声
戸口の脇に即席で拵えたかがり火の光が青年の顔を照らす。それは浮かび上がらせる。引き締まった頬と屹立した鼻梁を。成人に向けて伸ばし始めた巻き毛を。
緑壁にほど近い村での寝ずの番は、彼にとってあまり好ましいものとは言えなかった。月明かりが遙か木々の彼方のそれを否応なく男の視野に鎮座せしめるからだ。
ケイデー山。
かつて建国の祖アルトクレスがたどり着き、祖神マヌより宣託を受けたとされる地。ゆえにラケディアはケイデーの山までを自らの大地と見なす。
しかし実際のところ、分厚く、果てなく続く緑壁を越えてそこにたどり着いた者は存在しない。
何よりも率直であることを美徳とする市民達が唯一建前で語るのがまさにそのケイデーである。彼らは不可能を承知しながらも常にケイデーを目指したが、それが行動に移されることは終ぞなかった。ラケディアは合理的であることを愛するからだ。
リュクルスの脳内を絶え間なく小突き回す「声」は言う。
——山へ往け! 山へ往け!
執拗な催促に耐えながら、青年は自身に与えられたある種の呪いを思い返した。
◆
ペルピネの地に広く根付いた慣習にもれず、ラケディアにおいても宣託は重要な意味を持つ。年に一度、ラケディアは北方デルフの神殿に使いを出す。共同体に生まれた子ども達の命運を占うべく。詩と運命を司る女神アポリアの巫女が、子らの未来を歌う。
〝汝、マヌの子、アルトクレスの子らよ。ラケディア、麗しの。御身の赤子は健やかに〟
常ならばこのような定型の祝詞で終わる儀式は、ガレノス王の十八年、つまり今から二十を遡った年に異変を示した。
〝汝、マヌの子、アルトクレスの子、テセウスの子、石を金に変える者。ラケディア、麗しの〟
当時〝大隊列〟の指導者に就任したばかりのテセウスが仕込み産ませた男児リュクルスは、女神アポリアに呪われた。
都市の政を司る元老会は動揺した。
ラケディアにおいて「石」はその存在様態において彼らの理想の結実であった。石は硬く、余計なものを何も含まない。単一で別ちがたく、断固としてそこに存在する。ラケディアはかくあるべし。
一方で「金」は軽蔑された。人を堕落させる軟弱で使い物にならぬ塊。金を嫌うラケディアは金貨を使うことすら避けた。他都市との交易用に貯蔵はしてあるが、彼らが日常用いるのは鉄貨である。
テセウスの子リュクルスは石を金に変えるという。それは元老会においても市民会においても決して看過しえぬ宣託であった。
一方で、よりよい解釈を主張する者もいた。赤子の父テセウスの僚友にして第一の競争相手だったカミノスはこう語った。
「我らマヌの子の常識ではなく、アポリアの常識をもって推し量るべきである」と。
石を金の上に置く意識はラケディア特有のものであり、他の都市においては全て金を上位とする。アポリア神もまた一般の常識に則った神意を示したのだ、と。
明白な決断を愛するラケディアには珍しく元老会は判断を保留した。
テセウスの子リュクルスを「処理」するのは簡単だが、もしそれが神意を取り違えたゆえのものであった場合、アポリアの呪いがラケディアに降りかかることとなる。
この誇り高い女神は自身が軽んじられることを決して許しはしない。当時からさらに遡ること十年、デルフの神託を嘲笑い戯れ歌にした都市ミノアは疫病により呆気なく滅んだ。アポリアの呪矢が降り注いだがゆえである。
かくしてリュクルスは「処理」を免れた。ただし満場の猜疑と監視を背負って、である。
「石を金に変える者……」
ケイデーの山頂を視界に捉えながらリュクルスは喉の奥で言葉を転がす。
彼は父の友にして後に自身の師父となったカミノスの意見を信じた。思考においても行動においてもラケディアの模範たることが彼の生きる意味であった。
◆
「……リュクルス」
背の中心に何かが触れるのを彼は感じる。それは手だ。
エイレーネが覚醒し、立ち上がる様を彼は知覚していた。振り返る必要などない。空気がそれを伝える。だが、女が自分に触れるのはいささか予想を反した出来事であった。
「眠れ。心配しなくても、おれは役目を果たす。これまでのように」
女に触れられてなお、リュクルスは動かなかった。ただ伝えるべきことを伝えた。
「あなたはひどく矛盾しているのね。私たちには〝自分を信じろ〟というくせに、あなたは私たちを信じないの?」
「信じている。隊列の友だ」
エイレーネは掌を離し、男の傍らに歩を進めた。彼は女の横顔を見た。切れ上がる眦と長い睫毛を見た。女の体臭を感じた。男のそれとは違う、その重さを。
「覚えている? 私に〝女の徴〟が舞い降りたとき、テセウスの子、あなたは言った。〝耐えきれぬ苦を打ち明けることは恥ではない〟って。私はその言葉を受け入れて、人生で初めて訓練を休んだ。それがなぜか分かる? 分からないでしょうから言葉にします。——それは、あなたを信じたから」
「おれの言葉は、〝耐えうる苦は耐えるべき〟というのと同義だ」
「私にはもう、あなたのそれが耐えうるものとは思われないけれど」
ラケディアの女は滅多なことで笑みを見せない。媚態は堕落であるからだ。しかしこの時、エイレーネの日に焼けた頬は微かに緩んだ。
笑みには様々な意味がある。誘いから嘲弄まで幅広い。彼女のそれが含むものがどれにあたるか、リュクルスには理解できなかった。
「きみにそう見えているだけだ」
「皆が私に同意するわ。パレイオスも。あなたはここのところ、ずっと何か他のことに気を取られてる。反応が遅いし、何より判断がおかしい。今日だってそう。あんな小鬼に引っ張られるように隊列を離れて、勝手に動いた」
「いや。あれは実際素早かった。放っておけば取り逃がす可能性があった。そう判断した」
リュクルスの語気に微小な苛立ちが混じる。エイレーネの言は当を得ていることの証左である。
「ねえ、リュクルス」
女は男の正面に回り込み、下から視線で彼を射る。黒い瞳は見開かれ、言葉よりも雄弁に心内を物語っていた。
しかしそれでも足りない。彼女は続ける。
「あなたはラケディアを汚すの? ちっぽけで卑怯な、その身可愛さに。我が身大事の〝裏切り〟こそ、ラケディアの栄えある戦士から最も遠い有様でしょう?」
「おれは……」
「あなたはいずれ私の胎を経て子を成す。いずれ〝大隊列〟を統率する。たぶん執政官にまで上り詰める。——そんな男の子を、私は孕みたい。卑怯者とつがい、臆病な子を産むくらいなら、私は栄えある死を選びます」
戦場で怯懦な振る舞いを見せた者はラケディアにおいて最大の侮蔑を受ける。〝共同体〟はその者を決して受け入れない。烙印は父母にも及ぶ。下劣な心根というものは、髪や目の色と同様父母から受け継ぐものと見なされていたからだ。
よってエイレーネの言葉は、およそ人がラケディアの戦士に与えうる最大の侮辱であった。これが衆人環視の元で為されたならば、リュクルスは名誉のために剣を抜かねばならなかったであろう。
しかし幸いにも、今ここに観衆は一人しかいなかった。
「エイレーネ。きみは、今自分が放った言葉の意味を分かっているか」
「ええ。ええ、テセウスの子! 石の如きリュクルス! 分かっている」
すり潰した低声は小さく、しかし峻厳なものだった。
「でも分かってほしい。私の真心を。あなたは私の〝初のつがい〟。——私はあなたを心配しているの」
そしてふわりと緊張が解けた。押し込められた布が戒めを取り払われて緩やかに広がるように。優しい、女の声だった。
リュクルスの瞳はじっと女のそれに注がれたまま動かない。
ラケディアにおいて迷いは唾棄すべき状態である。最上の価値とそれに至る目的が明示されている以上、迷いの余地は存在しないはずだからだ。
しかしこの時、リュクルスは確かに迷っていた。
彼にはいくつかの選択肢が存在した。
例えば昼間にパレイオスが悪意なき揶揄に示した通り、目の前の女——エイレーネへの生物的欲求を理由として述べてもよい。実際それが嘘とは断じ難い。豊かに盛り上がった乳房と大きな腰、日光に痛めつけられてなお瑞々しさを失わぬ滑らかな肌は彼の欲を刺激した。この女の胎に自身の子を宿すことの快は確実に存在する。
一方で、真実を告げる道もある。
絶え間なく語りかける「声」について告白することもできる。幻聴は気狂いの予兆である。そして、ラケディアにおいて気狂いは不良個体の証である。心身のどちらにであれ、不良が認められる存在をラケディアは許容しない。生まれた赤子は長老達の検査を受け、瑕瑾あらば速やかに葬られる。少年も壮年もそれは変わらない。許されるのはただ一つ。名誉の戦傷のみ。
よって、事が公になれば、青年は明らかに難しい局面に立たされる。
最も微温的な判断が下ったとて、気狂いの徴を得た男はこの後死ぬまで一隊列の担い手以上の者にはなれない。大隊列を指揮することは叶わないだろう。エイレーネとつがうこともない。それどころか、子をなすこと自体許されない。決して。
戦場における卑怯な振る舞いはないため、市民達の食事会から除かれることはないが、主要な地位を占めることはありえない。末席で息を殺して惨めに粥をかけ込む日々が待っている。哀れな気狂いとして。
答えが求められていた。
——卑怯なリュクルス! 卑怯なリュクルス!
思考の隙間至る所に声がこだまする。それは的確に青年の唾棄すべき利己心を責め立てた。
彼はラケディアの市民である。市民はラケディア——麗しの都のために存在する。ラケディアの安寧と栄光無くして市民の存在に意味はない。幼時は父母に、十の歳からは少年団で刷り込まれた観念はもはや教条であった。
リュクルスはそれを信じた。
つまり青年にとって答えは定まっていた。告白を為すべきだ。
しかしその行動には浅ましくも賢しげで、唾棄すべき卑劣な勘定が背後に息づいている。それを彼は無意識に意識している。
〝エイレーネはきっと黙っていてくれるだろう。パレイオスもまた。彼らは友だ。〟
戦場においても日常においても、三人はずっと助け合って生きてきた。そこには絆がある。自分自身、ラケディアに仇なす行い以外のことであれば、それがなんであれ、友のために命を投げ出すことに躊躇いはない。誇らしい行為だ。
〝エイレーネは、パレイオスは、このテセウスの子の小さな罅を心のうちに納めてくれるだろう。〟
一方で、もし彼らがそうしたならば、リュクルスは二人を軽蔑するだろう。友を守るという純然たる私欲のためにラケディアを、共同体を危険に晒すのだ。気狂いを野放しにすることによって。それは恥ずべき行いだ。
しかし……。
相剋の舞台となった青年の脳内には、一つの通奏低音が響いている。
——卑怯なリュクルス! ——卑怯なリュクルス!
最終的に、彼は選択しなかった。
成さざるを得ない行為を強要されたのだ。心内の何かに。
「エイレーネ。おれはきみに伝える」
乾き切って掠れた男の言葉にエイレーネはうなづいた。穏やかな笑みを湛えて。
「——声がおれを満たす。忌々しい声が」
独白する男の姿を、四つの瞳が静かに観察していた。暗闇の奥から。




