英雄伝「忘れ得ぬ貴方に」
102 英雄伝「忘れ得ぬ貴方に」
「転移完了……でしょうか?」
周囲に広がる景色は、あのシューティングスターの艦内ではない。見知らぬ国、いや見知らぬ世界の深い森だ。
ここが『ナル一五七六』らしい。
転移時にだいぶ時間軸を移動したので、艦長さんたちのいた世界とはかなり時間軸がズレているはずだ。転移酔いで少しフラフラする。
艦長さんたちの世界とは、おそらくプラスマイナス百年ぐらいの差が生じているはずだ。
予想通り、ここはかなり魔力の濃い世界のようだ。息を吸うだけで魔力が体に満ちてくるのがわかる。
ここなら時間と道具さえあれば、使い魔を召喚できるだろう。使い魔の計算能力があれば、元の世界に転移することもできるはずだ。
ただ、気をつけないといけないこともある。
魔力密度が高い世界では、魔力を利用する生物が多数発生する。いわゆる「モンスター」というヤツで、通常の獣とは桁違いに危険な生物だ。
そして気をつけていても、襲われるときには襲われる。
「阻め!」
魔力を解放し、周囲に障壁を展開する。汚らしいワームみたいな生き物がベチャリと張り付き、ずるずる落ちる。
「うわっ、気持ち悪い!?」
魔法障壁で阻まれているのに、まだ諦めていないようだ。しかも私より大きい。
「くらえ!」
あまり触りたくなかったので、ワームの口に木の枝を突っ込んで魔力を解放する。ワームの体表がボコボコと膨らみ、内側から弾けた。
「ひょえええ!?」
障壁のおかげでドロドロの飛沫を浴びるのは避けられたが、とにかく気持ち悪い。戦うだけで心が削られる。
ここはまずい。早く安全な場所まで移動しないと。
そう思っていたら、茂みの中からぞわぞわと新手のワームが現れた。ざっと見た感じ、十匹以上いる。
「嘘でしょ……」
このペースで戦っていたら、魔力の供給が追いつかない。
危険だけど、転移魔法で飛ぶ方がいいかも……。
そのとき急に、ワームたちが次々にのたうち始めた。ドロドロの体液を噴き出し、あっという間に死んでいく。
「え、今度は何?」
薄暗い茂みに目を凝らそうとしたら、何の前触れもなく何者かが目の前に飛び降りてきた。風圧で前髪が揺れる。
でかい。しかも人間ではなかった。
直立したトカゲのような人型種族で、高価な板金の鎧をまとっている。知的種族の職業戦士のようだ。
丸太のようなごつい槍を持っていたが、トカゲ戦士が大きいのでむしろ頼りなく見える。槍の穂先は蟲の体液で濡れていた。
今回のは、さっきのワームとは比較にならない相手だ。戦っても勝てっこない。目で追うこともできないほど素早い身のこなしでは、逃げるのも間に合わないだろう。
観念した私は、交渉のために精神感応の魔法を発動させる。地味な割に長時間にわたってかなりの魔力を消費するが、贅沢は言っていられない。言葉が通じない苦労は嫌というほど味わった。
トカゲ戦士の第一声は、意外にも穏やかだった。
「人間の娘御よ。怪我はないか?」
警戒や敵意は全くなく、むしろ気遣うような声だった。
私は慌ててうなずく。
「は、はい。ありがとうございます」
トカゲ戦士は軽くうなずき、こう続ける。
「無事で何よりだが、ここは魔物の跳梁する大樹海。おぬしのように戦い慣れておらぬ者が歩ける場所ではない。ここまで生きてたどり着いたことといい、何か事情がありそうだな」
予想以上に洞察力が高い。見抜かれている。でも、そこまで見抜いた上で私を助けてくれたのだ。ここは素直に話し合いに応じた方がいい。
「ええと、そうです。つい先ほど、魔法でこの地に降り立ちました」
「なるほど。道理で蟲どもが急に騒ぎ出した訳だ」
納得してくれたのか、トカゲ戦士は小さくうなずく。
「しかし娘御よ。ここには人間は住んでおらぬ。おぬしたちにとっては不毛の地だ。周囲は魔物だらけの上に、我ら竜人族にしても人間とは敵対しておる」
「でもそれなら、どうして私を攻撃しなかったのですか?」
「……少々、理由があってな。変わり者の気まぐれだと思ってくれ」
今少し、言いよどんだ。何かを隠しているように思える。
でも落ち着いた語りかけのひとつひとつに、知性と慈悲が感じられる。信用できる人物とみていいだろう。
トカゲ戦士は槍の穂先で、東の方角を指した。
「人間たちの街なら、まっすぐ東南東に歩くがいい。魔族や魔物の生息地を避けつつ、最短で平原に出られよう。方角が合っていれば日没までには三日月状の沼にたどり着くはずだが、あまり近寄らぬことだ」
何がいるんだろう……? 好奇心を掻き立てられたが、近寄らないことにする。
「道中の安全を優先するなら、先ほどの蟲の肉や体液を持ち歩くがよい。あの蟲は大変に不味く有毒だ。体液の臭いを嗅いだだけで、この森の捕食者たちは食欲を失う。素手で触らぬようにな」
「わかりました」
あのドロドロを持ち歩くのはちょっと気が引けたが、襲われないためなら我慢しよう。
それにしても親切な人だ。
「あの、何から何までありがとうございます。この御恩は忘れません」
「気にするな。おぬしが穏和な人柄ゆえ、こちらも穏和に接しているだけのこと。他者は己の鏡だ」
そう言うと、トカゲの戦士は軽く会釈した。
「ではさらばだ、娘御よ。おぬしの行く道に幸多からんことを」
「ありがとうございます。ところで……」
私が東の空を見て視線を戻したとき、大柄なトカゲの戦士の姿はもうどこにも見えなかった。遠くの茂みが揺れている。たった一瞬で、あそこまで跳躍したらしい。
魔力の密度が高い世界では私は魔法を使えるようになるが、同時に魔物や桁外れの猛者も多数現れる。気を引き締めていこう。
私はそこらじゅうに転がるワームの死骸に近づき、まだピクピク動いている死骸の傷口からナイフで肉を切り取る。もう死んでいるはずなのに、反射でのたうつのが気持ち悪い。
「うえ……」
どうにかこうにか、肉を切り取ってハンカチで包む。ぬっちょりとした汁が染み出してきて、よくわからない酸っぱい悪臭も漂っている。鼻腔をえぐるような強烈な臭いだが、腐敗臭とも違う。これなら屍肉食の生物はおろか、人間も近づいてこないだろう。
かなり不快ではあったが、襲われるよりはマシなので我慢する。
それにしても、親切な人……いや、竜人だった。名乗る機会を逃してしまったのは残念だ。彼の名前を聞いておきたかった。
そういえば艦長さんの名前も、結局聞いていない。人付き合いが下手なせいか、いつも機を逃してしまう。
たぶん艦長さんとはもう二度と会えないけれども、あの世界で受けた親切は忘れられない。本当に嬉しかった。人助けになると夢中になってしまう素敵な艦長さんのことは、きっと一生忘れないだろう。
そしてこの世界にも、さっきのように心優しい人がいた。
たぶんどんな世界にも心優しい人たちはそれなりにいて、みんな一生懸命生きている。
そのことを忘れないようにしようと思った。
* * *
樹海の茂みを風のように駆け抜けながら、竜人の若き戦士はぼんやりと考えごとをしていた。
(これほどの奥地にも、ついに人間が訪れるようになったか)
人間はありとあらゆる場所に生息域を広げ、縄張りを作る。彼にはそれがよくわかっていた。
危機感を覚える一方で、彼は違うことも考える。
(このような世界でも、高度な教育を受けた者はやはり穏健な傾向がある。交渉の余地もあるやもしれぬな)
走り抜けていると目の前に巨大な蜘蛛が襲ってきたので、無造作に薙ぎ払う。
すりぬけざまに勝負を決め、走る速度を全く落とさずにまた考える。
(そういえば、この樹海のどこかに人間の魔術師がいると聞いたことがあるな。人間ということで警戒していたが、一度会ってみるのも手か)
だがそれよりも今は、氏族の者たちが冬を越すために必要な毛皮を集めなくてはならない。子供たちには暖かい寝床が必要だ。
そのときまたしても茂みが動き、今度は巨大なカマキリが襲ってきた。
「獣を狩っておるのに、さっきから蟲ばかりではないか」
溜息をつきながら、戦士は槍でカマキリを突き伏せた。




