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第11話 三十八万円の山が本当に自分のものになるらしい

 土曜日の朝。

 青梅の山林の残代金決済へと向かう前、啓介は予定通り、三崎の勤務する健診センターへ立ち寄った。


 今日は、啓介自身に《健全なる肉体》を使用してから、ちょうど一週間後。

 三崎と交わした約束では、二十四時間後、一週間後、一ヶ月後、三ヶ月後に、必ず詳細な経過確認を行うことになっている。

 待ちに待った山の決済と引渡しの日だからといって、主治医との医療検証の予定を軽んじて飛ばすわけにはいかない。


 三崎は朝から容赦なく、啓介の身体を隈なく検査した。

 血圧、心拍、体温、体重。尿検査と血液検査。

 腹部エコーで肝臓の状態を念入りに確認し、腰の可動域と筋肉の張りを確かめる。歯肉の炎症や、全身の皮膚、首のリンパ節に異常な腫れがないか。そして自覚症状の問診。


 結果は、完璧に近いものだった。

 脂肪肝の再発(急激なリバウンド)はなし。肝機能の数値も正常域をピタリと維持。急性炎症なし。腎機能異常なし。

 急激な体重変化や、原因不明のしこり等の腫瘍形成の兆候もなし。

 デスクワークによる慢性的な腰痛や肩こりの再発もない。異常な免疫反応やアレルギー症状も一切見られなかった。


 すべてのデータに目を通し終え、三崎はカルテにサインをしながら言った。

「……少なくとも、この一週間で目に見えるような遅発性障害や、魔法の反動による急激な悪化は出てないな」

「じゃあ、このカードの検証は成功クリアってことでいいか?」


 啓介が少し調子に乗って尋ねると、三崎は即座に冷ややかな視線を返した。

「一週間、たまたま問題が顕在化しなかったことと、中長期的に安全であることは全く別問題だ。患者が勝手に通院を卒業しようとするな」


 三崎の右膝の古傷を治すための《古傷の修復》のカード設計も、予定どおり「一ヶ月後の検査を無事に通過するまで」は保留状態だ。

 啓介は今、1日5マナ体制になっており、その気になれば今日にでも3マナを支払って三崎の膝を治すことができる。

 しかし、使わない。三崎の方からも一切催促はしてこない。

「手が届く奇跡であっても、安全が担保されるまで使わずに待つ」という、大人としての重い約束が、二人の間で確実に維持されている。


 すべての検査が終わり、啓介は私服からパリッとしたダークスーツへと着替えた。

 三崎がカルテを閉じながら尋ねる。

「この後が、あの怪しい山の引渡しだったか?」

「ああ。残代金を払って、今日から正式に俺の管理地になる」

「健康体になってから一週間後に、山の所有者か。……お前、最近急に生活の情報量が多くなりすぎてないか?」

「俺も、自分で処理が追いつかない時がある」

 啓介が苦笑すると、三崎は厳しい顔で釘を刺した。


「今日は、不動産屋での契約と現地確認だけにしろよ。いきなり木を切ろうとするな。勢いでチェーンソーを買うな。素人が斜面に一人で入るな」

 啓介はネクタイを締めながら答えた。

「チェーンソーはまだ買ってない。工具箱と、折り畳みノコギリまでだ」

 三崎が一瞬、絶句したように黙り込んだ。

「……“まだ”をつけるな。本当に怪我しても知らんぞ」


 指定された不動産会社の事務所へ向かう電車の中。

 啓介は、ビジネスバッグに入れた必要書類を再確認した。

 本人確認書類。司法書士から事前に指定された印鑑・証明書類。売買契約書の原本。残代金と諸経費の振込準備。司法書士から送られた案内。高梨から渡された決済予定表。


 今日支払う土地本体の残代金は、

 三十八万円(売買価格)-手付金五万円(支払い済み)=三十三万円。

 そこへ、不動産会社への仲介手数料、登記のための登録免許税、司法書士への報酬、固定資産税の精算金などの諸経費が加わる。


 今週の火曜日に《約束された当選番号》で得た約九十万円の当選金があるため、資金繰りには全く余裕がある。

 しかし、スマートフォンの口座画面を見た啓介は、自分自身の感覚に一瞬の違和感を覚えた。


 以前の啓介なら、会社の給料からコツコツ貯めた貯金から三十三万円を一括で送金することに、かなりの心理的な重みを感じていたはずだ。

 だが今は、「先週、たった数百円の投資で九十万近く稼いだ」という強烈な成功体験のせいで、三十三万円という金額が、どこかゲームのコインのように小さく見え始めている自分がいた。


「……この感覚は、本気で危ないな」

 金銭感覚の麻痺。魔法のチートが生み出す、最も分かりやすい毒だ。

 啓介は手帳を取り出し、短く自戒を記録した。


『金額の絶対値(高い・安い)ではなく、自分が責任を持って管理できるかどうか(管理可能性)で判断すること。

 口座に当選金が余っているからといって、次の土地を衝動買いしない』


 不動産会社の応接室。

 本日の残代金決済の登場人物は、四人だ。

 買主である啓介。仲介の高梨真紀。対象地の売主である初老の男性。そして、登記手続きを担当する司法書士。


 売主の男性は温厚そうな人で、挨拶を交わした後、少し寂しそうに語った。

「この山は父から相続したんですが、今の自宅からは遠くて、私自身の代ではほとんど手を入れることができなくなってしまってね……。門倉さんのように若い方に使っていただけるなら、あの土地にとってもその方が幸せでしょう」


 その一言で、啓介は「格安の山林」が市場に出てくる現実の背景を痛感した。

 土地は、勝手に荒れ果てたわけではない。

 所有者が高齢になった。住んでいる場所から遠い。明確な用途がない。管理のために通う時間と体力がない。

 そうした残酷でリアルな「現実の積み重ね」が、最終的にあの三十八万円という価格に帰結したのだ。


 手続きが始まった。

 司法書士が、厳格なトーンで確認を進める。

 売主と買主の本人確認。売買対象となる不動産の表記。印鑑証明等の必要書類のチェック。所有権を移転する意思の最終確認。


 啓介は、専門用語で分からない箇所があれば、遠慮せずに一つずつ質問を挟んだ。

 ただし、契約そのものの重要事項説明は先週の高梨との面談ですでに終わっている。今日の啓介の焦点はただ一つ。


「今日、この場で何が実行されれば、権利と責任が完全にこちらへ移るのか」だ。


 司法書士が説明する。

「こちらの必要書類がすべて揃い、売主様への残代金の着金が確認できましたら、直ちに私の方で法務局へ『所有権移転登記』を申請いたします」

 啓介が念押しで確認する。

「登記簿の表示が実際に書き換わるのは後日になるとしても、契約で定めた所有権の移転と、現実の引渡し(管理権限の移行)は、今日の『決済時点』で法的に成立するという理解でよろしいですか?」

「はい、間違いございません」


 横で書類を整理していた高梨が、小さく笑いをこぼした。

「門倉様は、最後まで権限の切り替わるタイミングを厳密に確認されますね」

「仕事柄、本番環境へのリリース(権限移行)の時刻が一番重要なので」


 司法書士がすべての必要書類を揃えたことを宣言。

 啓介はスマートフォンを操作し、売主の口座へ残代金三十三万円を、そして諸費用を各指定口座へと送金した。

 数分後、売主側で着金が確認され、領収書と『引渡し確認書』が啓介へ交付された。


 高梨が、深く一礼して言った。

「これで、残代金の決済がすべて完了いたしました」

 続いて売主の男性が、「どうか、よろしくお願いします」と引渡しに同意し、頭を下げた。


 山林という性質上、門扉や建物があるわけではないため、物理的な「鍵の受け渡し」という儀式は存在しない。

 だが、高梨が少しだけ柔らかい、しかし責任を伴うプロの口調で告げた。


「お渡しする物理的な鍵はありません。ですが、門倉様。ただいまをもって、あの対象地を使用し、そして管理するすべての権限と責任は、門倉様へと移りました」


 この一言が、現実世界における山林購入の明確な「山場」だった。


 その瞬間。

 高梨たちには全く見えない啓介の視界の端で、《創世札典》がはっきりと反応した。


『対象不動産に関する残代金の支払いを確認しました』

『契約に定められた所有権移転条件の履行を確認しました』

『対象地の現実的な排他的管理権限が、使用者へ移転しました』

『将来取得関係の仮登録を終了します』

『対象地を【土地カード評価候補】へ移行しました』


 契約の時点では、あの場所はあくまで「将来取得する予定の土地」に過ぎなかった。

 だが今は違う。

 名実ともに、啓介が「現在、正当に管理できる自分の土地」へと、システム上のフェーズが完全に切り替わったのだ。


 ただし、土地カードが自動的にポンッと生成されるわけではない。

 対象となる区画をどう定義し、何に使用するのかは、所有者である啓介自身が明確に決定し、システムに申請する必要がある。


 すべての手続きが終了し、売主と司法書士が退席した後。

 高梨は、契約書類とは別に、分厚いクリアファイルを取り出して啓介に渡した。

「こちらは、ご購入後の管理に関する資料をまとめたものです」


 中身を見て、啓介は驚いた。

 市役所へ提出する森林所有者届出の案内と担当窓口の連絡先。境界杭に関する詳細な位置資料。先週決済に向けて撮影した現地の最新写真。

 それだけではない。倒れそうな危険木の伐採を相談できる地元の業者リスト。一般廃棄物や不法投棄があった場合の行政の相談先。現地近隣で一時的に作業車両を停めさせてもらえる可能性のある近隣住民のメモ。災害時の緊急確認先。


「……仲介の仕事は、今日の決済で終わりですよね。手数料以上の仕事をしてくれてる気がするんですが、ここまで用意してくれるんですか?」

 高梨は、当然のように微笑んだ。

「山林という不動産は、売買契約の時よりも、所有してからの方が困ることが圧倒的に多いですから。……何かあれば、いつでもご相談ください」


 そして、高梨は少しだけ真面目な顔になり、付け加えた。

「門倉様。一つだけ、老婆心ながらアドバイスです。……どれだけ安い土地を見つけても、今の山が軌道に乗る前に、すぐ次を買おうとしないでくださいね」


 啓介は、少し動揺して自分の顔を触った。

「……そんなに、顔に出てましたか?」

「ええ。門倉様のように、『管理すること自体』を目的に買われた方ほど、最初の一件が思い通りにいかないうちに、新しい土地に目移りして次へ進みたくなる傾向があります。まず、この青梅の土地を、春夏秋冬、一年通してご自身で管理できるかどうか確認してください」


 魔法の存在など全く知らない高梨が、啓介の抱える新しいボトルネック(弱点)を、信じられないほど正確に指摘していた。

 啓介の問題は、もう「金」ではない。

 これ以上土地を増やせば、啓介自身の「管理する時間」と「対応能力」がパンクする。


 啓介は、居住まいを正して真剣に頷いた。

「……肝に銘じます。次の土地を考えるのは、少なくともこの山の運用を完全に安定させてからにします」


 こうして、高梨の助力を受けながら進めてきた山林購入までの一連の手続きは、深い信頼感とともに一区切りを迎えた。


 決済を終えた後、啓介は一度マンションへと戻った。

 スーツから、動きやすい長袖の作業着に着替える。


 山へ持っていく物を、慎重にチェックしていく。

 鉄芯入りの安全靴。ヘルメット。分厚い革手袋。保護眼鏡。強力な虫よけ。飲料水数本。簡単に食べられる昼食。救急用品。スマートフォンと大容量のモバイルバッテリー。境界確認用の資料。現況を記録するためのアクションカメラ。厚手のごみ袋。明るいピンク色の目印テープ。

 そして、《小さな工房箱》から取り出したドライバーやペンチなどの基本工具と、折り畳みカート。


 最後に用意したのは、小竜用の黒いキャリーケースと、小竜用の柔らかい専用ハーネス、そして軽量な安全索ロングリードだった。


 ハーネスは、この一週間の間に、啓介が工具を使って小竜の体型に合わせて自作・調整したものだ。小竜の胸、翼の付け根、首を締め付けず、それでいてすっぽ抜けない絶妙な構造になっている。

 室内で短時間の装着練習も済ませている。小竜は最初「邪魔だ」と嫌がったが、パニックになるような危険な拒絶反応は示さなかった。


 小竜をキャリーケースへと誘導する。

 ケースは内部が暗く、通気性は十分にあるが、外からは中身が見えにくい構造になっている。内側には小竜のお気に入りの柔らかい布を敷き、移動中に何かの拍子で扉が開かないよう、ロック機構を追加している。


 小竜は「山へ行く」ということを本能で理解しているのか、いつもより素直に自らケースの中へと入った。

「今日は、本当に外で飛ばしてやる。だから、行き帰りの電車と移動中だけは、絶対に静かに我慢しろよ」

「あぎゃ!」

 オリーブの鉢植えは、マンションでお留守番だ。まだ山には、あの鉢を安全に置ける生活設備も防犯設備もない。


 出発前、啓介は本日の5マナから《思索の計数盤》の知識1を引き出し、「青梅の山林で現況確認、土地カード化、小竜の飛行試験と軽作業を行い、第三者に小竜または魔法を認識・記録されず、俺、小竜、第三者のいずれにも重大な損害を生じさせず帰宅する行動に危険があるか」と条件を絞って《危険判定》を使用した。

 回答は『否定』。残る任意2、生命1、物資1は非常用として保持したまま、啓介は予約していたレンタカーに荷物を積んで青梅へ向かい、長時間駐車してよい場所へ車を置くと、最後の区間だけ折り畳みカートで運んだ。重大な危険が否定されても、現実の安全策を減らす理由にはならない。


 前回、高梨に案内されて入った細い道。

 景色は同じだ。生い茂る木々も、斜面に積もった落葉も、差し込む木漏れ日も変わっていない。


 しかし、啓介にとっての『意味』が全く違っていた。

 前回は、あくまで他人の所有物である「売り物」を見に来たただの客だった。

 今日は違う。ここで何か問題が起きれば、すべて自分の責任となる「管理者」としての訪問だ。


 啓介は、敷地へ足を踏み入れる前に、境界資料を広げた。

 既存のコンクリート杭。道路との接点。隣地との境界線。

 資料の写真と、目の前の現地の状況を一つずつ照合していく。


 所有者としてまず行うべきは、気分に任せた草刈りではない。

「決済時点での現況を、自分の責任記録として残すこと」だ。


 啓介は、敷地をゆっくりと一周し、カメラで写真と動画を撮影し始めた。

 境界杭の周囲の状態。公道からの進入口の状況。地面の傾斜具合。前日の雨水が流れた跡。

 倒れそうな枯れ木はないか。地面へ落ちている大きな枝はないか。野生動物の新しい足跡はないか。隣地からの越境している枝はどの程度か。公道から見て、敷地の中がどこまで見通せるか。


 目立った大型の不法投棄(廃家電やタイヤなど)はなかった。

 ただし、空き缶、ペットボトル、色褪せたビニール片、千切れた古いロープ、錆びた小さな金属片など、長年の間に入り込んだと思われる細かい生活ごみが、落葉の陰に散見された。


 また、一本の高い木のかなり上の方に、折れ曲がって引っかかっている大きな枯れ枝を発見した。

 素人が下から適当に切ろうとすれば、頭上に落ちてきて大怪我をする危険な状態だ。


 啓介は、持参したピンク色の目印テープを、その木から少し離れた安全な位置の枝に巻きつけた。

「危険木候補。業者に確認してもらうまで、この下への接近は禁止、と」

 手帳に記録する。所有者になったからといって、無謀に何でも自分で直す必要はない。


 現況の記録をあらかた終えると、啓介はアクションカメラの録画を停止し、録画ランプが消えたことを目視で確認した。レンズカバーを装着してバッグの内ポケットへしまってから、敷地の中央付近、道路から直接見えにくい木立に囲まれた場所へ移動した。

 周囲に人影はなく、車の音もしない。自分のカメラにも、これから出す《創世札典》や小竜が映り込まない状態になっている。


 啓介は、深く息を吸い込み、《創世札典》を呼び出した。

 バインダーが中空に顕現する。


「システム。この青梅の山林を、俺が正当に所有し、管理する土地としてカード化できるか?」


 明確な回答が返ってきた。

『可能』

『対象範囲、所有権、および現実に排他的な管理を行う権限を確認しました』

『現況、および主たる用途を指定してください』


 啓介は、すぐに未整備地として確定せず、将来考えている用途を一つずつ試作評価させた。

「小竜の飼育林として定義した場合は?」――『恒常的な飲水設備、休息場所、逸走防止、外部からの秘匿設備および継続的な飼育実績が不足しています』。

「青梅の小工房なら?」――『継続的な製作設備、工具保管設備、電力供給および作業実績が不足しています』。工具箱を一度持ち込む予定があるだけでは、工房とは呼べない。

「小規模な発電地は?」――『発電設備および発電実績が存在しません』。将来ソーラーパネルを置く計画だけでは、現在の土地の用途にはならなかった。


 土地カードが評価するのは所有者の予定表ではなく、現実に何として使われているかという実態らしい。現時点のここはまだ何の設備も継続利用もない小さな未整備山林だったため、啓介は「現状のまま、未整備の小規模な雑木地として定義する」と決めた。


 システムが、バインダーの空白ページにカードの候補を淡く表示させた。

 必要マナの欄を見る。


『必要マナ:0』


 啓介が怪訝そうに尋ねる。

「土地カードの作成に、マナは一切いらないのか?」


『肯定』

『対象地は現実世界にすでに存在し、使用者が現実の取得費用、法的な管理責任、および管理負担を自ら負っています』

『魔法における土地カード化は、虚無からの新たな土地の創造ではなく、現実に存在する場所の【定義付け】およびシステムとの【関連づけ】に過ぎません』

『したがって、基本となる土地カードの生成自体に追加のマナコストは必要ありません』


 ただし、とシステムは付け加えた。

『今後、この土地に魔法的な管理設備を追加する場合、土地の用途を根本的に変更する場合、あるいは現実にはない異常な機能を付加する場合には、現実の投資や追加のマナを要求する可能性があります』


 当然だ。安い山林を買ったからといって、魔法の力で無料でお城が建ったり、自動的に発電所になったりするわけではない。


 啓介は、提示されたカードのテキストを読み込んだ。


 《名もなき雑木地/Nameless Coppice》

 土地・山林・未整備・小区画


【日次起動】

 生命または物資マナ1点を得る。


【権利連動】

 対象地に対する正当な使用・管理権限を失った場合、このカードは消滅する。


【実地管理】

 対象地を管理する意思および実態が長期間失われた場合、日次起動を停止する。


【小区画】

 同一の連続した用途を持つ土地を、形式上分割して複数の土地カードとして扱うことはできない。


【未整備】

 現実の管理状態、用途および継続的な利用実績に応じて、このカードの名称、属性または効果が変化する可能性がある。


 名もなく、用途もない。

 だからこそ、これから何にでもなれる。


 カードの絵柄は、啓介が今立っているこの山林の風景そのものだった。

 生い茂る雑木。なだらかな斜面。差し込む木漏れ日。まだ人の手がほとんど入っていない、小さな静かな区画。


 啓介は、【実地管理】の条件について確認した。

「長期間って、具体的に何日だ? 例えば、毎週休みの日に絶対ここに来ないと、マナの生成は止まるのか?」


『否定』

『固定された日数(例:七日間)では判定されません』

『対象地の規模、状態、用途、本来必要な管理頻度、および使用者の対応実績をシステムが総合的に評価します』

『現地を訪問していない期間があっても、必要な設備の手配、書類の記録、税金の費用負担、専門業者への依頼、その他の【実質的な管理行為】が継続していれば、直ちにカード機能が停止することはありません』


 つまり、「毎週現地へ来ること」自体が目的化されるわけではない。

 買ったまま完全に放置して、木が倒れようが不法投棄されようが知らん顔で荒れ放題にするのが問題なのだ。

 草刈りを業者へ依頼することも、遠隔カメラで現地の安全を確認することも、立派な「管理」に含まれる。

 会社員である啓介でも、十分に維持可能な条件だった。

 ただし、高梨が警告したように、土地を買いすぎてキャパシティを超えれば、管理実態が伴わなくなりシステムから見放されるということだ。


 さらに質問する。

「もし今後、ここに雨水タンクやソーラーパネルみたいな設備を置けば、その分だけ土地カードから得られるマナの量は増えるのか?」


『否定』

『設置された設備の金銭的価値や数量のみを理由として、土地のマナ生成量が増加するわけではありません』

『発電設備として本格的に運用する、召喚生物の飼育地として恒久的に使用する、工房として継続利用するなど、【独立した用途】や【環境の本質的な変化】が実績として確認された場合のみ、土地カードそのものが再評価され、効果が変化する可能性があります』


 高価なパネルを買ってきて、ただ斜面に並べるだけではマナは増えない。

「何として使われているか」という実態が伴って、初めて土地は育つ。


 啓介はすべてを理解し、カードを確定させた。


「《名もなき雑木地》、定着」


 淡い緑色と灰銀色の光が、啓介の足元から地面へと静かに染み込んでいった。

 派手な地鳴りもない。木々が突然急成長することもない。現実の山林は、何一つ変わらない。


 ただ、《創世札典》の土地のページへ、初めて《借宿》以外の、正真正銘の「自己所有の土地カード」が収まった。


『土地カードの定着が完了しました』

『次回の日次更新より起動可能です』


 これで、明日の午前零時からは、一日6マナ体制への移行が確定した。


 土地のカード化を終えた後。

 啓介はもう一度、周囲の状況を厳重に確認した。


 道路に人影はなし。車両の走行音も聞こえない。

 敷地中央は木々に囲まれており、近隣から直接見えにくい。

 上空にドローンなどが飛んでいないかどうかも確認。


 安全を確信し、啓介はキャリーケースを落ち葉の上に置いた。

 ロックを外し、扉を少しだけ開ける。

 小竜が、鼻先だけをそっと外に出した。


 マンションの部屋の中とは違う匂い。

 湿った土。木々の樹液。カサカサと鳴る落葉。小さな虫の羽音。そして、木立を吹き抜ける風。


 小竜はすぐには飛び出さず、警戒するように外をぐるりと見回した。

 それから、ゆっくりとケースから這い出て、初めて自分の足の裏で、本物の土を踏みしめた。


「よし。いきなり自由に飛んでいいわけじゃないぞ」

 啓介は、小竜に先週自作した専用ハーネスを装着し、そこに軽量な安全索ロングリードを取り付けた。

 小竜は身動きが制限されることに不満そうに「あぎゃあ」と鳴いた。


「初回テストだ。外では、絶対に俺のルールに従え」

 啓介はしゃがみ込み、小竜の目を見て規則を言い聞かせた。


 ・俺の見える場所から絶対に出ない。

 ・道路側へは絶対に飛ばない。

 ・木々のてっぺんを抜けて、上空の目立つ場所へ出ない。

 ・人、車、機械音が聞こえたら、すぐに俺のところへ戻る。

 ・俺が『呼び戻しの笛』を吹いたら、何をしていても戻る。

 ・鳥や虫を追って、境界の外へ出ない。

 ・絶対に、他人の土地へ降りない。

 ・キャリーケースへ戻れと言われたら、素直に従う。


 小竜がどこまで理解したかは分からない。

 だからこその、物理的な安全索だ。


「よし、行け」


 最初は三メートルの長さ。

 小竜は地面を蹴り、低い軌道で飛んだ。

 啓介の足元を一周し、低い切り株へ着地する。

 啓介が首から下げた短い笛を吹く。

 小竜がバサッと羽ばたき、啓介の肩へ戻ってきた。

「よし、いい子だ。成功」


 次は五メートル。

 少し離れた低い枝から枝へと飛び移る。

 もう一度呼び戻す。素直に戻る。


 次は、安全索を最大の十メートルまで伸ばした。

 敷地中央の、木々が開けた空間を大きく飛ぶ。

 マンションの天井にぶつからないよう、翼を中途半端に畳む必要がない。

 小竜が、初めて自分の翼を最後まで大きく広げ、風を掴んだ。


 その時、遠くの公道から車のエンジン音が聞こえてきた。

 啓介がすぐさま笛を吹く。

 小竜は一瞬だけ、音のした方向を振り返って空中で静止した。

 二度目の笛。

 ハッとしたように、小竜が啓介の元へ戻ってくる。


 啓介は小竜の翼を身体で隠すように抱き込み、木陰へ身を潜めた。

 車はただ公道を通り過ぎていっただけで、敷地を覗き込むような様子はなかった。

 それでも、啓介は小竜の頭を軽く小突いた。


「今のは、一回目の笛で戻れ。二回目まで迷ってたら、誰かに見つかるのが先になる」

「あぎゃ……」

 小竜はしょんぼりと首を垂れた。

 屋外へ出られた喜びと、秘密を守り通すことの難しさを、啓介自身も痛感していた。


 その後も、安全索を付けたままの飛行と呼び戻しを何度も成功させた。

 周囲に人影はなく、異常もない。


 啓介は、最後に安全索のカラビナを外した。

 ただし、時間は五分だけ。飛ぶ範囲も、この木立に囲まれた中央付近だけという条件付きだ。


「……約束したからな」

 啓介は、まだ山林を買う当てもなかった頃、狭いリビングで小竜にかけた言葉を思い出していた。

『無事に山が買えたら、一番に連れてきて、思いきり飛ばしてやる』


 啓介は小竜を両手へ乗せ、空へ向けて押し出した。

「行ってこい」


 小竜が飛ぶ。

 一直線に空高く上昇するのではなく、木々の間を縫うように、しなやかに飛翔する。

 大きく旋回し、器用に枝を避け、木漏れ日の中で赤銅色の鱗が美しく輝く。

 一度地面すれすれまで急降下して落葉を巻き上げ、再び上昇する。

 啓介の頭上を、何度も何度も円を描くように回った。


「あぎゃあああああ!!」

 これまで聞いた中で、一番大きくて、自由な声だった。

 狭いマンションの部屋では絶対に見られなかった、本来の速度と躍動感。


 啓介は、それを見上げながら深く実感していた。

 安い土地を買った目的は、単に効率よくマナ源を確保するためだけではなかったのだ、と。


 小竜が、ふと、敷地外の明るい空間を飛ぶ大きな蝶に気づいた。

 進路を変え、境界杭の方向へ向かって飛んでいく。


 啓介が鋭く笛を吹く。一回目。

 小竜は蝶を見たまま、空中で少し迷うような素振りを見せた。


 啓介が二回目の笛を吹き、さらに強く、名前代わりの呼び声を出した。

「こっちへ来い!」

 小竜はようやく蝶を諦めて旋回し、啓介の肩へ戻ってきた。


 啓介は、本気で叱った。

「あのコンクリートの杭の向こうは、俺の土地じゃない。俺が安全を確認できる場所でもないんだ」

「あぎゃ……」

「外へ出て誰かに見つかったら、俺でもお前を助けられない。今日の自由飛行はここまでだ」


 初回の自由飛行は、あっという間に短時間で終了した。

 ご褒美を与えるだけでなく、次からはさらに厳格な呼び戻し訓練が必要だということを、啓介は思い知った。


 飛行を終えた小竜が、地面へ降りてトテトテと歩き回る。

 そして、落葉の間から銀色に光る物を口に咥え、誇らしげに啓介へ持ってきた。

 見ると、錆びた古いアルミ缶のプルタブだった。


「……お前、それ財宝じゃなくて、ただのごみだぞ」

「あぎゃ?」

 しかし、小竜がそれを見つけた場所を見ると、古い空き缶や色褪せたビニール片、小さな菓子の包装袋などが、落葉の下に隠れるように落ちていた。


「よし。俺の最初の管理作業が決まったな」


 啓介は分厚い革手袋を装着し、危険物がないことを確認しながら、それらのごみを拾い集めてごみ袋へ入れた。

 公道から敷地中央までの「通路」となる部分に落ちていた小枝を端へ寄せる。

 邪魔になりそうな地面へ完全に落ちている細い枯れ枝だけを、折り畳みノコギリで短く切って整理する。


 生きた木は切らない。頭上の危険な枯れ枝にも触らない。急な斜面の奥へは入らない。

 作業時間は一時間もしなかった。

 ごみ袋一つ分。通路数メートルの整理。それだけだ。

 しかし、啓介が最初に来た時より、明らかに少しだけ歩きやすくなっていた。


 作業後、啓介はふとバインダーの《名もなき雑木地》を確認した。

 カードの効果は変化していない。マナの量も増えていない。

 ただし、啓介にしか見えない「補助情報」が更新されていた。


『管理状態:初期確認完了』

『管理実績:清掃・通路整理開始』

『利用実績:小型召喚生物の飛行および休息』

『主用途:未確定』

『再評価:現時点では不要』


 一度小竜を飛ばした程度で、いきなり《小竜の森》などという大層な名前へ進化したりはしない。継続的な利用が必要だ。

 それでも、小竜が今日ここで過ごしたという事実も、土地の用途の履歴としてシステムに確かに記録されていた。


 さらに、《小さな工房箱》の維持条件の補助表示も更新されていた。

 今日の作業で、ノコギリ、ペンチ、メジャー、工具箱などを実際の土地管理へ使用したためだ。

『直近七日間の稼働条件を確認しました』

『次回停止判定まで:七日』


 山林を管理すれば、物資遺物の維持条件も自然に満たせる。

 啓介が構築したマナ源たちが、互いに生活の中で結びつき始めていた。


 慣れない山仕事と緊張感で、啓介の手、腰、太腿、肩には軽い疲労が蓄積していた。

 虫に刺された跡や、細い枝で引っかけた浅い擦り傷もある。

 啓介は、《生命樹の苗床》から生み出された生命1を使用した。


「《日々の修繕》、使用」

 筋肉の疲労と軽傷がスゥッと消える。

 ただし、汗、喉の渇き、空腹、作業着の泥汚れはそのまま残る。

 啓介はペットボトルの水を飲み、持参したおにぎりを食べた。魔法の仕様を、実際の現場で再確認する。残っている任意2と物資1は無理に消費せず、帰宅までの非常用として保持した。


 夕方。

 空が赤く染まり始めた頃、啓介がキャリーケースを出した。

 小竜は、低い枝へしがみついて帰りたがらない素振りを見せた。


「帰るぞ」

「あぎゃ!」

「今日はまだ泊まれないんだよ。水も、寝床も、防犯設備も何もないだろ」

「あぎゃあ!」

「またすぐ来る。次までに、戻る合図を一回で聞けるようにしろ」


 小竜は不満そうに鳴いたが、最後には渋々ケースへ入った。

 啓介は、小竜が狭いマンションよりも、この何もない雑木林を気に入ったことを理解していた。


「早く、こいつが隠れずに過ごせる居場所を作ってやらないとな」

 啓介の中で、山林整備の目的が、「マナ源の確保」「実験場」から、「小竜が安全に暮らせる場所」へと、少しずつ変わり始めていた。


 帰宅後。

 小竜は疲れた様子もなく、興奮が冷めないまま部屋を飛び回っている。

 啓介はシャワーを浴び、ノートを開いて当日の記録を詳細に書き出した。


『不動産関係:残代金三十三万円支払い。引渡し完了。登記申請開始。管理責任開始。』

『土地カード:《名もなき雑木地》生成。次回日次更新から生命または物資1。長期的な管理実態喪失で停止。継続的な用途変化で再評価。』

『現地:危険木候補一本あり。小規模ごみ回収。』

『小竜の飛行:一回目の呼び戻しへ即応せず。秘匿上、許容できない重大な運用不良。安全索なしの自由飛行は一時停止し、安全索を付けた状態で一回目の笛へ連続十回即応することを再開条件とする。山を手に入れるより先に、確実な呼び戻しを完成させるべきだった。』


 この記録作業によって、《思索の計数盤》の【研鑽】条件も無事に満たされた。


 帰宅まで非常用として保持した任意2と物資1は、結局使う事態がなく、そのまま日次更新とともに消滅した。

 そして、土曜日から日曜日へ日付が変わった午前零時、新しい一日分のマナが供給された。


 《名もなき雑木地》が、初めて起動可能になった。


 バインダーのカード一覧。

 《借宿》:任意1。

 《五彩の魔石》:任意1。

 《生命樹の苗床》:生命1。

 《思索の計数盤》:知識1。

 《小さな工房箱》:物資1。

 《名もなき雑木地》:生命または物資1。


 合計、6マナ。


 啓介は、かつて表示された6マナの規格外カードを思い出した。


 《時間停止》

 必要マナ:知識2・境界3・任意1。


 数字だけなら、ついに届いた。

 啓介は、試しにシステム上で支払いシミュレーションを行ってみた。


 結果。

『支払い不能』

『境界マナが不足しています』


 啓介の現在の固定知識は「1」。

 知識2を出すには、二つの任意源のうち一つを知識へ変える必要がある。

 すると、残る任意源は一つだけになる。《借宿》の属性を境界へ変えても、出せる境界マナは最大「1」。

 必要な「境界3」に、二点も届かない。

 仮に任意源を二つとも境界へ使っても、今度は知識マナが足りなくなる。


「……総量が六マナあっても、色が合わなきゃ六マナのカードは使えないのか」


 マナの総量だけでは駄目なのだ。マナの種類、供給源、そして色拘束。

 まさにTCGのルールそのものだった。


 一方、《一年若く》のコストは、生命3・知識1・境界1。

 支払いシミュレーションには、『支払い可能』『使用後残存マナ:物資1』とはっきり表示された。時間停止とは違う。こちらは、今この瞬間に本当に使える。

 啓介は無意識に目尻へ触れ、洗面所の鏡がある方向を見た。一年だけなら外見の変化は小さい。それでも毎年繰り返せるなら意味はまるで違う。三崎と決めた一ヶ月後検査まであと三週間。使えなかった頃の三週間と、使えるカードを目の前に置いて待つ三週間では重さが違う。


「使えないから使わないんじゃない。使えるけど、今日は使わない」啓介は自分へ言い聞かせ、《一年若く》だけは《時間停止》とは別の意志でバインダーの奥へ閉じた。


「次に必要なのは、境界マナを固定で出せるマナ源だな」だが、マンションの玄関鍵は賃貸物件の付属物で、退去時には返却する。《借宿》と依存先が同じため、賃貸契約が切れれば二つのマナ源を同時に失う構成にもなる。

 山林の境界杭は位置を示す重要物で、勝手に外したり加工したりする対象ではなく、そもそも出入りを制御する道具でもない。キャリーケースの留め金には適合性があったが、購入したばかりで保護や隔離、出入管理の実績が不足していると判定された。

 生命には育てる木があり、知識には昔から使った計数盤があり、物資には実際に物を作った工具がある。だが境界だけは、啓介の生活に根を持つ営みがまだなかった。今日は新しいカード設計を始めず、その事実だけをノートへ記録した。


 小竜は窓際のクッションで眠りながら、夢の中でも空を飛んでいるのか、小さな翼をピクピクと動かしている。


「今日は、あの山を手に入れて、お前を外で飛ばせた。……それだけで十分だ」


 一日一マナの肩こり治療から始まった啓介は、ついに自分の土地と、一日6マナの基盤を手に入れた。

 それでも、必要な色を生み出す現実の営みまでは、まだ揃っていない。

 だが、六マナあっても、まだ時間は止められない。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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1度だけTOTOビッグで10億ゲットしてほとぼり冷めるまでクジ系をやらないが良さそう
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