要編 27 慟哭を知る
シーン27 慟哭を知る
樽太郎から話を聞く富士子は膝の上に重ねた両手を、時折、握ったり、時に口を真一文字にして深くうなずき、段々と見開き気味に見える目を大きくしていった。そして、樽太郎に何か問い掛ける。
樽太郎の返事に耳を傾けた富士子は、右手を首にあてて考え込んだ。そうやってしばらく、床を見つめていた富士子が、樽太郎と会話をし始め、話が進んで行くにつれて顔を朱色に染めてゆく。その様々に変化する富士子に、要は調査書や報告書では、読み取れなかった素顔を知った気がした。
サラマンダーが言った“笑わない“という表現を思い出す。自分も初日にそう感じた。富士子は外界から自身の内面を守る為に、強固な壁で心を囲んでいるのではないか・・・そんな気がする。富士子の今の環境と生い立ちを考えれば、我欲で接す人間も多いだろう・・当たり前といえば、当たり前だ。富士子の父は盾石グループの総帥で、液体デイバイスは科学の粋を研ぐ魔王。当の富士子は世間知らずのお嬢さま。富士子は利用価値の宝庫だ。だから、身直にいるのは浮子とサヤと宗弥だけか・・・なるほどな。
資料によれば富士子の父・国男は、富士子をかえりみることも無く、盾石グループを世界屈指の企業に、成長させるためだけに生きているとも言える。野心と行動力、巧みな手腕を行使して、今の地位を得てきた。
だが、その国男の手法は、無秩序に繋がり兼ねない。いうなれば、何でもありという事だ。僕たちの世界と同じように・・・。達成するに標準を合わせているから、そこまでの過程が乱れようが、踏み荒らそうが、自分なりの正義感の後ろ盾があるから、心に言い訳ができる。それでも僕は思う。過程が清くなければ、湧き出した水は濁ると・・。
国男を取り巻く世界は、富士子には理解し難いだろう。
今夜のアメリカ情報士官との密会も、赤いジュラルミンケースの中身次第で、国男は国との秘匿契約を破ったことになる。一度、機会を作って国男と話してはどうかと、コロンブスに具申したほうがいいだろうか。いや、僕の出る幕はない。畏れを知らないコロンブスはすでにサラマンダーと話し合い、二の矢、三の矢を準備しているに違いない。
床を見つめている富士子の背中を見て、国男に似て、富士子も仕事一辺倒の世界に埋没しているのだろうと思う。互いに希薄な親子関係を取るのも、心情が交差するのを避けるためで、そうやって緩衝しているのかもしれない・・・では、なぜそうするのかと考えてみれば、哀情を家族に晒す事への、遠慮があるのではと至った。
それは歪ではいるが、ある種の愛情だ。
富士子には、そういう家族がいる。
樽太郎も居れば、浮子も宗弥もいる。
だが、自分は、、、渇いた心で家族を観察して無感覚に勝手だと判断し、自動的に無作法な人たちと決めつけ、関わりを持つのは無意味だと身勝手に距離をおいている。
自分が嫌になる。
結局、他人に自己の感情を預けるのが、僕は怖いのだ。
自分の欲する反応を人に示してもらえない時、無力さに苛まれる心情を顔には出さず、表情に笑顔を貼り付けて自分はやっぱり至らないと、内心で自分に絶望する。
国防大に入るまでの日々の中で、僕はそうする事に疲れた。だから、普段の生活では1人を選ぶ。今更ながら孤独に思いあたり、富士子の横顔を見ている目頭が痛くも熱い。うつむいて、両目を左手で覆う。
人はなぜ、人と一緒に暮らせるのだろう。そんな感傷に囚われ、こんな情感に捕まったのは、今日はいろいろありすぎたからだと自分に言い訳する。父は余命いくばくもなく、母はこの世を捨ててボケた。兄と姉はあんな風で・・・。“やめろ。尾長 要、今の今になって。1人でこの道を歩いて来たというのに、すがりつくな。それはお前の弱さだ“ 身魂に住む鬼が僕をそう叱咤する。
赤い視線を上げると、穏やかだった富士子の背中が、垂直に伸びきって強張っていた。どうした?何かを見逃した⁈ 妙な感傷になど浸ったからだ。クソ!
その背はもう、浮子のいたわりを見せる手でも溶けない。樽太郎は富士子に何を話した!そもそも樽太郎は、今日の国男の密会を知っていたのだろうか⁈
スマホを取り出す。宗弥が知ったら、激怒するだろうと思いながら。樽太郎のここ2ヶ月の動向調査を再度行うよう、本陣に暗号打電を打つ。
そこに[送る。ターキー。イエーガー、明日の準備完了。ファイターが、そちらに向かいました]と入り、[了]と応えつつファイターの責任感の強さを思う。あいつは、いつもそうだ。いかつく、強面の顔には似合わない繊細な心を持ち、志高く、国を忘れぬ男。また気苦労をかけている。すまない。
富士子たち3人に、西浜医師と事務員が歩みよる。富士子は椅子から立ち上がり、浮子と樽太郎がそれに続き、3人は西浜医師を取り囲んだ。西浜医師から話を聞いた富士子は、綺麗な右手を口に当て、一筋の涙を流して深々と頭をさげた。
[送る。フレミング。総員、国男のオペ終了。今夜はICUで経過観察。面会謝絶。俺は今夜ICU出入り口前に詰める。要、勝手言ってすまない。それでいいか?]と宗弥から入り、[了。送る。イエーガー。フレミング、それで構わない。富士子さんも今、西浜医師からその説明を受けたようだ。僕はこのまま、富士子さんの監視を続ける]と返事する。
富士子と浮子は樽太郎に先導されて歩き出し、1分おいて後を追う。浮子の左腕に富士子は右腕を絡ませ、頼るようにして歩いていた。玄関外に出ると3人は立ち止まり、富士子は浮子と短く会話を交わして、2人と別れ、1人歩き出した。
どこへ行く。
なぜ、浮子と一緒に帰宅しない。
後を追いながら[送る。イエーガー。ファイター、どこにいる?]と入れ、[送る。ファイター。バイクで移動中。病院まで2分]と返信があり、[了。送る。イエーガー。ファイター、富士子が1人で病院を出た。引き留めたい]と入れると、ファイターから[了。送る。ファイター。俺が工作する。連れ戻せ]と入り、宗弥が[要、俺はこれから、西浜医師にオペ内容を聞く。富士子を頼んだぞ]と割り込んで、僕は[了]と応えた。
富士子は病院の敷地を出ると、自宅方向に歩き出した。
[送る。イエーガー。ファイター、富士子は自宅方向に向かってる]と入れながら、夜道を歩いてほしくはない、頼むから病院に戻ってタクシーに乗ってくれと願う。いま、何が起こったとしても守り切る自信はあるが、しかしながら、もうこれ以上、富士子の哀れを、1人寂しく夜道を歩く姿を、目にするのは耐えられない。
150m先の曲がり角からファイターがバイクを押して現れ、その姿を確認して富士子との距離を迅速に詰めてゆく。ファイターは富士子の行手を阻むようにバイクを横倒させ、身体をふらつかせながらバイクを蹴り始めた。そのファイターの存在に、富士子は気付いていない。その様子に富士子の心は、ここにはないと判断する。
ドス、ドス、ドス、激しく蹴る音が聞こえ始め、[送る。イエーガー。ファイター、蹴るのは真似でいい。本気で蹴るな。お前が本気で蹴ったらバイクが壊れる。僕が宗弥に殺される]と入れた。
富士子が、ファイターの10m手前で立ち止まった。気配を、なお、消して、富士子との距離を縮める。立ち止まったまま富士子は動かない。
だが、突然に、180度クルリと方向転換した次の瞬間、右足のヒールがアスファルトに引っかかった。右膝がガクリと折れ、前のめりになる。富士子が「あっ」と小さな声を上げ、引力に引かれて地べたへと吸い込まれてゆく。
走り寄って富士子の右手上腕を、左手で掴んだ。左手首の傷口が悲鳴を上げたが、僕には関係ない。歩道と富士子の間に身体を入れて抱きとめて、富士子の冷え切りように驚いた。
富士子が、僕を見上げる。
富士子の瞳を捉えた僕は「あなたはいつも迂闊だ。少しは自分の身体をねぎらってはどうですか?」強い口調で言ってしまっていた。すぐに後悔する。慌てて笑顔を作り「あなたは、いつも転びそうになっている」と付け加えたが富士子は何も言わない。
[どうした⁈]宗弥に問いかけられるが、僕は返事を返さず、富士子に「何かありましたか?」と聞く。宗弥が[おいおい、頼むよ、富士子]とつぶやいた。
富士子の顔に驚きが広がりはじめ、その変化が僕を困惑させる。こういう場合は・・・えっと・・僕の内にデータはなく、経験も訓練での教えもない。何か言おうと口を開きかけるが、適切な言葉は見つからず、バカみたいに富士子を見つめていた。富士子の瞳が月明かりを受け、煤竹色から妖美を思わせる黒曜石色に変わってゆく。その目で見つめられ、もう、何もかもが、どうでもよくなった。
富士子も沈黙を深め、僕の意をついて富士子の右目から、大きな涙が一粒こぼれ落ちる。僕は思わず、その涙を掬い上げようと左手を動かしかけた。
落ちた雫は、青く、輝く頬を流れ、ふっくらとした今は薄紫色の唇を伝い、滴る音が聞こえるのではないかと思わせるほどに、ポタリと音が聞こえそうなディアドロップ型を描いて、今日一日でほっそりとしてしまった顎を離れてゆく。
見入っていた。息を止めて、呼吸を忘れて見ていた。変な1日だ。事故を防げず、本来の警護任務には失敗し、それでも敵の姿は確認でき、現場の死体と証拠から、その存在へと迫れるであろう糸口を掴んだものの、僕は私情に乱れ、不覚にも何年かぶりに孤独を思って泣いた。そして、今こうして泣く富士子の前に立っている。富士子の流す涙はなんて美しいのだろう。でも、僕にはその涙の理由がわからない。僕たちはただ、見つめ合っていた。
悲しみの底に堕ちてゆくかのように「ああ」と富士子が呟く。時に細かく震えて俯く。ポロポロと大粒の涙を落として、ザラつくアスファルトを濃くしてゆく。
この女の慟哭はなんて強いのだろう。声はなくとも、雷鳴のような物悲しさが僕を討つ。
僕は一歩ふみ出して右腕を上げ、富士子の後頭部に右手を回して、握り締めていた拳を広げる。怖がらせないように、そっと富士子の頭に添えた。男と女を超えた仕草を心がけながら、自分の胸に引き寄せる。
震え泣く富士子の振動が胸に伝わり、そのか細さに心が刺される。抱き込みたくなる衝動を自制する。両腕を自分の背後に回し、左右の指を絡ませて勝手をせぬよう握りしめた。
押し黙って泣く富士子を自由にしてやりたくて「声を出して泣きなさい」深海にも似た静けさでささやいた。富士子は両肩を大きく震わせ、この世が終わったと嘆くように、むせび泣く。富士子の悲哀に寄り添う事で、己を責め続けていた心情が和らいでいく。穏やかに癒されていく僕がいる。
要は富士子の存在を国家の命で知り、2人の出会いは、富士子には早すぎて、要にとっては遅すぎた。




