忘れ得ぬ貴方に・2
096
ミオのパン屋の裏庭に行くと、確かに旅装の少女が一人いた。
年齢はメッティと同じぐらい……いや、もう少し幼い気がする。裏庭の小さな小麦粉倉庫で、売れ残りらしいパンをもむもむ食べていた。
身なりは薄汚れているが、顔立ちは賢そうだ。表情が引き締まっている。俺の世界で言う地中海系人種に似ていた。つまりパラーニャ人とも似ているので、これなら黙っていれば余所者だとはわからないだろう。
着ている服はゆったりとした中世風で、近世レベルのパラーニャでは少し古めかしい。
武器の類は見あたらないが、道中で狐狩りを成功させているようなので油断はできない。獣を狩る程度の力が何かあるはずだ。
しかし今のところ、彼女からは金属や火薬は検知されていない。武器っぽいものは皆無だ。
ざっと見た感じでは、「古風な服装のパラーニャ人少女」という印象だった。
俺が行くと、少女は俺の姿を見てかなり警戒したようだった。パンを懐にしまい込み、軽く腰を浮かせている。
俺は首を横に振り、掌を示して武器を握っていないことをアピールした。パラーニャ語は通じないらしいので、日本語で丁寧に話しかける。
「俺はさっきの空飛ぶ軍艦の艦長だ。実を言うと、異世界から来た迷子だ」
どうかな? 少しは警戒心が薄れたかな?
少女はじっと考える様子を見せ、首を横に振る。そしてこう言った。
「ヤータム、サンキエット。バルアンカニェーニ」
「やっぱり日本語も無理か?」
「ソルテ。アンカニェーニ」
ダメか。言葉が通じない。
ただ幸いなことに、逃げ出すのはやめてくれたようだ。
一緒についてきたメッティとポッペンが進み出る。
「ほな、今度はライデル語とベッケン語で話してみよか。あかんやろけど」
「どちらもダメなら、私が南方の国の言葉で話してみよう。無駄だろうが」
語学に達者な仲間がいて助かる。でも最初から諦めないで。
俺はミオを振り返り、彼の肩に手を置く。
「友人のシュウガさんを探しているうちに、名前の似ている彼女の足取りを追うことになってしまってな。俺のもくろみは外れたが、ミオが保護してくれていたのは幸運だった」
「うん。ボクも艦長みたいな男になりたいからさ!」
ミオがそう言って胸を張るので、俺は笑いかけて彼に尋ねた。
「それで、どこでどうやって知り合ったんだ?」
* * *
ミオの家のパン屋は、港の船乗りたちにもパンを届けている。
航海の間は買い置きのパンが頼りだ。パンが傷んでしまったら保存食のビスケットしかない。もっともこいつが曲者で、レンガみたいに硬くて不味い上にウジだらけらしい。
だから日持ちして味の良いパンがあればすぐに評判になる。ミオの家のパンも、そんな船乗りたちの御用達なのだという。
配達の帰りにミオは、港の倉庫街の片隅にうずくまっている少女を見つけた。
ミオはちょっと怖かったが、海賊騎士のように勇敢さと高潔さを胸に抱いて歩み寄る。海賊騎士なら、困っている女性を見捨てたりはしないからだ。
「大丈夫? そんなとこにいると危ないよ?」
少女は体調が悪いようで、額に汗を浮かべている。しかも小刻みに震えていた。
ますます見捨てておけないと思い、ミオは歩み寄る。
「ここは夜になると、柄の悪い連中がうろついてるんだ。海賊みたいなヤツらも来る。女の子が一人でいたら、何をされるかわからないよ」
だが少女はまともに返事もできない様子だ。それどころか、ミオの言葉も理解できていないようだった。
ミオは少し考えて、背負っていたリュックから少し焦げたパンを取り出す。
「食べる?」
無言で怯えている少女に、ミオは優しく言った。
「これはボクのお昼ご飯にしようと思って自分で焼いたパンだから、心配しなくていいよ。ボクの家はパン屋なんだ」
言葉は通じていない様子だったが、少女は警戒しながらもパンをそっと受け取った。
もぐもぐとパンを食べる少女を見て、ミオは笑う。
「ボクはミオ。何があったかわからないけど、ボクの家においでよ。少しの間なら泊めてあげられると思うから」
これがミオとジュナの出会いだった。
* * *
俺はミオの説明を聞き、心の底から感心する。
「お前は本当に凄いヤツになったな、ミオ」
「そう? そうかな? くふふ」
照れくさそうに笑うミオだが、見た目は子供でも男の中の男だと思う。
この街の誰も、ジュナを助けようとはしなかったからだ。ミオだけが手を差し伸べた。
ただ、言葉も通じない人間を助けるのは、この国ではかなり危険な行為だ。
助けた相手が犯罪者のようなアウトサイダーだったら、自分の身が危うくなる。現代日本でも、ちょっと勇気が必要だろう。
やや無謀なところは心配でもあるので、一応釘を刺しておくか。
「ミオ、次はその勇気に見合った力を持つように心がけるといい。溺れている者を助けようとして自分が溺れてしまったら、お前を愛する皆が悲しむ。人を助けるときには相応の力量が必要だ。わかるか?」
「う、うん……。わかった」
本当にわかったのかな? 少し心配だ。
それはそれとして、ミオにはもう少し聞いておきたい。
「言葉が通じないのに、この何日かは一緒に過ごせたのか?」
「うん。身振りで何となくわかるから。この人、最初のうちはお腹を壊してたんだ。変な店で買った腐った食べ物を食べたみたいだよ」
「ああ……なるほどな」
パラーニャでは、余所者相手の商売は基本的にひどい。腐ってるものを売りつけるぐらいは日常茶飯事だ。現代日本と違って保健所の指導も食品衛生法もないから、悪徳業者はやりたい放題だった。
俺もエンヴィラン島では島民扱いされているので安心だが、知らない土地での飲食には常に用心している。
さらにジュナの財布が空っぽだったことから、だいたいの事情はつかめた。
「たぶんジュナは船に乗ろうとしたんだが、『海の魔物』のせいで乗れなかったんだろう」
シューティングスターが「海の魔物」を退治したという情報がまだ十分に広まっていないので、遠方に向かう船の多くは出航を見合わせているという。
そもそもジュナの場合、目的地に向かう船がどれかわからないはずだ。言葉が通じない。
そうこうするうちに路銀が尽き、ようやく買えた安物の食料は腐っていてお腹を壊してしまった。
路銀だけでなく物資も体力も失い、後は悪党の餌食になるだけだったが、ミオの勇気と正義感に救われた。
そんなところだろう。
俺は七海に連絡する。
「七海。応急医療キットをひとつ持ち出すぞ。タイプB、防疫型だ」
『具体的な装備名を指定してきましたね、艦長』
「セキュリティクリアランス四レベルだからな」
ちょっと検索すれば細かい備品まで全部わかるので、非常にありがたい。
警戒するジュナをなだめすかして簡易診断した結果、彼女の免疫は常に病原体と戦っている状態なのが確認された。
『艦長がこの世界に来た当初とほぼ同じ状態ですね。彼女の免疫系にとって未知の病原体が多数存在し、新たな抗体が次々に作られています』
「そんな免疫力に余裕がない状態で、変なもん食べたら倒れるな……」
むしろよく生きてたもんだ。俺なら死んでいたかもしれない。
「七海、彼女はたぶん異世界からの来訪者だ。言葉が通じないことと、免疫の状態がそれを示している。シューティングスターの医務室に収容しよう」
『了解しました。防疫プロトコルの実施を条件として賛成します』
「ミオ、お前も来てくれ。俺たちはまだ信用されていないからな」
「はい!」
こうして俺はシュガーさんの代わりに、異世界から来たっぽいジュナさんをお迎えすることになったのだった。
シュガーさん、やっぱりこの世界には来てないのかな……?
※書籍版の発売日です。第4章「最後の海賊」までを収録。
「ポッペンの帰省、あるいは氷海の大決戦」が巻末書下ろしでついてきます(ポッペンの故郷の話は連載に入れづらいので書籍版限定です)。初回限定特典は「琥珀色の追悼」です。