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第40話 癌を魔法で治したら医者が一番信じられない顔をしたらしい

 平日の夜。

 啓介のスマートフォンに、藤堂からの短いメッセージが届いた。


『久世さんから連絡があった』

『医療側で、一人、候補が決まった』

『まず話だけ聞いてもらえるそうだ』


 啓介は、画面を見つめたまま息を吐いた。

「……来たか」


 啓介は、そのメッセージのスクリーンショットは撮らず、内容だけを三崎と相馬のグループLINEへ共有した。

 すぐに三崎から返信が来る。

『専門は?』


 啓介が藤堂に聞き、グループへ転送する。

『消化器内科。腫瘍と内視鏡の専門。臨床研究もやってるそうだ』

 今度は相馬が食いついた。

『肩書きは? どこまで権限持ってる人?』

 藤堂から、啓介を経由せずに直接グループへツッコミが入る。

『お前は本当に、真っ先にそこから聞くな』

 相馬が返す。

『経営側からすれば、責任範囲と決定権を見るのに絶対必要だろ』


 二人の軽いやり取りを眺めながら、啓介は空中に《創世札典》のバインダーを呼び出した。


 開いたページには、以前シミュレーションした『仮設計』のデータが残っている。

 《悪性腫瘍の切除(仮称)》。生命3、知識2、境界1。

 局所的な癌を想定し、マナのコストを6まで下げることに成功した設計。


 だが、啓介はそれをまだ『正式なカード設計』として確定させてはいなかった。

「……話をするだけなら、まだ確定しない」

 バインダーを閉じる。

 専門医と相談する前に、自分の勝手な判断で「癌のカード」の仕様を正式確定するような真似はしない。

 以前の仮設計はあくまで、「こんな条件に絞れば、俺の今のマナ基盤でも届きそう」というシステム上の技術検討に過ぎない。

 癌の医学的な定義や、対象とする範囲は、これから会う専門家を入れて詰めるべき問題だった。


 数日後。

 指定された場所は、国立系の高度医療機関に所属する、小さな会議室だった。

 秘密の地下研究施設などではない。長机、モニター、ホワイトボード、電子カルテ用の端末、そして紙コップの水が置かれた、ごく普通の殺風景な部屋だ。

 ただし、一般の患者とは完全に動線を分けられており、外部の目に触れるリスクは排除されている。


 参加者は、啓介、三崎、相馬、藤堂。

 そして、今日初めて会う医師、桐生慎一きりゅう・しんいち


 久世の姿はなかった。

 啓介が少し意外そうにしていると、藤堂が言った。

「久世さんが今日ここにいる必要、ないだろ」

「……確かに」

 必要な情報を、必要な人間だけに共有する。前回からの政府側の基本方針が貫かれている。


 桐生慎一は、47歳。

 白衣を着た、極めて落ち着いた雰囲気の医師だった。

 日本最高の万能な名医というオーラをひけらかすようなことはない。愛想が悪いわけでもないが、手元の資料を見る目は、非常に厳しく冷徹だった。

 彼の専門は消化管腫瘍。特に早期胃癌の内視鏡診断と、新規治療の安全性評価や臨床研究に明るい。

「未知の治療を、いきなり夢の奇跡扱いして飛びつかない人間」。それが、久世が彼を選んだ最大の理由だった。


 簡単な自己紹介を済ませた直後。

 桐生は、机の上で両手を組み、真っ直ぐに啓介たちを見て言った。


「先に、一つだけ正直に申し上げておきます」

 啓介は背筋を伸ばした。「はい」

「私は、まだ皆さんの話を信じていません」


 部屋が、一瞬だけ静かになった。

 相馬が桐生をじっと見る。三崎は、むしろ「当然だ」と納得したような顔をしていた。


 桐生は言葉を続けた。

「正確に言うと、『皆さんが嘘をついていると思っている』という意味ではありません」

「藤堂さんや久世さんが、何の根拠もなく、こんな話を私のところへ持ってくるような方々だとも思っていません。……ただ」


 桐生は、机の上に置かれた、相馬征一の治療記録のファイルに視線を落とした。

「これが現実に本当に起きたことだと、私が『医学的』に受け入れるためには……私自身が確認していないことが、あまりにも多すぎます」


 啓介は、はっきりと答えた。

「それでいいです」

 桐生が、少しだけ視線を上げた。

「最初から『魔法を信じてもらうため』に、ここへ来たわけじゃないので」


 桐生の目の奥で、啓介たちへの印象が少しだけ変わったのが分かった。


 桐生は、ファイルを開いた。

 相馬征一の右薬指の屈筋腱損傷、その後遺症の治療記録。

(事前に征一本人から、「政府側から紹介された医師へ、治療データを開示してよい」という新たな同意はきっちりと取ってある。相馬が父親だからと勝手に許可したわけではない)。


 桐生は、データを読み込む。

 治療前。右薬指の可動域。指尖手掌間距離(指先と手のひらの隙間)、約18mm。

 治療直後。隙間ゼロ。

 そして、一週間後の追跡データ。写真、動画。


「……手術は?」

「十五年前です。その後遺症が固定していました」三崎が答える。

「追加の手術は?」

「なし」

「リハビリテーションは?」

「今回の介入直前には行っていません」


 桐生は、治療前後の手元の動画をもう一度モニターで見た。

「……映像だけなら、いくらでも編集できます」

 相馬が頷く。「そうですね」

「測定結果の数値も、カルテも、捏造することは可能です」

 三崎が答える。「できます」

「患者本人と皆さんが共謀して、十五年来の演技をしているという可能性も、論理上は排除できません」

 啓介が答える。「ありますね」


 桐生が、一瞬だけ黙った。

 誰も怒らない。「俺たちを詐欺師呼ばわりする気か!」と席を立つ人間は一人もいない。


「……その反応をされると、逆にやりにくいですね」桐生が少しだけ苦笑した。

 三崎が言う。

「未知の治療法をこれから検証しようという時に、それくらい疑ってかかってもらった方が、こちらとしてはよっぽど助かります」


 桐生には、癌治療の検証に必要のない情報までは共有されていなかった。

 藤堂と久世から伝えられていたのは、現行医学では説明できない人体への介入現象が存在すること。古傷に対する限定的な使用実績があること。そして今回、その現象を癌治療へ応用できる可能性について医学的に検討したい、という範囲だけだ。


 久世が前回言った通り、必要のない情報まで相手の頭へ入れない。

 桐生も、それ以上を要求しなかった。


「まずは、癌治療の話だけ確認させてください」

「分かりました」


 藤堂が横で小さく頷いた。

 必要な専門家を増やしても、共有する秘密まで自動的に増やすわけではなかった。


 啓介は、本題に入った。

「その癌治療のカードですが、まだ正式な設計としては確定していません」

 啓介はバインダーを空中に顕現させた。物理的な形は見せられるが、カードの詳細なUIは桐生には見えない。啓介が、以前の仮案の内容を正確に読み上げた。


「医学的に診断された悪性腫瘍を対象とする。指定された腫瘍のみ。悪性細胞の完全な除去。その腫瘍が直接損傷した組織の修復。現在年齢相当の健康状態まで。……他疾患や、加齢による自然な変化は対象外。初期の局所癌を想定しています」


 桐生は、今日初めて、露骨に顔色を変えた。

「……『悪性細胞を、完全に除去する』?」

「はい。そういう効果に限定すると、このコスト(マナ)になりました」

「コスト?」


 啓介がマナのシステムを説明する。

 生命3、知識2、境界1。合計6。

「現在の俺の一日の供給量の、ほぼ全部を使えば届く計算です」


 桐生が、医師として最初の本質的な問題を出した。

「では。その治すべき『癌』を、誰が決めるんですか?」

 ここが重要だった。


 啓介は即答した。

「俺ではないと思っています」

 桐生が、少しだけ安心したように息を吐いた。

 三崎が補足する。

「診断を下すのは、当然、医学の側です。門倉が肉眼で見て『この辺が癌っぽいから消す』などという、危うい運用には絶対にしません」


「……それなら、最低限、話を進められますね」


 桐生が立ち上がり、ホワイトボードにペンを走らせた。

「何を最初の対象にするか。……最初の癌治療の検証で『絶対に避けるべき条件』を挙げます」


 原発不明癌。

 すでに転移があるもの。

 多発病変。

 白血病などの血液癌。

 浸潤範囲が不明確なもの。

 生検なしで、画像だけで癌と推定しているもの。

 今日治療しなければ生命が危険な状態にある患者。

 そして、『標準治療の代替手段がない患者』。


 啓介が聞いた。

「重い患者ほど、駄目なんですか?」

「最初だからです」

 桐生は、はっきりと言った。

「……『もう、これしか助かる方法がありません』という切羽詰まった患者さんを、不確定な最初の実験対象モルモットにはしたくありません」


 三崎が深く頷いた。

「同意します」


 桐生が、具体的な第一癌症例の条件を提案した。

「生検で病理診断が確定した、単発の『早期胃癌』」


 条件。

 病理検査で腺癌と確定していること。病変の位置が、内視鏡で明確に特定・視認できること。単発であること。CT等で転移所見を認めないこと。

 そして。

「標準治療として、『内視鏡的切除(ESD)』を予定・待機できる状態の患者」

「もし皆さんの魔法が効かなかった場合でも、すぐに予定通り、確実な標準治療へと戻れる患者さんを選びます。……失敗しても、元の医学のルートへ安全に戻れることが大前提です」


 啓介は、その徹底した安全網フェイルセーフの構築に感服した。

「……それなら、俺も大賛成です」

「俺も」と相馬。

「異論ありません」と三崎。

 藤堂は、医療判断には一切口を挟まず、黙って聞いていた。


 数日後。

 桐生の所属する医療機関で、条件に合致する候補患者が一人見つかった。


 森川邦夫もりかわ・くにお。62歳。

 会社員を定年後、再雇用で勤務中の一般男性だ。

 健康診断の内視鏡検査で異常を指摘され、精査の結果、生検で単発の早期胃癌と診断された。標準治療であれば、内視鏡的切除による治癒が十分に期待できる状態。転移の所見もない。


 もちろん、政府が「極秘の癌患者を拉致して秘密裏に連れてきた」わけではない。

 桐生が、自らの医療機関内で条件を満たす患者の中から、「秘密保持を含む、極めて特殊な検証治療について説明を受ける意思があるか」を段階的に打診し、森川本人が「話を聞く」と同意して選ばれたのだ。


 啓介たちが同席する前に、桐生と別の医療スタッフから、通常の標準治療についての説明が丁寧に行われていた。

 その後、啓介と三崎が同席し、特殊な説明が行われた。


 森川は、啓介を見て少し戸惑ったように言った。

「……魔法、なんですか?」

「少なくとも、俺はそう呼んでいます」啓介が答える。

「医学的には、全く説明できません」と桐生も正直に言う。


 説明の内容は、一切の誇張を排したものだった。

 癌治療への使用は、少なくとも啓介たちにとって今回が初めてであること。古傷への人体使用実績はあるが、癌での実績はゼロ。効果の保証は一切なし。長期的な安全性も不明。

 想定外の異常な反応が起きた場合、それを魔法で元の状態へ戻せる保証はないこと。

 参加しなくても何の不利益もなく、拒否した場合は予定通り標準治療が行われること。魔法が効かなかった場合も標準治療に戻ること。魔法が効いたように見えても、長期の経過観察と定期検査は必ず続けること。

 さらに、この検証には厚生労働行政側の相談窓口が関与していること。ただし、国がこの治療の安全性や有効性を承認・保証しているわけではないこと。結果は森川が同意した範囲で医療側と行政側へ共有され、その目的と共有先も事前に説明されること。

 そして、この治療についての秘密保持の依頼。


 森川が聞いた。

「……成功率は?」

 桐生は首を振った。「分かりません」

「……何パーセントくらい、という目安の数字も?」

「一例目なので、数字にする根拠そのものが存在しません」

 ここで「九割です」などと嘘をつかないのが、桐生への信頼だった。


 森川が、術者である啓介を見た。

「門倉さんは……成功すると思ってるんですか?」

 啓介は、少し考えた。

「俺が持っている能力の表示(仕様)通りに動くなら、できると思っています」

 そして、こう付け加えた。

「でも。俺はそれを、医学的に完璧に証明したことは、まだ一度もありません」


 森川は、少し黙って考えていた。

 病気への恐怖や、奇跡への熱狂で英雄的な決断を下すわけではない。ごく普通の市民としての判断だった。


「……駄目だったら、予定通りの治療(内視鏡)に戻れるんですよね?」

「はい」と桐生。

「この怪しい治療を途中で断ったからって、俺の本来の治療が後回しにされたり、怒られたりしませんか?」

「絶対にしません」


 森川は、小さく息を吐いて言った。

「……じゃあ、やってみます」

 それくらいだった。大袈裟な涙も、土下座もなかった。


 直前。

 小会議室で、啓介はついに『正式なカード設計』を行った。

 医学側から提供された、森川の正確な診断情報と病変位置のデータをインプットする。


「効果の対象になる医学的条件を、最終的に詰めます」

 啓介の提示した条件を、桐生と三崎がダブルチェックする。


 正式名称を決める。

 《古傷の修復》の流れで、一瞬だけ《局所悪性腫瘍の修復》という名前が頭をよぎった。だが、すぐに却下した。腫瘍そのものを『修復』してどうする。

 一番誤解のない名前にする。


 《局所悪性腫瘍の除去》

 生命3+知識2+境界1。

【単一病変】【病理診断指定】【位置指定】【転移対象外】【非若返り】


 効果:

 医学的診断によって悪性と確定され、位置および対象範囲が明示された単一の原発悪性腫瘍について、その腫瘍を構成する悪性細胞を対象者から除去する。

 当該腫瘍によって直接損傷・置換された局所組織について、対象者の現在年齢相当の健康な状態へ可能な範囲で修復する。

 未指定病変、転移巣、他疾患、加齢性変化は対象外。


【転移対象外】の条件にするのは、安全な仕様にするためだ。

「もし未発見の微小な転移が一個でも隠れていたら、カード全体が不発になってしまう」のではなく、「今回指定した原発病変だけを確実に処理し、未発見の転移までは勝手に魔法で追跡して治さない」という明確な境界線を引くためだ。


 そして、運用上の絶対ルール。

【対象同意】のタグは、カードには付けない。

 《古傷の修復》と同じく、魔法のシステムに人間の倫理を肩代わりさせる形にはしない。同意を取るのは、あくまで人間側の責任だ。

 森川の署名済みの同意書は、すでに桐生と三崎が確認している。そこには、未知の介入であること、癌への使用実績がないこと、長期安全性が不明であること、参加も撤回も自由で標準治療上の不利益を受けないこと、異常時には通常の医療対応を受けること、長期追跡への協力、医療側と行政側へ共有される記録の範囲、秘密保持の依頼まで明記されていた。

 もちろん、『何が起きても責任を問いません』という免責文書ではない。最終的な法的責任の整理はまだ未確定であることも含め、分からない部分を分からないまま説明した上での同意だった。


 システムがコストを再計算する。

『必要マナ:生命3・知識2・境界1』

 合計6。変わらない。


「……通った」

 啓介が呟く。

「今ので、カードが?」桐生が聞く。

「正式なカード設計として、システムに確定されました」


 啓介は、今日の7マナの配分を慎重に構築した。

 ・生命3(《生命樹の苗床》1+《名もなき雑木地》を生命として1+《五彩の魔石》の任意から生命へ1)。

 ・知識2(《思索の計数盤》1+《借宿》の任意から知識へ1)。

 ・境界1(《アカネの守り巣》1)。


 残るマナは、《小さな工房箱》が産み出す『物資1』だけだ。


「今日はこれを使ったら、残りのマナは物資が一つだけです」

 桐生が静かに聞いた。

「もう一人は?」

「絶対に無理です」

「同じ種類の癌でも?」

「無理です。マナが足りません」


 桐生が黙り込んだ。

 ここで初めて。

 医療側が、『どんな奇跡を起こせても、一日の供給量がたった一人分という絶対的な制約』の重さを、肌で実感したのだ。


 相馬が横から言った。

「だから俺が最初に聞いたんですよ。一日に何人治せるのかって」

 三崎が頷く。「その答えが、今のところほぼ『一人』だ」


 治療前、最終確認。

 処置室にて。

 本人確認、病理診断、内視鏡画像、病変位置、生検結果、CTで明らかな転移なし、バイタル、血液検査、症状、同意書。すべて確認。


 桐生がモニター上の病変画像を示す。

「この病変です。……診断責任はこちらが持ちます」

「はい」啓介が答える。「カードには、その診断情報を指定条件として渡します」

 三崎も、啓介側の医学的な助言者として内容を確認した。

 診断と処置の責任は桐生たち医療機関側、魔法の対象指定と発動は啓介。役割は明確に切り分けた。


 治療が始まる。

 森川は処置室のベッドに横になっている。

 室内には、啓介、桐生、同じ医療機関の担当医、必要最小限の看護師、そして三崎。

 三崎は外部の医師として必要な手続きを済ませた上で、啓介側の医学的助言者兼観察者として立ち会っている。ただし、内視鏡操作や診療判断を担当するのは桐生たち院内の医療チームだ。

 行政官である藤堂は、医療処置への立ち会いは不要として別室で待機している。相馬も経営・事業側の人間として、医療行為の現場には入らず外で待機した。


 啓介が、《創世札典》のバインダーを開く。

 桐生は、啓介の手元の物理的なバインダーをじっと見ていたが、彼にはUIの光は見えない。


 啓介が宣言する。

「対象、森川邦夫さん」

 診断情報。病変部位。単一病変の指定。


「森川さん。やります」

「お願いします」


「《局所悪性腫瘍の除去》、使用」


 生命の濃い緑。知識の青白。境界の輪郭を区切るような淡い光。

 三色の光が、森川の腹部へと集まる。

 派手な肉体の変形はない。痛みも、熱さも、ほとんどない。


 数秒。

 光がスッと消えた。


 森川が、不思議そうに瞬きをした。「……?」

 啓介が息を吐く。

「終わりました」


 桐生が時計を見る。「……もう?」

「俺の魔法の処理(仕事)としては、以上です」

 三崎が言った。「ここからが、医者の仕事です」


 桐生は一切喜ばなかった。

「確認します」

 即座に、医学側の顔に戻る。この切り替えの早さが、プロだった。


 内視鏡による再確認が始まった。

 スコープが、事前に記録された胃の病変位置へと進んでいく。

 モニターに映し出される胃の内部。


 桐生が、画面を見て。

 ピタリと、動きを止めた。


 処置室の誰も喋らない。

 さっきまで、明確に存在していたはずの病変(腫瘍の隆起や色調の変化)が。

 ……ない。


 桐生がスコープを少しだけ戻し、もう一度位置を慎重に確認する。

 胃の形、ひだの流れ、周囲の血管などのランドマーク。

 事前の画像を横のモニターへ並べて出す。


 桐生が、隣の院内担当医へ確認する。

「……位置、ここですよね」

「はい。事前画像と一致しています」

 三崎も、横に並べた記録画像を見て小さく頷いた。


 桐生は、もう一回画面を凝視した。

「……病変が、ない」


 それでも、桐生は「治った」とは言わなかった。

「肉眼上は?」と三崎が聞く。

「少なくとも、内視鏡の画像上は、消えています」


 さらに、桐生は異常な事態に気づいた。

 病変が、レーザーで単純に焼け落ちたような跡はない。

 潰瘍化していない。出血していない。焼灼痕も、切除痕もない。

 周囲は、年齢相当の普通の胃粘膜に近い、滑らかな状態に戻っていた。


 ただし、以前の診断時に行った「生検の痕(組織を一部採取した小さな傷)」など、癌そのもの以外の人工的な痕跡は、都合よく全部は消えていなかった。

 それは、単に別の健康な場所を見ているのではなく、事前と同じ部位を観察していることを強く裏づける材料になった。


 桐生が言う。「待ってください」

 事前画像と比較する。

「生検した位置の目印の傷は残ってる。……なのに、その間にあった病変の本体だけが……」

 桐生の言葉が止まる。


 啓介は、内心で「よっしゃ!」と喜びそうになった。

 でも、三崎の方を見ると、三崎は小さく首を横に振っていた。

「まだだ」


 生検。

 桐生は、元々病変があった部分から、複数箇所にわたって組織を採取した。

「画像で消えて見えていても、それで終わりではありません」

 啓介は頷いた。「はい。分かってます」


 当日の結論。

 言えること:内視鏡上、指定病変の消失を確認。出血等の明らかな急性異常なし。患者状態安定。

 言えないこと:悪性細胞が完全に一個残らず消えた。癌が治癒した。再発しない。長期安全である。他癌にも効く。


 森川が、少しだけ苦笑して聞いた。

「じゃあ、先生。まだ『治った』とは言えないんですか?」

「まだです」桐生が答える。

「医者って厳しいですね」

 三崎が横から言った。「その人だけじゃないです。我々全員が厳しいんです」


 数日後。


 啓介、三崎、相馬が、再び会議室に集まっていた。藤堂もいる。

 桐生が、病理検査の結果の紙を持って入ってきた。


 いつもの落ち着いた顔。だが、明らかに少しだけ表情が硬かった。

 着席し、紙をテーブルに置く。


「元病変部から、複数検体を採取しました」

「はい」

「今回採取した範囲では……」

 一拍。

「悪性細胞は、検出されませんでした」


 沈黙。


 相馬が、耐えきれずに口を開いた。

「……マジか」

 三崎がたしなめる。「言い方」

「いや、医者じゃない俺はこれでいいだろ。マジかよ!」


 桐生は、まだ彼らを止めた。

「ただし」

 全員が姿勢を正す。「はい」

 桐生が少し嫌そうな顔をした。「……皆さん、本当にこういう説明に慣れていますね」


 採取していない部位(さらに深部など)まで絶対ゼロとは言えない。

 長期再発率不明。数ヶ月・数年の追跡が必要。腫瘍マーカーの変動確認。定期内視鏡検査。今後の経過確認。

 山のような注意事項。


 啓介が確認する。

「それでも。今回採った場所からは?」

「検出されていません」

「画像上も?」

「病変は認めません」


「……説明がつかない」

 桐生が、静かに呟いた。

 治療前の病理報告。治療前の内視鏡画像。治療後。病理報告。

 順番に見つめ、そして啓介の方を見た。


「門倉さん」

「はい」

「最初に私は、信じられないと言いました」

「言いましたね」


 桐生は、少しだけ間を空けて言った。

「……本物ですね」

「癌がですか?」

「それもです。そして」

 桐生は、啓介が手元に置いているバインダーの方を見た。

「あなたが持っている、それ(魔法)です」


 啓介は、その言葉を黙って受け止めた。


 だが、医師である桐生はまだ続く。

「少なくとも」

 啓介が頷く。「ですよね」

「まだ私は、手放しで何も肯定していません」

 三崎が笑った。


「少なくとも。今回指定した早期胃癌については、通常の医学では説明できない消失を確認しました」

 それが、桐生という医師の、正式で最大限の譲歩した言い方だった。


 相馬が、空気を和らげるように事業の話を振った。

「じゃあ、これで癌治療のビジネスが――」


「まだです」桐生が遮る。

「まだだ」三崎が遮る。

「まだだな」藤堂が遮る。

「分かってるよ! 冗談だよ!」


 啓介が笑う。

 しかし、部屋の空気はすぐに重いものに戻った。


 桐生が改めて、全員を見た。

「ただ。……これ、本当に成立するのなら」

 治療前後の画像を見る。

「『凄い』、では絶対に済みませんよ」


 癌の患者は、日本だけでも非常に多い。

 仮に毎日一回ずつ使えたとしても、理論上は年間三百六十五人程度。実際には、啓介自身の生活、患者選定、事前検査、経過観察、他の魔法との競合まで考えれば、それより少なくなる可能性が高い。

 しかも、現状のマナ配色なら、《古傷の修復》など他の大規模治療との完全な競合トレードオフになる。


 誰を治す?

 何癌を? 何期ステージを? 子供を優先する? 標準治療のない人を? それとも治癒率が高い初期を確実に治す? 末期で苦しむ人を? 金額で決める? 抽選? 研究に協力できる人?


「今日一人治せたことで、問題は減っていません」

 桐生が言った。

「むしろ、本当に『治せる』と分かってしまったせいで……問題は劇的に増えました」

 相馬が重く頷いた。「そうなるよな」


 啓介の感覚も、変わっていた。

 能力を得た初期の自分なら、「癌を治した! すげえ!」と無邪気に喜んでいただろう。

 今は違う。

 一人治った。良かった。それは間違いない。

 でも同時に。

『明日も、たった一人しか治せない』という重すぎる事実が、鮮明に見えてしまったのだ。


 森川本人への結果説明。

 数日後、森川に対し「現時点で採取検体に悪性細胞なし。画像上病変なし。ただし長期追跡が必要」と説明された。


 森川は、しばらく黙っていた。

 そして、言った。

「じゃあ……今のところは、良かった、でいいんですか?」

 桐生は、少しだけ表情を柔らかくして答えた。

「はい。今のところは、それでいいと思います」

 患者に対しては、厳しい専門用語の羅列だけで終わらせない。


 森川が、啓介の方を見た。

 大げさな土下座も、涙を流すような演出もなかった。

 ただ、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」


 啓介は少し迷ってから、返した。

「……いえ。これからも検査、ちゃんと受けてくださいね」

「そこは、先生から散々言われましたよ」

 桐生が横から言う。「まだ言いますよ」

 軽く、空気が和らいだ。


 今回の公式記録。

 啓介のノート。


 《局所悪性腫瘍の除去・外部対象初回検証》

 対象:病理診断済み単発早期胃癌。

 使用:生命3+知識2+境界1。

 直後:明らかな急性有害反応なし。内視鏡上、指定病変消失。元病変部に明らかな出血・焼灼・切除痕なし。

 短期病理:採取検体から悪性細胞検出なし。


 評価:

『短期的には、指定した局所悪性腫瘍の消失を強く支持』


 絶対に、「癌の完全治癒確認」とは書かなかった。

 未確認項目:長期再発、未検出微小病変への影響、他癌種、多発癌、転移癌、血液癌、反復使用、長期安全性。


 三崎がノートを見て言った。

「その書き方ならいい」

「最近、お前俺に対する採点厳しくない?」

「最初からだ」


 政府側の変化。

 会議が終わり、藤堂が帰る前。

「これ、久世さんへは今日中に報告する」

「段階、変わりますか?」啓介が聞く。


 藤堂は少し考えた。

「変わる」

 今までは、「人体へ作用する、説明不能な現象がある」という抽象的な段階だった。

 今度は、「病理診断済みの癌病変について、消失を確認した」という、明確な医学的実績を伴う報告になる。行政側にとっても意味が全く違う。


 ただし、と藤堂は言った。

「でも、明日から厚労大臣に説明するとか、即座に特区を作るとか、そういう魔法みたいな急展開な話じゃない」

「必要な専門家(人間)を増やす理由が、今日初めて『一つ増えた』。それだけのことだ」


 政府という巨大な組織が、突然一夜にして秘密結社のように動くわけではない。


 夜。マンション。

 アカネは、いつものように古いパーカーの上で休んでいる。

 啓介はバインダーを開き、新しいカードを見た。

 《局所悪性腫瘍の除去》。

 今日使ったため、当然マナはほぼ空っぽだ。


 啓介はカードを見つめた。

 以前は、ただの「癌も治せるかもしれないという六マナの設計(仮説)」だった。

 今日から違う。

 一人。本当に使った。

 内視鏡の画像から病変が消えた。採取した組織から悪性細胞も見つからなかった。


 それでも。一日一人。まだ、たった一人だ。


 アカネが顔を上げた。

「あぎゃ?」

「……凄いこと、やったんだぞ。今日」

 アカネには当然分からない。

「あぎゃ」と鳴いて、また丸くなる。

 啓介は少しだけ笑った。


 これまで、癌の治療はバインダーの中にある六マナの「可能性」に過ぎなかった。

 本当に使えるのか。本当に癌だけを消せるのか。

 医者にも、啓介にも、誰にも証明できていなかった。


 だが、その日。

 病理診断されていた一つの癌が、実際に消えた。

 そして。

 一番最後まで疑っていた医者が、それを見て言った。

「……本物ですね」


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
読み飛ばしたかもだけど、医療関連や若返りについて動物実験はできないんだっけ?
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