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第15.5話(閑話)西園寺邸の静かな夜 〜姫君の不器用なお酌と、初めてのご褒美〜

飛鳥創です。いつもお読みいただきありがとうございます!

 江都城での大評定から一夜、疫病の終息が宣言された翌日の夜。

 日本橋の豪商・万代屋(ばんだいや)での華やかな祝勝会と、偏屈な伝説のからくり師・宗兵衛(そうべえ)の工房訪問を終え、江都の夜は静まり返っていた。


 西園寺邸の奥にある静かな離れ。

 庭園の池に映る月を眺めながら、宗介は縁側に腰を下ろし、スマートフォンの画面をタップしていた。


「多賀根山(たがねやま)の鉄鉱石の成分比率……よし、石灰石と木炭の配合比率はシミュレーション通りだな。からくり宗兵衛さんが仲間になってくれたおかげで、高圧蒸気機関のピストン加工の目処も立った」


 画面の中で、ローカルAI『シズク』が小さく頷く。


『はい、マスター。瑞光殿(ずいこうでん)の大評定における守旧派・土井大炊頭の失脚、および万代屋の資金調達成功により、近代製鉄プロジェクトの成功確率は八八パーセントまで上昇しています』


「大評定の時はどうなるかと思ったけど……なんとか大きな山を一つ越えられたな」


 宗介が安堵の息を吐いた、その時だった。


 コトッ、と微かな衣擦れの音と共に、庭へと続く廊下の角から、控えめな足音が近づいてきた。


「……宗介。まだ起きておったのか」


 現れたのは、藍染めの上品な小袖に着替えた沙羅だった。

 昼間の神陰流(しんかげりゅう)の凛々しい帯刀姿とは打って変わり、濡れ羽色の黒髪を後ろで緩く束ねたその佇まいは、息を呑むほどに可憐だった。

 だが――その端正な眉は、なぜか微かに寄せられ、ほんのりと頬を膨らませている。


 沙羅の両手には、徳利(とっくり)と素焼きの盃(さかずき)、そして小鉢に盛られた味噌田楽(でんがく)が乗った角盆が握られていた。


「沙羅さん? どうしたんですか、そんな盆を持って」


「……うむ。その……だな」

 沙羅は宗介の隣、板張りの縁側に腰を下ろすと、盆をことりと置いた。

 湯気と共に、ふわりと清涼な白檀(びゃくだん)と甘い撫子の香りが夜風に乗って漂ってくる。


「……さっきの万代屋での祝宴じゃ。あの、小夜(さよ)という若女将……」

 沙羅は盃を指先でいじりながら、少し拗ねたような上目遣いで宗介を見つめた。


「あ、小夜さんですか? ものすごく商才のある、肝の据わった若女将でしたね」


「そうではないっ! ……あやつ、やたらと艶然(えんぜん)と笑いかけては、慣れた手つきでそなたの盃に酒を注いでおったではないか! 耳元に顔を寄せて、囁くように話しかけおって……!」


「えっ……」


「妾だって……そなたにお酌くらいできるのじゃ! 大評定で我が父と西園寺家を救ってくれたそなたに、妾からも……ご褒美をくれてやろうと思うてな!」


 沙羅は気合を入れるように袖をまくり、徳利を両手でしっかりと握りしめた。


「さあ、盃を持つがよい、宗介!」


「あ、はい……!」

 宗介は慌てて盃を両手で構えた。

 沙羅は真剣そのものの表情で徳利を傾ける。だが、普段は鋭い太刀を握るその手配線が、お酌となるとガチガチに緊張していた。


 トトトッ……ポタタタッ!


「わっ、沙羅さん、溢れます、溢れます!」


「ひゃっ!? す、すまぬっ! ……あわわ、こぼしてしもうた……!」


 盃から溢れそうになった冷酒を、宗介が慌てて口から迎えに行ってすすった。

 沙羅は真っ赤になって手ぬぐいを手に取り、宗介の手や縁側をパタパタと拭き始める。


「すまぬ、宗介……! 妾は、刀を振ることばかり稽古してまいったゆえ……このような女らしい真似は、からきし不器用でな……」


 肩を落としてしゅんとする沙羅。

 そのあまりに健気で愛らしい姿に、宗介の胸がぎゅっと締め付けられた。


「沙羅さん。……もしかして、小夜さんのこと、妬いてくれたんですか?」


「なっ……!?」

 沙羅はビクッと身体を跳ね上がらせると、耳の先どころか首筋まで真っ赤に染め上げた。


「や、妬いてなどおらぬ! 妾がそなたに嫉妬など……そ、その……ただ、ほんの少し……胸の奥がチクチクと痛んだだけじゃ……っ!」


 両手で顔を隠し、ぽろぽろと小さな声で白状する沙羅。

 その時、宗介の耳元のイヤホンから、シズクの容赦のない音声が響いた。


『マスター、対象・西園寺沙羅姫の生体データをスキャン。……顔面表面温度、平常時よりプラス二・一度。心拍数、毎分百二十回を記録。感情アルゴリズム解析――【極度の独占欲および強烈な嫉妬】と断定。……親愛度パラメータは【九十・〇パーセント】へ上昇しました』


(シズク、頼むから今は黙っててくれ……!)

 心の中で叫びつつ、宗介は優しく微笑んで沙羅の手の上に、自らの手をそっと重ねた。


「沙羅さん。小夜さんは、あくまで頼もしい商売の相棒です。……俺にとって、命を預け合える一番大切な人は、最初からずっと沙羅さんだけですよ」


「宗介……」

 沙羅がおずおずと顔を上げ、潤んだ大きな瞳で宗介を見つめ返した。

 触れ合う手の温もりに、沙羅のこわばっていた肩の力が、ふっと抜けていく。


「……そなたは、ずるいのじゃ。そんな風に真っ直ぐ言われたら……妾は、返す言葉がないではないか」

 沙羅は小さく微笑むと、今度は少し落ち着いた手つきで、宗介の空になった盃にトトトと酒を注いだ。今度は一滴もこぼれなかった。


「ふふっ、上手に注げたぞ」


「はい、完璧です。いただきます」

 宗介がぐいと煽ると、芳醇な米の香りが喉を通り抜けていった。


「……ところで、宗介。さっき言った『ご褒美』じゃが……妾にできることなら、何でも申すがよいぞ。大評定でのそなたの勇姿、妾は生涯忘れぬ。何か望むものはないか?」


「望むもの、ですか……」

 宗介は少し考えてから、苦笑混じりに言った。

「じゃあ……少しだけ、肩を揉んでもらえませんか? 最近、図面引きと実験続きで、ちょっと肩が凝ってて」


「肩揉みか! 任せるがよい、我が神陰流の握力を甘く見るでないぞ!」

 沙羅は嬉しそうに立ち上がり、宗介の背後へと回った。


「では、まいるぞ! えいっ!」


 ギューッッッッ!!!!


「ぎゃあああああっ!? つ、強い! 沙羅さん、握力が岩を砕くレベルです!!」


「ひゃああっ!? す、すまぬ宗介! 手加減を忘れておった……! こ、これくらいか……?」


「あ、痛たた……うん、それくらいなら……ああ、気持ちいいです」


 沙羅のおぼつかない、けれど心のこもった優しい手の温もりが、宗介の凝り固まった肩をじんわりとほぐしていく。

 背後から漂う白檀の香りと、沙羅の温かな吐息。


 やがて、肩を揉み終えた沙羅の手が、そっと宗介の肩から滑り落ち――。


 ぎゅっ。


「……っ!?」


 柔らかな温もりが、宗介の背中を包み込んだ。

 沙羅が後ろから、そっと宗介の首元に両腕を回し、背中に顔を埋めるようにして抱きしめてきたのだ。

 宗介の背中に伝わる、沙羅の華奢な身体の温もりと、トクトクと速い鼓動。


「……沙羅、さん……?」


 宗介が息を呑むと、沙羅は宗介の背中に額を押し当てたまま、消え入りそうな、けれど愛おしさに満ちた震える声で囁いた。


「……このまま、少しだけ……こうしておらせてくれ」


「沙羅さん……」


「妾はな、宗介。大評定の朝……もしそなたが負けて牢に入れられたら、城を襲撃してでもそなたを奪い返し、二人で地の果てまで逃げようと本気で思うておったのじゃ」


 冗談でも何でもない、命がけの告白だった。


「……そなたが無事で、妾の隣にいてくれて……本当に、よかった。……明日はいよいよ、多賀根山へ出立じゃな」


「ええ。宗兵衛さんと一緒に、世界一の高炉を造りましょう」


「うむ。……そなたの行く道なら、妾はどこまでも共に行くぞ。生涯、そなたの隣を離れぬ」


 沙羅は腕にぎゅっと力を込め、宗介の背中の温もりを確かめるように抱きしめた。

 宗介もまた、胸の前で交差された沙羅の柔らかな手に、自らの手を重ねた。


 見上げた夜空には、雲一つない満月が輝き、寄り添い合う二人の影をどこまでも優しく照らし出していた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


「ちょっと面白いな」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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次回更新もお楽しみに!


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