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第21話 小竜の宝物棚を増やしたら選別基準が分からないらしい

 月曜日の夜。

 会社から帰宅し、遅めの夕食を終えた啓介は、リビングのローテーブルでノートを開いていた。

 今日、アカネはマンションで一緒に留守番をしていた。現在、啓介のすぐ横の段ボール製仮住居の屋根に乗り、羽繕いをしている。


 啓介の視線は、前日の夜に書いたノートの最後の記録――『宝物棚の容量不足』という一文に止まっていた。

 前夜は勢いで『深刻な問題』とまで書いた。


 啓介は、腕を組んでその一文をじっと見つめた。

「……深刻ではないな」

 物理的な生死や、防犯の問題と比べれば、棚が狭いことなど些末な問題に過ぎない。

 数秒考え、訂正する。

「いや、俺にとっては些末でも、お前には深刻な問題なのか?」


「あぎゃ?」

 アカネが不思議そうに首を傾げた。


 啓介は、スマートフォンで青梅の山林に設置した監視カメラの映像を開いた。

 赤外線カメラが捉える《アカネの守り巣》の内部。

 アカネの専用寝床のすぐ横にある、小さな『宝物棚』は、先週の収集物でほとんど埋まっている。

 特に、最後に加わった松ぼっくりが妙に場所を取っていた。


 プルタブ。

 磨いた小石。

 金属製のボタン。

 赤い丸石。

 黒い木の実。

 小さな木片。

 そして、棚のかなりの面積を奪っている、猫が転がして遊んでいた松ぼっくり。


 一つ一つを再確認するまでもない。問題は、もう置き場所がないことだった。

 啓介は画面に向かってツッコミを入れた。

「棚が狭い原因、ほぼお前の松ぼっくりじゃねえか」


 システムエンジニアとしての一般的な思考ロジックで考えれば、解決策は簡単だ。

『ストレージの容量が一杯になったなら、不要な古いデータを削除(廃棄)すればいい』。


 しかし、啓介はそれをよしとしなかった。

 どれが「不要なゴミ」で、どれが「大切な宝物」なのか?

 啓介には全く分からないのだ。


「俺の勝手な基準でゴミ認定して、留守中にこっそり捨てるのは違うよな」

 それは、生き物の意思と所有権を無視した行為だ。アカネは単なるゲームのインベントリ(道具袋)ではない。自分の意思で拾い、並べている『一個体』なのだ。


 啓介は、ノートの新しいページを開いた。

 《アカネ宝物棚・増設要件》


 相変わらずのガチの要件定義が始まる。

 ・現在の棚は解体せず、そのまま残す(本人が気に入っている配置を壊さないため)。

 ・収納容量を現在の三倍程度に拡張する。

 ・物が転がり落ちないよう、前縁に低いストッパー(落下防止枠)をつける。

 ・翼や顔を怪我しないよう、鋭利な角は徹底的にヤスリで丸める。

 ・アカネ自身が咥えてスムーズに出し入れできる高さと奥行きにする。

 ・清掃しやすいように、塗装でコーティングする。

 ・小屋の避難スペースや、出入り口の動線を邪魔しない配置にする。

 ・寝床から離しすぎず、いつでも目視できる位置。

 ・湿気がこもらない通気性の確保。

 ・重い石などを置いた時に小屋が傾かないよう、高所を避けて低い位置に増設する。


 さらに、啓介は重要な運用ルールを書き加えた。

 《収集物・安全基準》

 持ち込み禁止:鋭利な金属(刃物や錆びた釘)、ガラス片、腐敗物、動物の死骸、糞、カビの生えた木、農薬などの薬品が付着している可能性がある物、小さすぎて誤飲しそうな物、正体不明の人工の化学物質。


「……なんか、保育園児の持ち物チェックみたいになってきたな」

 啓介は苦笑した。


 しかし、ここは自然の山だ。「完全に安全な無菌状態の自然物だけを拾え」と命じるのは不可能だし、それでは宝探しの楽しみがなくなってしまう。

 そこで、運用ルールを決めた。

『アカネは好きに集めていい。ただし、俺が山へ行った日に【宝物検品】を行う。問題がなければ残す。危険な物は撤去し、できれば安全な代替品を用意する。ただし、勝手に捨てず、アカネの目の前で回収する』


 ここで啓介は、ふと魔法のシステム的な疑問にぶつかった。

「待てよ。《アカネの守り巣》は、すでに恒久的な魔法の施設カードとして定着している。その中に、俺が後から物理的に棚を釘で打ち付けたりして改造した場合、それは『魔法的な再設計』になって、またマナを取られるのか?」


 啓介はバインダーを呼び出し、システムに確認した。

 回答。

『対象となる行為は、既存の施設構造に対する【軽微な物理構成の変更(増設)】として処理されます』

『施設全体の防御機能や、恒久的な魔法効果そのものへの変更(機能追加)を伴わないため、システム上の再設計は不要です』

『したがって、追加の再定着費用(マナ消費)は発生しません』


 啓介はホッとした。

「よかった。棚を一段増やすたびに境界マナとか要求されたら、たまったもんじゃないからな」

 これは非常に重要な運用ルールだった。魔法の施設であっても、新しい魔法効果を持たせない「普通の現実の修理や増改築」なら、マナなしで自由に行えるのだ。


 週末の土曜日。

 啓介は、大まかな寸法まで加工した棚板と、今回のために先週買い足した小型の充電式電動ドライバーを車に積み込み、アカネを連れて青梅の山林へと向かった。最終的な切り詰めや穴位置の調整は、現物に合わせて行うつもりだ。


 車を停め、キャリーケースから出たアカネは、一直線に《アカネの守り巣》へと飛んでいった。

 内扉を器用に開けて入り、一番に宝物棚へ向かう。

 先週置いていった松ぼっくり。プルタブ。小石。

 すべてが元の位置にあることを確認し、鼻先でツンツンと触ってご機嫌に喉を鳴らした。


「おい、誰も盗まないよ」

 啓介は呆れながら、持参した工具箱《小さな工房箱》を開けた。


「悪いが、棚を工事する間だけ、宝物を一時的に箱へ移させてもらうぞ」

 啓介が、一番お気に入りのプルタブを手に取った瞬間。

「あぎゃ!?」

 アカネが血相を変えて飛んできて、啓介の手の甲にポンッと前脚を乗せた。


「捨てない。取らない。工事の振動で落ちるから、ちょっと避難させるだけだ」

 啓介はプルタブを、持参した透明なプラスチックの小箱の中に置いた。

 アカネは、箱の縁に止まり、首を突っ込んでプルタブがちゃんと中にあることをジッと確認した。


 次に、啓介が松ぼっくりを移動させた。

「あぎゃあ!」

 今度は明らかに不満そうな、抗議の声を上げた。

「だから、戻すって言ってるだろ」

 啓介は、アカネがこの松ぼっくりを相当気に入っていることを改めて認識した。


 工事が始まった。

 《アカネの守り巣》と同じダークグリーンと赤茶色の内装材を使い、旧棚のすぐ隣から下へ向かって、階段状に二段の新しい棚を取り付けていく。

 一般的な本棚ではない。アカネが使いやすいように、一段の高さは低め、奥行きも浅く設計し、前縁には物が転がり落ちないように数ミリのストッパーを付けた。

 角は入念にヤスリで丸め、ネジの頭は深く埋め込んでパテで塞ぐ。


 電動ドライバーの「ウィィィン!」というモーター音が森に響く。啓介は一度だけ周囲へ耳を澄ませたが、これは隠す必要のある音ではない。山林の所有者が休日にDIYをしているだけに聞こえる、ごく普通の生活音だ。

 アカネは当然、退避させた宝物よりも、動いて音の鳴る工具を見る方が面白かったらしく、啓介の手元に顔を近づけて電動ドライバーを凝視していた。


 施工中、切り落とした小さな木材の端材が、ポトリと小屋の床に落ちた。

 アカネがそれに反応し、トテトテと歩み寄って咥えた。

「あ、それゴミだから……」

 言いかけて、啓介は言葉を止めた。

 アカネは、その端材を咥えたまま、一時退避用のプラスチック小箱の中へポイッと入れたのだ。


「……それも宝物なのか?」

 アカネは「あぎゃ」と得意げに鳴いた。

 尖った部分もなく、ヤスリがけされた安全な木片だ。啓介は、そのまま許可することにした。


 数十分後、棚の増設工事が完了した。

 旧棚の一段に加えて、新しい二段。収納容量は一気に約三倍に拡張された。


「よし、できたぞ」

 啓介は、プラスチック箱から一時退避させていた宝物たちを、新しく広くなった棚へ見栄え良く並べてやろうとした。


 元のプルタブを、新しい棚の上段の真ん中に置く。

 瞬間、アカネがスッと飛んできてプルタブを咥え、元の旧棚の一番奥の定位置へと戻してしまった。

「……ん?」


 啓介は、松ぼっくりを新棚の中段に置いた。

 アカネは即座に飛んできて松ぼっくりを咥え、旧棚へ戻した。


 赤い丸石。

 啓介が新棚へ。アカネが旧棚へ。


 黒い木の実。

 啓介が新棚へ。アカネが旧棚へ。


 金属のボタン。

 啓介が新棚へ。アカネが旧棚へ。


 新しい棚は、完全に空っぽのままだった。


「……おい」

 啓介がじと目で見る。

「あぎゃ?」

 アカネは無実の顔で首を傾げた。

「その棚、お前が窮屈そうだからわざわざ俺が休日返上で作ったんだけど」

 アカネは知らん顔で毛繕いを始めた。


 啓介は、一つの仮説を立てた。

『仮説1:棚の位置が嫌なのか?』

 少し寝床から離れすぎた? 入口から直接見えない位置だから不安なのか?

 しかし、新棚は旧棚の真下に隣接しており、距離も角度もほぼ同じ条件だ。


『仮説2:高さが嫌なのか?』

 新棚は下段だから、高いところを好む習性に合わないのか?

 啓介は、新棚の一番上の段(旧棚と同じ高さ)に、さっきその辺で拾ってきた適当な普通の石を置いてみた。

 アカネはそれを一度チラリと見たが、完全に放置した。


 啓介は、ため息をついた。

「分かった。俺が勝手に並べるのが嫌なんだな。自分の部屋は自分でレイアウトしたいタイプか」


 啓介は、旧棚に乗っている宝物を、もう一度すべて一時退避用の箱へ戻した。

 そして、アカネの前に箱を置いた。

「好きに戻してみろ」

「あぎゃ!」


 アカネの『自主配置』が始まった。


 まず、一番最初から持っているプルタブを咥え、旧棚の奥へ。

 次に、猫の遊んでいた松ぼっくりを、旧棚の手前へ。

 赤い丸石を、旧棚の中央へ。


 そして。

 黒い木の実を咥えると、アカネは旧棚には向かわず、新しく作った棚の下段へとポトッと置いた。

 さっき拾った端材の木片も、新棚へ。

 金属のボタンは、旧棚へ。

 啓介が適当に拾ってきた石は、箱から出そうともしなかった。


 啓介は、その配置をじっと見ていた。

「……おい。お前、ちゃんと分けてるのか?」


 配置状況。

【旧棚】最初のプルタブ、金属ボタン、赤い丸石、猫の松ぼっくり。

【新棚】黒い木の実、木片。


 明らかに、すべてのアイテムが「同格」として扱われているわけではなかった。

「……お前、元の棚を『お気に入り棚』、新しい方を『普通棚』に分けたのか?」

 アカネは知らん顔をして、松ぼっくりを少しだけ奥へ押し込んだ。啓介はノートの端に、便宜上『旧棚=一軍、新棚=二軍』とだけ仮称を書いた。


 システムからも、補助表示が流れる。

『固有居住者による収集物の【自主的分類】を確認しました』


 それだけだ。

「分類の基準ロジックも教えてくれよ」

 当然、システムは沈黙したままだ。

「そこが一番知りたいんだよ」


 ここから、三十六歳のシステムエンジニアの悪い癖が顔を出した。

 明確な分類ロジックが存在するならば、その条件アルゴリズムを解明したくなるのだ。


 ノートを開き、書き出す。

 《アカネ宝物選別基準・仮説》

 ・光沢

 ・色

 ・形状(丸いなど)

 ・手触り

 ・匂い

 ・自分で拾ったか

 ・他個体(猫など)との経験が絡むか

 ・啓介との経験が絡むか

 ・入手難度


 啓介は、アカネが嫌がったら即終了させるという条件のもと、簡単な「おもちゃ選びテスト」を始めることにした。

 あくまで動物実験ではなく、少し賢い犬に「どっちの手に入ってるか」をやらせる程度の軽い遊びだ。

 山の家に持ち込んだ、事前に洗浄済みの安全な候補アイテムをいくつか用意した。


【仮説A:光沢説】

 キラキラ光るものが好きなのか?

 啓介は、ピカピカの新しいアルミ製ボトルキャップと、アカネが元から持っているくすんだ古いプルタブを、少し離して並べた。


 光る物を好む動物もいる。なら、まずそこから切り分ければいい。

 アカネは、新しいキャップの匂いをフンフンと嗅いだが、すぐに無視した。

 そして、くすんだ古いプルタブをサッと咥え、旧棚へと即座に回収した。


「光沢じゃないな」


【仮説B:色説】

 赤いものが好きなのか?

 小屋を作った時も、赤茶系の内装材を好んだ。赤い丸石も旧棚側に置いている。

 啓介は、安全な赤い樹脂のブロックと、白い樹脂のブロックを同サイズで用意し、並べた。


 アカネは、赤い方へ歩み寄り、前脚で少し転がして遊んだ。

 だが、それを「宝物」として棚へ持ち込もうとはしなかった。

「赤なら何でもいいってわけじゃないらしい」


【仮説C:丸い形状説】

 赤い丸石が好きなら、形なのか?

 啓介は、丸い灰色の石と、角張った赤い石を並べた。

 アカネは、両方とも完全に無視して通り過ぎた。


「形でも色でもない……」


【仮説D:自分で発見・取得した経験説】

 これは極めて有力だった。

 これまで旧棚に置いた宝物は、アカネが自分で見つけたものか、以前から自分の物として扱っていたものが多い。


 啓介は、綺麗な瑪瑙めのうのような小石をアカネの目の前に置いた。

 アカネは無視。


 次に、同じ種類の小石を、啓介がわざとアカネから少し離れた山の地面の落ち葉の中に軽く転がして隠した。

 アカネがそれに気づき、トテトテと歩いていって、落ち葉の中から自分で「発見」した。


 アカネは、その石を咥え、新棚へと置いた。

「おおっ」

 啓介は少し感動した。

『所有取得の経験(自分で見つけたこと)』が、価値の源泉になっているのだ。かなり有力な仮説だった。


 しかし、その仮説は数分後に即座に破綻した。

 棚の増設工事中に出た、あの『木片』だ。

 あれはアカネが山で「発見」したものではない。啓介が現地で棚板を実寸に合わせて切り詰めた時に出た端材だ。自分で見つけたわけでもないのに、あれは新棚へ収められている。


「……『自分で拾った』だけが絶対条件じゃないな」


【仮説E:啓介が関わった物説】

 木片は、啓介が作業中に出したものだ。金属のボタンも、元は啓介のシャツについていたものだ。

 もしかすると、「啓介との経験」が絡んでいるのか。


 啓介は、先ほどの棚工事で使って余っていた、大きめの新品のステンレス製ワッシャー(丸い金具)を一個取り出した。

 安全を確認し、手渡してみる。


 アカネは受け取り、コロコロと転がしてちょっと遊んだ。

 しかし、すぐに飽きてそのまま床に放置した。


「俺が直接手渡した物なら何でも宝物になる、ってわけでもないのか」


【仮説F:他の生き物が関わった物説】

 では、一番の謎である「猫が遊んでいた松ぼっくり」が旧棚に置かれている理由はなんだ?


 啓介は、山の中を歩き、同じくらいのサイズの普通の松ぼっくりを拾ってきた。

 アカネの前に、並べる。

『猫が遊んでいた松ぼっくり』と、『啓介が今拾ってきた松ぼっくり』。


 アカネは、ほぼ迷うことなく、

『猫が遊んでいた方』を咥え、旧棚へと戻した。

 もう一つの普通の松ぼっくりは完全に無視された。


 啓介は唸った。

「……お前、あの夜の出来事を覚えてるのか?」 そういえば、猫が落ち葉を叩いた直後、アカネも同じように葉を叩いていた。他個体の行動を見て、興味や遊び方を学んでいる可能性もある。


 これは面白い結果だった。

 だが、ここから『あの夜の出来事を記憶して価値を見出している』と断定するには、まだ変数が多い。

 猫が触ったから、猫の『匂い』が微かについているだけなのかもしれない。なら、同じ種類の松ぼっくりを猫の通り道に置き、実際に触った別個体を用意する。あるいは、猫が別の安全な物へ触れる場面をカメラで確認し、その物への反応を見る。そうすれば『猫の匂い』と『あの夜の記憶』を少しは切り分けられる。


「切り分け方はある。でも、《自由気ままな猫》を実験のために都合よく動かせるわけじゃない。今日すぐには無理だな……」


【仮説の崩壊】

 元のプルタブと、似た形の新しいプルタブを並べても、アカネは元のものしか選ばなかった。

 しかし、二つの間には、匂い、傷、金属の酸化度合い、手触り、そして「初めての宝物」という記憶、すべてが違っている。


「何を識別して選んでるのか、全然分からん」


 啓介は、スマートフォンを取り出し、三崎へ相談のメールを打ちかけた。

『アカネの宝物の選別基準についてだが……』

 入力し、消す。

 三崎は人間の医者であって、動物行動学の専門家ではない。しかも、休日の医者に「俺のドラゴンの宝物の好みが分からん」とメールを送るのも、どう考えても頭がおかしい。


 啓介はスマートフォンをポケットに戻した。

「……これは、自分で考えよう。今回は三崎の出番じゃない」


 啓介が次の検証の候補を並べようとした時。

 アカネは、完全にこの実験に飽きていた。

 棚の上の寝床で、あくびをして目を閉じている。


「あ、はい。終了ですね」

 猫の匂いと記憶を切り分ける方法も、別の比較試験も思いついている。だが、本人がもうやる気を失っているのに続ける理由はない。啓介はそれ以上、無理に実験を続けることをやめた。


 意図的な二択テストでは分からない。

 ならば、日常の行動の中で観察するしかない。

 啓介は残りの作業(棚の増し締めや清掃)に戻り、アカネには自由行動を許した。


 その時、謎の現象が起きた。

 啓介が棚の取り付けで使っていた、先ほどと同じ大きめのステンレス製ワッシャー。それが、啓介の手元から滑り落ちて、床にカランと音を立てて転がった。


 さっき、啓介が手渡した時は「不採用」にして放置した新品のワッシャーだ。

 なのに。

 アカネがその音に反応し、トテトテと歩いてきて、それを拾い上げた。


 そして、あろうことか。

 そのワッシャーを咥えて家へ入り、よりによって旧棚――啓介が仮に『一軍』と呼んでいた側へと誇らしげに置いたのだ。


「…………は?」

 啓介は完全に固まった。


 先ほどと同一の型番。新品。材質も重さも全く同じ。

 違うのは、「啓介から直接手渡された」か、「啓介の作業中に偶然落とした音を聞いて、自分で拾いに行った」か、という経緯シチュエーションだけだ。


 啓介の頭の中で、一つの美しい仮説が組み上がった。


『仮説G:物そのものではなく、手に入れた時の出来事イベント説』


 プルタブ。マンションで初めて拾った宝物。

 赤い石。初めて一匹で山を探検した夜に見つけたもの。

 松ぼっくり。猫との妙な交流と、決められた境界を越えずに我慢した夜の記憶。

 木片。啓介が自分のために家や棚を作ってくれた時の端材。

 ワッシャー。啓介の作業を真剣に見学していた時に、偶然落ちてきたもの。


 すべて、ただの物体ではなく、『アカネにとって意味のある経験とセット』になっているのではないか?


 啓介は、少し感動すら覚えていた。

「お前、物そのものの価値じゃなくて、手に入れた時の『思い出』を集めてるのか?」

「あぎゃ?」

 アカネは純真な瞳で首を傾げた。

 それは、ひどく美しく、ロマンチックな仮説だった。


 しかし。

 その美しい仮説は、数十分後に即座に粉々に台無しになる。


 帰る直前。

 アカネは、家の前の何もイベントが起きていない普通の地面を歩いていた。

 そして、そこにあった、何の変哲もない茶色い小石を見た。

 拾った。

 そのまま旧棚へと置いて、満足そうに鼻を鳴らした。


 啓介は、絶望的な声を出した。

「……なんでだよ」


 その茶色い石には、何の思い出もない。特別な色でもないし、光沢もない。丸くもないし、猫も啓介も触っていない。ただのそこら辺にある小石だ。

 啓介はノートを開き、書き殴った。


【仮説のまとめ】

 光沢 → ×

 赤色 → ×

 丸形 → ×

 自分で発見 → △(不十分)

 啓介との関連 → △

 他個体との関連 → △

 特定の匂い → 未検証

 思い出 → 有力?


 その一番下へ、力強く追記する。


『茶色い普通の石:完全に説明不能。』


 啓介はペンを投げ出した。

「……何なんだよ、お前のその基準は」


 だが、啓介はふと冷静になった。

 人間だって同じではないか。

 なぜ海で拾ったその変な形の貝殻が好きなのか。なぜ旅行先で買ったボロボロのキーホルダーを捨てられないのか。

 値段でもない、見た目でもない、合理性でもない。完全に言語化して他人に説明できるとは限らないのだ。


 ならば、未知の生物であるアカネに対して、「数学的でロジカルな選別アルゴリズム」を要求する方が、システム屋の傲慢というものだろう。


「まあ、お前が好きなら、それでいいか」

 啓介が諦めて言うと、アカネは茶色い石を鼻先でツンと押して、ミリ単位で位置を修正し、満足そうに丸くなった。


 夕方。

 最終確認をすると、旧棚には『お気に入りらしい物』、新棚には『その他の宝物』が置かれている。

 ただし、その分類は絶対の固定ではないらしく、アカネ自身が時々気まぐれに移動させていた。

 新棚に置いていた物を旧棚へ移したり、逆に旧棚から新棚へ移したりしている。

 本人の中で「評価」が変わるらしい。ますます基準が分からなかった。


 システムからの評価が流れた。

『固有居住者による収納設備の継続利用を確認しました』

『収集物の自主配置・自主分類を確認しました』

『軽微な物理構成変更:定着しました』

『恒久効果への変更:なし』


 マナの増加もないし、新しい魔法能力が追加されたわけでもない。

 啓介はそれで十分に満足だった。

「うん。今日はそれでいい」

 何でもかんでも、無理に魔法的な報酬レベルアップに繋げる必要はないのだ。


 一方で、《小さな工房箱》の維持実績はしっかりと積まれていた。

 棚を増設するため、ただ木をボンドでくっつけただけでなく、正確に測り、切り、面取りをし、ネジで組み、固定し、最後は掃除まで行った。

『直近七日間の製作・整備実績:確認』

 これで、翌日以降の「物資1」の生成条件は余裕でクリアだ。

 しかしこれも、特別な大げさな報酬ではなく、啓介の普段の生活サイクルの中に組み込まれた日常だった。


 帰宅前。

 啓介はアカネにもう一度、宝物のルールを言い聞かせた。

「いいか。拾うのは自由だ。でも、俺が必ず安全かどうかの検品をする。危ないものは絶対に取り上げるからな」

 どこまで理解したか不明だが、啓介が道端にあった錆びた鋭利な金属片を見せて「こういうのは駄目だ」と言うと、アカネは全く興味を示さなかったので、「そこは助かる」と安堵した。


 帰り際、遠くのフェンスの外周に、あの《自由気ままな猫》の姿が見えた。

 アカネが猫を見る。猫もアカネを見る。

 今回は落ち葉で遊ぶこともなく、猫はそのまま無関心に通り過ぎていった。

 アカネも、宝物棚の松ぼっくりを一度確認しただけで、特に威嚇はしなかった。

「……関係を急激に進めない。この程度の距離感でいい」


 今日はアカネも一緒にマンションへ帰宅する。

 キャリーケースに入る前、アカネは一度《アカネの家》へ戻り、棚の上の松ぼっくり、プルタブ、茶色い謎の石を確認した。

 それから、自分でトテトテと歩いてキャリーケースの中へ入った。

「はいはい。お前の宝物は誰も取らないし、どこにも逃げないよ」


 マンションへ帰宅した夜。

 啓介はノートを開き、《アカネ宝物選択傾向》のまとめを書いた。


【確認事項】

 ・収集対象を無差別に拾うわけではなく、明確に選別している。

 ・収集物同士にも優先順位が存在する可能性が高い。

 ・自発的に二つの棚を使い分ける。

 ・同型の物であっても「いつもの自分の物」を区別できる。

 ・猫の落ち葉遊びを真似したように、他個体の行動を参照して興味や遊び方を学ぶ可能性がある。

 ・入手時の『経験(思い出)』が価値へ影響する可能性がある。


 そして、結論。

【選別基準】

『完全に不明』


「……半日付き合って、結論が『分からん』か」

 いや、今日やったのは厳密な認知実験ですらない。

 啓介は自分で自分にツッコミを入れた。

「……半日で、こいつの好みを全部解析できると思ってる方がおかしいか」


 アカネの、模倣、個体識別、記憶、好み、分類能力は非常に興味深い。今後の観察項目として残しておく価値は十分にある。

 でも啓介は、アカネを狭い箱に閉じ込めて認知テストを繰り返す「実験動物」にしたいわけではなかった。

 だから当面は、無理に解剖しようとせず、日常の中でゆっくりと観察していくことに決めた。


 それは、三崎の「身体の安全基準は絶対に測らなければならない」という徹底した生理検査の姿勢との、明確な違いだった。

 命に関わるデータは取らなければならない。でも、「好きなものの理由」まで、人間の都合で無理やり解剖する必要はないのだ。


 啓介は、通販サイトで「小型のアクリル製収納ケース」をぼんやりと見ていた。

 山の宝物棚は、今日で十分に増築した。

 なのに。

「……マンションの仮住居の側にも、お前用の宝物棚いるか?」


 今まで、山の宝物はすべて山に置いている。

 でもこれから、マンションで生活している間にも、こいつは何かを拾うかもしれない。


 啓介が振り返ると。

 床に落ちていた、啓介がさっき外したばかりのペットボトルのキャップを見つけ、アカネが匂いを嗅いでいた。

 前脚でチョイッと転がす。


「お?」

 啓介が期待して見ていると。

 アカネは少し考えた後、そのままキャップを放置して歩き去った。

「……いらないのかよ」


 そしてアカネは、なぜかテーブルの下に落ちていた、何の変哲もない茶色い『輪ゴム』を咥えた。


「おい、それは宝物にするな。誤飲したら危ないから返せ」

「あぎゃあ!」

 啓介が強引に取り上げると、アカネは激しく抗議した。


「……やっぱり、お前の基準は一生分からんわ」


 啓介はノートの最後に追記した。

『結論:選別基準不明。なお、安全基準については、アカネの価値判断よりも人間の俺の判断が絶対に優先されるものとする。』


 さらに。

『宝物棚の容量:約三倍に拡張。現時点の空きスペース:約六割。』

 数秒見つめてから、もう一文。

『このペースで謎のガラクタを集め続けるなら、たぶん数ヶ月以内にまた増築工事が必要になる。』


 横でアカネが、取り上げられた輪ゴムを諦めきれずにウロウロと探している。

「駄目なものは駄目だ」

 啓介は輪ゴムをゴミ箱へ捨てた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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