31後戻り
メルベルト公爵邸でリディアの手を握ったのだろうと言われ、フィリックは一瞬目を細めるが、その表情はすぐにいつもの微笑みに戻る。
「メルベルト公爵夫人との会話でリディア様が戸惑っていらっしゃったので、落ち着いていただくために少し握っただけです。すぐに離しましたよ。……リディア様が嫌がっておいででしたか?」
「いや。リディアは別に何も言っていない。だが、夫として言わせてもらいます。あなたは観劇の日も俺が駆けつけた時にリディアの手を握っていましたね。既婚者の手へそういとも簡単に何度も触れてしまうのは人としていかがなものかと思いますよ。……俺は夫として正直許せません」
さも気に食わないと言わんばかりの表情でアレンはフィリックを睨みつける。フィリックはそんなアレンの睨みをものともせず、微笑みを絶やしたまま首を振った。
「ベルナール卿の気分を害してしまったのであれば申し訳ありません。ですが、以前にもお伝えした通り私はリディア様に異性としての気持ちを持っているわけではありません。あくまでもビジネスパートナーとしてリディア様の側にいて、不安になることがあれば支えて差し上げたい、そう思っているだけです。それに」
言葉を続けようとするフィリックの微笑みが、消える。
「観劇の日については、ベルナール卿があんな場所にリディア様を一人にしていることの方が問題だと私は思いますよ。確かベルナール卿が幼馴染だという方々と一緒にいて、リディア様が気をつかってご自分でベルナール卿の元を離れたとか。確かにご友人は大切でしょうが、あの場ではすぐにリディア様を追いかけるべきなのではありませんか?他の男に近寄られたくないならなおさらでしょう。あんな美しい方を一人にしておくなんてどうかしている」
呆れたような顔でフィリックはアレンを見てそう言い放つ。アレンは表情を変えずにフィリックを見ているが、膝の上に置かれた手はきつく握られていた。
「そんなに嫌なら目を離さなければいい。自分から目を離しておきながら、嫉妬じみた感情を向けるなんて矛盾していますよ」
「俺はリディアを監視したいわけでもないし、窮屈にさせたいわけじゃない。それに、観劇の日についてはリディアへきちんと謝罪して気持ちを伝え、リディアもわかってくれている。そのことについては二人の間できちんと話し合いました」
まるで夫婦のことは夫婦できちんと解決していると言わんばかりの口ぶりだ。フィリックはそれを聞いて気に食わないというように目を細めた。そんなフィリックへ、アレンはさらに言葉を続ける。
「……俺は、リディアへ余計な虫がつく前に牽制しておきたいだけです。あなたとの商売も否定しているわけじゃない。……あなたがおかしな行動さえとらなければの話だが」
そう言って、アレンは挑戦的な視線をフィリックへ向け、フィリックも敵対するような視線でアレンを見る。睨み合うかのような二人の視線の間には、まるで見えない火花が散っているかのようだ。
「これは忠告です。もしまたリディアへ気安く触れるようなことがあれば、あなたとのビジネスを終わりにさせます。メルベルト公爵夫人との関わりがあれば、あなたがいなくてもアクセサリーは問題なく変わらず売れるでしょう。商売相手を減らしたくないなら、もう余計なことはしないでください」
「……リディア様がそれを望まない場合でもですか?」
アレンの言葉に、フィリックはまるで試すかのような口ぶりで尋ねる。
「リディアがそれを望まなくても、です。リディアにもあなたに簡単に触れられることの無いようにと伝えてある。すでにことの大きさを自覚しているはずだ」
「……なるほど」
フィリックはそう言ってから小さく息を吐き、ソファの背もたれに背をあずけた。
「ただのビジネスパートナーだとお伝えしているのに、まさかベルナール卿からこんなに警戒されているとは思いませんでした」
「ただのビジネスパートナーだと言いながら、その立場を利用してリディアに触れる不届きものとしか思えないのでね。それに、戸惑いや不安を抱えるリディアをどんな時でも支えるのは、ビジネスパートナーのあなたではなく夫である俺です。あなたの役目ではない」
はっきりと圧のある低い声でアレンは言い切り、それを聞いたフィリックの表情は固まる。フィリックはまた小さく息を吐き、諦めたように首を振った。
「わかりました。あんなにも素晴らしい商売相手を減らされてしまうのはこちらとしてはかなりの痛手です。今後はベルナール卿に誤解されないよう気をつけますよ」
「気をつけるんじゃない、絶対にしないという覚悟と決意を持ってください。それ以外は認めない」
アレンの厳しい口調に、フィリックは目を見張る。それから小さく笑ったが、笑っているはずなのにどこか諦めと悲しみが入り混じった表情だ。
「ははは、まさかこれほどまでベルナール卿の思いが強いとは思いませんでしたよ」
そう言ってから口元を片手で覆い、フィリックはアレンに聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「……本当に、深入りせず後戻りできるうちでよかった」




