2発目
《アリス、アリス。少佐から入電だぞ》
「……繋いで」
一面の銀世界の中で、私は極力口を動かさずに告げた。体を包む分厚い耐寒コートを突き抜けて、寒さがじわじわと這い上がって来ていたのだ。
発した声も、分厚いネックウォーマー型耐寒マスクを通してくぐもる。
『よぉアリス。ご機嫌いかがかな? あぁ何も言わなくていい。わかってる。今日も少佐のためにお仕事できて嬉しいです、だろ? お前が毎朝支度の時に呟いているのを俺は知ってる。殊勝だな。支給品に飴玉を追加だ』
「……言ってないけど、ありがとうございます」
『礼には及ばん。が、もっと励め。さてさて今日もアイスコーヒーが旨い仕事日和だな。はぁ、今のオフィスは暖房が強すぎて敵わん。お陰で俺のうるつや素肌も乾燥気味、せっかくの男前が台無しだ。 ん? 見たいか? ほれ、今写真を送った』
《ピロン。少佐からメールだぞ》
「……言ってない」
私が拒否する前に顔面を覆ったゴーグルにメール通知が点滅する。内容はだいたい分かる。言葉通り少佐からのダサめの決め顔自撮り写真か、嫌がらせのポルノグラフィティだろう。どのみち無視だ。
『家宝にしろよ? あ、言っておくが夜のオカズにはするなよ? んふふ。そういう想像はもう少し立派なレディになってからするもんだ。さ、暇だから偵察衛星でお前の可愛い尻でも……む? なかなか上手く隠れたな。まったく見つからん』
《アリスすごい。アリスすごい》
「……はぁ」
あまりに緊迫感のないやり取りに、ついに我慢していたため息が漏れた。
幸いなのは、このため息や小声のやり取りを耳にする生き物は……周囲半径5、600メートルには存在しないだろうということだ。
アラスカの冬の山林。
一面真っ白な雪に覆われた大地の中で、私は地に伏せて狙撃銃を抱いていた。
腹の下に敷いた凍土から冷たさがじわじわと伝わってくる。私の小柄な体型に合わせてリサイズされた耐寒装備もさすがに完璧とはいかないらしい。
もうかれこれ三時間はこの体勢を維持していたが、身震いによってスコープから視線を外すことも許されない。
「ピット。情報通知。ターゲットはまだ?」
《情報更新。待機指示だぞ》
「……了解」
『せっかちだな、何事も楽しめアリス。アラスカに来るのは初めてだろう? 視界一面の銀世界……雪はいいぞぉ。静かで、見ていて心が癒される。ペンギンさんともお友逹になれるに違いない』
《少佐。アラスカに野生のペンギンはいないぞ》
『なんだと? じゃあ何がいるんだ?』
《周辺の森林部に棲息するのはホッキョクグマやヘラシカだぞ》
『ほう。熊さんか。可愛いじゃないか。アリスも好きだろう?』
「べつに」
《ちなみにどちらも体長数メートル級の巨大陸棲生物で、ホッキョクグマは狂暴な肉食獣だぞ》
「少佐がお友達になればいいんじゃないですか?」
『ノンノン。俺は孤高のダークヒーロー。白い熊プーのお友達はお呼びじゃないんだ。昔の話だが、父親の実家に里帰りした時、熊の黒くてデカイ剥製を見てビビったことあってな。苦手なんだ』
「……以外ですね」
『どんな男も、過去には傷を負ってるのさ……。だから俺は熊野郎に負けないよう、毎日特訓した。床に擦り付けたり、力いっぱい握ってみたり、同級生のキャシーにさすって貰ったり……元気かなぁキャシーちゃん』
《今の文脈から察するに、少佐が幼少期に見て驚いたのはハイイロクマ、別名グリズリーの陰部のことだぞ。熊の剥製はハンティングトロフィーとして飾られることがあるぞ》
『うおっほん。今なら奴の黒光りするブツに勝るとも劣らない出来映えだぞ。十数年かけて鍛え上げ、仕上げた甲斐があった』
「どっちも最低」
『そう誉めるな。さて、無駄話はいい』
「無駄話始めたのは少佐ですが……」
『お馬鹿さんだなアリスは。用があるから電話したんだ。ピット。情報のアップデートを受けとれ』
《了解だぞ。ファイル受信……》
「……」
呆れてもう溜め息も出ない。
というか、溜め息吐いて失われる体温がもったいない。寒い。
『さてアリス君。いいニュースと悪いニュース。どっちから聞きたいかね?』
「私にいいニュースだけを渡せるように整えるのが少佐の仕事だと思いますが」
『はいまずはいいニュースだ。ウチの襲撃班がターゲットの誘導を失敗した。ターゲットは予定コースを外れて逃走中。よかったなアリス。アラスカの極寒の森林部をランニングに、ターゲットとかくれんぼ、鬼ごっこまでできるぞ。最後は射的だ』
「……最低」
『……すまん』
「いい。少佐は悪くなさそう」
『いや俺のせいだ。うっかり決済し忘れた書類が山積みでな。その中に作戦の決済書類があった。書類の山の中に紛失したことに気がついてはいたんだが、気がついた時にはたぶん期限過ぎてた。ばれると怒られるだろうから黙っていて、作戦部が書類がないかと聞いてきたら難癖つけて再提出させるつもりだったんだ……ほんの出来心なんだ』
「……最低の最低」
『そんなこと言うなよ。予算が下りなくてもウチの襲撃班がなんとかしてくれそうだったんだ。サービス残業で計画練って、ターゲット襲撃の根回ししてたのを俺は陰ながら応援していた。だが奴等、最後の最後でミスった。襲撃時の現地ガイドを雇えなかったんだ。口の固い奴等は高額でな。結局、世の中金ってことかよ。世も末だぜ』
「少佐みたいなのが上司やってるのが世も末です」
『ハッハッハ! アリスにしては面白いジョークだ。70点。襲撃班は雪山で遭難しかけて立ち往生。予定時刻に間に合わずに、孤立したターゲットが不信に思って連絡。護衛も何もいないアラスカの僻地の山小屋に飛ばされたんだと気がついて逃走中だ。山小屋からボロいスノーモービルまで引っ張り出してきてな。とりあえず襲撃班はターゲットを追いかけてるみたいだが、どこに逃げたか分からん。お前も加わって探せ』
《情報アップデート。計画をプランBに変更。ちなみに内容は白紙だぞ》
「くたばれ!」
私はピットに、正確にはピットの通信機器を通じて私を見ているであろう少佐に向けて中指を立てた。クソッタレだ。世の中クソッタレばかりだ。
今回のターゲットは奴隷の密輸貿易を手掛けるクソ野郎で、身柄の確保と尋問が目的だったはずだ。秘密の取引を装ってアラスカの僻地の山小屋にまで呼び出して拘束。尋問。証拠を全て吐かせた上で事故に見せかけて殺害。
私は逃走経路に予想された位置での待ち伏せ。また連絡が途絶え感づかれた時の即応部隊の排除と襲撃が任務だ。それが……。
極寒のアラスカ森林部で、人を探してかくれんぼに鬼ごっこ? 話が違う。正気じゃない。放っておいても寒さか野生動物に殺られて死ぬんじゃないか。
3時間かけて、私が寒い想いをして待ち伏せていたのに、無駄だった。報われない。暖かいお家に帰りたい。そろそろトイレに行きたい。
「みんなくたばれ」
《少佐。悪いニュースは?》
『あぁ! 悪いニュースだ。これは本当に悪いぞ。研究部の奴等がお前の耐寒スーツに細工しやがったらしい。お前の着てる服の臀部と股間に新開発した、あー、その、新型オムツを黙って仕込んでいたらしくてな』
《訂正。隠密型糞尿処理装置の試作品だぞ》
『同じだろうが。それで奴等、作戦が終わったらこっそり回収して試作品の成果を試そうとしてたらしくてな! 本当に、なんて酷い奴等だ。俺はこっぴどく叱っておいたぞ。ウチのアリスをなんだと思ってるんだと。代わりに、試作品のテストは俺がやる、そう名乗り出たんだ。お前にそんな恥ずかしい思いをさせるくらいなら、俺が代わる。あぁ礼なんていらない、当然のことだ。女の子なんだからな。守ってやるのは俺の役目だ。うん』
《ちなみに研究部公式サイト研究開発部門人員紹介によると、研究部の開発班は全員女性だぞ。彼女たちは女性エージェントのための隠密作戦用オムツの開発を進めていたらしいぞ。これも少佐の決済が滞ったおかげで予算が降りずに開発が難航していたもので、代わりのテストを少佐が引き受けると聞いたら、丁寧な謝罪のうえ辞退したぞ』
『なんてこった! ピット君、それは伝えなくていい情報だ』
《情報を正確に伝えるのはピットの役割だぞ》
『この裏切り者め!』
「ありがとうピット。あんたが唯一の味方だよ」
《どういたしまして、だぞ》
『くそっ、俺の味方はどこにもいないんだな。ふん、もういい。情報は伝えた。俺は糞してくる。ついでにおトイレットでマスかいてやる。大丈夫。ネタ探しには仕事用携帯じゃなくて個人用を使うから履歴は見られない』
「わざわざ言わなくていいです」
《ちなみに少佐の仕事用PCの検索履歴は……》
『ごほごほっ! いかん急に体調が悪くなった。俺はトイレと医務室だ。通信終わり』
《……通信途絶だぞ》
焦ったような声音の少佐が立ち上がり、小走りで駆けている足音と共に、私の通信は途絶する。
「……」
私はその場から動かずに、しばし待った。
そして……。
《帽子屋さんから入電。秘匿回線》
「繋いで」
《了解》
小さな電子音と共に、耳に取り付けた通信機器にノイズが走る。
『アリス』
鼓膜に響く、少佐の声。
『お茶会だ。ウチの襲撃班を消せ。後から来る即応部隊も全てだ。ターゲットは亡命させるから生かして届けろ。成功したらクッキーをやる』
「イエッサー」
落ち着いた少佐の声音は、アラスカの雪の寒さよりも冷たい。
冷たくて……脳髄に甘く、響く。
『ピット』
《イエッサー。アップデートを受信。ターゲットの回収地点をマーク。襲撃班6名の生体反応マーク。即応部隊の到達予測地点をマーク。情報通知》
ピットの可愛らしいアニメ声が響き、私のゴーグルに次々と情報が投影されていく。
ターゲットは5分後に私の目の前を通過。早い。
《作戦説明。ターゲットはスノーモービルで5分後にA地点を通過。追跡中の襲撃班は2人組で行動。スノーモービルの使用を確認。アリスの待ち伏せしてるG地点はB地点に偽装中。襲撃班の通過地点予測。距離430メートル。北西の風風速2メートル。照準を水平に1度調整。高速移動物の弾道予測……》
電子観測手のピットから告げられる観測情報を聞き流し、狙撃銃を静かに握り直す。
大丈夫。この条件なら外さない。
『いいか、全員残らず消せ。今回の件、どうにもキナ臭い。襲撃班のテクニックはド下手でB地点に夢中。奴等にGスポットは探せやしない』
「イエッサー」
《即応部隊の情報不足。危険が予想されます》
『お前は乱交パーティーの出席簿を作るのか? 何人来ようが同じだ。残らず昇天させてやれ。出来るな? アリス』
「イエッサー」
『いい子だ。俺は糞して戻る』
「イエッサー」
『あぁ、それと……』
『気をつけてな。風邪引くなよ』
「──は」
私の返事を待たず、ノイズと共に通信は途絶した。
《通信途絶。作戦開始》
「……ッ。了解」
私は眼を閉じ、開く。
狙撃銃を構え直し、神経を研ぎ澄ます。
寒さはもう気にならない。
「はぁ……」
身体の奥から湧き上がる熱を逃がすように、溜め息をつく。
《心拍数上昇を感知。大丈夫。アリスならやれる》
「ん。ありがと」
……そう。
私なら殺れる。
遠くから響くスノーモービルの駆動音を聞きながら、私は唇を舐めた。
「狩りの時間。全員ぶち抜いてやる」
登場人物紹介
◆アリス
狙撃手。コードネーム『アリス』。
アラスカに初上陸した狙撃手。
結局尿意を我慢できずに漏らしたが、襲撃班と追加の即応部隊は一発も打ち漏らさなかった。
後日、研究部に耐寒スーツの要望書を届けた。
◆少佐
上司。『少佐』。
今日も軽快なジョークが冴えわたる敏腕上司。
書類は大体彼のところで止まる。
◆帽子屋
謎の存在。
狙撃手アリスにたびたび特殊任務を依頼するが、その正体は謎に包まれているらしい。
下品な冗談が好き。
作戦部とは別の思惑で動いているらしく、今回はターゲットの背後関係を調べ上げ、保護させた。
ターゲットを消そうとした作戦部は何やらキナ臭い動きをしていたらしい。
◆ピット
電子観測手スポットナビ。
狙撃手のサポートをするロボット。
弾道予測。周辺警戒。通信中継。観測手スポッターとして必要な機能が備えられている。
通常回線の他、『帽子屋』と繋がる秘匿回線を備えている。
声がかわいい。