要編 28 夜の散歩道
シーン28 夜の散歩道
僕の胸に額を押し付け、泣く富士子が静まるのを待った。自分では抱えきれなくなった悲しみを、素直な気持ちで誰かと分かち合うのは大切だ。悲しみを涙にして、存分に吐き出してやれば嘆きは底をつき、やがて枯れ果てる。
そうなれば沈んだ心は、心底を蹴り浮上してくるものだ。
現実に向き合う心構えが出来る。
そういう心境になれますようにと、祈りながら富士子を支えた。
僕はこれほどの激しさで、泣いた事があっただろうか。子供の頃から悲しみを怒りに変え、原動力として生きてきた。アルファーチーム創設の2年目、トルコとシリアの曖昧な国境付近で、活動していた5人のボランティアを救出した撤退中、シリア兵の罠にハマり、ジリジリと予期せぬ退却を強いられた。バディと2人で殿を務め、袋小路に追い込まれて、チームと分断されてはぐれた。
未熟だった。
無人の家に潜伏して援護を待つが、散発的な銃撃戦を繰り返す敵に、弾丸を無駄打ちさせられ「装填!ラストだ!」と叫んだ僕が、サブマシンガンに装着している間に、隣りで手榴弾を投げたバディの頭部が狙撃された。
被弾した頭部からピンクの霧を舞い散らせながら、バディはダウンした。
その姿を目にした僕の怒りは神速で沸騰し、ヤケクソで家屋を飛び出した僕は、サブマシンガンを乱射して進路を開いた。左太ももと右脇腹に弾を食ったが、勘に近い方向感覚で本能のままに走りぬけ、天の差配でチームと合流できた。周到に追尾して来た敵を返討ちにしてやった。
バディの遺体を回収したそんな日でも泣かなかった。あったのは、怒りだけだった。
富士子がふと右手を上げ、僕の胸をかすめた指先で額を撫でる。緩慢な仕草で。
そんな風にしていた富士子が額を離し、揺れる眼差しで僕を見上げる。富士子の目はまだ何処か虚で、目縁に赤い線が入っていた。
その眼に引き込まれぬよう、心に覆いをして「大丈夫ですか?」静かなに問いかける。
富士子が、こくりと頷く。
「どこに行こうとしていたんですか?」と尋ねる。「歩いて家に帰ろうと。1人で考える時間が欲しかったんです」と言った富士子の掠れた声は、どこか呂律があやしい。ささやくように応えた富士子に、慎重に「まだ、時間は必要ですか?」と重ねて聞く。
しばらくして富士子が、またコクリと頷く。その幼女のような様子に精神が心配になった。
「よかったらですが、宗弥とこのあと近くの喫茶店で、国内で行う海外部隊との演習について、予備のすり合わせする予定なんです。待ち合わせの時間まで、まだ余裕があります。お茶でも飲みませんか?どうですか?」と誘う。
未だ、憂色が濃い。富士子を1人にはできなかった。
富士子は俯いて考え「はい」細い声で承諾した。
ゆっくりと一歩下り、とつとつと街灯の明かりが灯る歩道を、蝸牛の歩みで歩き出す。富士子もゆっくりと踵を返して後を追ってくる。立ち止まって振り返り、富士子を待って、ほんの少し肩を重ねて歩く。何かが起きた時、僕の影に入れられるように。
深い花紫色の空を見上げて「日本の夜は静かでいいですね。久しぶりに帰って来ました。僕が派遣される国は、いつも、どこかで、なにがしかの音がしています。見上げる夜空は変わらないのに。騒々しい」と語り掛けると、富士子は前を見たまま「お帰りなさい」とつぶやいた。
その横顔を見る。頬がほてっていた。泣き疲れたのだろう。
富士子に心を寄り添わせて、黙って歩く。
mapの玄関ドアを開けて富士子を店内に入れ、室内を見回す。カウンター内にファイターがいた。金庫室の金属製丸ドアは閉めてあり、丸ドアは増設した本棚扉で隠してある。
遠慮がちに店内を見ている富士子に、「どこでも好きなところに座ってください」と言うと、ドアに1番近い窓際のテーブルを選んで、奥の通路側に座った。玄関に立ったまま、富士子を見ていた。
ファイターの前に行き「ノンカフェを一つ、コーヒーを一つ、何か食べ物は何がありますか?」と言いながら、カウンターにあるメモ帳を引き寄せ、“ 左手の傷が出血している。止血帯の上から何かで縛って欲しい“ と書く。
僕の背後に立った富士子が「あの、尾長さん、お話し中すみません。お化粧室は、どこかご存知ですか?」と聞く。富士子の気配を気づかなかった。苗字で呼ばれ誰の事だと思いながら「あのドアですよ」ターコイズブルーのドアを指さす。
メモを読んだファイターが眉間を硬くする。僕の左手の肘と手首に手を添え、僕の影になって富士子には見えないであろう角度に、腕を移動させながら「野菜サンドはいかがですか?」しゃがれた不協和音の声で聞く。
不機嫌な奴。それに今、彼女は化粧室だ。
「2つお願いします」と応え、ファイターは革ジャケットの袖口ファスナーを上げ「承知し」と言ったところで、止血帯を見るや目を見開き、一気に顔を上げて睨みつけてくる。犬歯を見せた打撃力の笑顔で、僕は受け流す。
傷口を覆った止血帯の粘着部分は、しっかりと皮膚に張り付いていたが、内部は血液と体液でタクタクと膨れていた。僕の笑顔を見たファイターが、派手に鼻を鳴らす。油を注いで・・すこぶる怒らせたようだ。
ファイターは調理台下の引き出しから、サランラップを取り出して、止血帯の上から一巻きする度に、軽く捻ってを2度繰り返し、ねぎらうようにファスナーを下ろした。
「すまない」小声で言うが、ファイターは口をへの字に曲げたまま、尖る目をねじ込でくる。
負傷をほっておき、悪化させた事への怒りだ。ファイターが1番嫌いなこと。了解。このぐらいどうでもいい事だが、了解。ここで笑ったら、後で殺される。僕は観念する。「ちゃんと、治療する。手伝ってくれ」と言い、ファイターはサランラップを引き出しに戻しながら「ああ」と言って、小さくうなずいた。




