序章 第1話 奥地にで
初作品です。
最後に人の声を聞いたのは、いつだっただろう。
思い出そうとしてやめた。数えることにもう意味がない。
壁に爪で線を刻んでいた時期が確かにあった。
だがそれも、いつからか途絶えている。
線が増えるほど、外の世界との距離が開いていくようで、
ある日から、刻むのをやめた。
だから、今がいつなのか、俺は知らない。
ダンジョンの奥で、乾いた肉を貪る。
何の肉かは、もう気にしていない。
動くものを狩り火を通し、食えそうな野草と一緒に腹に入れる。
それだけの日々が、どれほど積み重なったのか見当もつかない。
髪は伸びるだけ伸び、適当に刃物で削いでいる。鏡などない。
自分がどんな顔をしているのかも、忘れた。
最初の頃は、地上に戻ることばかり考えていた。
どうやって潔白を証明するか、誰にどう詰め寄るか、
何度も何度も、頭の中で同じ問答を繰り返していた。
だが、繰り返すたびに、それは色を失っていった。
ふとした瞬間に、記憶が音もなく浮かび上がることがある。
呼びかけても振り返らなかった肉親の背中。
取調室の、蛍光灯の白さと、怒鳴り声とも呼べない、ただ淡々と踏みにじってくる声の温度。
教室の扉が閉まる音。その向こうで漏れていた、押し殺しきれていない嗤い声。
どれも、鮮明というわけではない。輪郭がぼやけ、
順序も曖昧なまま、断片だけが不意に浮かんでは沈んでいく。
しかし感触だけは消えない。
あの時、確かに世界の全員が、俺を差し出して安堵していた。
証明したところで、何が戻る。
信じなかった肉親の記憶が消えるわけじゃない。
人権など知らぬ顔で取り調べた警察官の声が、消えるわけじゃない。
放校となった学校も、石を投げるように嗤った同級生の顔も――消えない。
もう、消えようがない。
ならば、戻る意味とは何だ。
問いに答えが出ないまま、俺はダンジョンに留まり続けている。
奥に進むほど、魔物は強くなる。奥に進むほど、静かになる。
それだけが、今の俺にとって唯一の道理らしいものだった。
人の声のする方へは、もう長いこと近づいていない。
誰かとすれ違ったことも、ここ最近――いや、ここ最近というのがどれくらいの期間を指すのかすら、
俺にはもう分からなかった。
時間は、俺を置いて勝手に流れていくのだろう。
地上では、きっと何かが変わっている。
誰かが結婚し、誰かが死に、誰かが忘れ、
誰かがまだ俺を語っているかもしれない。
――知ったことか。
俺は焚き火の前で胡坐をかき、闇の奥をぼんやりと見つめる。
この先に何があるのか、まだ俺は知らない。
ただ、進む理由だけが、かろうじて俺を繋ぎ止めていた。




