要編 55 狂おしく想う
シーン55 狂おしく想う
宗弥に引きずられるようにして、富士子は出て行った。
永遠に僕から去った。涙がこぼれ落ちるが構わず、富士子が座っていたテーブルに歩みよって立ち尽くす。目を見開き、阿修羅のような形相で、華奢な右手を渾身の力で振り上げ、富士子は僕を打った。
無念の平手打ちを、避ける気は無かった。
贖罪の気持ちからだった。
喰らった瞬間に、僕は気づいてしまった。
富士子は愛で僕の頬を張り、僕は唯一無二の愛を葬ったと。
唇から流れ落ちた血の滴りは、富士子が具現化した愛の形だ。一滴たりとも逃す訳にはいかない。
I’m kissing you.
僕は、全てを舐め取り、愛を味わった。
富士子は泣いた。
あれほど耐え、悲しむ泣き方が他にあるだろうか、僕は知らない。
たおやかに、項垂れる富士子の紅い首筋を、僕は見つめ、抱き締めたいという衝動を抑えるのに、拳を握りしめねばならなかった。
身勝手だ。僕は勝手な奴だ。富士子の未来のためにと、無遠慮に考え、自己中な独よがりを、一方的に押し付け、 鎮痛剤が必要だと、判断しなければならないほど追い詰めた。あの絶望の富士子は僕の写し絵だった。
これが最後だと、薄氷を踏む慎重さを持って、富士子を言葉で縛り、理解を引き出して忘れる事のないよう、あの明晰な脳に液体デイバイスの現実と未来、富士子が思ってもいなかった暗黒面を刻みつけた。
平和を維持するために。
また、涙がこぼれ落ち始める。今は、まだいいと放っておく。
会話している間、富士子のどこを、どう探しても、数時間前に見たあの穏やかな笑顔はもう、どこにもなかった。
僕の涙が、滂沱と化す。
こんなに泣けてくるとは・・・愚かだ。
こうすると決めたのは、僕だったはずだ。
今の富士子には、宗弥が付いているから大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。諦めきれないと心が訴えてくる。
ファイターも!向かいの部屋で警護していると納得させようとするが、富士子の側にいるのがなぜ!自分ではないのか!!!と、再度、再三、僕に問う僕の内包が、僕に死ねと罵る。
そうじゃないと心を引き止め、これで富士子は全てを断ち切り、明日、軽井沢に移動できると、安全な環境を得たのだと説得する。
富士子が、行ってしまう。
止め処なく、僕は泣いている。
この涙はいつ止まるのだろう。富士子への想いが涙で枯れてしまうと、忘れてしまうと、刹那に思う。滲む視線をiPhone Watchに落とし、用意していたホテルに、富士子が到着する頃だと心を安心させる。
細心の注意を払って準備したあの部屋が、富士子を優しく包んでくれるといいがと、自分本位に願う。感情が混沌と分裂して、気狂いかと思う。心の視点を変えたくて、テーブルにあるペットボトルを、右手で取り上げて一気に飲み干すが、その瞬間に吐き出した。
左手で、口を抑える。
指の間からこぼれ落ちた水滴が、ポタポタと垂れて床にシミを作った。
痛む唇を、舐めてみる。
・・味覚を失っていた。
唖然とするが、最後に味わったのが富士子に打たれて流した血だったと、愛だったと思えば、至上の喜びに変わる。
内包に陣取った鬼が、ニヤリと笑う。
僕も笑い出す。
上がった口角の痛みさえ、愛しく。
だが、されど、過去の愛だった。
これでいいと、これがいいと思う。
もう、誰も愛さない。
床に落ちていた革ジャンを右手で拾い上げて金庫室に向かう。白板の裏からパイプ椅子を取り出して、割るようにして座面を開いて白板の前に置く。椅子の背に革ジャンをかけ、ガンラックから右手でM4カービンを取り、弾倉がのる長机の下から用具箱を左手で取り上げた。
M4と用具箱をテーブルの上においてパイプ椅子に座り、通常解体し始める。何かを考えようとしないように、どうしょうもない空虚が、これ以上、心に広がらないように、富士子の笑顔を思い出すために、僕はガンの手入れをする。
3日前、ファイターと共にコロンブスから内密に招集され、僕は本陣に向った。コロンブスから状況説明を求められ、日々、本陣に上げている日報と変わりない内容を伝え、新たな指示もなく、機密情報が下りてくる事もなく、面談は1時間程度で終わり、僕らはミニクーパーで帰路に着いた。
青山通りの交差点で信号待ちしている間に、助手席のファイターに僕は「グローブボックスに茶封筒がある。中のUSBメモリーの資料を見てくれないか」と前を向いたまま言い、ファイターは右手でグローブボックスを開け、茶封筒を引っ張り出して「何だ、これ⁈」と言いながら、左手で封筒の底を持って右手の平にUSBを滑り落とした。
ファイターはグローブボックスに右手を伸ばし、引っ張り出したケーブルで、自分のスマホとUSBを接続し、画面に出てきた資料を見た。その視線を一気に、僕の横顔に向ける。
信号が青に変わり、車をスタートさせた僕は「今回の作戦概要と、僕の経歴、まっ、そのほとんどの欄は、ブラックラインだが。それに国男さんと富士子さんの近影写真だ」淡々とする声で話した。
驚きを隠せないファイターが「誰か、本陣のスパコンをハッキングしたのか!」と聞く。「本陣のスパコンはそんなヤワじゃない。トーキーやターキーでもハッキング出来ないよ。知っているだろう。自分で作った。ファイター、そのUSBを、ベータのゾロに渡してくれないか」左の口角だけを上げて、僕はかすかに笑ったと思う。
「何で⁉︎」と被せてきたファイターに、「自分の居場所に帰るためさ」と言って僕は黙った。ファイターは話の先が見えず、射抜く目を向けて僕に先を促す。
チラリとファイターを見た僕は「標的じゃないぞ、僕は。そんな目で見るな。なぁ、さっきコロンブスが遠回しに言ってきたように、お前も僕が浮かれていると思ってるか?」と聞く。ファイターは「ここ最近のお前は、そういう風に見えなくもない」と正直に答えた。
そう聞いて、僕の口元が緩む。「確かにそうだ。浮かれてる。幸せとは、こういう気持ちの事を言うんだな」僕は呑気にそう言って、笑みを深めた。
「それと、この資料がどう関係する?どうして、ベータにこの資料を渡すんだ⁈」とファイターが声を張る。僕は笑みをたたえたまま「こういう手法がサラマンダーの好みだからさ。作戦をアルファーに移行した後も、ベータは対象者の近くに居た。ファイター、それに気づかなかったお前じゃあないだろう」わずかに芯を尖らせた声でそう答えたと思う。
ファイターは「ああ。だから、ベータは迅速に対応できた」と認め、「ベータの行動を僕は、純粋な警護任務だけだったとは思わない」と言い、助手席のファイターの顔をチラッと見た。
「作戦を横取りされたとベータが納得できなくても、アルファーへの移行理由はちゃんとある。フレミングだ。フレミングがアルファーだから俺らは投入された。それに作戦に感情を差し込まないのが、特戦群のルールだ」とファイターは言い返し、その言葉を聞いた僕は「それを僕に言うのか」と軽い口調で返す。ファイターは「いや、お前はちゃんと一線引けてる」と言い、僕は即答した。「そうでもない。あの人の顔を見ると、気持ちがむき出しになる」と。
ファイターは察してはいたが、あらためて本人から聞くと、真摯に受け止めるしかなく、正直、どんな顔をすればいいのかがわからなかった。
スピードを小気味よく上げてゆき、車線を縫い、車を前に出していきながら僕は「コロンブスはなぜ、今日、お前と僕を呼び出したと思う?僕の動向が不安だと、コロンブスは誰に進言されたと思う?」とファイターに問い掛ける。
ファイターは前を向いて思案し始め、減速して車間距離を空けた僕は、考えるファイターに「ベータ長、サラマンダーだ」と教える。「どうして、そうだとわかるんだ⁈」ファイターは間髪容れずに聞き、僕は「あの2人には歴史がある。2人は多くを語らなくても、言葉の真意は受け止められる」と答えた。
正面を向き、考えるファイターは「2人に、何があった」と呟く。
ファイターの横顔を見たが、僕は何も言わずに前を向き、高速の高架下を抜けた辺りだったと思う。ファイターに「知りたいか?」と聞いた。
少しの間、ファイターは沈黙していたが、やがて「知りたい」と答え、「わかった」と僕は応じてアクセルを踏み込んだ。
「ベータはある作戦で、警護対象者を遠距離狙撃されて死なせた。そのあとの対処に当時の統括は手間どり、結果的に対象者の死を部隊全体の責任問題にされた。その事態は部隊の存続を、疑問視するまでに発展した。コロンブスは部隊とサラマンダーを守るために創立まもない頃から、各省庁との調整役として収まっていた官僚出身の統括に、責任を一任させて辞任に追い込んだんだ。今日のコロンブスの招集は、僕への警告だ」と打ち明ける。
ファイターは目を丸くして「何で、それを知ってる?」と問い、わざと重たげに口を開いた僕は「ちょっと絡んでたから」と言い、ファイターが「おい!」と声を上げ、左にウインカーを出しながら僕は「なんちゃって」と言い、打撃力満点であろう笑顔をファイターに向けて誤魔化した。
「おいおい❗️なんだよ、それ❗️そう聞いて、信じる奴いるか❗️」ファイターが不満を上げる。詳しく話すわけにはいかないと言っても、もう十分にしゃべりすぎていた。墓場まで持っていかなければならない事だった・・・それを・・話してまでも、ファイターに理解を求めようとしている僕は・・・これほどまでに、富士子を・・・クソ。
左折車線で信号待ちし、車のフロントガラスにイチョウ並木が反射して、ガラス越しに見上げた山吹色のコントラストに魅せられ、自分でやろうと準備していた事をなぜ、ファイターに頼んだと考えながら「美しい色彩だ」と呟いた。
僕の横顔を見ていたファイターが「サラマンダーは、この資料を、あの人に見せるぞ。そうなったら、あの人を傷つける事になる」と固い声で言い、「それでいいんだ。自分で口にするとカッコ悪いが、これで富士子さんの心は僕から離れる」と吐露する。
前の車に続いて車をスタートさせた要にファイターは「なぜ、そうする必要がある?」と沈み込んだ気持ちで聞く。
車を左折させながら「全てを見せない男を信頼できるか?」とファイターに聞き返す。ハンドルを戻しながら「人を殺めた手で、触れられたいか」と続け、「殉職する恐れのある男と、一緒にいて幸せか!!」とダメ押しした僕に、ファイターは「もう!いい!不吉な事を口走るな!!」と声を荒げ、お互い、しばらく黙り込んだ。
外苑西通りに出て、信号待ちで停止する。僕は車窓から行き交う人波を見ていた。ファイターに視線を移すと、ファイターは苦り切っていた。
「ファイター、勘違いするな。僕はこの仕事に就いた事を後悔してない。逆だ。誇りに思っている。2度とこの国に戦時色を漂わせてはならない。この国を守る盾は見えなくていい。献身の上にある使命感が僕の支えだ。自分があの人に、これからしようとしている事が、どういう事かも理解してる」と言って、僕は前を向いて話し続けた。
「それに光は、影から見た方が美しい。あの人には清いままでいて欲しいんだ。僕が側に居たら、それを汚してしまう。どこに居るの?、何をしているの?と普通に聞かれても、僕は正直に答えない。そんな事をあの人は、知る必要が無いからだ。僕がどんなに言葉を重ねても、あの人の誠実さは、嘘だと本能的に感知する。僕の前で笑っていても、あの人の心は歪んでゆく。そんなことはさせられない。前日にネットで注文した物が翌日には自宅に届く。そんな事が、当たり前の世界だけを見て、あの人には暮して欲しいんだ」と言った。
カッコいいことを口にしても、その途端に僕は癇癪を起こした。右手でハンドルを激しくバン、バン叩きながら「クソ!!!自分の身勝手さに腹が立つ!!何で巻き込んだ!何で!いつものように!!チャラっと捨てられない!!!」と吠えていた。
信号が青になり、乱暴に車をスタートさせた僕に、ファイターは「落ち着け」と戦闘時に使う独特な発声法で言った。その口調が気に入らず「僕はいつだって冷静だ!クソったれ」と言い返してやった。右折レーンに入るとファイターが「フレミングの怒りを、買えるのか?」とさざ波のような声で僕に聞く。
「宗弥に殺されるなら、本望だ」と答えた。
停止線で、車が止まった時だったと思う。僕の横顔を沈黙して見ていたファイターはため息を吐き、そして「わかった。ゾロに渡す」と承知した。
後ろの車がクラクションを鳴らし、車をスタートさせながら「ありがとう。面倒を頼んで、すまない」そう言った僕は行く先が決まったと、心を覗いてみたが何も無く、実感さえも無く、まるで他人事のような感覚だけがあった。
そんな事を思い出しながらバレルにブラシを掛けていると、ターキーが2階から降りて来た。
ターキーはPC機器の机に歩み寄りながら「流失した今回の作戦内容と、イエーガーの個人資料の件ですが、ベータが本陣スパコンをハッキングした恐れがあります。コロンブスに一報入れますか?」と僕の顔を見て聞く。
バレルをテーブルにおき「その必要はない。僕の発案だ」と言うと、ターキーの顔から感情が消えた。「すまなかった、事前に話さなくて。ターキー、サラマンダーのスマホに暗号通話を繋いでくれないか」と言いつつ僕は立ち上がり、パソコンキーを叩き始めたターキーの左側に立つ。チャンスが「ガソリン入れて来ました」と言いながら金庫室に入って来た。
チャンスに振り返って、立てた右手の人差し指を鼻先にかざす。ハッとして両手を口に当てたチャンスは、机を挟んだ僕とターキーの間に立った。ターキーが「いつでもどうぞ」とピリッとした声で言い、僕が頷くとターキーは回線を開け、2コールで繋がる。
要「ベータ長、イエーガーです。国男さんと浮子さんを軽井沢に移送したと聞きました」
サラマンダー「おう、色男。お宅のフレミングも一緒にな。問題ないだろう。白梅との映画観賞は楽しかったか⁈」
要「どうして、自分の動向をご存知なのですか。それに軽井沢への移動は明日の朝だったはずです。勝手なマネは困ります」
サラマンダー「勝手なマネ⁈ ごっこを楽しんでるお前なんかに言われたくもない。ぬるいやり方してんじゃねえよ、色男。白梅に骨抜きにされやがってハンサム青年。示しがつくのかなー、アルファーのチーム長さまーーっ」
要「サラマンダー、ベータは、この作戦をアルファーに移行したはずです。指揮権は私にあります」
サラマンダー「いいか。お前の白梅に対する甘さは、この作戦を破綻させかけた。ベータはな、この作戦でビスケットが所在不明になってるんだよ。どういう意味か知らんとは言わさんぞ。こちらは、そちらとは、気概が違うんですよ」
要「今回あなたが見せたのは、気概ではなく気合だ。叱咤激励には感謝致します。ですが、僕は特戦の男です。尻を叩かれて気付く、駄馬ではありません。ベータ長、国男さんと浮子さんの事よろしくお願いします」
サラマンダーは要の言葉にニヤリと笑い、
「お前たちアルファーは白梅を守り切って、こっちに連れてこい」と言った後、一方的に通話を遮断する。
チャンスとターキーの奮起した顔に、要は「当然の事を言ってくれる」と言い、チャンスが「突然、ベータチームが病室に現れて、阻止する事が出来ませんでした。すみません。フレミングが間に入って、取りまとめてくれました。病室前で警護していたのに、すみません」チャンスの嘆きに要の心が軋む。
「お前のせいじゃない。僕が甘かったんだ。すまなかった。チャンス」と頭を下げる。
チャンスから要に視線を移したターキーは「トーキーが今、病院から回収したジャミング機を本陣で解析していますが、敵は襲撃を考えていたんでしょうか?」と聞く。
要は顎を固くして「そうだ。そう考えると腑に落ちる。だが、作動した時刻には何も起きなかった。誤作動なのか、意図的だったのか、ジャミング機の構造と同じでチグハグだ。筋も通らなければ、意味もわからない。サラマンダーは内通者を疑ってイレギュラーな行動を取ったか、国男と浮子を囮にして敵を誘い込もうとしたのか。前者ならば感謝だが、後者ならとんだ馬鹿野郎だ」と言った。
眉間に剣を立て「ごく限られた病院関係者と盾石家の関係者しか、5階には出入りしていません」チャンスは熱く証言し、ターキーは「解析が済んだら、何か手がかりを得られます。機械製造にはその製作者の癖が、指紋みたいに残ります」と青き気炎を吐く。
「確かに」と言った要はふと左の口角を上げて不敵に笑う。狩り出して殲滅してやる。待っていろ。富士子を失くした負が、憂さ晴らしを求めて要を駆り立てる。
この日からアルファーにとって、不測の事態の5日間が幕を開けた。




