要編 71 夢を見る
シーン71 夢を見る
その夜、眠る要の夢に富士子が現れた。
夢の中の富士子は要と初めて言葉を交わした日に、着ていた黄檗色のワンピース姿だった。
富士子は「あなたは大丈夫よ」と言って僕を抱き寄せ、耳元で「元気だった?」と聞く。僕は力の限りで富士子を抱きしめ「ええ。元気になりました。あなたは元気でいてくれていましたか?」と聞き返す。
富士子は僕の右肩にのせていた顔を離して俯くと「そうね。そうでもないわ。早く帰ってきて」と囁く。「あと数日です」僕が応えると、富士子は愛らしい笑顔になった。あの日無くした笑顔だった。見たかった。自分に向けて欲しかった。
次の瞬間、僕は富士子に膝枕されていた。ゴロリと寝そべった僕は、青く茂る樹々の間から、こぼれ落ちる太陽の光を全身に浴びていた。暖かく、僕は安心している。ここは天国なのか・・やっと死ぬことができたか・・・ああ、そうだった。僕は天国にはいけない・・・これは・・・夢だ。
顔にかかる髪が邪魔なのか、鬱陶しげに、後ろにかき上げた富士子に僕が聞く。「あなたはいま幸せですか?」と。富士子は僕の顔を見つめている顔を綻ばせ「あなたが、ここにいれば」と言って、僕にキスをした。
そこで目が覚めた。天井が見えた。
上半身を起こして室内を見回す。富士子はいない。現実が一気に、僕の中で広がる。起き出して、冷蔵庫を開けて水を飲む。どこかで、夢だとわかっていた。それでも、富士子に会えた。妙に生々しい富士子の感触が今もここにある・・・ 胸騒ぎがした。何かあったのか・・いや、待て・・・富士子には宗弥がついている。大丈夫だ・・・クソと・・小さく僕は思う。
富士子への未練を追い出したく、整えたベットの上であぐらを組む。深い呼吸を繰り返して無になるのを待つ。アルファーと連絡が取れ、気持ちが柔らいだのだ。今の僕は、余裕と安心感を得ている。されど、一歩踏み出せただけで、今も1人に変わりない。警戒を解いてはならない。そう戒める。
ベットから降り、応接セットを両端に寄せて作ったスペースに座り、無心を心がけてストレッチする。最後は大円筋と小内転筋を重点的に伸ばす。ランニングシューズを履いて船室を出た。
コンテナ船の朝はまだ始まっておらず、静かだ。デッキに出て見上げた空は赤く、雲までもが赤く、空の青はどこにもなかった。緩やかに走り出す。
走りながら見た埠頭の向こう側にある街には、人影はなく、独特の生活臭が、一晩、経っても居座っていた。
1時間ほど走って、場所を変える。後部のコンテナ置き場に移動して、コンテナとコンテナの間を、足首、膝、股関節と意識しながら、左右に跳ねるようにして走り、コンテナにタッチしながら進む。全身から流れ出る汗が、サラサラとした感触に変わる。体の悪が出切った気がして、今日は海が見えるスペースに陣取る。
毎朝、走るコースと筋トレする場所を変えていた。乗船している船員は己の私欲を満たすために、何でもしてきた集団だ。ともに食事もすれば、会話も、仕事もするが、だがそれ以上でも、それ以下でもない。自分の居所を特定されたくはない。
足を大きく左右に開き、指たて伏せを始める。200回を過ぎた頃、上腕三頭筋が痙攣しはじめ、あと50と決める。より集中して丁寧に、回数に重きをおかず、内容を重視して行う。46回で潰れた。あと4回で達成だったが、いつものような悔しさはなかった。
大の字にひっくり返って、荒い呼吸を繰り返しながら、見上げた空は天色に変化していた。昨日とは違う今日が始まる。空を眺めながら、息が整うのを待つ。
腹筋を始める。文字通り腹が割れるまで追い込んで、また空を見上げて呼吸を整えた。
適当な天柱を見つけて縁に両指を掛け、僧坊筋、広背筋、上腕三頭筋を意識して懸垂する。国防大で宗弥と競った日々を思い出す。なぜ、突入部隊に宗弥の名がなかった。もしや富士子と・・・・。現状は推測するしかなく、嫉妬が募る。クソ!!左手中指がつった!まだだ!!!右手を離して、片手懸垂で追い込んでやる。つった罰だ!!昨日までとは違う心配に、苛まれる今日の僕は煩悩の虜だ。
膝ではなく、臀筋群を使ってスクワットをする。いわゆる尻だ!宗弥が、富士子の隣で笑っている図が脳に浮かぶ。身体を追い込む。クソ!!!珍しく吐いた。詮ないことだ。いつものようにクールダウンのジョギングで船室に戻る。
廊下を走っていると自室のドア前に、スパルタンがうずくまっているのが見えた。ペースを落とさず、進む。スパルタンに近づくに連れて、酒の匂いが濃くなる。ボスは約束を守っていなかった。
前に立った僕にスパルタンが「ジョギングか?」と酒臭い息を吐く。どうしてこうなるまで呑むと、口から出そうになった。この船のルールを思い出し、詮索するのはやめて「ドアが開けられない。どいてくれないか」と言った。
「偉そうに」と言ったスパルタンは、前屈して床に左手をつき「うっぷ」とゲップする。顔を背けたくなる匂いだ。スパルタンが、よろけながら立ち上がる。見る影もない無様さだった。確かに、仕事もしていないスパルタンには、ここでの生活はキツいだろう。気持ちを紛らせるのはサヤか、酒しかない。だが、それでも、と思わずにはいられない。なぜ、仕事をしない⁈ 誰かのためでなく、自分の為に。
ドアを開けながら「あんたも一緒にランニングしないか?いつまでもそうやって、燻っててもしょうがないだろう」と言いながら入室し、紺のTシャツを脱いで、洗面所のカゴに投げ入れる。
あとをついてきたスパルタンが「随分と増えたな」と言った。「何がだ?」と聞く。「名誉の負傷」スパルタンは面白くないとでも言うような口調でこぼす。勢いよく振り返った僕は、スパルタンを見据え、右手の人差し指で左腕の上腕部を指差し「僕が一番最初に負った傷は、あんたにやられた、これだ」感情がはみ出した声だった。
傷を凝視しているスパルタンに、僕は「なぜ、ここまでやった。8針だぞ。腱が切れていたら、僕は使い物にならなくなっていた!!しかも、あんたがやったのは初期段階の訓練でだ。あんたが在籍してた頃!選抜訓練に!参加した全員の身体には!あんたから受けたこんな傷痕が、どこかしらに残ってる!」と感情のままに言う。
スパルタンが僕の顔を、寂しげに見つめてくる。そして「お前たちが、優秀だったからだ」と言った。被せるようにして「優秀でいいじゃないか!何がいけない!!」僕は語気を強めて言い返す。
「怖かったんだ・・お前たちが。俺を抜き去りそうで、怖かったんだ。最初はそんな気持ちはなかった!だが、俺は訓練を進めていく内に、お前たちに食われていくような感覚になって、怖くなった」二日酔いの赤い目でスパルタンは吐露した。
「最低だ」と呟いた僕は、シャワー室に入る。
シャワー室から出ると、さっき立っていた場所に、項垂れたスパルタンが座り込んでいた。腰に巻いたバスタオルを取り、身体を丁寧に拭く。身なりを整えているとスパルタンが僕に訴える。「サヤをボスに取られた。サヤは、ここで船から下ろされる。お前からボスに取りなしてくれ」と。
床に座るスパルタンの右側に、右膝をついて「僕に、ボスのする事は止められない。サヤが一緒にいるのは、あなたにも、サヤにとってもよくない。2人が一緒に居ると悪の連鎖しか生まない。あなた達は互いに気持ちいいだろうが、2人は最悪の相性だ。スパルタン、今は、これまでしてきたことを、精算する時期なんじゃないか」と言うと、スパルタンは「精算だと!!!どっからだよ!!どっから!どうすればいいって言うんだよ!!」野太い声で吠えた。
「お前が、公務員を辞めた時からだよ!」僕は鋭く、言葉を叩きつけていた。スパルタンの目が怯む。
僕は畳み掛ける。「僕たちの仕事は、一般公務員とはかけ離れたものだ。何かを大切に思い、何かを愛して、何かに対して忠誠を誓う。他にもたくさんあるが、1人1人が、その何かを拠り所にして、任務遂行にあたるんじゃなかったのか。辞めたから、はい、関係ありませんではすまない職業なんだと、僕たちにそう教えたのはあんただっだ。スパルタン、あんただ」噛んで含ませるように伝えた。
スパルタンが焦点の合ってない目で、僕を見上げる。その目を見た僕はスパルタンの半分は、ここにはいないと悟った。あのスパルタンは・・もういない。なんて様だ、スパルタン。泣けてきた僕は「とにかく、酒を抜いて食べることだ。朝食を食いに行こう」と言いながら立ち上がり、右手でスパルタンの左手を掴んで立たせた。右腕に掛かったスパルタンは、軽く。僕は虚しく、やるせ無い。嫌悪を抱く方がまだマシだ。
こんな男でも、恩師には変わりないのだ。スパルタンの右脇に左肩を入れ、スパルタンの左脇を左手で支え、雨音が聞こえ始めた廊下を歩きだす。あの時は、遠い昔なのだ。過去は帰ってこない。過ぎ去った日々は取り戻せない。




