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第22話 小竜におやつを与えたら必要ないのに催促を覚えたらしい

 平日の月曜日、夕方。

 会社から帰宅した啓介は、スーツから部屋着に着替え、手早く夕食の準備に取り掛かった。

 メニューは、スーパーで買ってきた鶏もも肉をシンプルに塩胡椒とハーブでソテーしたものだ。


 フライパンから立ち昇る香ばしい匂いが、狭い1LDKの部屋に広がる。

 啓介がダイニングテーブルに皿を並べ、白飯と味噌汁をセットして椅子に座った、その時だった。


「……ん?」

 ふと、強い視線を感じて顔を上げた。


 段ボールで作った仮住居の屋根の上で、器用に丸まって羽繕いをしていたアカネが。

 その動作を完全に停止し、啓介の皿の方を「じーっ」と凝視していた。


 啓介が箸を伸ばし、カリッと焼けた鶏肉を一切れ持ち上げる。

 アカネの頭が、箸の動きに合わせてピクッと動いた。

 啓介が肉を口へ運び、咀嚼する。

 アカネの金色の瞳が、啓介の口元から皿、そしてまた口元へと、忙しなく往復している。


 次の一切れを持ち上げる。

 やはり、アカネの視線がレーザービームのように箸の先に突き刺さる。


「……おい。お前、めっちゃ見てるぞ」

 啓介が箸を止めて指摘すると、アカネはプイッと明後日の方向を向き、

「あぎゃ?」

 と、俺は何も見てませんよという顔で、再び羽繕いを始めた。


 しかし、啓介がもう一切れ取ろうとした瞬間。

 バサッ!

 アカネは屋根から飛び立ち、ダイニングテーブルの端っこ、啓介の皿から一番近いギリギリの安全圏に着地した。

 そして、鼻先をスンスンと動かし、露骨に鶏肉の匂いを嗅ぎ始めたのだ。


「こら、駄目だぞ。これは人間用に油も調味料もガッツリ入ってるからな」

 啓介が手で遮ると、アカネは「あぎゃ」と短く鳴いたが、テーブルから離れようとはしなかった。


 啓介は、箸を止めて考え込んだ。

 先日の三崎との『初回生理データ測定』の記録を思い出す。

 システムは明確に回答していた。

『対象個体は、生命維持に必要な基礎エネルギーを外部食物のみへ依存することはありません』


 しかし、それに続く一文もあった。

『感覚刺激、嗜好、学習および社会行動として摂食することが可能です』

『通常の消化管処理を受けます』

『排泄されます』


 事実、啓介は山林でもマンションでも、アカネに常食としての餌を与えていない。

 それでもアカネは健康そのもので、元気に飛び回っている。魔法の力(マナの関連づけ)がある限り、「食べないと餓死する」ということは絶対にないのだ。


 だが。

「……『食べなくても生きていける(不要)』ということと、『食べたくない・美味しくない』ということは、完全に別問題なのか」


 人間だってそうだ。

 必要なカロリーを完璧に計算された味気ない完全栄養食のブロックを食べて満腹になっていたとしても、目の前に美味しそうなショートケーキを出されれば、別腹で食べたくなる。


「……もしかして、お前にも『好物(嗜好)』っていう概念があるのか?」

 アカネは当然、言葉では答えない。ただ、金色の目で鶏肉をジッと見つめている。


 しかし、だからといって「ほら食えよ」と安易に自分の夕食を分け与えるような真似は、啓介にはできなかった。


 アカネは未知の魔法生物だ。

 塩分がどう作用するのか。脂質をうまく分解できるのか。ニンニクやネギ類、チョコレートのように、特定の動物にとって猛毒になる成分が何なのか、全く検証されていない。


 さらに重要なのは、治療手段があるからといって、安全試験を省略できるわけではないことだ。

 啓介本人用の《日々の修繕》や《健全なる肉体》はアカネには使えないし、アカネに使える《召喚体修繕》にも【非治病】がある。外傷や組織損傷を修復できても、毒物・感染・寄生虫・代謝異常そのものを直接取り除くことはできない。原因が体内に残れば、修復しても再び悪化する可能性があるし、人間の医療(胃洗浄や点滴)が同じように効く保証もない。


「……ここは、ちゃんと安全を確認してからだな」

 啓介は心を鬼にして、その日はアカネに一切の鶏肉を与えず、自分の腹の中にすべて収めた。


 夕食後。

 啓介はスマートフォンを取り出し、三崎へ暗号化メールを送信した。


『相談。アカネに、生命維持とは関係なく、純粋な嗜好目的おやつとして少量の食物を与える場合の、安全な試験条件について指示を頼む』


 数分後、三崎から返信が来た。

『今度は何を食わせる気だ』


 啓介が返す。

『まだ何も食わせてない。そこを先に聞いてるんだよ』


 三崎からの返信は早かった。

『それならよし。今夜、ビデオ通話で話す』


 夜。

 パソコンの前で、三崎とのビデオ通話が繋がった。

 画面の向こうの三崎は、当直室のような部屋から白衣姿で答えた。画面の手前には、啓介の肩に乗ったアカネの顔も少し映り込んでいる。


 三崎が、開口一番に確認してきた。

「まず大前提として確認するが。こいつは、飯を食わせなきゃ死ぬわけじゃないんだよな?」

「ああ。今までの観察とシステムの回答から、それは間違いない」

「なら、これは『栄養管理』じゃない。純粋な『嗜好性と安全性の確認テスト』だ。そこを絶対に勘違いするな」


 目的を明確化する。生きるためではなく、安全な娯楽おやつを探すためのテストだ。

 三崎は、未知の生物に対する「摂食試験」の基本方針を淡々と指示した。


「未知の生物だ。何が種特異的な毒(犬にとってのタマネギのようなもの)になるか全く不明だ。だから、『美味そうに食べるから』とか『安全そうだから』といって、いきなり大量に食わせることは絶対禁止だ」


 三崎が提示した条件は以下の通りだった。

 ・一度のテストにつき、与える食材は「一種類」のみ。

 ・量はごく少量(人間の小指の先程度)。

 ・完全に加熱済みであること(生肉、生魚は寄生虫や食中毒リスクがあるため禁止)。

 ・無塩、無調味。油を使わない。

 ・人間用の加工食品ソーセージやハムなどは添加物が多いため禁止。

 ・人間用のお菓子、スナック菓子は論外。

 ・成分の分からない怪しい健康食品やサプリメントも禁止。


 啓介が尋ねた。

「じゃあ、ペットショップで売ってるような、犬猫用の無添加のおやつならどうだ?」

 三崎が呆れた顔をした。

「画面に映ってるそいつ、犬でも猫でもないだろ」

「ですよね」


 そして、三崎は最も重要なルールを、強いトーンで啓介に釘を刺した。

「いいか。一番勘違いしやすいポイントだ。『食べたがる』ことと、『その食べ物が身体に安全である』ことは、全く別問題だからな」


 人間だって、身体に悪いと分かっているジャンクフードや酒を喜んで摂取する。動物も、甘い不凍液を美味しいと思って舐めて死ぬことがある。

 アカネが目を輝かせて欲しがり、喜んで食べたからといって、それが「安全な食べ物だという証明」には絶対にならない。


「食べた後は、最低でも丸一日(二十四時間)以上、全身状態を厳重に観察しろ。便の異常、嘔吐、活動性の低下、呼吸の乱れ。少しでも異常があれば即刻中止だ」


 啓介はノートを開き、三崎の言葉を正確に記録した。

 見出しは、『《アカネ嗜好性摂食試験》』。


「よし。じゃあ、まずは第一回目の候補選定だ」

 啓介は提案した。

「この前の生理検査の時、俺がパンの白いところを少しだけ食わせた時、明確な異常は出なかった。でも、今回はもう少し『好きそう』なものを試したい」

 候補として、三崎と相談しながら三つをリストアップした。


 1.無塩・皮なし・油なしの、完全加熱した鶏のささみ肉。

 2.蒸したサツマイモ(プレーン)。

 3.完全に加熱したゆで卵の白身。


「これらを、一種類ずつ、数日間の間隔を空けて試す」

 啓介がスケジュールを組むと、画面越しの三崎が、ジロリと啓介を睨んだ。

「……お前。これ、三種類いっぺんに並べて『どれが一番好きか』の三択テストとか、くだらないゲームみたいな真似は絶対にするなよ?」


 啓介は、一瞬だけ沈黙した。

 実は、先日の「宝物の選別テスト」と同じノリで、密かにそれをやろうと考えていたのだ。

「……なんで分かった」

「お前のその性格なら、絶対に効率と好奇心を優先して並べて遊ぼうとすると思ったからだ」


 啓介は、素直に三崎の指示に従うことにした。


 週末の土曜日。

 いよいよ第一回目の試験の日。

 場所はマンションのリビング。わざわざ山林へ行く必要はない。


 啓介は、スーパーで買ってきた鶏のささみ肉を、一切の塩も油も使わず、ただお湯で中まで完全に火が通るまで茹でた。

 それを細かくほぐし、人間の小指の爪の半分ほどの、ごくごく小さな欠片を一つだけ、小皿に乗せた。

 しっかりと冷まして、熱くないことを確認する。


 キッチンで作業している間から、アカネはすでにソワソワと飛び回り、匂いに気づいているようだった。

 啓介が小皿を持ってダイニングテーブルに座る。


 アカネが、一直線に飛んできた。

「待て」

 啓介が鋭く言う。

 アカネは、皿を見る。啓介を見る。また皿を見る。

 ジリッと一歩前に出ようとする。

「待て」

 啓介がもう一度言うと、アカネは不満そうに「あぎゃ」と鳴いて、ピタリと止まり、一歩だけ後ろへ下がった。


「よし」


 啓介は、小皿をアカネの目の前へ差し出した。

 初めての、正式な「おやつ」だ。


 アカネは、すぐには食いつかなかった。

 慎重に、フンフンと匂いを嗅ぐ。

 それから、チロッと小さな舌を出して、肉の欠片の表面を舐めた。


 そして。

 パクリと、その小さな肉片を口に入れた。


 数秒間。

 アカネの動きが、ピタリと完全に停止した。

 咀嚼もしていない。ただ口に入れたまま、銅像のように固まっている。


 啓介の背筋に、冷たい汗が流れた。

 三崎からの『異常があればすぐ記録しろ』という言葉が脳裏をよぎる。

「……おい。大丈夫か?」

 毒だったのか? アレルギー反応か? 吐き出すか?


 次の瞬間。

 アカネが、バッ!と勢いよく顔を上げた。

 金色の瞳が、信じられないほどカッと見開かれている。

 そして、猛烈な速度で口をモグモグと動かし、ゴクンと飲み込んだ。


 啓介の顔を見る。

 小皿を見る。

 小皿は、当然空っぽだ。

 アカネは、信じられないという顔でもう一度小皿を舐め回し。

 啓介の顔を見る。


「……あぎゃ?」

「えっ、もうないの?」とでも言いたげな、切実な鳴き声。


 啓介は、脱力して笑い出した。

「……美味かったか?」

「あぎゃあ!!」

 即答だった。

 アカネの短い尻尾が、モーターでもついているかのように左右にパタパタパタパタ!と高速で振られている。嬉しさのあまり、小さな翼まで半開きになっている。


 アカネは、空になった小皿の上を執拗に舐め回し、皿の裏側までひっくり返して確認した。

 ない。

 啓介の指先に匂いが残っていないか嗅ぐ。

 ない。

 そして、先ほど肉を茹でていたキッチンのコンロの方向を、恨めしそうにジッと見つめた。


 アカネが、啓介の膝に前脚をかけ、背伸びをして鳴いた。

「あぎゃ、あぎゃあ!」

「駄目だ。今日はその一個だけだ」

「あぎゃああ!」

「うるさい。三崎先生との約束だ。絶対にこれ以上は追加しない」

 アカネにとっては、三崎という医者の権威など知ったことではない。さらに五分ほど粘り強く袖を引っ張って催促したが、啓介が絶対に立ち上がらないと分かると、最後は諦めたようにため息をつき、ソファの端でふて寝を始めた。


 啓介はノートを開き、記録を書き込んだ。


『第一試験:対象・加熱鶏肉(無調味)』

 自発摂取:あり。

 拒否反応:なし。

 摂取直後の異常:なし。

 追加探索行動(おかわり要求):極めて強烈。

 空皿の再確認:四回。

 使用者(啓介)への接近・アピール:増加。

 尻尾の振り:顕著。


 最後の行に、赤ペンで追記する。

『嗜好性:かなり高い可能性あり』

「……この項目だけ見てると、急にほのぼのペット飼育日誌みたいになってきたな」


 啓介は、それ以上追加を与えることはなかった。

 ここで重要なのは、「食べられなくても、苦痛で衰弱していくわけではない」ということだ。

 アカネは、ただ『欲しかった』だけであり、与えられなくても数分後にはケロッとして、床に置いてあった安全な木製リングを前脚で転がして遊び始めていた。

 生存のために不可欠な欲求というより、純粋な「楽しみとしての欲求」らしい。


 その後、二十四時間。

 啓介はアカネの状態を厳重に観察した。

 呼吸、行動の活発さ、飛行の安定性、水分の摂取。翌日の排泄物の状態。

 すべてにおいて、全く異常はなかった。


 システムからの過剰な精神分析(美味しいと思ったか等)は表示されない。ただ冷徹な事実として、

『摂食後の明確な身体異常:現在確認されず』

 という通知が出ただけだった。


 啓介は、三崎へ簡単な結果報告のメールを送った。

『鶏肉一片。異常なし。かなり欲しがった』


 すぐに返信が来る。

『「欲しがった」は医学的所見じゃない。もっと客観的に書け』


 啓介が返す。

『空皿を四回舐め回して裏まで見た。尻尾が千切れそうなくらい振られていた』


 三崎からの最後の返信。

『分かったから、カルテにそう記録しとけ』


 数日後。間隔を十分に空けてから、次の試験を行った。

 対象は「蒸したサツマイモ(無添加)」。

 鶏肉と同じ、ほんの小指の先ほどの量だ。


 アカネは匂いを嗅ぎ、パクリと食べた。

 モグモグと咀嚼し、飲み込む。

 そして、空になった皿を見て、啓介の顔を見た。


 だが、鶏肉の時のように「もっと寄越せ!」と狂喜乱舞して袖を引っ張るようなことはなかった。

「……食べるけど、そこまでテンション上がらない感じか?」

 アカネは「あぎゃ」と一度鳴き、普通に皿から離れていった。追加の要求はほぼゼロだった。


 さらに数日後。

 三つ目の候補。「完全加熱したゆで卵の白身」。


 アカネは匂いを嗅いだ。

 ごく小さな試験片の端を一口かじる。

 しばらくモグモグと咀嚼し、飲み込んだ。

 そして、皿に残ったほんの小さな欠片をジッと見て。


 ……そのまま、プイッと顔を背けてどこかへ飛んでいってしまった。


「お前……」

 啓介は、残された白身とアカネを交互に見た。

「食べ物でも、普通に『いらない(美味しくない)』っていう概念があるのかよ」

 生きていくためにカロリーが必須なわけではないのだから、嫌いな味のものを我慢して食べる理由はどこにもないのだ。


 三回の試験を終え、啓介のノートには綺麗な結果が並んだ。


『嗜好性・暫定順位』

 ・加熱鶏肉:◎(現時点で最も強い嗜好反応)

 ・蒸しサツマイモ:○(食べるが、執着はなし)

 ・加熱卵白:△(一口で興味を失う傾向)


「……たった三種類でランキングを作るなよ、俺」

 啓介は自分でノートにツッコミを入れた。個体差どころか、同じ物でも日によって気分で変わる可能性がある。人間と同じだ。


 ここで、啓介は最も核心となる『必要性の切り分けテスト』を行った。


 その後数日間、アカネに対して「おやつ」を一切与えない日を意図的に作った。

 結果。

 アカネは、普通に飛び、普通に遊び、普通に眠り、普通に水を飲んだ。

 体調が悪くなることもなく、元気に啓介の肩に飛び乗ってきた。


 外部からの食物摂取ゼロ。

 それでも、外見上の体格、活動性、飛行の安定性、呼吸状態に明確な悪化は見られなかった。

 家庭ではまだ正確な体重を量れていない以上、そこまで断定はできないが、先日の生理検査で得た結論を日常の観察も支持していた。

『食事は、生命維持に必須ではない』。


 なのに。

 次の土曜日。

 啓介が昼食の準備をしようと、キッチンで冷蔵庫を開けた。

 そして、常備菜を入れている「小さなプラスチックの保存容器」を一つ取り出した。


 パチン、と。

 タッパーの蓋のロックを外した、その瞬間。


 背後で、バサッ!という羽音がした。

 啓介が振り返ると。

 そこには、いつの間に移動してきたのか、キッチンのカウンターの上で、前脚を揃え、翼を畳んでちょこんと座っているアカネがいた。


 金色の目が、キラキラと輝いている。

 視線は、啓介の手にあるプラスチック容器に釘付けだ。


「……お前、今の蓋の音だけで飛んできたのか?」

「あぎゃ!」


 啓介は、その反応だけを記録した。

 容器を冷蔵庫へ戻すと、アカネの視線も名残惜しそうに冷蔵庫へ向いた。

 それで十分だった。

 同じ動作を何度も繰り返して反応を確認する必要はない。

 少なくとも、あの蓋の音と『鶏肉が出てくること』を関連づけている可能性は高い。

 啓介は容器を出し入れして遊ぶ代わりに、次はもっと実用的な合図を教えることにした。

 アカネは、冷蔵庫の前でまだ少し期待していた。


「音だけでも覚えるなら、言葉も覚えられるか?」


 今まで、啓介は鶏肉を与える時、特に決まった合図は出していなかった。

 啓介は、試しに容器を持たずに、手ぶらでアカネに向かって言葉を発してみることにした。


「アカネ。おやつ」


 最初は、反応はなかった。

 アカネは首を傾げて啓介の顔を見ているだけだった。

「まあ、そうだよな。言葉自体を知らないんだから」


 そこから、啓介の『条件付け学習』の訓練が始まった。

 毎回、安全確認済みの鶏肉をほんの極小片だけ与える直前に、必ず、

「おやつ」

 と、はっきり発音してから皿を出すようにした。


 健康管理上、毎日与える必要はないし、与えるべきでもない。

 週に数回、試験的に与える日だけ、必ずその言葉と行動をセットにした。


 数回、それを繰り返したある日のこと。

 啓介は、リビングのソファに座り、何も持っていない状態で、少し離れた場所にいるアカネに向かって声をかけた。


「アカネ。おやつ」


 バサッ!!

 別室の段ボールハウスで寝ていたはずのアカネが、弾丸のような速度でリビングへ飛んできた。

 そして、啓介の目の前のローテーブルにドスンと着地し、目を輝かせて鳴いた。

「あぎゃ!」


 啓介は、驚きで目を見開いた。

「……完全に、覚えたな」

『おやつ』という音列(言葉)と、『大好きな美味しいものが出てくる最高にハッピーな出来事』を、完全に結びつけて理解したのだ。


 ただし、今日は実験のため、一度だけ『無報酬』での反応を見る必要があった。


 アカネは、口を半開きにして待っている。

 しかし、いつまで経っても鶏肉は出てこない。

 アカネは、啓介の顔をジッと見た。

「……今日は、言葉を覚えたか確認しただけで、おやつはないぞ」


「あぎゃあ!!」

 完全に、詐欺に遭った被害者の声だった。


 アカネは怒ったように啓介の袖を前脚で引っ張り、キッチンの冷蔵庫の方を見てから、もう一度啓介の顔をジロッと睨んだ。


「分かった、分かった! これは約束を破った俺が悪い」

 本人の脳内では、完全に「おやつ、という言葉が出たら鶏肉がもらえる」という契約が成立していたのだ。

 啓介は猛省し、急いで冷蔵庫から安全確認済みの鶏肉の極小片を取り出し、皿に乗せて与えた。

 アカネは即座にそれを飲み込み、満足そうに尻尾をパタパタと振った。

「学習の確認のためとはいえ、無報酬で騙すようなテストは、信頼関係に関わるから今後はやめよう……」

 啓介は、動物の訓練における『正の強化』のルールの難しさを実感した。


 その後、「おやつ」という言葉と鶏肉を結びつける反応は、数回の訓練で安定した。


 啓介は、それ以上、容器の音を鳴らして反応を試すような確認はしなかった。

 音に反応することも、言葉に反応することも、もう十分に分かっている。

 大事なのは、アカネ自身がその出来事をどう使うかだった。

 それは、数日後の夜に分かった。


 啓介はキッチンにも立っていなかった。


 冷蔵庫も開けていない。

「おやつ」とも言っていない。


 ただ、リビングのソファでスマートフォンを眺めていた。

 そこへ、アカネがトテトテと歩いてきた。

 前脚を揃えてソファの上にちょこんと座り、啓介の顔を見上げる。


 そして。

 前脚で、啓介の膝をトントンと叩いた。


 今度は、人間側から何の合図も出していない。

 啓介が顔を上げると、アカネは啓介の目を見た。

 それから、キッチンの冷蔵庫の方をジッと見た。


「……まさか」

 もう一度、アカネが啓介の目を見る。

 その視線は、妙に分かりやすかった。

 今度は、アカネの方から要求を伝えようとしている。


 まさか。

「……おやつ?」


「あぎゃ!」

 即答だった。


 啓介は、壁の時計とアカネを交互に見た。

 当然だが、健康状態に異常はない。空腹で衰弱してフラフラになっているわけでもない。

 そもそも、食事など一切必要ない身体なのだ。


「……お前。生きるのに一切必要ないのに、自分から普通に『美味しいものが食べたい』って催促するようになったのか?」

「あぎゃ!」


 啓介はノートを開き、赤ペンで大きく書き込んだ。

『生命維持に必要:×』

『本人がただ欲しい:○』


 啓介は、少しだけ声に出して笑った。

「……そこは、ちゃんと別なんだな」

 先日の、宝物棚の「合理的な選別基準が分からない」という話とも繋がってくる。

 生物にとって、「生きるために合理的に必要かどうか」ということと、「本人がそれに価値を見出して欲しがるかどうか」は、完全に別ベクトルなのだ。


 ただし。

 催促されたからといって、そのたびに必ず与えるような「甘やかし」はしない。

 健康リスクが完全に解明されていない以上、習慣化しすぎて過剰摂取になるのは困るからだ。


 啓介は、アカネの目を真っ直ぐに見て言った。

「今日は、なし」


「あぎゃあ!」

 アカネは、翼を半開きにしてギャーギャーと不満を表現した。

 しかし、五分ほど抗議を続けた後、「今日は絶対にもらえない」と悟ると、あっさりと諦めて、床に落ちていた輪っか状のおもちゃを前脚で転がして普通に遊び始めた。


 啓介は、その切り替えの早さに感心した。

「……まあ、本当に食わないと死ぬわけじゃないからな。欲しいとは思っても、もらえなければ普通の生活に戻れるわけだ」

 少なくとも、今のところ「食べないと落ち着かない」という依存のような状態には見えなかった。


 啓介は、この一連の出来事を三崎に電話で最終報告した。

「ということで。生きるのに必要ないのに、自分からおやつを催促してくるようになった。あと、一回だけ『おやつ』と言って何も出さない確認をしたら、めちゃくちゃ怒られた」


 電話の向こうの三崎が、呆れた声で言った。

「そりゃ怒るだろ。覚えさせた合図を、お前の都合で一回だけ嘘にしたんだからな」

「やった後に俺もそう思った。もうやらない」

「ならいい。あと、催促するようになったのは、お前が『おやつ』という言葉と行動を関連づけて教えたせいでもあるからな」


「そうとも言う」

「そうとしか言わん」 だが、三崎は医師として、この現象そのものは非常に面白がっていた。


「医学的にも、生物学的にも面白いデータだ。生命維持に外部栄養を必要としないのに、味覚らしき嗜好があり、自発的に摂食し、好物への選択性を見せ、経験を記憶し、音や言葉から報酬を予期し、自分から催促までしている」

「つまり、こいつにとって『食べる』という機能そのものが、『生存のためだけ』についているわけじゃない可能性があるってことだな」


 啓介が尋ねた。

「ただの、快楽ってことか?」

「そうかもしれない。ただ、そいつが何をどう感じているか、直接言葉でヒアリングできない以上、人間の基準で『快楽』と言い切るのも早計だ。あくまで観察事実だけを記録しろ」

 先日の宝物の時と同じだ。行動は確認できる。しかし、内心の感情や判断基準までは、人間の勝手な解釈で決めつけない。


 三崎が、ふと話題を変えた。

「ところで」

「何だ?」

「これから、頻度は低いにせよ、継続してカロリーのある食べ物を与え続けるつもりなんだろ。だったら、最低限『体重の変化』くらいは日常的に追えよ」


 啓介は黙り込んだ。

 現在、アカネの定期的な詳細測定は、すべて三崎の健診センターの精密機器に頼っている。さっきも『見た目では痩せていない』程度しか確認できていない。

「おやつを極小片与えるたびに、いちいち病院に連れて行って量るのか?」

「無理に決まってるだろ。俺にも仕事がある。それに、見た目で痩せてないは測定じゃない」

「じゃあ、家庭用の測定環境が必要か」

「最低限、体重くらいは家で追えるようにしろ」


 啓介はノートに新しいタスクを追加した。

 《アカネ家庭健康管理環境の構築》

 体重。安静時呼吸数。外観(鱗、翼膜)。歩行の様子。排泄。摂食後の反応。水分摂取量。飛行後の回復時間。

「……家でやんなきゃいけない項目、一気に増えたな」


 電話を切った後。

 啓介は、ソファで遊んでいるアカネを見た。


 さっき、「おやつ」という音を聞いただけで、別室から弾丸のように飛んできた。

 つまり。

『この好物(報酬)をうまく使えば、あいつの行動訓練が劇的にやりやすくなる』ということだ。


 啓介は、試しに安全確認済みの鶏肉の極小片を指先につまみ、アカネに見せた。

 アカネの目が輝く。


 啓介は、リビングの隅にある段ボールの仮住居を指差した。

「アカネ。ハウス」


 バサッ!!

 一瞬だった。

 アカネは空気を切り裂くような爆速で段ボールの中へと飛び込み、入口から顔だけを出して、期待に満ちた声で鳴いた。

「あぎゃ!」


 啓介は、あまりの速さに呆然とした。

「……速っ。普段の俺の命令の時の、倍くらい素直で動きがいいじゃないか」

 啓介は苦笑しながら、鶏肉の小片をアカネに与えた。

 アカネは一瞬でそれを飲み込み、尻尾をパタパタと振りまくった。


 啓介は今後の訓練計画を練った。

 呼び戻し、ハウス(家に入る)、体重計に乗って静止する、翼を広げての健康確認、そして山林での「緊急退避訓練」。

 これまでは啓介の気迫や、繰り返しの反復練習だけで教えていたが、「おやつ」という『正の強化』を使えば、アカネが嫌がらない形で、より複雑な行動を教える強力な手段になる。


「でも、毎回これがないと言うことを聞かない『賄賂依存』の状態にするのは絶対に違うな」

 訓練初期の定着には使う。だが、覚えた後は「毎回必ず与える」のではなく、「褒めるだけの日」もランダムに織り交ぜていく。

 特に、山林での緊急退避行動は、「本番の危険な時におやつを持っていなければ動かない」では、文字通り命取りになるからだ。


 そして、この「ハウス(隠れる)」の訓練は、マンションでの最大の未整備事項の解決にも繋がることに啓介は気づいた。


『来客時の、アカネの迅速な退避』だ。

 宅配便。ガスの点検業者。管理会社の人間の突然の訪問。

 今までは、啓介がドアを開ける前にアカネを別室に隔離するなど、人間側が細心の注意を払って対応してきた。

 でも、アカネ自身にも「インターホンが鳴る、または啓介が特定の合図を出したら、即座に隠れる」というルーティンを覚えさせられれば、秘匿の安全性は格段に上がる。


「……これ、来客対応の訓練にも使えるな。よし、明日から仕込もう」


 その夜、バインダーには、今回の観察結果をまとめる控えめなログが流れた。

 新しい能力の説明ではなく、あくまでアカネの行動記録だ。

 啓介は表示された三行だけを、そのままノートへ写した。


『固有召喚体による自発的摂食行動:継続確認』

『特定摂取物(加熱鶏肉)に対する反復的接近行動:確認』

『音声刺激「おやつ」と摂食機会の関連学習傾向:確認』


 啓介はシステムに向かって毒づいた。

「そこまで分析できるなら、あいつが何を美味いと感じてるのかの味覚データくらい教えてくれよ」

 当然、システムからの答えはなかった。


 夜。

 一日の記録をまとめようとしていた啓介は、麦茶を飲もうと立ち上がった。

 ノートは開いたまま、ローテーブルの上に置いてある。

 まだ最終結論を書き込む前だった。

 啓介が冷蔵庫へ向かう。

 その気配だけで、ソファで寝ていたアカネの頭が持ち上がった。

 加熱鶏肉への嗜好は、どうやら今のところ本物らしい。

 アカネは啓介を見る。

 次に、冷蔵庫の扉を見る。

 そして、期待に満ちた金色の目でもう一度啓介を見た。

「……違うぞ。俺は自分の麦茶を飲むだけだからな」


 啓介は先回りして牽制した。


 冷蔵庫のドアを開け、麦茶のボトルを取り出す。

 アカネは前脚を揃え、翼を畳んで冷蔵庫の前にちょこんと座った。

 啓介はグラスに麦茶を注いだ。

 それから冷蔵庫を閉める。


「今日はもうおやつ終わり。店じまいだ」

「あぎゃあ……」


 アカネは、この世の終わりのような声を出した。

 啓介がソファへ戻ると、アカネもトテトテとついてくる。

 前脚で啓介の膝をトントンと叩き、もう一度だけ冷蔵庫を見る。


「だから、お前は食べなくても健康に生きていけるんだろ!」

「あぎゃ!」

「『それとこれとは別だ』って顔するな」


 アカネはしばらく「あぎゃあ、あぎゃあ」と文句を言っていた。

 だが、やがて諦め、啓介の膝の上によじ登ってクルンと丸くなる。


 数秒後。

 スヤスヤという寝息が聞こえ始めた。


 啓介は、膝の上の小さな背中を撫でながら、ローテーブルのノートを引き寄せた。

 《アカネ嗜好性摂食・暫定結論》


 ・外部栄養摂取は生命維持に必須ではない。

 ・それでも自発的に食物を摂取する。

 ・食材ごとに明確な反応差がある。

 ・加熱鶏肉への嗜好は現時点で特に強い。


 ・好物の提示を予測し、関連する音や言葉を学習できる。

 ・自ら催促行動を行う。

 ・「欲しい」と「必要」は別。


 ・継続的に与える場合は、家庭で体重などの健康状態を追跡する必要がある。


 その下へ、最後の二行を書き加える。

『食事不要の魔法生物なのに、おやつは欲しがる。』


 数秒考えてから。

『……妙に、生き物らしい。』


 さらに新しいタスクを一つだけ追記した。『家庭用体重計の選定。アカネが自分から乗れること。小さな体重変化を追える精度があること。』 啓介は眠っているアカネを撫でながら、小さく呟いた。


「……明日、探すか」

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