十三、姉、其の二
ぐだぐだ長いです。
涙で濡らしてしまったお姉様の手を、帯に挟んだ手巾で拭い、わたくしも顔を拭きます。
身じまいを整え、のどを潤したところで、お互いに向き直ります。
「きちんと、お話しましょう」
そうおっしゃるお姉様に、わたくしはうなずき返しました。
もう、知らないも、隠し事も、誤解も、うんざりです。
「はじめに、その……うかがってもよろしいのでしょうか? お姉様の想い人は、本当に実在いたしますの?」
もしかして、お姉様の想い人は旦那様で、わたくしの心を晴らそうと嘘をついてらっしゃるとか、ないですわよね?
疑り深くなってしまったのでしょうか。そんな風に考えてしまって、こわごわ尋ねると、お姉様はあろうことか大爆笑してくださいました。
「いるわ! というかそれじゃ、私が可哀相な人じゃない! あの人を想像上の架空の人物にしないでちょうだい!」
涙を流して笑い転げるお姉様。……そんなに笑うことないじゃないですか。
ぐふぐふ咽ながらも笑い続けるお姉様が落ち着かれたところで、やっと話は再開します。
「あー、笑った、笑った。近年最高の愉快だったわ」
「……然様でございますか。では、いるのですね、本当に」
「いるわ。本当に気がついていなかったの、貴女。こんなにお鈍さんだったのねぇ。知らなかったわ」
顎に人差し指を置き、からかうように小首をかしげたお姉様を、わたくしは直視できません。色々と恥ずかしくて。
「そうね。今度は、私の話を聞いてくれる?」
うなづいてみせますと、お姉様は笑みをひっこめ、遠い日を見つめるように神妙なお顔で語り出します。
「貴女、覚えておいでかしら? この家が火事になった日の事。貴女が四つで、私が六つ。秋も終わりの初冬だったわ」
あの日のことは、かすかにですが、覚えておりました。
冷たく乾いた風の夜。暗闇に踊る赤々とした炎。燃え盛る家屋。燻された木の匂い。
人々の怒声。陶器が割れる音。生木が焼けて弾けた音。
わたくしを引く手。お姉様の背中。
「覚えて、おりますわ。だって、わたくし、お姉様に助け出されたのですもの」
考え無しのわたくしは、お母様のリボンを取りに、一旦は出た家屋の中に飛び込んだのです。火元からわたくしたち姉妹の部屋は遠いからと、軽視して。
お母様の白いリボンは、わたくしと母をつなぐ、唯一のよすがでした。
わたくしを産み、その数か月後には父の駐在する外国に行かれてしまわれたお母様。
当時、わたくしは母を知りませんでした。
わたくしとお姉様を育ててくださったのは、お祖母様と叔母様と使用人で。でもどうしようもなく寂しかったわたくしのよすがが、お母様の使われていた白いリボンでした。いつでもけして手放さなかったそれを、わたくしは取りに戻ってしまって。
火事で本当に怖いのは、炎でなく煙なのだそうです。
煙にまかれたわたくしは、寸でのところを、探し当てたお姉様に助けられたのだと、朦朧と覚えております。
「では、貴女を助けた私を助けてくださったのが、叔父様だと、それは覚えているかしら?」
初耳です。
わたくしの驚きを察したお姉様が、昔の話だし、気に負わないでほしいのだけど、と前置いて、話されることには。
「貴女、あの時、リボンまでたどり着けなかったのよ。でも、うわ言でずっと『リボン、リボン』とささやいているから。私、貴女を置いてまた取りに戻ったの」
「そ、れは……」
「今思えば、私も無謀でした。でもね、貴女があのリボンをよすがにする気持ちもわかったから。私だって、お母様の手巾を肌身離さず持ち歩いていたもの。リボンを貴女に渡さなくてはと、それしか考えられなくなってしまって」
誤算は、乾燥した空気に火の巡りが早かったこと、濃くなった煙に視界を遮られ、元来た道をたどれなくなったことだった、とお姉様はおっしゃる。身を低くし、這うように進んでも、熱気は追ってきて。
「いよいよ駄目かしら、という時に、叔父様が助けに来てくださったのよ」
当時学生で、子爵邸で下宿していた叔父様は、姪を助けに燃え盛る家屋に飛び込んで。
「火の手がすぐに迫って、火の移ったふすまが私に向かって倒れてきて。咄嗟に動けなかった私を抱きこんで、叔父様は背中に大火傷を負ったの」
熱かっただろう。痛かっただろう。
なのに、あの人は微笑んで言うのだ。『怪我はないか』、『無事でよかった』と。
「これで恋に堕ちなければ、嘘だわ」
お姉様は、六つからの恋を、そっと言い切りました。
一途なお姉様の想いに、わたくしは驚きつつも納得すると同時に、ひとつの疑問に腑が落ちました。
今もなおわたくしの手元に残るお母様のリボンは、端が焦げて茶色く変色しております。火にまかれた記憶はないのに。ずっと不思議でありました。
あれは、お姉様と叔父様が、命を賭して持ち帰ってくれたものだったのですね……。
「お姉様は、叔父様をお慕いしていらしたのね……」
「ええ」
やわらかく微笑まれたお姉様。
こんな笑顔は、初めて見ました。
「それで、家屋が再建するまでの約二年、私達は、伯爵家にご厄介になったのだったわね」
そうです。あの火事から、わたくし達の代でも、伯爵家との縁はさらに深いものとなったのです。
あの火事で、子爵邸は焼け落ちました。半焼と記憶しておりましたが、実際はほぼ全焼で、建て替えるしかないありさまだったとか。
再建の話はすぐに上がったのですが、何を思ったのかお祖父様が、同時期に突然『隠居する』と言い出して。
そうです。生まれたばかりの弟と共に、任地から慌ただしく帰国した両親。家督の相続にごたごたがあったのは、うっすらと覚えております。
相続の際に、悪縁であった親族らとはきっぱり断絶したのも、覚えております。火元は、その迷惑な親類の一人の寝煙草でした。
当時妊婦でいらした叔母様の家には、さすがに全員厄介にはなれそうになく、祖父母のみがしばらく起居し。
お姉様とわたくし、任地に赴くまでの両親と生まれたばかりの弟は、伯爵家に居候したのです。
「そう言えば何故、伯爵家にご厄介になることになったのかしら?」
「それは、伯爵閣下と伯爵夫人が是非に、とおっしゃられたと、うかがっておりますが」
ふとかもされたお姉様の疑問にお答えできます。わたくしも疑問に思ったそれを、伯爵家の義両親にうかがったことがありました故。
わたくしの父と義父は、幼なじみです。叔母様も含め、まるで本当の兄弟のようにして過ごしたとか。
兄の難事に手を貸すのは当然、とおっしゃりそうなお義父様ではありますが、裏には下心もあったそうで。
男子を一人上げたのち子に恵まれなかった伯爵夫妻。
手のかからなくなった息子もいいけど、女の子も育ててみたい。
養女を迎えることまで考えたそこに、難儀をしている友人家族。女児が二人、生まれたばかりの男児が一人。幼い姉弟の苦境に、夫妻……特に伯爵夫人たっての希望で、逗留が決まったと。花嫁修業時代に、ちらとうかがいました。
昔から、お義母様にもお義父様にもよくしていただきました。
弟が三つになるまで育て上げた母が、再び父と共に異国巡りに行かれると、姉弟共々第二の両親のように気にかけていただいて。
よくよく思うに、わたくし達の周囲には、頼もしい大人がたくさんいました。幸せなことですね。
納得の相槌を打ったお姉様のお声が、物思いにふけりかけたわたくしを呼び戻します。
「話を戻すわね。叔父様は、季節二つ越えるほど入院されて。私、毎日お見舞いに通ったわ。入院されていたのは、梅枝の大叔父上所縁の病院だった。包帯の巻き方から皮膚によい食べ物、床ずれしないように体位を変える方法、たくさん訊きこんで、実践したわ。せずにはいられなかった。一番喜ばれたのはお勉強のお手伝いで、だから私、外国語は叔父様に習って上達したのよ」
微笑み、手のひらの中の小鳥をそっと見せるように、お姉様は胸の内の宝物をこぼされます。
「あの人の役に立ちたかったから、たくさん勉強したわ。ずっとずっと、お側にいたかったから、身を助ける芸は何でも身に着けた。好意を隠したりなんかできなかった。だって、好きで……大好きで。でも、何度お慕いしていると告げても、取り合ってもらえなくて」
子どもの言い分、長じては贖罪ととられた。否定されるたびに募る想いは、年経るごとに圧を増して。
でも、子どもだった。周囲がまったく見えていない、子どもだった。
想いのままの言動が、どんなに危うく、軽率だったか。
組んだ手を額に当て、お姉様は告白いたしました。
「そんな私の言動が、雑誌にすっぱ抜かれて、叔父様の醜聞になってしまったのよ。姪をたぶらかした、不埒の大学教授、と」
私が、あの人を貶めた。なんて愚かな。なんて、罪深い。
引き絞るような、そんな声が聞こえてくるようでした。
叔父様のことですから、きっと、ご自分の外聞より、お姉様の評判をお気になさったことでしょう。
そしてきっとそれは、余計にお姉様を追い詰めた。
「とてもじゃないけど、お側にいられなかった。いてはいけなかった。でも、同じ屋根の下でしょう? 近くにいる限り、動向をうかがえる距離にいる限り、醜聞は付きまとうし、心乱されて……もう、二進も三進もいかなくなって、どうしたらいいのかわからなかったわ」
眉宇をひそめ、目を伏せたお姉様。お辛い心象がうかがえます。
わたくしは、今更ながら、自らの鈍さを恥じ入っておりました。
だって、お姉様がそんな燃ゆる想いを燻ぶらせて過ごしていたこともその裏の苦悩も、叔父様にそんな醜聞がたてられていたことも、まったく知らずにのうのうと同じ時間、同じ屋根の下で過ごしていたのです。
「雁字搦めになった私に、貴女の旦那様が『旅に出ては』と提案してくださって。目から鱗だったわ。そうよ、私が離れればいいんじゃない、って。どうせなら、うんと遠くに行ってやろうって……叔父様のお声が耳に入らないくらい、遠く。それであの人について外国まで行ってしまったのよ」
失恋して旅に出るって、なにか物語のようね、と茶化しておっしゃる。
「離れれば、叔父様の名誉の回復も早いだろうと、短絡的だけど、そう考えて。載った雑誌も信憑性が薄いゴシップ誌だったせいか、そんな噂はあっという間に時間に流されたと、しばらくして友人が手紙で教えてくれたわ。なにより、叔父様自身のお人柄が一番大きいですけどね」
わたくしもうなづきました。叔父様ご本人を知る人ならば、ゴシップ誌と叔父様、どちらを信頼するかは明白です。
「もっと音楽の勉強がしたかったのは本当。事実、音楽漬けの日々は、打ちのめされた私の心身を癒してくれたわ」
「えっと、では、恋の痛手も癒えた……ということですの?」
「まさか」
ハッとするほど美しく微笑んで、お姉様はきぱりと否定の言葉を言い切りました。
「様々なことして、頭をいっぱいにしてみたけどね。駄目だったわ。叔父様の名誉を傷つけた私自身を許すことも、できていない。でもね、我ながらしつこいとは思うのだけど、叔父様を諦めることも、できないのよ」
だから、私の恋の戦は、まだ続いているの。
なにやら決然とおっしゃるお姉様のお顔は勇ましく、凛々しい若武者のようでした。
お姉様の想い人が、叔父様であることに納得はいたしました。今なお、お慕いしているということも。
しかし、わからないこともまだあります。
「お姉様は、だからあの時期に、旦那様との婚約を破棄望まれたのですか?」
ずっとお尋ねしたかったことを、思い切って聞いてみました。ずっと不思議だったこと。
あれほど似合いの二人と持ち上げられ、婚約者の立場を降りても不仲な様子はなく、幼少から変わらない親密さ。傍から見て、かほどしっくりとはまったお二人もございませんでした。
しかし、お姉様のお言葉をうかがうと、不思議な関係であります。お二人は仲の良い許嫁。わたくしも周囲も、そう思いこんでおりました。
わたくしの質問にー、お姉様はきょとりと瞬かれ。
「私、あの人の婚約者になった記憶なんて、なくてよ?」
この返しに、わたくしまで瞠目してしまったのです。
ぽかんと固まるわたくしに、頭痛をこらえるように、お姉様は額に指を付き、熟考の後口を開きました。
「婚約の約定自体から見直しましょう。貴女はどう聞いていて?」
「え? わたくしは、物心ついたころから、旦那様とお姉様はいずれ夫婦になると、周囲に言い含められてきましたが……」
「お祖父様やお父様、叔父様に、きちんと説明を受けたことはない、と?」
「…………言われてみれば、ない、ですわね」
過去を振り返ってみても、そういった説明は、なかったように思います。
あまりにも至極当然に、周囲が、旦那様とお姉様を対に扱い、伯爵家と子爵家の許嫁話について話していたので、疑問に思ったこともなかった、と言いましょうか。暗黙の了解を、改めて確認する機会もなかった、とも言えます。
お姉様はようよう頭を抱えて、「説明責任んんん~……」と唸られています。どういうことなんですの? まさか、婚約話自体から不穏が飛び出してくるとは。
「あのね、まず伯爵家と子爵家の婚約話だけど。そもそも、『婚約』なんて、叔母様の代でもう済んだ話だったのよ」
「はい?」
お待ちください。前提条件が覆される事実ですわ。
「しかし、確かに旦那様とお姉様は、婚約者として扱われていましたよ?」
「今更ながら、どおりでいやに一緒くたに扱ってくるなとは思っていたけれど……。でも私達、幼いころから、聞かれたらきっぱり否定していたわよ? あれと一緒になるなんて、冗談じゃないと。向こうも同じように言い切っていたのだから、間違いなくてよ?」
あんな、たまに口を開けば小言ばかりの小舅、願い下げだわ、と忌々しげに言い切って。
苦虫を潰したように唇をへん曲げられて吐き捨てることに、心底『嫌だ』と伝わってまいります。
なんだか、わたくしが知るおふたりの関係と実際は、かなり異なるようです。
「先代の伯爵様は、孫の代でもと乗り気だったようですけどね。うちのお祖父様もお父様も、無理強いするつもりは最初から無いとおっしゃっていたわ。心通わせるうちにそういう気持ちも芽生えたら、その時に整えましょう程度の、軽い約定なのよ、あれは」
「でも……でも現に、わたくしと旦那様は、今こうして夫婦となっております」
困惑して、思わず反論してしまいました。
わたくし達の婚姻は、祖父達の婚約話がなければ、到底整うはずのない縁組だったはずです。お姉様はあっけらかんと笑われます。
「そんなの、貴女のあの人が望んだからに決まっているじゃない」
わたくしは、開いた口がふさがりませんでした。
驚きすぎて、身じろぎもできなくなったわたくしを尻目に、お姉様は「そこからかー……」と苦く笑われます。
「あの唐変木のあんぽんたんは、何も言っていないの? 最初から?」
首を振ります。
わたくし達の縁談は、お姉様の婚約の尻拭いで、旦那様は仕方なくわたくしを娶ってくださって。
そこに幼いころからの友好と親愛はあっても、色めいたものなんてなく。少なくともわたくしは、手紙のやり取りではそこまで感じ取れませんでした。
「だいたいね、私とあの人、どうして親密に見えたと思う?」
「それは、どうしてでしょう……同じ次元で、お互いを高め合える仲だったから?」
「はずれ。それはね、お互いに、好いた人が居たから。だから、気安く近づけたのよ」
私達、寄るとや恋の相談をしていたのよ。いうなれば、戦友ね。
そろそろわたくしの目玉は落っこちてしまうんじゃないのかしら。けらりと白状された内容に、またしても瞠目してしまいます。
いよいよわたくし、鈍感のそしりを甘んじて受けても否定できない身のような気がいたします。
「私達の恋心は、近い周囲の人にとってはあまりにも開けっ広げで。だから今更、誰を好いているなんて明言しなくても、それで通っていたのだけど……」
「貴女は気がついていなかったのねぇ」呆れたような乾いた声に、わたくしの頬も引きつります。
「どうしてかしら。貴女、機微には敏い方じゃなかった?」
「と、申しませど……お恥ずかしながら、まったく気がつきませんでした……」
「与えられる好意に鈍感なのは、昔からだけど」
「そんなこと……」
ない、とは言い切れません。情けないことに。
恥ずかしさと情けなさでしょげていますと、お姉様は苦笑しつつおお話をまとめにかかりました。
「だから、貴女があの人と離縁したとしても、私、あの人と一緒になんてならなくてよ」
何があろうと、たとえ天地がひっくり返ろうとありえないわ。
そう宣言なさるお姉様に、わたくしはただただ、うなだれるばかりです。
「私に言えた義理ではないのだけれど、この際だから言わせてもらいましょうか」
私が言わなければ、多分、誰も貴女に言わないのでしょうから、と、厳しいお声でお姉様。思わず背筋がのびます。
「貴女達、お互いに格好つけ過ぎね。もっと正直になりなさいな。この先何十年も一緒にいたいのなら、取り繕ったところで、またいつかボロが出てよ?」
「それは、薄々……」
「正直が過ぎて私みたいに自爆しろとは言わないけど。それにしたって、あの男は融通がきかな過ぎるし、貴女は卑下が過ぎる」
「おっしゃる通りで……」
「私のせいである部分が大きいのはわかる。というか、大部分が私のせいだ。申し訳ない。でも棚に上げて言うけれど、彼は、私と会うことが仕事であると言えばよかった。それは許されていた。貴女は『仕事である』と言われていれば、『家族である』と言い訳されるよりは納得していたんじゃなくて?」
「それは、お仕事の領分は犯せませんし……」
「貴女は貴女で、後ろ向きが過ぎるよ。貴女はまず、私と彼を糾弾してよかったんだ。それは許された。当然の権利だ。何も言わず身を引くのは、謙虚だけど、逃げとも取れる。それでは貴女を好いている人があまりに甲斐がない。貴女の周りの人は、まず、結論じゃない貴女の言葉を聞きたかったはずだ。違う?」
「わたくしの言葉、ですか? ですが、お姉様。こんな些事で、皆様の貴重なお時間を割くのも御心を煩わせるのも……」
「巡り巡って今、貴女は、大勢の人に心配されているけれど?」
うぐ、言葉に詰まります。
厳しいお言葉に反し、お姉様は優しいまなざしで、わたくしを諭します。
「貴女は、愛されている自覚を持ちなさい。あの男に限った話じゃない。貴女は、たくさんの人に愛されている。相手の好意をきちんと受け取らないのはとても失礼だし、相手を傷つけることにもなるんだよ」
お姉様のその言葉に、横っ面をはたかれた気がいたしました。
わたくしは、どうしても信じきれない旦那様の好意を、いつもどこか、他人事のように受け取っていました。
それがどんなに、旦那様に失礼なことなのか、無自覚なまま。
真摯には真摯で返すべき。そんな当たり前のことを忘れていた。傲慢だったのは、わたくしの方。無自覚な分、性質が悪い。
血の気がざっと下がります。わたくしはこれまで一体、どれほどの無神経を働いてしまったのでしょう。
「貴女がそれでは、大昔から貴女を好いていた彼奴の年月が、あまりに可哀相だ」
「わたくし……」
「貴女は彼を、上に見過ぎているのではない? 過ち一つ起こさない、完全無敵な立派な大人。でも、そんな人間、本当にいると思う?」
いつかの、旦那様の言葉が思い返されます。『完璧な人間なんてなるものじゃない』。確かにそうです。今なら、わかります。あの時旦那様がおっしゃりたかったことが。
うなだれるわたくしに、さらにお姉様の言葉が降りかかります。
「もしそう思っているとしたら、悪いことは言わないわ。このまま離縁してしまいなさい。その方が、貴女にとっても彼にとっても、ずっと幸せになれると思うわ」
ぐらり。地面が揺れるような眩暈。
わたくしと居ても、旦那様は幸せになれない。確かに、否定ができません。
婚姻からこっち、わたくしがした事といえば何? 噂に翻弄され、旦那様を信用せず、勝手に家を出、無駄足を重ねさせている。いえ、それすら、今後は望めない。
離縁を最初に望んだのはわたくしでした。それを押しとどめてくださったのは旦那様です。
しかし、今、旦那様がそれを望んでいるか、確かなものは何一つないのです。
離縁、の、言葉が、重くのしかかってまいりました。
「愚かですね……」
本当に、わたくしは愚かでした。
どれほどのものを見過ごして生きてきたのでしょう。おそらく、真実だって、いつでも目の前に転がっていたのです。
それに気づかなかった盲目はわたくし。目隠ししていたのは先入観と、思い込み、そして卑屈です。今ならはっきりわかります。
嫌いたくないというのは綺麗事です。
お姉様と旦那様。彼らだけじゃない、身内の誰しもに、劣等感ならいつだって抱いておりました。
彼らの栄光も、自分の感情さえ見てみぬふりをしたのは、それが楽だったから。
『出来のいい妹』になれないなら、わたくしは『いい妹』でいたかった。
知らなければ、目をそらせることも簡単でした。
知らなければ、誰かのせいにすることも容易い。
幼馴染の彼の言った通りです。わたくしは卑怯者です。
「卑怯者というより、貴女は卑屈なのよね」
唇の端をトンと叩き、お姉様は苦笑されます。ハッとして自分の口を覆いました。どうやら、思考がこぼれていたようで。
「どうしてそんな、後ろ向きになっちゃったのかしら?」
「……たぶん」
つっかえつっかえ、心もちのありようを、お姉様に伝えます。
支離滅裂なわたくしの言葉を遮ることなく、最後まで聞かれたお姉様は、静かに息を吐かれて。
「私のせいね」
「いいえ、お姉様」
「そうね。全部まるごと私が悪い、というわけではないでしょう。でも、貴女がそう考えるようになった素地に、私がまったく無関係だとは思わないわ。そうじゃなくて?」
「それは、まあ……」
「正直者」
人差し指で小突くように額を押して、のばされたお姉様の指はそのままわたくしの頭をなぜました。
しばらくなでまわされて、するりと滑った指先に、頬をつままれます。
「おにぇえひゃま?」
「――ごめんね」
これで最後にするから、もう一回だけ、謝らせて。悔いるようにつぶやかれたお姉様。
悄然としたご様子に、頬の手を外します。硬くなった指先の手をにぎり、わたくしも口を開きました。
「家出も、夫婦関係の継続不能も、すべて、わたくしが考えて、決めて、行動したことです。お姉様は、切欠にしか過ぎない。それを今、お姉様自身がご説明くださったでしょう?」
「そうね。最初から貴女たち夫婦が問題を抱えていたことは、事実でしょう。でも、それと私が自責しないというのは別の話。貴女が気に負うことはないわ。だめよ、忘れてね」
あくまでわたくしに気負わせないよう努めるお姉様が、あえてこうおっしゃる時点で、相当に呵責に耐えないと証明しているようなものなのですが。普段なら、相手が本当に気がつかないような気配りを、自然体でこなしてしまうお人です。
「まあ、貴女が溜め込んでしまう性質で、意外と行動派で、突発的に突飛な行動に出るというのも、昔からままあったことだしね。気にしいのくせに、変なところで視野狭窄なところも。これからはもっと広い目でものごとを見なくてはだめよ?」
「あらあら、それを、お姉様がおっしゃられるの?」
「意地悪ねぇ!」
弾けた笑い声と、余計なことを言う口を塞ごうとする手のひらから逃げるように、年甲斐もなくわたくし達は長椅子の上でじゃれ合います。それはまるで、幼い日のままに。
笑いあえる今を噛み締めるように、期限付きになってしまったお姉様と過ごす日々を、わたくしは大切にしようと心に決めるのでした。
あと二話ほどでおしまいです。




