↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/44

第35話 小竜が雨上がりの山で水たまりを全部踏むらしい

 土曜日の朝。

 啓介はマンションのリビングで、スマートフォンを開いて天気予報と雨雲レーダーを確認していた。


 前日の金曜日。青梅周辺では、一日を通してまとまった雨が降っていた。

 バケツをひっくり返したような豪雨や、土砂災害警報が出るような危険なレベルではない。ごく普通の、少し長めの雨だ。

 土曜日の朝現在、雨はすでに上がっている。空はどんよりとした曇りだが、時折薄日が差す天気だ。


「よし。雨上がり点検に行くか」

 啓介は、山へ行く準備を始めた。


 その声に反応したわけではないだろうが、啓介がクローゼットから山用の撥水作業着や長靴を出し始めると、ソファの上で丸くなっていたアカネが顔を上げた。

「あぎゃ?」

 アカネは、啓介が準備している荷物をじっと眺めている。

 作業手袋。点検記録用のノート。予備のバッテリー。飲料水。吸水タオル。そして、泥落とし用の古い布。


 啓介は、荷物をまとめながらアカネに言った。

「今日は山だぞ」

 アカネは少しだけ首を動かしたが、立ち上がってハーネスを引きずり出してくるような過剰な反応はしなかった。

「山」という言葉を完全に理解しているとは限らない。単に、啓介の準備の雰囲気や荷物の種類から、「今日は出かける日だ」と察しているだけかもしれない。


 啓介は、今日やるべき作業を頭の中で再確認した。

「今日は、あくまで『雨後点検』だけだ」


 チェーンソーは使わない。刈払機も出さない。大掛かりな工具も、新しい設備の増設工事もない。だから荷物も最小限だ。

 目的はただ一つ。

『雨が降った後に、これまで自分が山に作った設備が変な壊れエラーを起こしていないか、目で見て確認すること』。


 車を走らせ、青梅の山林へと到着した。

 路肩の、他の車の邪魔にならない既定の駐車位置に車を停め、ドアを開ける。

 安全確認後、アカネもキャリーケースから外へ出た。


 雨上がりの山は、特有の空気に満ちていた。

 湿った土の匂い。濡れた落ち葉の匂い。木々の葉からは、風が吹くたびにまだ時折、小さな水滴がポタッと落ちてくる。

 空気全体がしっとりと湿気を帯びていた。


 アカネはキャリーケースから出ると、パタパタと低い位置を飛び、啓介のすぐ近くの枝に止まった。

 特別な恐怖や警戒の反応はない。

 先日の雨の日の観察で、『雨や濡れること自体を極端に嫌がって外へ出られないわけではない』ことは既に分かっている。

 今日も、地面や木が濡れているからといって、すぐに帰りたがるような素振りは見せなかった。


 だが、啓介はすぐに「こいつは雨の山が好きだ」などと安易に断定はしない。

 そのまま、慎重に点検作業へと移った。


 まずは、《第一管理通路》からだ。

 進入口に立ち、啓介はスマートフォンで現在の通路の写真を一枚撮った。前回の記録写真と比較するためだ。


 ノートを開き、確認項目をチェックしていく。

 《第一管理通路・雨後確認》

 ・明確な地盤の沈下はないか。

 ・敷いた砕石が大きく流出していないか。

 ・通路上を横切る、想定外の強い雨水の流れ(新しい水脈)ができていないか。

 ・周囲の立木の根元へ、新たな浸食が起きていないか。

 ・長時間水が引かない、深い水たまりができていないか。

 ・作業拠点側へ、泥が流れ込んでいないか。


 これらが一つでも起きていれば、設計ミスだ。

 特に、通路そのものが水たまりだらけの泥沼になっていれば、即座に改修工事が必要になる。


 啓介が、通路の確認を始めようと歩き出した時だった。


 入り口から数メートル。

 通路の脇、靴底が少し沈む程度の濡れた地面のすぐ横に、直径二十センチほどの自然な浅い水たまりができていた。


 パタパタと空を飛んでいたアカネが。

 突然、その水たまりに向かって真っ直ぐに降りていったのだ。


 ピチャ。


「……ん?」

 啓介は足を止めた。


 アカネは、浅い水の中に入っていた。

 右の前脚を上げる。下ろす。

 ピチャ。

 もう一歩、進む。

 ピチャ。


 そして、何事もなかったかのように、水たまりから歩いて出て、またパタパタと飛び去っていった。


「……何してんの、お前」

「あぎゃ?」

 上空のアカネは、意味が分からないというように短く鳴いた。


 啓介は首を傾げた。

「まあ、たまたま着地した場所が水たまりだっただけか。地面が濡れてるんだから、偶然水に入ることもあるよな」

 気にせず、点検を続行する。


 さらに少し進む。

 通路本体は全く問題ない。砕石も流れておらず、水も引いている。

 だが、その通路のすぐ脇、落ち葉が溜まったくぼみの上に、先ほどよりももっと小さな、直径十センチほどの水たまりができていた。


 さっきまで啓介の肩のすぐ近くを飛んでいたアカネが。

 ふわりと高度を下げ、トテトテと歩いて。


 ピチャ。


 啓介は、完全に足を止めた。

「……また?」


 アカネは、水面を一度だけジッと見た。

 そして、左の前脚を出して。

 ピチャ。


 啓介のシステムエンジニアとしての思考(検証モード)が、一瞬だけ働きかけた。

(……一回目は偶然。だが、二回目は『意図的な行動』の可能性が……)


 しかし、啓介はすぐにその思考を自分でストップさせた。

「いや、待て。まだ二回だ。たった二回のサンプリングで『習性』として認定するのは、早計すぎる」

 すぐに断定せず、そのまま点検作業を続けることにした。


 三個目。

 通路の中盤。砕石を入れたぬかるみ対策区間。

 全く問題ない。雨水は通路の外側へ自然に逃げ、想定通りに排水されている。

 啓介が、記録用の写真を撮るためにスマートフォンを構えている間。


 少し先の方で。トテトテ、という足音がして。


 ピチャ。


 啓介は、スマートフォンをスッと下げた。

「……三回目」

「あぎゃ」

「お前。そこ、わざわざ狙って入ったよな?」

 当然、アカネは答えない。ただ水たまりの中で、不思議そうに首を傾げているだけだ。


 ここで、啓介はアカネの奇妙な歩き方に気づいた。

 普通、人間でも動物でも、水たまりがあれば避けて通る。

 しかも、アカネには『翼』があるのだ。地面が濡れていようが泥だらけだろうが、空を飛べば一ミリも濡れずに移動できる。

 なのに。

 わざわざ濡れた土の上に降りて、数歩歩き。水たまりに入り。出て、少し飛んで。次の場所でまた降りる。


「……お前、もしかして、水たまり全部踏んでる?」


 啓介は、今までの経路を振り返った。

 進入口からここまでの間に見つけた水たまり。その『すべて』に、アカネが一度は足を踏み入れている。

 偶然にしては、確率がおかしすぎる。


「……おい。お前、水たまり見つけたら、とりあえず一回踏むルールでも自分に課してんのか?」

「あぎゃ?」


 啓介は一瞬、「意図的に人工の水たまりを作って、反応を試してみるか?」と考えかけた。

 だが、すぐにやめた。

 今日の目的は、あくまで『山の雨後点検』だ。アカネの行動研究ではない。わざわざペットボトルの水を撒いて、反応を引き出すような人工的な実験をする必要はない。

「まあ、自然にやるなら、そのまま見てればいいか」


 アカネは、水たまりに入って何をしているのか?

 水面に映る自分の姿(反射)を見ているのか。水の冷たさや感触を楽しんでいるのか。「ピチャ」という音が面白いのか。濡れること自体が目的なのか。土との違いを確かめているのか。ただ単に「進路上にあったから踏んだ」だけなのか。


 全部あり得る。だから、原因の確定はしない。


 四個目の水たまり。これまでの三つはいずれも、底まで目で見える程度のごく浅いものだった。

 少し大きめだった。通路の外にある、自然な地形の凹み。

 幅五十センチ程度。今度はこれまでより明らかに大きく、掌サイズのアカネにとって人間と同じ「浅い」とは限らない。啓介は念のため、長靴の先で底を確認し、深さがごく浅いことを確かめた。


 アカネが、その大きな水たまりの縁に降り立った。

 水面をじっと見る。


 啓介は、作業の手を止めて、ちょっとだけ期待してしまった。

「……入る?」


 アカネは、動かない。水面を見たまま、一歩も踏み出さない。

 啓介は少し残念に思った。

「あ、大きすぎると入らないのか」


 その瞬間。

 ピチャ。


「入るんかい!」

 啓介は思わず突っ込んだ。


 アカネは、一歩、二歩と水の中へ進んだ。

 前脚が浸かる。後脚が浸かる。


 ここで、啓介は一つの重要なディテールに気づいた。

 アカネは、犬が水遊びをするように、水たまりに身体ごと転がってバシャバシャと暴れ回ったりはしない。泥浴びをするわけでもない。

 翼は背中に畳んだままだ。短い尻尾も、水面より少し上にある。

 腹まで水に浸かるような深い場所へは行かない。

 少なくとも今日見た範囲では、『前脚と後脚の先が濡れる程度の浅い場所』へ入り、静かに踏んでいた。


 ピチャ、ピチャ。


 啓介は、無言でスマートフォンを構えた。

 山の管理記録用ではなく、普通のカメラアプリを起動する。

 アカネが、水の中で一歩歩く。

 ピチャ。

 もう一歩。

 ピチャ。


 そして、水の中でピタリと止まり、金色の瞳でカメラを構える啓介をジッと見つめてきた。


 カシャ。

 啓介は、シャッターを切った。

「……何だよ、その『撮るな』みたいな顔は」

「あぎゃ」


 先日の雨の日の観察とは、少し違っていた。

 あの時は、アカネは『上から落ちてくる雨粒』や濡れた森を眺め、水の溜まった場所でもまず立ち止まって様子を見ていた。

 でも今日は、見るだけではなく、自分から『地面に溜まった水』へ何度も足を入れている。


「雨が降ることと、雨上がりの水たまりは、お前にとって別物なのか?」

 慣れたのか、今日は別の何かが気になっているのか、それとも前回との比較自体に意味がないのか。答えは分からない。だから、ここでも原因は決めつけない。


 啓介は、アカネの観察だけで終わらせず、しっかりと管理業務に戻った。

 《第一管理通路》の正式な確認。


 先日、泥濘対策として樹脂グリッドと砕石を入れた重点箇所。

 雨が降った後でも、砕石が大きく流出している様子はない。新しい水たまりもできていない。啓介が体重をかけて踏み込んでも、ズブッと沈むようなことはなかった。

 横へ逃がした雨水も、自然の地面へと薄く広がり、木の根に集中して浸食するような問題は起こしていなかった。


「よし。完璧だ」

 システムからの通知はない。魔法的な強化も起きていない。ただの、物理的な点検合格だ。


 啓介は管理通路を歩いて進む。

 一方のアカネは、通路の上を歩くことはなかった。

 基本的には空を飛び、時々木の枝に降りる。

 ただし。水たまりを見つけた時だけは、なぜか必ず地面へ降りるのだ。


 啓介は呆れたように言った。

「お前……俺が苦労して作った『道』は一ミリもいらないくせに、俺が放置した『水たまり』だけは律儀に使うんだな……」

「あぎゃ」


 次に、《第一作業拠点》の点検。

 収納ボックス内部への水の侵入はなし。作業台も乾き始めている。

 監視設備用の小型ソーラーパネルと蓄電池も、雨の後でも問題なく稼働している。


 そして、雨水タンク。

 以前、意気揚々と設置したタンクだが、まだ本格的な『集水屋根(タープ等)』は設けていない。

 だから、今日点検したからといって「雨が降ったからタンクが満水になりました!」なんて魔法のような都合の良いことは起こらない。

 タンクの中は、相変わらず空っぽのままだった。


「集水設備、まだ作ってないからな」

 今日は新設工事をしない日だ。タンクの状況だけを確認し、そのままにしておく。


 作業拠点のすぐ横。少し離れた自然地面の窪みに、また小さな水たまりがあった。

 以前撮った作業拠点周辺の写真にも同じ位置の浅い凹みが写っている。今回の雨や設備によって新しくできた排水不良ではなく、元からの地形によるものだ。


 アカネが飛んできて、降りる。

 ピチャ。


 啓介は数えていた。

「……これで、五個目だな」


 ふと。啓介は、自分自身の行動が面白くなってきた。

「いや、何で俺が一生懸命になって『水たまり』探してんだよ」

 山の管理点検のはずなのに。いつの間にか啓介の視線は、「次はどこに水たまりがある?」と、地面の凹みばかりを探すようになっていた。

 完全に、親バカの思考回路だ。


 啓介が少し先を歩いていると。

 ルートから外れた場所に、六個目の小さな水たまりを発見した。


 アカネは、今は別方向の空を飛んでいる。

 啓介は、無意識のうちにその水たまりの横で立ち止まり、アカネが来るのを待ってしまった。


 アカネが、パタパタと普通に飛んでくる。

 そして、水たまりの真上を、そのまま通過した。


 啓介は拍子抜けした。

「あれ? 通り過ぎたぞ」

 見落としたのか、それとも飽きたのか。

「なんだ、全部踏むわけじゃないのか」

 少しだけ、残念な気持ちになった。


 しかし。

 アカネは、水たまりを通り過ぎて数メートル進んだ空中で、ピタリと止まった。

 空中で振り返る。

 そして、クルリと方向転換して、戻ってきたのだ。


 水たまりの縁に降りる。

 ピチャ。


 啓介は、思わず天を仰いだ。

「……おい! お前、わざわざ戻ってきてまで踏むのかよ!?」


 国家の医療制度。癌の治療。厚生労働省の官僚との極秘会談。

 そんな途方もないスケールの話を、つい数日前まで真剣にやっていた三十六歳の男が。

 今、誰もいない山の中で、掌サイズの竜が『水たまりに戻ってきて踏んだ』というだけのことで、腹を抱えて笑っている。


「何なんだよ、お前は本当に」

「あぎゃ!」

 アカネは水たまりから出てきた。啓介には妙に満足そうに見えたが、本当にそうなのかは分からない。

(ただし、啓介は『アカネが未踏の水たまりを認識して、踏み忘れたから戻ってきた』と科学的に断定はしない。ただ、そういう行動をとったという事実だけだ)。


 最後に、《アカネの守り巣》の点検。

 雨漏りなし。内部への浸水なし。寝床は完全に乾燥している。

 電源、カメラ、センサー、すべて正常。前室のスペースも問題なし。

 実際の雨を経験したことで、『通常の雨なら全く問題なく機能する』という確固たる実績が積み重なっていた。魔法による強化ではなく、現実の施設の信頼性向上だ。


 アカネが、自分から《守り巣》の中へ入っていった。

 異常がないかの確認か、帰宅の挨拶か、ただ入りたかっただけなのかは不明だ。すぐにまた外へ出てきた。


 守り巣の前にも、ごく浅い水滴の溜まりがあった。

(もちろん、設備の基礎部分に悪影響を与えるような問題のある水溜まりではない。少し離れた石のくぼみだ)。


 アカネが見つける。

 ピチャ。


 啓介が数える。

「これで七」

 完全にカウントを継続していた。


 だが、ここまで何度も水たまりを踏んでいると、当然の結果が待っていた。

 アカネの前脚と後脚の先っぽ。

 本来は美しい赤銅色の鱗が輝いているはずの脚先が、茶色い泥でドロドロに汚れていた。


「……あーあ」

 アカネ本人は、足が汚れている自覚は全くないらしく、平然としている。


 でも、啓介はその場で一回ごとに捕まえて脚を拭くような真似はしなかった。

 水たまりを踏むたびに捕まえて拘束すれば、アカネの自由な行動(遊び)を中断することになる。

 ただし、山の泥がついた脚をそのまま舐めさせるのは避けたい。アカネは普段、自分の前脚や翼の付け根を舐めることがあるし、土に何が混じっているかは分からない。

 今のところ脚を舐め始める様子はない。なら、水たまりを踏むたびに止めるのではなく、様子を見ながら帰る前にまとめて泥を落とせばいい。


「まあ、帰る前に一回拭くか」

 啓介の判断はシンプルだった。


 昼過ぎ。

 すべての点検が終了した。大きな問題は何も見つからなかった。


 啓介はノートを開き、記録を書き込んだ。

 《青梅山林・雨後点検》

 第一管理通路:異常なし。

 作業拠点:異常なし。

 守り巣:異常なし。

 大きな新規の土砂流出・浸食:なし。

 新規危険箇所:なし。

 追加の対応作業:不要。


 これは、管理者にとって結構重要なことだった。

「異常なし」という成果。

「よし。今日は何も直さなくていいな」

 管理とは、毎回毎回、新しい何かを建てたり、魔法で問題を解決したりすることではない。

 見て、確認して、問題がなければ「何もしない」。それも立派な山林管理だ。


 撤収作業に入る。

 《第一作業拠点》で、啓介は持参したペットボトルの清水と、乾いた布を用意した。


「アカネ。ちょっと来い」

 啓介が呼ぶ。

 ここで、「おやつ」という魔法の言葉(報酬コマンド)は使わない。

 ご褒美をもらうための訓練ではなく、単なる「泥落とし(衛生管理)」だからだ。


 アカネがトテトテと近づいてくる。

 啓介はしゃがみ込み、アカネの身体をそっと支えた。

「足、拭くぞ」


 濡らした布で、泥だらけの右の前脚を包み込み、優しく拭き取る。

 アカネは、多少モゾモゾと動いて嫌がる素振りは見せたが、暴れて逃げ出すことはなく、おとなしく拭かせてくれた。


 右前脚、終了。

「次」

 啓介が左前脚へ布を持っていこうとした時。


 アカネが、啓介が触るよりもほんの一瞬早く、自分から左の前脚をヒョイと持ち上げた。


 啓介は、ピタリと動きを止めた。

(……お、次はこっちの足だぞ、って自分から差し出したのか?)


 いや。啓介はすぐにその親バカ思考を打ち消した。

 たまたま右足を拭き終わって重心が移動したから、バランスを取るために左足が浮いただけだろう。

「理解して自分から足を差し出した」と断定するのは、擬人化が進みすぎている。


「はいはい、次これな」

 啓介は淡々と、残りの前脚と後脚の泥をすべて綺麗に拭き取った。


 足先が、元の綺麗な赤銅色に戻った。

「よし、終わりだ」

 啓介が手を離す。

 アカネは地面に降り立った。


 そして。

 アカネの目の前に、たまたま、今日最後の小さな水たまりがあった。


 啓介は、嫌な予感がした。

 アカネが、その水たまりの方へ一歩踏み出した。


 ピチャ。


 啓介は、布を持ったまま完全にフリーズした。

「…………」


 アカネが、もう一歩踏み込む。

 ピチャ。


 啓介が叫んだ。

「お前! 今、綺麗に拭いたばっかりだろうが!!」

「あぎゃ!」


 今日一番の、見事なオチだった。


「はい、やり直し!」

 啓介は笑いながらアカネをもう一度捕まえ、今度は「水たまりが絶対にない、車のドアのすぐ横のコンクリートの上」まで連行してから、二度目の泥落としを行った。

 学習したのは、小竜ではなく啓介の方だった。


 車内。

 帰宅の途につく。

 助手席のキャリーケースの中で、アカネは定位置で丸くなっている。


 啓介は、運転しながら考えた。

 今日、啓介が見つけた範囲の水たまりは、アカネはほぼすべて踏破した。

 でも。

「今日一日」「この青梅の山林」「雨上がりの特定の時間帯」。

 これだけの限定された条件での出来事だ。


 だから、ノートの記録にはこう書く。

『雨後、浅い水たまりへ複数回自発的に進入したことを確認』

 絶対に、「水遊びが好きだ」とか「水たまりが大好きだ」という断定的な言葉は使わない。


 ただし。啓介は頭の中で、個人的なメモとしてこう付け足した。

(でも、まあ……かなり好きそうには見えたけどな)

 それは、観察者としてではなく、飼い主としての感想だった。


 マンションへ帰宅。

 玄関で靴を脱ぐ。

 アカネの足は、二回拭いたおかげで綺麗だ。そのままリビングへとパタパタと入っていく。


 啓介は、自分の足元を見た。

 自分が履いている長靴。そして、作業着のズボンの裾。

 雨上がりの山中をずっと歩き回って点検していたため、泥だらけになっている。


「……一番汚れてるの、二回も足拭いたあいつじゃなくて、俺じゃん」

 アカネがリビングの奥から「あぎゃ」と鳴いた。


 アカネを風呂場に連れて行って丸洗いするようなことはしない。

 足先が少し濡れただけで、腹や翼は全く濡れていないし、泥もすでに落ちている。そのまま通常の生活へと戻す。


 夜。

 啓介はソファに座り、スマートフォンで今日山で撮った写真を見返していた。

 アカネは、いつものように啓介の古いパーカーの上で丸くなっている。


 写真の一枚。

 落ち葉の横の、ごく浅い水たまり。

 その中に、掌サイズの赤銅色のアカネが立っている。

 短い前脚が水面につき、小さな波紋が広がっている瞬間を捉えた一枚。


 啓介は、無意識のうちに呟いていた。

「……可愛いな」


 ソファの上のアカネが、自分の名前を呼ばれたわけでもないのに顔を上げた。

「あぎゃ?」

「いや、何でもない」


 啓介はノートを開き、今日のまとめを更新した。

 カード関連でも魔法関連でもない、普通の山林管理記録だ。


 《青梅山林・雨後点検》

 日時:土曜日午前。前日降雨あり。

 第一管理通路:異常なし。

 作業拠点:異常なし。

 守り巣:異常なし。

 大きな新規の浸食・土砂流出:なし。

 新規危険箇所:なし。

 追加の対応作業:不要。


 その下。

 《アカネ》

 ・浅い水たまりへの自発的進入を複数回確認。

 ・原因は不明。水面、温度、感触、音、その他の要因については未確認。

 ・本日は追加の検証試験なし。

 ・足先に泥汚れあり。帰宅前に清水と布で除去。除去前に脚を舐める行動は確認せず。


 少し考えてから、啓介はさらに追記した。

『次回も雨上がりだった場合、人工的に水たまりを作ったり誘導したりはせず、自然な行動だけを引き続き観察する』

 わざと水たまりを作って反応を試すような、過剰な実験はしない。


 アカネは、古いパーカーの上で身体を丸め、短い尻尾をキュッと身体の脇へ寄せている。


 今日。

 政府の官僚にも会っていない。

 新しい魔法のカードも作っていない。マナも消費していない。

 不治の病の治療についても考えていない。


 ただ、山で小さな水たまりを踏んだだけの一日。


 啓介は、スマホの写真をもう一度見た。

「七個……いや、最後ので八個か」


 アカネが「あぎゃ?」と鳴く。

「全部踏んだな、お前」

 アカネは当然答えない。そのまま、目を閉じて静かな寝息を立て始めた。


 山の雨後点検では、異常は一つも見つからなかった。

 代わりに。水たまりを見つけるたびに、わざわざ寄り道して踏みに行く小竜が一匹、見つかったのだった。

最後までお付き合いいただき感謝します。


もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。