感情複合バッドステータス10
先行していたありすが立ち止まる。
キッチンの敷居を跨がずに反転し、僕へ手招きをして距離を詰めるように促した。
幼馴染の意図の読めない行動にいささか困惑しつつも、思惑が隠蔽された瞳に引き寄せられる。
漸近それから停滞。
口を開く暇も与えずに、ありすは僕の背中へと回り込んだ。
薄っぺらなワイシャツを通してありすの体温が伝播する。
手のひらを媒介にして僕達は密着し、そして背中に張りついたそれは擬似的な脊髄へとその役割を与えられ、僕を前進させようと信号を送信する。
入り口へ辿りついて、信号は命令を変換した。
――というか、痛いんですけど……。
痛みに苛まれて思わず後ろを振り返ろうとしたけれど、皮膚に上書きされる鋭利な痛みが指示系統の喪失を再認識させ、目の前の情景を僕は空虚に視認を開始する。まるで地獄の監察官に繰られる死体みたいなアンニュイな気分で。
僕の視線の先。フローリングの上で脚線美を具現化したおみ足を、太ももから脚の裏まで惜しげもなく晒したご婦人が一人。何を隠そう――いや、一部分が明らかに隠れていないけれど、まあ良いか――なにをいわんやあにはからんや、恩田揃音(26)こと僕の姉である。ちなみに、括弧に区切られた数字は心のモザイクを掛けて戴くようお願いしたい。
思春期を未だ迎えていないお隣のいーくんもお二階のみーくんも、堪らず前傾姿勢になること請け合いの、そんなふしだらな情熱を開眼させそうな姿で四肢を蠢かせている様は、本人に自覚があるか否かは別としても、幾ら実弟の僕といえどその情景に扇情の念を覚えざるをえないわけで――
僕の気配を察知した揃姉がおもむろに振り返り、
「ん――もう少しで終わる」
囁き、
上目遣いを停滞させ、
体温を僅かに上昇させる。
非日常が日常を凌駕している事実に、思わず視線がフローリングを彷徨うのだった。
「僕の姉貴がこんなに可愛いわけがないっ」
「何を言っているんだ馬鹿者」
柔和な表情が一転して、揃姉はいつもの凛々しいそれへと回帰する。
「いや、揃姉……、観察力、観察力」
メンタルな痛みに苛まれながら、背中に同化している幼馴染に視線を注ぐ。すわ妄言を吐き出したのはこの阿呆であり、間違っても僕ではないのだ。その妄言に概ね同意してしまった事実は、黒歴史として既に心の最奥に仕舞っているけどね。わはは。
まるでゾンビに齧られたみたいに頭の一部分だけしか視認できない。本人は上手く隠れているつもりだろうけれど、僕の肩甲骨から芽吹いている触手が隠遁の滑稽さを証明している。知性なき神性に使役される旧支配者に同調したい気分だ、まったく。
しかし、嘲笑はせずに視線を再び揃姉へ向ける。
胡乱に僕を眇め見ていた揃姉の瞳が、親愛の色彩を反射した。「おおっ、来たか」
「久方ぶりだね、揃姉。というか声で気づけよ」