に権利を手にしたのはリュクルスであった。ラケディアの男として彼は努めて抑制された満足を示した。
「このテセウスの子リュクルスの子種を受けて、エイレーネは次代の偉大な戦士を生むだろう」
彼の子を産み落とした後、エイレーネはパレイオスとの間にも交わりを持つ。リュクルスが他の女と交わるのと同様に。
ラケディアにおいて男女の交わりは物理的な問題であり、”堕落都市”群が持つ穢れた道徳——つまり夫婦の貞節の類いは一顧だにされなかった。夫と妻を中心とした「家族」などという貧弱な仮構はラケディアには存在しない。ラケディアは市民全員が一つの家族なのだ。
ただし、”初のつがい”を行った者同士は男が兵営暮らしを終える25歳以降、共に住むことが慣習となっている。つまり、一人の女に対する若干の優先権を男は得る。
リュクルスはエイレーネに対する優先権を得ていた。
◆
間引きは市民の義務である。
ラケディア南方を塞ぐ大森林「南の緑壁」には”魔物”が沸く。”隷民”は人だが”魔物”は人ではない。耳に触る下卑た鳴き声を上げる生き物。森の奥から湧きだし、放置しておけば一年もたたぬうちに繁殖し、いつしか都市の安全を脅かす。
ゆえに間引きは義務であった。
仕事を終えた彼らが向かった「緑壁」にほど近い隷民の村は、魔物を、あるいは野生動物の侵入を防ぐ簡素な木柵に覆われた20戸程度の集落である。
門と表現するのもおこがましい木枠をまずくぐるのは先頭を行くパレイオス。そこにエイレーネ、リュクルスと続く。
隷民の一団が遠巻きに一行を見守る。老いも若きも、その視線には怯え以外のなにものもない。それは当然のことである。
リュクルスたち一行は明らかに、日々村の住人達が相手をする野生の肉食獣や”魔物”以上のものだ。彼らはラケディアの戦士である。つまり、戯れに隷民の村を劫掠することが可能な力を持ち、かつ実際に行う者達だ。
ラケディアは支配下の隷民を極めて率直な手法で統治した。恐怖という。
「宿と酒! 最上のものを。麗しの都の栄えある市民に捧げるに値するものを!」
パレイオスの声は想像以上に巨大な波となり、村を飲み込む。
小隊列の後尾を占めるリュクルスはその音に眉を顰めた。
「怒鳴る必要はない」
「そうか? 隷民どもの知恵と気概は獣と変わらん。ならば分かりやすい方がいいだろう」
「無駄を省きたいだけだ。静かに語り、聞かねば一人斬ればいい」
実際のところ平素のリュクルスであれば僚友の大声など特に気にはしなかった。だが、ここ数ヶ月男を密かに苛む頭痛はそれを許さない。大声はそれを呼び起こす。
「どうしたの? リュクルス?」
無言で額を抑える”つがいの男”にエイレーネが声を掛ける。心配という語が適切とは言えない。それは探りに近い。
「日の光を受けすぎた。少し茹で上がっている」
汗で房になった豊かな茶の髪を後ろに流し、男は答えた。それ以上の説明はなされなかった。ラケディアの戦士にとって身体の不調は恥ずべきことであるからだ。
女は押し黙った。
三人が広場というには手狭な中心部に歩を進めると、小柄な老人が一人戸外に現れる。俯いたまま誰何も挨拶もない。ただ右の手を緩やかに翳し、村の最奥部、土壁作りの小屋に誘う。
広場を囲むように建てられた木造の家屋——おそらくは隷民たちの住処——はラケディアの戦士に相応しくない。彼らが寝静まった深夜に火をかけられる可能性があるからだ。よって、そこを宿泊所として薦められた場合、戦士達が為すべきことは一つである。
可能性を消すのだ。村の住民達——矮小な隷民どもが一人残らずいなくなれば、彼らのつかの間の宿に火をかける者はいなくなる。単純な解決策。それがラケディアの流儀であった。
割り当てられた土壁作りの小屋は快適とは言いがたいものだった。四隅の土壁の上に木枝を渡し干し草で覆う屋根は、風雨と陽光を防ぐ最低限の機能を備えるのみ。
だが、ラケディアの戦士達にとって家とはかくあるべきものである。豪奢は堕落を呼び偉大なる戦士の魂を汚す。ラケディアの共同体は、粗衣粗食そして貧弱な住処に生きる者たちでなければ維持することはできない。”堕落都市”群の肥え太った男ども、日の出から日の入りまで常に飲み食いを続ける俗物共をラケディア市民は軽蔑した。彼らにとって肉体の快は恥ずべきものである。清らかな精神こそが唯一の価値あるものなのだ。
酒は濁り、粥には塩味。干し肉の一切れ。節度を持ってそれらを食しつつ、”隊列”の仲間達と知的な会話を交わすことこそがラケディアにおける唯一の快である。
「屋根がよろしくないなあ! なあテセウスの子よ! どうする?」
「これでいい。常変わらず見張りに立てば済む」
枯れ草の屋根は付け火に繋がる。”可能性”を排除すべきか尋ねたパレイオスにリュクルスは素っ気なく答えた。答えた後、彼は明確に自身の”不調”を自覚した。
本来であれば剣を抜き、隷民どもを一人残らず消すべきなのだ。
野宿を選ばず、あえてこの村に宿を取ったのは、”物言う禽獣”どもに「教え」を与えるためでもある。ラケディアの戦士が髪の一毫ほども不満を覚えれば、隷民どもは死をもって償わなければならないと。
そのような膺懲は共同体に奉仕する行為である。
安寧は隷民に対する完全な支配によってのみ保たれる。そして完全な支配は恐怖によってのみ為しうるものだからだ。
「これはおかしい。おかしいぞ、リュクルス。どうも最近のおまえは」
パレイオスの言葉には猜疑が混じる。立派な体躯に相応しい青の巨眼がリュクルスの頬を撫でた。あるいは探った。
「同意するわ。リュクルス。あなたは義務をおろそかにするの?」
女の口ぶりは表層厳しいが、そこには若干の不安が感じられる。自身の胎を与える男がラケディアの光輝ある市民に相応しくない態度を取ることは彼女の尊厳にも関わる。
部屋の四隅に積上げられた藁束の一角に腰を下ろし、女はじっとリュクルスの背を眺めていた。
「きみたちはおれを疑うか? それは酷い侮辱だ」
「いや! テセウスの子よ、疑いはしない。ただ、雑念はおまえの誇りを汚すぞ」
「おれは単純だ。おれたちは間引きの”仕事”をこなした。そして帰途に就く。それだけのこと」
共に育った”隊列”の仲間から受ける猜疑の視線にもリュクルスは不快を覚えなかった。彼らは立派に務めを果たしている。
ラケディアの市民は常に他の市民を監視する義務を持つ。愚かな者、心弱い者が混じらぬように。混じったときには取り除けるように。
リュクルスは僚友の舐めるような視線に頼もしさすら覚えた。彼らは立派な市民だと。
「必要であればおれが処理する。寝ずの番はおれが」
それだけ告げると彼はエイレーネと対角に位置する藁束の上に腰を下ろし、壁に背を預けて目を閉じた。
夜が訪れるまで、心身を休める必要があった。
会話は必要なかった。
◆
彼は瞑目せねばならなかった。
頭蓋の中を響き渡る「声」に耐えるために。
「声」は彼を詰る。
——リュクルス、リュクルス、テセウスの子、卑怯者よ、務めを果たせ。声のまま歩め。
彼が最初の響きを受けたのはもう3ヶ月も前のこと。当初掠れた囁きは、今や僚友パレイオスの並外れた雄叫びを上回るほどの大音声にまで成長した。脳内で。
——リュクルス、リュクルス、卑怯者よ、務めを果たせ。石を金と為す者よ。
青年にできることは一つしかなかった。砕けんばかりに奥歯を噛みしめること。それだけだ。ともすれば口をついて出そうになる言葉を抑え込むために。
ラケディアの市民であり続けるために。