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よくある話。  作者: 唐子
【本編】
12/22

十二、姉

 長らくお待たせして申し訳ございませんでした。


 今回割と、とんでも展開です。

 女性が就労することに対し、とかく偏見がつきものだった時代という設定なので、特定の職業に対する野次の表現や女性蔑視的発言があります。ご理解ください。

 男女雇用機会均等法成立は昭和も終わりでしたね。



 わたくしの二つ年上の姉は、いわゆる才色兼備というものでした。


 琴を弾き歌を詠えば誰もがため息を吐き、武門の出だからと薙刀をふるえば圧巻、筆を持てば匂うばかりの筆蹟。

 茶華は無論、芸事はいずれも玄人裸足。学業も優秀で、幼少時には外国語二カ国語を習得。言動は機知に富み、まさに才気煥発。


 すらりとした肢体にぬばたまの黒髪、きりりとした華のかんばせ。まだこの国では珍しいヴァイオリンという楽器を弾きこなし、妙なる音色を奏でる姿は、まさに新時代の女、それにふさわしいもの。


 性格も明朗闊達で、上を敬い下を引き立て、懐に入れたものに対してはありったけの愛情をかけてくださる。

 そんな義と情に篤いお姉様は、たくさんの人に慕われ、愛されている。


 幼馴染の彼の賛辞を少々拝借しましたが、およそ間違っておりません。

 天はお姉様を愛しすぎなのではないかしら、と思わざるを得ない。


 それが、わたくしの姉です。





 午睡から起きると、お姉様が帰宅しておいででした。


 動揺を隠せず、瞠目するわたくしに、お姉様はひとつ微笑んでまた髪を梳きます。


「ただいま」

「――お戻りなさい、まし……長のお勤め、ご苦労様でございました」

「ええ、ありがとう。貴女が転寝なんて、珍しいわね」

「これは……見苦しいところをお見せしました」

「よくてよ。家族じゃないの。それに、久々に貴女のお顔をじっくり拝見できてうれしくてよ?」


 そう言って微笑むお姉様。ちゃんとお会いするのは……ゆうに五カ月ぶりでしょうか。

 くたびれた様子もなく、身綺麗にしゃんと背を伸ばしていらっしゃる姿に変わりはありません。

 昔から変わらない溌剌とした笑顔。この笑顔に、いつも支えられてまいりました。


 お姉様が指図すると、水出しの冷茶と、何種類ものお菓子が盛られた鉢を女中が用意します。

 わたくしの私室の応接間の、大きくもない卓の上は、あっという間に浮き立つ様相を呈し始めました。女中には外してもらい、ふたりきりのお茶会です。


「各地のお土産よ。どうぞ召し上がれ。これとは別に、ちゃんと叔父様や他の人の分も用意してあるから、安心してね」

「ありがとうございます。いただきます」


 お鉢から一つ、懐紙にとっていただきます。白く砂糖の散った、これは焼き菓子? 堅焼きのおせんべいに似たそれを一口かじると、お蕎麦の風味。一緒に生姜のいい香りと辛味が追ってきて、後を引きます。これ、おいしいです。

 多分、わたくしの顔は輝いていたのでしょう。お姉様はあれもこれもとお鉢の中のお菓子を勧め、これはどこで購入した、これは原材料の大量生産に成功したら産業の目が出る、など楽しげに説明してくださいます。


 そうしてお茶をいただいて、ふ、と静寂が落ちました。……わたくし、何を呑気にお菓子などいただいているのでしょう?

 少々決まりの悪い気持ちになりながら、お姉様をうかがいます。


 天災に見舞われ、旅程を変えられ、お仕事までこなされてきたのです。

 本当に怪我などはないのか、たいそうお疲れなのでは? ……先日の、庭の一件は、なんでしたの?


 旦那様が説明できないと仰っていたことを、お姉様は話してくださる?

 疑問や不安が次々湧いてきて、どうしましょう、落ち着きません。


「え、と。ゆうべは、いつ、お帰りでしたの?」

「あら、いいえ。わたくしはつい今朝、戻ったのよ。先方が、もう夜も更けていると、引き留めてくださって。ふふ、朝帰りなんて、私不良ね」

「それは、ゆうべでなくてはならなかったのですか?」

「ええ。貴女をないがしろにしたわけじゃないのよ。どうしても、早急に接触しなければならない人がいたの。貴女にも関係なくはないわ」

「わたくしにも、ですか?」


 継ぎ目に振った話題が、思いもよらない所から投げ返されて、瞠目します。


「――まず、筋を通します」


 怪訝なわたくしを意に介さず、居直り厳しいお声のお姉様が、まるで演奏を始める前のような、きりりと真剣なお顔で向き直り。


「ごめんなさい」


 深々と、頭を下げられたのです。


「――何に、対しての、謝罪でしょう?」

「無論、貴女の心をいたずらに煩わせたことへの、謝罪よ」


 震える声でお尋ねすれば、お姉様は、毅然と言い切りました。


「私の行動が、貴女の生活にこんな影響を与えるなんて……本当に、申し訳ない」


 目を伏せ、眉宇をひそめ、憂いに満ちたお顔でも記憶のまま、お姉様は凛々しくお綺麗で。

 心のこもった謝罪にわたくしは狼狽えてしまって、責任感の強い姉としての姿が思い返されてしまって。


「お姉様……」

「……でもね、あのあんぽんたんは、殴りに行こうと思うのよ!」


 剣呑な決意に満ちた笑顔で、ぐっと拳を握られて、そう言い切りました。

 しゃらっと突拍子もないことをおっしゃる悪癖は、思い出したくもありませんでしたわね。

 お姉様が笑顔でいう『あんぽんたん』が、わたくしの予想するところと違わなければ、それは旦那様の事でしょう。

 どうにか握り拳を解いていただいたお姉様の手をそのまま包み、諭します。


「落ち着かれて、お姉様。人を殴っては駄目」

「大丈夫。手加減はしないわ。肋骨か、奥歯一本で勘弁してさしあげる」

「……わたくし、お姉様のヴァイオリンが大好き。だから、大事な手に怪我をされては嫌」

「やめるわ!」


 輝かしい笑顔で断言してくださいました。やると言ったらやるお姉様は、約束も破りません。これで、旦那様のお顔か、腹部の安全は守られました。

 なんだか一仕事終えた気分になって、ゆったりお茶を飲みます。甘みを感じる爽やかな苦味が喉を滑ります。おいしいですね。


「でも、どうにも腹に据えかねているの。あの人だけじゃない、私自身にも」


 そっとまぶたを伏せ、かすかに眉根を寄せた苦悩の表情でさえ、お姉様は美しい。そこにいるだけで目を引くお姉様は、花にたとえるなら豪華な牡丹や石楠花、杜若でしょうか。まったく関係ないとりとめもない連想が、頭に過ぎります。


「よければ、貴女の見識を聞かせて。言いたいこと、聞きたいことがあるなら、出来る限り説明するし、受け止める。不満不平でも、詰ってくれても構わない。衒いのない声を聞かせてちょうだい」


 明後日な逃避をしていると、向き直って率直にそうおっしゃるお姉様。

 今は、その律義さが気に障ります。わたくしが悩み飲み込んだものを、すらっと差し出して見せる。

 しかし、これは好機なのでしょう。

 なんと切り出すべきか、わたくしは頭の中で順序を組み立てます。


「……時系列ごとに、わたくしの身に起こったことをお話しても? かなり以前のことで、あやふやな部分も多々あるのですが」

「もちろん、貴女の話し易いように」

「では、最初に、わたくしの耳に噂が舞い込むようになるまで……」


 お姉様は静かにわたくしの話を聞いてくださいました。

 一年前、わたくしの耳に旦那様とお姉様の醜聞が次々舞い込むようになるまで。そこからわたくしがどう思ったか。旦那様の行動。降り積もった鬱憤が弾けた日の事。それからの行動。ここ最近の旦那様の言動。それについて思うところ。叔母様との会話に気付いた内省。旦那様とどういった関係になりたいのか。そして、旦那様が説明できないと仰った、昨日の庭の一件。その後の、旦那様との会話……。


 できる限り、感情的な言葉は避けましたが、どうしても恨み節は混じってしまって。

 すべて話し終え、お姉様を見やると、お姉様は言葉もなく、頭痛をこらえるように片手を目に当て、次第に天を仰いでしまわれて。


「…………………………あんの、大馬鹿者が」


 地獄の底から湧き出す溶岩のようなお声で、ぼそりと呟かれました。


「建前も言い方もあるでしょうに。なぜ、こんな、簡単なことが、こうも複雑に絡み合ってしまっているの? どういう因果なの。訳が分からなくてよ」

「あの、お姉様?」

「あのへたれが、あんぽんたんの豆腐精神の軟弱男が、格好付けのええ格好しいのとんちきが、初めに臆病風に吹かれたせいで、よし。やっぱり殴りましょう」

「おねえさまっ?」


 すぐに暴力に訴える思考はおよしになって!


「あ、殴っちゃだめよね。貴女の大好きな私の指ですものね。ふふふ、よし。脚にするわ。大丈夫。向こうで大陸の方にね、体術を指南していただいてね。蹴技はいいわ。拳よりも使い勝手も威力大きくて。男として使い物にならなければ、離縁もすぐに済んでよ?」


 よくわからないけれど、とんでもないことをおっしゃっている気がする。顔に影を刷いた笑顔がこんなに恐ろしいとは。


 なんと落ちつかせたものか内心焦りながら思案していると、体中の空気が抜けてしまうんじゃないかしら、というほどのため息が、斜向かいから聞こえてきました。言うまでもなく、お姉様です。

 腿の上に肘をつき、組んだ両手の上に額を乗せて、わかりやすく苦悩の姿勢をとっておられる。

 暫時そうして、髪と指の隙間からちらりとわたくしを覗き、もうひとつ深いため息を吐くと、ひとつ頭を振って。


「違うわね。殴られるべきは、私だわ」


 あんぽんたんのとんちきのもの知らずは、元はといえば、私なのだわ。

 眉間に深いしわをこさえて、甚く自罰するように目をつむり、そして、伏し目がちにこう続けられました。


「仁義を通しましょう。言わずにおけたら、それが最善だったのだけど。……打ち明けましょう。今まで隠していた、秘め事を」


 秘め事。

 その言葉に、どきりと心臓が跳ねました。


 まさか、まさか、本当はお姉様は、旦那様を――?


 ぐるぐる、胃の腑を掻き乱されるような吐き気がいたします。


 脳裏に、昨日の庭先での旦那様とお姉様の様子が過ぎり、わたくしが嫌な想像に心乱されていると、お姉様は、これまで見たこともなく真剣な鋭いお顔で、私を見つめ。


 これから言うことは決して他言無用、誰にも、たとえ弟にも叔父様にも両親にも口外すべからず。

 そう厳命し、声を潜め、おっしゃることには。


「実は、私、政府の諜報員なのよ」


 目が点になるとは、このことでした。


「は…………は? え?」

「だから、諜報員。隠密、間者、密偵……いろいろ言いまわしはあるけれど、そういう活動をしているの」

「なん……、え? お待ちくださいませ。……お姉様は、ヴァイオリニストじゃございませんの? 一体いつの間に、政府にお勤めになられましたの?」


 これでもかというほど真面目なお顔で戯言を吐ける人ではありますが、わたくしにはお姉様の本気がわかります。

 これは、冗談ではありません。

 至極真剣なお顔で、口調も改めて話されるお姿は真実味がありました。


「ゆうべ私は、上司にあたる方へ許可をいただきにうかがいました。その方のことは……政府の方、と言っておきましょう。委細は守秘義務に抵触します。本当なら、貴女にこうして打ち明けることも、けしてしてはならないことでした。けれど、私の事情が、妹夫婦の離婚の危機の直接的な原因となっている。そこで私は、情報開示の範囲の確認と、条件の確認、それを上司にうかがったのです」


 告げられた内容に、ぴくりと肩が揺れました。

 どういうことでしょう。わたくしと旦那様の離婚に、まったく無関係の第三者が登場してしまいました。

 その『政府の方』について言及してはならぬ、とおっしゃるなら、従いましょう。姉にそうさせるだけの人物であるなら、わたくしに何ができるとは思えません。


「この風向きと風評は、あちらにも望まれるものではなかったのでしょう。貴女だけにならばと、身分の明示のみと限定的ですが、許可はあっさり下りました。手順を踏まないと、貴女に何も打ち明けられないの。不便でごめんなさい」


 きりりとした眉を困ったように下げて、お姉様は伏し目がちにそう告げます。

 違う、そうだけど、そうじゃない。そう言ってさしあげたいのに、どこまでがお姉様のお困りにならない範囲なのかがわからなくて、わたくしは池の鯉のようにパクパク何度も口を開閉してしまいます。


「――いったい、いつから、ですの?」


 やっと出てきた質問は、なんとも当たり障りのないもので。

 お姉様は、ニ、と挑戦的に唇を引き上げて。


「海を渡った際、密命を受けたのです。留学ついでに欧州の世情を探れ、と。音楽家は、上流社会に難なく溶け込めます。もちろん、相応、それ以上の才がなければ無理でした。でも、私の気性はご存じでしょう? 乗り越える壁は、高いほど燃えるものです」


 そうして、話せる限りを語られることには。


 一部の留学生に、御国はそうした、隠密じみた任を与えるのだという。

 それは軍人であったり、貴族階級出身の者であったり、一芸に秀で、様々な場に出入りできるような人材であったり。

 外交官を父に持ち、語学に長け、ヴァイオリンという得意があり、社交界やサロンに出入りしてもおかしくない子爵令嬢の姉は、まさにうってつけだったというわけで。


 任務も多様で、見聞を広めよという漠然としたものから、その国の政情の細かな報告、国際情勢の実際、流行や文化の発信、売り込み、最新技術の諜報……実にさまざま。

 それが諜報活動だと気がつかないまま、留学を終え報告書を上げる場合もあるというのだから、留学生は皆、大なり小なり言い含められているのだろうというのはお姉様の見解。


 『見聞を広めよ、可能なら、欧州の情勢の事細かな報告を。』

 お姉様は、たったそれだけ言い含められた内容を正しく理解し、行動した。

 まずは真面目に音楽の勉強を。腕を磨き、貴族や上流社会のサロンへ招かれるまでに。東洋的なエキゾチックな美貌も好作用した。目新しいものは持て囃される。そうして動き回った結果、祖国にとって有用な情報を幾度と得た。


 そうして、いつの間にか、気鋭のヴァイオリニストの裏側で、女諜報員として立つ姉がいた、と。


「貴女の旦那様はね、私の裏の顔を知っているの。一応あの人にも、そういった任はあったから」


 あまり熱心じゃなくて、勉学に重点を置いていたけれど。帰国後、内務省入省が決まっていたあの人にも、それなりの任があったらしい。お姉様はそうおっしゃる。

 本当に、わたくしが呑気に花嫁修業をしている間、そんな絵空事のようなことを?

 ただただ呆然と、お姉様のお話に聞き入ります。


「私、貴女達の婚儀のために帰国したでしょう?」

「え、ええ……」

「あちらでの地盤固めに成功してしまったものだから、お上も驚かれてしまってね。重宝がられた結果、選択を迫られていたのよ。そして、帰国から二年は、試験期間でもあった」

「あの、何のお話?」

「貴女の旦那様との、噂の数々の話。本当に……ごめんなさい。まさか、大昔に日本を出た女が、こんなに噂にあがるなんて、予想外だったのよ。すっかり忘れ去られたとばかり」

「……お姉様は、ご自分の影響力を、ご存じないのですわ」

「そんなもの。洋行帰りで、職業婦人で、楽器など弾いて芸人のまねごとをしている嫁き遅れの子爵令嬢は、どうにも世間の目を集めるらしいわ」


 ひょいと肩をすくめて、皮肉げにそうおっしゃって、気にした風ではありませんでしたが。


 ……どなたでしょう、そんな、悪意たっぷりの言葉をお姉様に吹き込んだ輩は。


 わたくしの怒気が伝わってしまったのか、お姉様はちょっと苦笑して、わたくしの髪をなで、落ち着くよう示します。一息つき、お茶でのどを湿して、続きをうかがいました。


「試験期間といったでしょう? 選択を迫られていたの。これからも諜報員として活動するか、はたまた、ここを引き際として一般人に戻るか。……私は、前者を選んだ」

「お姉様っ!?」

「そのために、この一年ばかり、あっちこっち飛び回っていたのよ。国内もまだ、完全に不穏分子が消えたとは言えない。火種はそこかしこに埋まっている。多分、性に合っているのね。私の行動で、争いの火種が消えるなら……それこそ、幕末のお祖父様のように」

「……お姉様は、お祖父様の武勇伝が、お好きでしたものね」

「ええ」


 微笑むお姉様。なんどもなんども寝物語に望んだお話。

 そうです。我が家は、人と人、国と国のかけはしとしての働きで、そうして成り上がった家です。


「私と、私の上司との仲介を担っていたのが、貴女の旦那様だったの。政府の人間で、たびたび会っても不自然じゃない親族。一番目立たず仲介できるのが、あの人だけだった。これは密命で、例え身内でも漏らしてはならなかった。だから、世間で言う逢瀬は、ほとんどがそれです」


 彼は貴女を裏切っていない。


 きっぱりと言い切ったお姉様に、わたくしは、どんな顔を返したらいいのか、わかりませんでした。

 困ったように眉を下げて、お姉様はさらに続けます。


「彼は、私に、こんなことはやめるべきと、何度となく説得してきたのよ。『自棄になるな、思いとどまれ、今ならまだ引き返せる』。それこそ、耳にタコができるくらい。誰に聞かれても困る話だから、密談めいてしまっただけ。幼馴染としての親切と忠告と、それこそ、貴女のためね」

「え?」


 意味が解らず、きょとんと見返すと、にやーっと意地悪な猫のように唇の端を引き上げて。


「貴女に、『貴女の姉』という存在を残してあげたいのよ。だって、貴女、私のことが大好きでしょう?」


 ぬけぬけと言い切ったお姉様。いささか頬が熱くなります。

 せめてもの抵抗で、無言を通しておりますと、肯定とみなされ愉快気にくふりと笑われました。


「あの人、貴女の大切なモノを、あまさず与えてあげたいのよ。自分が、一等大事なものを取りこぼしているくせにね。……この試験の出来如何いかんで、私、もうこの国には戻らないかもしれないから」


 低く囁くように次いだ言葉に、思わず息をのみます。

 それは、国のために身を捧げるという覚悟で――。


 ふいに差し伸べられた手が、わたくしの頬をすべります。硬い指先がまなじりをすくい、そこでわたくしは、自分が泣いていることに気がつきました。


 悲しいわけではありません。

 姉の決意も覚悟も。

 旦那様の、奥底の優しさも。

 決して、それは、悲しいものではありません。

 でも、この涙の意味は、どれともつかない混乱した感情でした。


 どうして。相談もなしに。他の皆には。誰にも言わずに去るつもりで。もう二度と会えないかもしれない覚悟を。どうしてお姉様が。どうして。どうして。どうして。


 ――さびしい。


 すべてを察しているようなお顔で、お姉様はわたくしの涙で手を濡らしています。


「――もう、お決めになってしまわれたのでしょう?」

「心はね。でも、まだ、私は何も成していない。試験期間はまだ半年以上残っている。結果次第では思うようにはいかないだろうし」


 わたくしの涙をぬぐうお姉様の手を両手で押しいただきます。


「わたくしは、どんなお姉様も応援する」


 ハッと息をのむお姉様に、言葉を重ねます。


「貴女……」

「忘れないでくださいな。ここには、貴女を慕う家族がいること。いつでも、お帰りをお待ちしてますわ。それしか、わたくしにはできない」

「馬鹿ね」


 空いた方の手てわたくしの頭を撫で。


「ただ帰りを待つことの難しさを、貴女はよく知っているでしょう?」


 そうおっしゃって、泣きそうに潤んだ瞳をごまかすように、怒ったお顔を作って見せて。

 数泊の後、わたくし達はくしゃくしゃに笑い出してしまいました。


「それにね」


 続ける言葉に、お姉様のお顔を拝しますと、それは、幼いころよく目にした、悪戯をたくらむお顔で。


「もう一つ、勝負があるの。そちらの結果も含めて、私は、自分の人生を決めるわ」


 こちらの方がよほど難事よ、と、あでやかに笑んで見せました。


 その美しい笑顔に。



 わたくしは、お姉様には想う方がいらっしゃるのだと、ようやっと気がつくことができたのです。








 国費留学生が、そんなスパイ活動していた事実は不明ですが。

 というか実際そんな時間は作れないし、中世から近世欧州上流階級は閉鎖的で、介入などよほどの伝手でもない限り不可能だったでしょうが。

 留学中の軍人さんや、諸国に駐留する外交官は、少なからず諜報活動も任務に入っていたときくので、その事実だけお借りしました。外交官も、ってことは、この姉妹の父親も……というね。ね!


 もう一話、お姉様のお話が続きます。



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