情報戦略の実際
その頃、メラモリ内にあるデリガリ子爵邸では大勢の人々が引き上げの準備に奔走していた。
身分としてみても、子爵位ともなればこのような例外的な引き上げに際して無言で夜逃げするというわけにもいかない。
関係者各位への事情説明を兼ねて挨拶をするなどの雑事にも大いに人手が取られ、加えて「このメラモリから退去する不特定多数の領民もできるだけ多く引き受ける」旨も周囲に徹底して広報せよ、などという無茶までも主人であるデリガリ子爵にいいつかっている。
この当時のデリガリ子爵邸内では使用人と正体不明の食客併せて百名を越える大所帯であったが、これらの人員が総出でメラモリ中に散って声を枯らさんばかりの勢いでそこいらの街角において呼びかけを行っている有様だ。
「かねてより王宮において出仕を禁じられているわが主人、デリガリ子爵はこのたびガンガジル王朝を完全に見限ることとなった!」
「ついては、このメラモリの安全を危ぶみ、同じように退去を考えている領民に格別の温情をくださるという!」
「それら行き先のない領民たちに移動中の保護と行き先を与えよとの仰せだ!」
「デリガリ領までは決して短くはない道中になるが、その旅程に備えられる者は三日後までに北の門に集合せよ!」
「できるだけ多くの民をわれらデリガリ子爵家中の者が護衛しよう!」
そんな声がメラモリのそこここで聞こえていた。
なにより混合軍により王城が襲撃された直後である。
数日前より聞こえていた「南から数万、いや数十万単位の軍隊がこのガンガジルに近寄りつつある」という噂もあって、メラモリ内に在住している領民の間には速やかに不安が広がっている最中でもあり、そこにこの報せである。
このメラモリに土地や建物などの財産を持っていない者たちは先を急ぐように身辺の整理をはじめていた。
そんなこんなでメラモリ周辺は混合軍の襲撃を受けた前後からにわかに騒がしくなっていたのだが、その一因にもなっているデリガリ子爵邸の中は意外に静かであった。
これは家中の人員のほとんどが、
「この情勢ならば、子爵が領地に帰るといい出すのはもはや時間の問題だろう」
という見解を共有し以前より出立の準備を整えていたことと、それに大多数の人間が邸宅の外に出て挨拶やら広報やらに奔走していたことによる。
そんなわけでデリガリ子爵邸内は人気が少なく、普段よりも静かなくらいであった。
その静かな邸宅内の中庭に、子爵夫人が居る。
婦人だけではなく、婦人の前には山羊を連れた男も佇んでいた。
「……このようなわけで、わが家はこのメラモリから引きあげることとなりました」
婦人は、静かな声で目前の男に告げていた。
「あなた方のアイスクリームがしばらく食べられなくなるかと思うと寂しい限りですが」
「いえ。
そういう次第なら仕方がありません」
婦人の目前の男、アイスクリーム売りは静かな声で答える。
「なに、道中のことまでは保証できかねますが、デリガリ子爵様の領地にもわれらの仲間は居るはずなので、そちらにもことづけておきましょう」
この「アイスクリーム売り」という業態はごくごく最近になってメラモリにひっそりと入り込んできたものだった。
一頭か二頭のヤギに曳かせた小さなな荷車に専用の機材を乗せ、デリガリ子爵邸のような広大な敷地を持つ邸宅の庭に生えている雑草をヤギに食べさせながら家中の者たちに作りたてのアイスクリームを売る、というかなり変わった業態である。
もちろん、その正体はといえば混合軍が放った潜伏組の者が偵察を兼ねて擬態した姿でもあるわけだが、独立した稼業としてみてもそれなりに好評を持って迎えられていた。
この生業をしている限りどんな高貴な身分の邸宅内に出入りしても怪しまれるということがなく、その性質を利用して各種書状のやり取りなども行っている。
このデリガリ子爵邸のことに関していうのなら、現在、野営地に居る大デリガリ子爵の書状をほぼ日参してこちらのデリガリ子爵に手渡していた。
当然、婦人もこのアイスクリーム売りの一味に裏側の顔があることは自明なことと認識している。
「そうですか。それはいいことですね。」
デリガリ子爵婦人は顔をほころばせた。
「このアイスクリームという食べ物は、とても甘露ですから。
領地の方でも、評判になると思います」
「幸甚にございます」
アイスクリーム売りはますます頭を垂れた。
「奥方様も、どうか息災で」
「こういうことをいえる立場ではありませんが、あなた方の幸先をお祈りしております」
「おお、なかなかの見世物であった」
北の門前の広場では、大蛇が動かなくなったことを確認したデリガリ子爵が門前に出て、ヴァンクレスに対して脳天気な賛辞を送っていた。
「あの王子の化身体をしとめるとは、なかなかできることではない。
おぬし、名はなんという?」
「……なんだ? おっさん」
肩を上下させながら、ヴァンクレスは怪訝な顔をした。
「おれは、洞窟衆のヴァンクレスというもんだ」
流石のヴァンクレスも少し息が弾んでいる。
「洞窟衆のヴァンクレスか。
うむ。
その名、おぼえておくことにしよう」
「……ふざけてんのか?」
ヴァンクレスは不機嫌な声を出した。
「あんた、この国のもんだろう?」
「より正確にいうのなら、今からこの国を見限ろうとしている者だ」
デリガリ子爵はそういって姿勢をただし、きびすを返してこの騒動を見物していた群衆に対して大声で呼びかけはじめる。
「おれは、デリガリ子爵!
数日前から国王の不興を買い、出仕を止められている身だ!
この都度、ガンガジル王国のやり口にほとほと嫌気がさし、領地に引きこもることにした!
ついては、このメラモリを脱することを考えている領民たちに告げる!
これより三日後までにメラモリの北門を出て保護を求めたものには、このデリガリ子爵の名の元にして例外なく保護を与えることをここに誓おう!
当然のことながら、そのままわが領地まで行き着けばそのままデリガリ領の領民として扱う!」
おお、という低いどよめきが周囲から起こった。
デリガリ子爵の宣言は、それだけ画期的……というか、この当時の慣習に基づけばかなり非常識なことといえるのだ。
「……お待ちください、デリガリ子爵!」
門から出てきた男が、デリガリ子爵に声をかけた。
倒れた王子をそのままにもしておけず、保護するために城内から外に出てきた男のひとりであった。
大蛇の形態で倒れた王子は、今では人間形態に戻りつつあった。
裸体で倒れたままピクリとも動かない王子の背に毛布をかけて、数名の衛兵たちが取り囲んでいる。
「それは……ガンガジルに対する叛逆ではないですか!」
「叛逆ではなく、離脱だ!」
その男を振り返って、デリガリ子爵は叫んだ。
「本日この時刻を持って、デリガリ領はガンガジル王国から独立することを宣言する!
それ、これが布告文だ!」
デリガリ子爵は衛兵に丸めた羊皮紙を投げつけた。
「そんな、非常識な……」
投げつけられた羊皮紙を受け取りながら、その衛士はぼやいた。
「非常識がどうした!」
デリガリ子爵は、さらに声を張りあげる。
「この子爵を要らぬといいだしたのは、そもそも国王の方が先だ!
この国がわれらを必要としないのであれば、われらもこの国を見捨てるまでのことよ!」
最後に、
「裏切り御免!」
といい捨てて、デリガリ子爵はその場から去っていく。
「……なんだ、ありゃあ……」
その背中を見て、ヴァンクレスがぽつりと呟いた。
「これは、あれですね」
スセリセスが解説する。
「ぼくたちとはなにも関係がない、仲間割れですね」
この日のメラモリの珍事はまだまだ終わらなかった。
王城を中心とした周辺地域で、夥しい数の紙片が何者かに散布された。
まだメラモリではほとんど出回っていない植物紙であることも珍しかったが、寸分違わぬ同じ字体で、やはりまったく同じ内容が記されている。
いわく、
「今回の王城への襲撃は、十三カ国が参加する混合軍によって企図、実行されたものである」
「その目的は、ガンガジル王国による三ヶ国への派兵を即時中断し、旧態に戻すことのみ。それ以上の野心はない」
「その目的が達成されない限りは、今後もガンガジル王国軍に対する攻撃は続行される」
など、ここまでは以前に混合軍野営地までやってきた使節団が持ち帰った声明文の内容とほぼ同一のものであった。
さらに加えて、
「これ以降、ガンガジル王国が他国への侵犯行為をやめないようであれば、ガンガジル王国も他国より侵犯される立場になるであろう」
「現に南方より十万から二十万、あるいはそれ以上の兵数がこのガンガジル王国に迫りつつある」
「ガンガジル王国は現在、率先してこの大軍団の手先として振る舞い、その先兵として働いている」
「このままでいけば、ガンガジル王国の富と兵は、その大軍団の先触れとして損耗されるだけの結果になるだろう」
「その先に待っているのは、他国の属国としての屈辱的な地位のみ。
そのような境遇を甘受するつもりがない者は、即刻この場を離れもっと安全な土地に移住することを強く推奨する」
といった内容が平易な表現で記されていた。
当然のことながら、メラモリ市中はそれまでとは別な意味で騒然となった。
「これが、印刷の現場になります。
ご覧の通り、原理としては判子や版画と同じなのですが、任意の活字を組み合わせて自由に文面を作れるということと理論上は無限に同じ内容のものを刷ることができるという特色があります」
クリフは説明をする。
ここ数日のうち、聴衆の数は日を経るごとに増加の一途をたどっていた。
デリガリ子爵とザマンダ伯爵の書状を受けて、ガンガジル王国の諸公がこの野営地に視察の者を送り込むようになっていたのだ。
「今は、本日メラモリで起こった騒動について記した内容を印刷しています」
「そんな遠方の地での出来事を、なぜこんなに速く、それも詳細に把握することができたのかね?」
「それともうひとつ。
なぜ、そんな出来事を大量に刷る必要があるのか?」
視察団の者たちから、そのような質問が挙げられた。
「まず最初の質問にお答えします。
われら混合軍はかなり以前からガンガジル王国各地に情勢を探るための人員を配置しておりました。
各種の情報収集のための部隊です。
今回、迅速にメラモリの騒動についての子細を把握できたのもこうした部隊の働きによるものです」
クリフは遅滞なく一気に説明をする。
こうした質問が飛んでくるであろうことは事前に予測できたため、「どこまで公開して情報なのか」という部分まで含めて身内で打ち合わせを終えていたため、躊躇うところがなかった。
「次に、なぜこうした内容を大量に刷るのかというご質問にお答えします。
こうした内容を印刷した紙片を、ガンガジル王国はおろか、三ヶ国の各地に配布をするためです。
こうすることによって、わが混合軍の優位とガンガジル王国の窮状とを広く知らしめることが目的です。
随時、戦況を広く世間に知らしめ、ガンガジル王国に協力する諸勢力の意志を挫き、無駄な抵抗を少なくし、一刻でもはやくこのいくさを終わらせることを目的としております。
発案者であるハザマ男爵は、情報戦略の一環であるといったいい方をしておりました」
視察団の者たちは、得心したような鼻白んだような、複雑な面もちとなった。
「誤解していただきたくはないのですが、われら混合軍の目的はあくまでガンガジル王国が三ヶ国から手を引くように持ちかけることであり、ガンガジルの全土を焦土と化すまで打ち負かすことではありません。
ガンガジル王国が三ヶ国に出している兵を撤退させていただければ、それ以上のことを要求する予定はないのです。
どうかその点をお含みになった上で、理性的な判断をくだすことを期待します」
「だが、それは……」
使節団のひとりが、なおもクリフに質問を発した。
「……それまで政治的な判断をする立場にはなかった下層民たちにまで詳しい戦況などを伝えるというのは、まつりごとそのものについて考える機会を万民に与える機会になりはしないかね?」
「それで、なにがいけないのでしょうか?」
クリフは肩をすくめる。
「実際に戦火に巻きこまれてしまったら、身分の高低に関わらず、状況と無関係ではいられないのですよ。
だったらせめて事実関係を公示してどちらの側に与するのか選択する自由を与えてしまう方が公平というものだと思います」
こうした情報を公開すれば、ただでさえ微妙な状況下にある三ヶ国の情勢はさらに混迷を深めることになるだろう。
それについて、クリフは、
「それでなにが悪い」
といいきった形になる。




