英雄伝「栄光の次席」
087英雄伝「栄光の次席」
大学の女子寮。サリカの部屋で、メッティとサリカが並んで数学の問題を解いている。
「ねえ、メッティさん」
「何ですか?」
サリカは微分の問題を解きながら、こう質問した。
「本当にこれが『森羅万象を読み解く言語』なの?」
「そうですよ」
メッティは鉛筆を置いてうなずく。
「自然現象は曖昧ですから、近似でしか表せません。でもその近似を極限まで精密にしていけば、科学で使うには十分なんです」
「わかるような、わからないような……」
この世界ではまだ、数学の重要性はそこまで認識されていない。一部の学問や技術に役立つことは知られているが、その程度だった。
サリカも現代の高度な科学は知らないので、具体的なイメージがつかみにくいようだ。
それでも彼女は素直にうなずく。
「あなたがそう言うのなら、間違いないのでしょう。数学は嫌いではないし、この微積分も会得してみせるわ」
そう言って、サリカは微笑む。
「だからメッティさん、あなたは一人ではないのよ」
「え?」
不思議そうにするメッティの手を、サリカはぎゅっと握った。彼女は真剣な瞳でメッティを見つめる。
「『天才は孤独』だと言うでしょ? あなたの学識に追いつける者はいないけど、少し離れた場所から追いかけている者はここにいるのよ。この栄えある次席、サリカ・ユイ・アソンがね」
「サリカさん……」
メッティは驚いたが、すぐにサリカの手を握り返す。
「ありがとう。シューティングスターでいろんなことを学んだけど、話す相手がいなかったのは本当です。未来の学問の話ができる友達ができて、とても嬉しい」
「ふふ。あ、でもあんまり難しい話は勘弁してね?」
シューティングスターがどうして飛んでいるのかと質問して、大変な目に遭ったことを思い出すサリカ。
「でも、いつかは追い越してみせるわ」
「追いつけないって今言ったばかりじゃ……」
「今は追いつけないけど、いつか追い越すの!」
目標は高くあるべきなのよと、サリカは鼻息荒く言ってのける。
「ところで、メッティさんの目標は何? どうせ立身出世なんて望んでないんでしょう?」
するとメッティは照れくさそうに頭を掻いた。
「私、空を飛べる機械を自力で作りたいんです」
「空なら毎日飛んでるでしょ」
メッティはパラーニャで唯一、空飛ぶ船で通学している学生だ。しかしメッティは首を横に振る。
「あれは乗せてもらっているだけですから。私は自分の力で、あの高みに達したいんです」
その言葉を聞いたサリカは、にっこり笑う。
「気高い志ね。とてもいいと思うわ。じゃあ最初にそれを作りましょう」
サリカが明るく言うので、メッティがクスッと笑う。
「サリカさんは何でも、簡単に言っちゃうんですね」
「いいでしょ? 私は無知だから怖いもの知らずなのよ」
「そういうところは素直に尊敬します。何を知っても恐れない心が、一番大事だと思いますから」
笑っていたメッティが、ふと思い出したように言う。
「でもこれ、数学がないと作れませんよ?」
「そうなの?」
「設計はもちろんですけど、飛ぶ原理を理解するのにも数学が必要だと七海さんが言ってました。数学抜きの工学はありえないって」
「大変そうね……」
サリカは眉間に皺を寄せたが、すぐに明るい表情になる。
「ま、何とかなるでしょ。私はアソン家の跡継ぎとして、どんな知識も貪欲に吸収してみせるわ。そうでなければ初代当主様に顔向けできないもの」
メッティが首を傾げる。
「そういうもの……?」
「ええ。そうだ、いいこと教えてあげるわ。これは我が家に伝わる秘密なんだけど、友情の証にね?」
サリカはメッティの耳に唇を近づける。
「実はアソン家の初代当主は、異世界から来たと伝えられているの。遠い遠い別の世界で、王に仕える貴族だったんですって」
メッティの驚く様子が見たくて、サリカはメッティの顔を覗き込む。
しかしメッティは意外と冷静だった。
「あ、そうなんですね」
「もうちょっと驚いて欲しかった……」
「いえあの、ハルダ家も初代当主が異世界から来てるんです」
「うぬぬ」
どうやったらこの子に勝てるのだろうと、肩を落とすサリカ。小さく溜息をつき、窓の外の白い雲を見上げる。
「異世界から来てる人って意外と多いのかしら……」
「さすがにそんなことはないと思いますけど、一人の先祖から子孫はどんどん増えますから」
「冷静ね……」
サリカは溜息をついたが、すぐに気を取り直す。
「私たちの手の届かないところに、まだ知らない世界がある。それだけでもワクワクするわ。科学が発展すれば、いつかそんな異世界に行けるかもしれない。そのときは……」
サリカはメッティを見て、貴族令嬢らしからぬ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「一緒に行きましょう、メッティ」
メッティは少し驚いた表情でサリカを見つめ返したが、すぐに笑う。
「うん。約束ですよ、サリカ」
ふふっと笑ったメッティの顔を、サリカが覗き込む。
「と・こ・ろ・で」
「はい?」
不思議そうなメッティに、サリカは問いかける。
「艦長さんのこと、メッティはどう思ってるのかしら?」
「えっ?」
「メッティと艦長さんは、いつもニホ語で会話してるでしょ。どんな会話なのかわからないから、どんな関係なのかなって」
メッティは困ったような顔になる。
「いえ、そう言われても困るんですけど……」
「心配しなくても、メッティの想い人を横取りなんかしませんよ。ほらほら、唯一無二の親友がこうして尋ねているのですから、ちゃんと答えて?」
「ゆ、唯一無二?」
メッティは難しい顔をして考えていたが、やがてキッパリと言う。
「私、艦長のことは嫌いですから」
「ほー」
「信じてませんね? だって艦長ったら、行く先々で女の人に好かれてるんですから。本人に自覚がないから、言っても全然聞いてくれませんし」
かなりの早口で答えて、ぷいっと横を向くメッティ。
サリカはにんまり笑う。
「そんな理由で嫌いになるのは、好きだからよ。意識していないのなら、誰に好かれようが気にならないはず。でしょ?」
「うっ!?」
「私、文学はあなたより得意ですの。人の心の動きには敏感なつもりよ。特に恋物語はね」
サリカは得意げに胸を張る。なお実際に恋をしたことはないので、あくまでも知識だけなのは秘密にしておく。
「こ、恋?」
メッティが悩んでしまったので、サリカは彼女の背中を撫でる。
「でもたぶん、あなたの感情は恋ではないわ。『自分だけの優しいお兄さんでいて欲しい』。今のところはまだ、そんな気持ちでしょう」
まあこれも知識だけなんですけどねと、心の中でつぶやくサリカ。恋愛ってどんな感じなのか、サリカにもまだよくわからない。
ついでなので、前から聞きたかったことを質問してみる。
「艦長さんと初めて会ったときの話、聞かせてくれない?」
「いえ、もうコイバナは……」
「そうじゃなくて」
サリカは苦笑する。
「艦長さんも異世界から来た人なんでしょう? 世界学のレポートに艦長さんのインタビューを載せようと思ったんだけど、せっかくだから先にメッティに聞こうかなって」
「ちゃっかりしてますね」
溜息をついたメッティだが、すぐに嬉しそうな表情になる。
「しょうがないですね。少し恥ずかしいから秘密にしていたんですけど、唯一無二の親友にだけ教えてあげます」
「そうこなくっちゃ」
「あれは一年ほど前なんですけど……」
メッティの長い長い物語が始まった。
※次章からは週2回更新(月・木)に戻します。次回更新は7月19日(木)です。




