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第26話 山の危険木を一本切るだけでは済まないらしい

 

 土曜日の朝。

 啓介はマンションのリビングで、厚手の長袖シャツと作業着への着替えを終え、玄関で工具類が入ったバッグの最終確認をしていた。


 その横で、アカネがソワソワと落ち着かない様子で歩き回っている。

 啓介が玄関のドアノブへ手をかけると、アカネはどこからか、自分専用の山用ハーネスをずるずると引っ張り出してきた。

 啓介の足元にそれをポトリと落とし、「あぎゃ!」と見上げる。

 まるで「よし、俺も山へ行く準備はできてるぞ」と言わんばかりの態度だった。


 啓介は、ハーネスを拾い上げてソファの上へ置いた。

「駄目だ。今日はお前は留守番だぞ」

「あぎゃ?」

 アカネは、信じられないという顔で首を傾げた。


「山には行くけどな。今日は、あの山に俺以外の知らない人が来るんだよ」

「あぎゃあ!」

 アカネは抗議の声を上げたが、啓介は譲らなかった。

「お前がいる方が危ないんだ。今日は作業車も人も入るし、チェーンソーやロープも使うからな」


 啓介の安全方針は明確だった。

 第三者が山へ入る日に、未知の召喚生物であるアカネを連れて行くなど言語道断だ。秘匿上のリスク(魔法の存在がバレる危険性)だけではない。

 巨大な作業音、落下してくる太い枝、飛び交う木屑、牽引ロープ、作業車両、複数の作業員の動線。それらすべてが、小動物サイズのアカネにとっては致命的な危険要因になり得る。

 事故が起きてから《召喚体修繕》のカードで治せばいい、などという甘い考えは微塵も持っていなかった。


 啓介は、マンション内の危険な小物や配線を片付け、アカネが一匹でも問題なく留守番できる状態であることを指差し確認した。

「じゃあ、行ってくるから。大人しくしてろよ」

 玄関のドアを閉める直前、アカネが不満そうに「あぎゃ……」と鳴くのが聞こえたが、心を鬼にして出発した。


 数日前。

 啓介が山林に自分用の作業拠点を完成させた翌日のこと。

 啓介は、土地購入当初から「危険木診断用予備費」として別口座に確保していた資金を使い、山林や庭木の伐採・高所剪定を専門に扱う地元の業者へ連絡を取っていた。


 電話口で、啓介は簡潔に要件を伝えた。

『自分が所有している、青梅にある小規模な山林です。一本、根元と上部の状態が気になっている木があります。素人が触るのは危ないと判断したので、自分では一切触らず、ピンクのテープを巻いて立入禁止にしてあります』


 スマートフォンのカメラで撮影した写真も数枚送付したが、業者からの回答は当然のものだった。

『送っていただいた写真だけでは、本当に伐採が必要か、周囲の環境を含めてどう切るべきかの正確な判断はできません。一度、現地を見させてください』


 啓介は、その返答にむしろ安心感を覚えていた。

「そりゃそうだ。送られてきたエラーログの画面キャプチャだけ見て、『原因はこれです、本番環境いじります』って断定するSEがいたら、俺だって絶対信用しないからな」

 専門家が『現場を見なければ判断できない』と言うのは、正しいプロの態度だった。


 そして土曜日。青梅の山林。

 啓介が待つ現地へ、指定の時間ぴったりに小型の作業トラックが到着した。

 降りてきたのは、ベテランらしい恰幅の良い職人と、若い作業員の二名だった。


 挨拶を交わし、啓介は二人を敷地の奥へと案内した。

 当然、進入口から少し入った場所には、先日完成したばかりの《アカネの守り巣》のフェンスや監視カメラ、そして啓介用の作業拠点が点在している。

 業者はチラリとそれらを見たが、深く追及してくることはなかった。

 若い作業員が危険木を別方向から確認しようとして、《アカネの守り巣》側へ足を向けた時だけ、啓介がすぐに声をかけた。

「すみません。フェンスの内側は今回の作業対象外なので、外周から確認してもらえますか」

「あ、分かりました」

 若い作業員はそれだけ答え、何の疑問も示さず進路を変えた。


 啓介は、以前設定した立入禁止範囲の手前で足を止めた。

 自分自身も、それ以上は危険木に近づかない。

「この先です。あのピンクのテープを巻いてある木です」


 職人が、ヘルメットの顎紐を締めながら木を見上げた。

「なるほど。……ずっと、ご自分では近づかないようにしてましたか?」

「はい。自分では一切切ってませんし、下にも入ってません」

「それで正解です。素人さんが下手に中途半端にノコギリを入れたり、牽引ロープを掛けたりすると、余計に重心が狂って急に倒れてくることがありますからね」


 啓介は、少しだけ安堵した。

 自分の「素人が触るべきではない」という慎重な判断が、専門家から見ても正しかったと証明されたからだ。


 職人と若い作業員が、危険木の周囲を慎重に歩き回り、確認を始めた。

 啓介は少し離れた安全な場所から、その様子を観察した。


 彼らが見ているのは、問題の木「一本」だけではなかった。

 幹の傾き、根元の土の露出状態、樹皮の傷み具合、上部で枯れている枝の量。

 それだけではない。

 倒れた場合の想定方向。ロープを掛けるための周囲の頑丈な立木の位置。切った枝を安全に落とすための空間。《アカネの守り巣》や作業拠点といった既存設備との距離。万が一の際の退避方向。そして、切断した重い木材を公道まで搬出する経路。


 啓介が声をかけた。

「あの、確認してほしいのは、あのピンクのテープの木一本なんですが」

 職人が振り返って答えた。

「ええ。でも、木を一本切るってことは、一本だけ見てても意味がないんですよ」


 その木を安全に切るためには、人が立つ場所、ロープを張る空間、切ったものが落ちる場所、すべてが連動して必要になる。

 啓介は、思わず感心して頷いた。

「……障害が起きてる箇所だけ直すんじゃなくて、変更を加えた時の『影響範囲』を先に全体で見るのか。完全に仕事の基本だな」


 数十分後。

 現地確認を終えた職人が、啓介の元へ戻ってきた。

 診断結果は、やはり啓介の想定通りだった。


「あのピンクテープの木は、放置を続けるよりは、今のうちに処理してしまった方がいいですね」

 ただし、職人は「明日絶対に倒れますよ」「放っておいたら大事故になりますよ」といった、不安を煽るような絶対の断定はしなかった。


「現時点では、すぐに倒れるというわけじゃありません。ただ、根元と上部に腐朽が疑われる部分がありますし、このまま放置して、強風や積雪で大きな負荷が掛かった時の『安全余裕』は高くないです」

 今までの啓介の魔法検証における、三崎の科学的で慎重な語り口とよく似ていた。だからこそ、信用できた。


 啓介は即決した。

「分かりました。じゃあ、切ってください」


 三十八万円で買った格安の土地だ。そこに、決して安くない作業費をかけて危険木を処理する。

 端から見れば割に合わないかもしれないが、土地の管理者としては当然の投資だった。


 ところが。

「一本切るだけで済みますよね?」

 と念押しした啓介に、職人は周囲の木々を指差して言った。


「それが、一本切るだけじゃ済まないんですよ。……あっちの、隣の木の枝も落とした方がいいですね」

「え?」

 啓介が指さされた方向を見ると、危険木のすぐ隣にある別の健康な立木だった。

 木自体を伐採する必要はない。だが、かなり高い位置に、太めの枯れ枝が引っかかったまま残っている。

「あれ、普段歩く通路の真上じゃないですけど、風で落ちてきたら危ないですからね。ロープ張るついでに、あれも処理しておきましょう」


 さらに職人は、もう一本別の木を指差した。

「こっちは、今すぐ切る必要はありません。でも、次に強い台風が来た後は、根元が浮いてないか確認した方がいいです。経過観察ですね」


 啓介は、手元のノートに管理項目を書き足していった。

 当初の予定:『危険木候補、一本』

 専門家確認後:『伐採対象一本』『高所枯れ枝の剪定対象一箇所』『経過観察対象一本』


 啓介はため息をついた。

「……木を一本処理しに来てもらっただけなのに、逆に俺の管理対象が増えてるんですけど」

 職人が笑って答えた。

「山って、そういうものですよ」


 さらに、職人は意外なことを付け加えた。

「あと、気になったんですけど。ご自分で少し下草を刈られてますよね?」

「ええ。作業拠点の周りとか、歩くところを少し」

 啓介は、今後もっと広範囲に草を刈って、全体を綺麗にしようと考えていた。

「この辺の下草も、全部綺麗に刈ってしまった方が、これからの管理はしやすいですかね?」


 職人は、首を横に振った。

「いや、全部はやらない方がいいです」


 啓介は意外な顔をした。「なんでですか? 草がない方が見通しもいいし、虫も減るんじゃ……」

「平地の庭なら管理方法も違いますけど、ここは斜面のある山林ですからね。下草や地表の植生には、雨が直接土を叩くのを和らげたり、表層の土を守ったりする役割もあります。全部一律に刈って地面を剥き出しにする必要はありません」


 職人は、山を見渡して言った。

「危ないものを取って、残せるものは残す。……山では、何もしないで残すことも、立派な管理なんですよ」


 啓介の胸に、その言葉が深く刺さった。

『綺麗に整地すること=正しく管理されていること』だと思い込みかけていた。

 だが、山では違う。システムを全部最新にリプレイスすればいいわけではない。既存の環境と折り合いをつけ、必要な箇所だけを手入れし、不要な手出しをしないことも、管理者の重要な判断なのだ。


 見積もりが提示された。

 現場を見たことで正式な作業範囲が決まり、危険木一本の伐採、高所の枯れ枝払い、切った枝葉の処理、作業安全の確保、そして公道までの搬出作業。

 一式で、およそ十万円弱。


 啓介は心の中で(……土地の本体価格、三十八万だったんだけどな)と毒づいたが、表情には出さず、その場で即答した。

「それでお願いします」

 安さだけで適当な業者に変えて、安全性を落としたり、周辺環境を破壊されたりしては本末転倒だ。


 作業が開始された。


 啓介は、少し離れた安全な場所から見学することになった。

 職人たちが、ヘルメット、防音イヤーマフ、安全靴、防護ズボンなどのフル装備を身につける。

 そして、すぐにチェーンソーのエンジンをかけるのかと思いきや、そうではなかった。


 彼らは、長い時間をかけて準備を行った。

 落下範囲にある邪魔な小枝を片付け、作業員同士で無線のマイクを使って合図を確認し合う。

 隣の丈夫な木にスリングを掛け、滑車を通してロープを設置する。

 若い作業員が地上側でロープの張りを確認し、「張れます」と声を上げる。職人が上を見ながら「よし、そのまま」と短く返した。

 周囲の安全を指差し確認し、万が一木が予想外の方向へ傾いた際の、自分たちの退避経路を明確に設定する。


 啓介は、感心しながらそれを見ていた。

「……実際に木を切ってる時間より、切っても事故が起きない『状態(環境)』を作る準備時間の方が、圧倒的に長いんだな」


 それは、啓介自身の魔法に対する設計思想と完全に一致していた。

 魔法を使って結果を出すことよりも、魔法を使っても安全な「事前条件」を整えることの方が、はるかに重要で難しいのだ。


 ここで、先日完成したばかりの啓介の作業拠点が早速役に立った。

 啓介は、折りたたみ椅子に座り、作業台の上に飲み物やノートを広げて待機することができた。

 業者に渡すための敷地図も、バインダーに挟んで台の上に置いておける。救急箱もすぐ横にある。


 休憩中、若い作業員がペットボトルの水を飲みながら啓介の拠点を見て言った。

「ここ、最近ご自分で整備されたんですか?」

「ええ、少し前に。作業用具を置く場所が欲しくて」

「あると楽ですよね、こういう荷物置ける平らな場所が」

 プロの作業員から見ても、実用に足る設備として認識されたようで、啓介は内心少しだけ嬉しかった。


 いよいよ、危険木の処理が始まった。


 山林に、チェーンソーのけたたましいエンジン音が響き渡る。

 木屑が舞い散る。

 だが、テレビのアクション映画のように「バキーン!」と根本から豪快に一本丸ごと切り倒すわけではなかった。


 職人は、ロープを使って木に登り、上部の枝から順番に、細かく切り落としていく。

 切断された枝が暴れないよう、地上では若い作業員がロープを操作し、張力を調整しながら安全な位置へゆっくりと下ろしていく。

 最後に残った幹の部分も、安全な長さで分割して切断され、ドスン、ドスンと地面に落とされていった。


 数時間後。

 作業が完了し、チェーンソーの音が止んだ。


 啓介が現場に近づくと、ずっとそこにあった「危険木」が、完全に姿を消していた。

 地面には、アカネなら容易によじ登れる程度の高さに切られた、真新しい切り株だけが残っている。


「……景色が、変わったな」

 啓介は、今まで必ず避けて歩いていたその一角を見つめた。

 目印として巻いていたピンク色のテープも、切り分けられた幹と一緒に、もうそこにはない。

 あの色にはずっと、「ここから先は危険だ」という意味が張り付いていた。

 それが、今日、明確な費用とプロの技術によって取り除かれたのだ。


 職人が、切り分けた丸太を指差して聞いてきた。

「門倉さん。この切った幹や枝、全部うちでトラックに積んで持って帰って処分しますか? それとも、薪ストーブやDIY用に残したい部分があります?」


 啓介は、少し考えた。

 この木も、自分の所有する土地から生み出された「現実の資源」だ。すべてをただのゴミとして廃棄してしまうのは惜しい気がした。

 かといって、大量の生木をそのまま放置すれば、虫が入り、腐朽が進むなど、別の管理問題を増やすことになる。


「……比較的状態の良い、まっすぐで短く切られた丸太だけ、数本残しておいてください。残りの細かい枝葉や傷んだ部分は、全部回収して処分をお願いします」

「分かりました」


 啓介は、残してもらった丸太を、直接地面には置かず、少し浮かせた簡単な桟木さんぎの上に並べて保管することにした。

 将来的に、十分に乾燥させて木工の材料にするか、《小さな工房箱》を使って何らかのカードの素材にするかもしれない。

 だが、今はまだ乾燥もしていない、ただの切り倒された現実の生木だ。その場でいきなり魔法のアイテムに変えようとはしなかった。


 ノートに記録する。

『伐採材:一部を敷地内にて保管。用途未定。十分な乾燥と状態確認後に再評価する』


 業者が作業をすべて終え、トラックで去っていった。

 静けさが戻った山林で、啓介は一人、《創世札典》を呼び出した。


 バインダーの《名もなき雑木地》のページを開く。

 補助情報が更新されていた。


『土地管理実績:危険要因の【専門的是正】を確認』

『安全管理状況:改善』

『専門業者による外部管理作業:記録追加』

『継続的な管理実績:更新』


 啓介は、その表示を見て少し引っかかった。

「……待てよ。システム。俺、今日は椅子に座って見てただけで、チェーンソーなんか一ミリも触ってないぞ?」


 木を切ったのは業者だ。啓介は金を払い、作業を依頼し、完了を確認しただけだ。

 それなのに、なぜ「土地の管理実績」として啓介のカードに加算されているのか?

 啓介はシステムに質問した。

「俺自身が直接手を下していなくても、土地の管理実績として評価されるのか?」


 回答。

『肯定』

『所有者による直接作業のみを、土地管理とは定義しません』

『問題の認識、専門作業者への委託、費用負担、作業範囲の決定、完了確認、および以後の維持管理は、所有者による現実の管理行為として評価されます』


 啓介は、深く納得した。

「……そうか。俺が無理して自分でチェーンソーを振り回すことだけが、管理じゃない。俺が所有者として『責任を持つこと』そのものが、管理の証明になるのか」


 これは、今後の山林開拓において非常に重要な指標だった。

 山の管理項目が増えても、「啓介が全部DIYで無理やりやらなければ土地の実績として認められない」わけではないのだ。必要な部分はプロに外注しても、正当な管理として認められる。


 ただし。

 啓介は、念のためもう一つ確認した。

「じゃあ、業者が今日俺の山でチェーンソーやノコギリを使ったっていう実績で、俺が持っている《小さな工房箱》の維持条件も満たせるのか?」


 即座に、冷たい回答が返ってきた。

『否定』

『《小さな工房箱》の稼働条件である「現実の物品の製作・修理への工具使用」は、所有者本人による直接の実使用、または魔法的に関連づけられた対象による使用に限定されます』

『他者の作業実績を、遺物の維持条件に流用・合算することはできません』


 つまり。

 土地の管理実績には、正当な「外注」が認められる。

 しかし、工房の工具の維持条件には、外注による他人の作業実績は認められない。


 見事なまでに理にかなった、システムの抜け道を許さない仕様だった。

「ですよね。全部業者に丸投げしてマナだけもらうなんて、都合のいい話はないよな」


 翌日の日曜日。

 啓介は、今度はアカネを連れて再び青梅の山林を訪れた。

 すでにチェーンソーの音も業者の出入りもなく、安全が完全に確保されている状態だ。


 キャリーケースから出たアカネは、いつものように一直線に《アカネの守り巣》へと飛んでいった。

 内扉を開け、宝物棚のプルタブと松ぼっくりを確認し、異常がないことを悟って満足そうに外へ出てくる。


 だが、すぐにアカネの動きが止まった。

「……?」

 アカネは、首を傾げた。

 昨日まで、自分の視界の端にずっと「そこにあるのが当たり前」として立っていたはずの、一本の大きな木がない。


 アカネは、バサバサと飛んで、伐採された跡地へと近づいていった。

 啓介は安全を確認済みなので、制止しない。


 アカネは、地面に残された真新しい切り株の前に降り立った。

 切り口の木の匂いをフンフンと嗅ぐ。

 木の周囲をトテトテと一周する。

 そして、短い前脚を切り株の縁に掛け、よじ登った。


 切り株の、スパッと平らに切られた広い断面のド真ん中。

 そこでアカネは、前脚をビシッと揃え、翼を背中にピタリと畳み、ちょこんとお座りした。


「……お前、昨日まで『近づくな』って言ってた危険な場所を、さっそく自分の新しい『止まり台』にするのかよ」

「あぎゃ!」

 アカネは、新しい見晴らし台を手に入れて非常に満足そうだった。

 啓介は苦笑しながら、今日だけはその特等席を許してやることにした。


 啓介も、切り株のそばに立った。

 昨日まで木が一本あったことで遮られていた視界が、少しだけスッキリと抜けている。

 啓介の作業拠点から、進入口の方向も見やすくなっていた。


 だが、啓介はすぐに「木を切ったから全部良くなった」とは考えなかった。

 木が一本なくなったことで、日当たりが変わる。風の抜け方が変わる。雨が降った時の地面への当たり方も変わる。

「環境を変えたら、それで終わりじゃない。変えた後、その環境が正常に安定するかどうかを一定期間見るまでが、『変更作業リリース』だからな」


 啓介は作業台を広げ、折りたたみ椅子に座ってノートを開いた。

 アカネは切り株に飽きたのか、屋根の上に戻って毛繕いをしている。


 啓介は、手書きの敷地図を更新した。

 以前『危険木候補』と赤ペンで書いてあった箇所に二重線を引き、『伐採済み/切株残置/経過観察』と書き直す。

 さらに、業者から指摘された新しい管理項目を箇条書きにしていく。


 ・枯れ枝剪定:完了。

 ・経過観察対象木:一本追加(台風後に根元を確認すること)。

 ・強風、台風後の敷地全体の巡回確認ルール。

 ・下草の全面除去は実施しない(土壌保護のため、必要範囲のみ管理)。

 ・伐採跡周辺の、雨水の流れや表土の状態を継続観察。


 啓介は、増えていくタスクのリストを見てため息をついた。

「……木を一本減らしたはずなのに、管理項目は三つくらい増えてるんだけど」

「あぎゃ」

 アカネが、相槌を打つように鳴いた。


 啓介は立ち上がり、作業拠点から進入口の方へと歩いてみた。

 危険木が処理されて安全になったことで、今まで避けて遠回りしていた「直線的なルート」が使えるようになった。


 しかし、実際にそこを歩いてみると、新たな問題が明確に可視化された。

 地面には太い木の根が這い出ている。石がゴロゴロしている。雨の日にぬかるみそうな水たまりの跡がある。

 荷物を積んだカートを引いて歩こうとすると、車輪が石や根に引っかかって、非常に歩きにくいのだ。


 先週、啓介は自分の『作業場』を作った。

 そして今日、『危険木』を処理して安全な空間を広げた。

 その結果。


「……『作業場までスムーズに歩ける、まともな道がない』ってことが、次の課題になるわけか」


 一個便利になると、次の不便さ(ボトルネック)が明確に可視化される。

 システム開発と全く同じだ。これが、山林開拓という終わりのないプロジェクトの推進力だった。


「……次は、ここだな。カートが通れる最低限の管理通路がいる」

 啓介は、木の根に引っかかったカートのタイヤを持ち上げながら呟いた。


 夕方。撤収の時間。

 アカネは《アカネの守り巣》の屋根の上。啓介は作業台の前にいる。

 二つの拠点が並び、その向こうには、新しくできた真新しい切り株が見える。


 初めてこの山へ足を踏み入れた時とは、明らかに景色が変わっていた。

 でも、決して「綺麗に舗装された公園」になったわけではない。

 木は残っている。下草も残っている。自然の斜面や地形も、そのまま残っている。

 ただ、明確な「危険」だけを、一つずつ切り取って取り除いているのだ。


 啓介はノートの最後に書き込んだ。

『危険木候補一:処理完了』

『追加管理項目:三件』


 啓介は少しペンを止め、空を見上げた。

「……山って、もしかして一生終わりがないのか?」


 屋根の上から、アカネが呑気に「あぎゃ」と返事をした。


 《名もなき雑木地》の名前は、まだ変わらない。マナも増えない。

 だがもう、この場所を「ただの放置された雑木林」と呼ぶには、啓介が積み重ねた管理の実績と、そこで暮らすアカネの日々が、あまりにも深く刻まれすぎていた。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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