『白衣の切符と、未来の家』
『白衣の切符と、未来の家』
秋の深まりとともに、夕暮れは足早に藍色の夜へと溶けていく。
児童養護施設「ひだまりの家」の学習室。先ほどまで机の上に広げられていた「女性の給料が高い仕事TOP20」のプリントを、日葵はそっと裏返した。その白い余白に、シャープペンの先で小さな数字や計算式を細かく書き込んでいる。
「……日葵? さっきから何ブツブツ計算してるんだよ」
大翔が隣の机から身を乗り出し、日葵の手元を覗き込もうとした。
「大翔、ちょっと真面目に聞いて」
日葵はペンを机に置き、大翔の瞳をまっすぐに見つめた。その黒目がちな瞳には、先ほどの夢見がちな熱っぽさではなく、現実の壁を正確に測ろうとする厳しさが宿っていた。
「さっきさ、将来ふたりで家を持って結婚できたらいいねって話したじゃない?」
「ああ。もちろん本気だよ。俺、約束は破らない」
「うん。だからこそ、現実を見なきゃいけないの。……もし私たちが十八歳でここを出て、それぞれ介護の仕事や、一般の初任給くらいで働き始めたとするでしょ」
「介護の仕事……職員の三上さんたちも介護福祉士の資格持ってたりするし、施設推薦で就職しやすいって言ってたよな」
「そう。就職口はある。でもね、給料の手取りを考えたらどうなると思う? 家賃を払って、光熱費を払って、食費を出して……ふたりでカツカツで生活するだけで精一杯だよ。もし、子どもが生まれたら? ひとりならともかく、ふたり子どもを授かりたいって思ったら、完全に家計がパンクしちゃう」
日葵の言葉は容赦がなかった。だが、それは大翔を責めるためではなく、自分たちの未来が貧困という名の影に再び呑み込まれることを、心の底から恐れているからだった。
「子どもの服や靴、学費……それだけじゃない。もしどちらかが病気で働けなくなったら? 私たちは実家に頼れないんだよ。困ったときに『少し助けて』って言える親も、実家の部屋もない。全部、ふたりの収入だけで持ちこたえなきゃいけないんだよ」
「……日葵」
大翔は言葉を失い、ぎゅっと拳を握りしめた。
施設で暮らす自分たちにとって、親というセーフティネットが存在しないことの意味を、嫌というほど痛感させられる。
「俺……介護の仕事を馬鹿にするつもりはないけど、そんなに厳しいのか」
「仕事自体は尊いよ。誰かの命や生活を支える、すごく立派な仕事。でも、国の基準で決まる給与体系の中では、資本も貯金もない私たちがゼロから家庭を築いて、子どもふたりを何不自由なく大学まで行かせるのは、本当にしんどいと思う。だから……私、考えたの」
日葵は机の下の通学カバンから、一冊の分厚い進路の手引きを取り出した。付箋が何枚も貼られたページを開く。
「看護師。看護師になりたい」
「えっ……看護師? でも、それって専門学校とか大学に行かなきゃいけないだろ? 学費はどうするんだよ。ここを出たら、俺たちには一円だって余分な金はないんだぞ」
大翔の驚きは当然だった。医師や大学教授のような途方もない学費や歳月がかかる進路は無理だとしても、看護師だって数百万単位の費用がかかるはずだ。
「お金がなくても、看護師になれる道があるの」
日葵の声が、わずかに熱を帯びた。窓の外では、冷たい夜風がグラウンドの金網をカタカタと揺らしている。
「『お礼奉公』って仕組みがある病院奨学金制度よ。特定の病院グループが学費を全額出してくれて、卒業したあとにその病院で一定の年数――だいたい三年間から五年くらい働けば、奨学金の返還が全部免除になるの。それに、生活費を貸してくれる修学資金貸与制度や、施設出身者向けの給付型奨学金、生活困窮者のための支援制度を組み合わせれば……自分の手取りゼロからでも、寮に入って看護学校に通える」
「学費が……タダになるのか?」
「タダじゃない。将来の私の労働力を前借りするの。途中で辞めたら一括返済しなきゃいけないっていう、すごく重い契約だよ。絶対に投げ出せない、逃げ場のない切符」
日葵はぎゅっと自分の膝の上のスカートを握りしめた。その指先が、わずかに震えているのを大翔は見逃さなかった。
「怖くないわけないよ。実習は厳しいって聞くし、命を預かる仕事だから怒鳴られることもあるって。でもね、看護師の資格は国家資格なの。一度取れば、日本中どこへ行っても仕事に困らない。夜勤手当もつくし、女性でもちゃんと一人で家族を養えるだけの給料がもらえる。……これなら、子どもがふたりできても、ちゃんとご飯を食べさせて、やりたいことをやらせてあげられる」
「日葵……お前、そこまで調べてたのか」
「当たり前でしょ」
日葵は少し強がって笑おうとしたが、瞳の奥にじわりと涙が滲んだ。
「私、子どもに言いたくないの。『うちはお金がないから、その夢は諦めて』なんて。私たちが親から受け取れなかった温かい家を、絶対に作りたい。そのためなら、どんなに実習が辛くても、どんなに頭を下げて奨学金の書類を書いても耐えられる」
大翔は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦って、キッと鋭い音を立てた。
「大翔……?」
大翔は日葵の机の前に回り込むと、両手をバンと机につけた。その顔は、普段の飄々とした少年のものではなかった。眉をつり上げ、真剣そのものの目で日葵を見据えている。
「なんで、お前ひとりがそこまで背負い込むんだよ」
「え……?」
「ふたりで子どもを育てるんだろ? ふたりで家族を作るんだろ? だったら、お前ひとりが重い契約に縛られて、夜勤で体を削って看護師になる計画だけ立ててんじゃねえよ! 俺の分はどこに入ってんだよ!」
「大翔、怒らないで。私はただ、現実的な数字を……」
「俺だって現実を見る! 俺も働くよ! 高校を出たら、すぐに就職する。資格が取れる技術職……例えば電気工事士とか、インフラの施工管理とか、現場で働きながら国家資格を取って、給料を上げていける会社を探す。俺ががっつり稼いで生活の土台を作るから、お前の看護学校の寮費の足しにしろよ!」
「そんなのダメだよ! 大翔の稼いだお金は、大翔のものなんだから」
「ふたりの未来のための金だろ!」
大翔の声が学習室に響き渡った。
廊下を通りかかった三上職員が「こら、静かにしなさい」とドアをノックする音が聞こえ、ふたりは思わず口を閉じた。
足音が遠ざかるのを待って、大翔は静かに息を吐き出した。そして、日葵の机の端にあった消しゴムを指先で転がしながら、ポツリと言った。
「……日葵がさ、ひとりで戦おうとするのが一番悔しいんだよ。お金がないから看護師になれるかって聞かれたら、俺は『なれる』って信じたい。でも、それはお前が血反吐を吐いてひとりで耐えるためじゃない。俺たちが幸せになるためだろ」
日葵は息を詰まらせた。
胸の奥に張り巡らせていた「ひとりで生き抜かなければならない」という冷たい氷の結界が、大翔の不器用な熱量で溶かされていくようだった。
「……うん。ごめん」
日葵が呟くと、大翔はふっと照れくさそうに笑った。
「謝るなよ。お前のその覚悟、すげえと思うよ。看護師か……かっこいいじゃん。白衣着た日葵、似合うと思う」
「まだなれるって決まったわけじゃないよ。勉強だって、これから死ぬ気でやらなきゃいけないんだから」
「俺もやる。進路指導室行って、高卒で資格取れて給料が上がっていく求人、片っ端から調べる」
大翔はそう言って、日葵の計算用紙の隅に、太い筆圧で自分の名前を書いた。
「俺たちの家庭。子どもふたり。犬も一匹飼おうぜ。庭があってさ、小さくても日当たりがいい家」
「……犬まで増やすの? また計算し直さなきゃいけないじゃない」
日葵は涙を拭いながら、くすくすと笑った。
窓の外を見上げると、いつの間にか群青色の空に、細い月と幾千の星が瞬いていた。
街の灯りは遠く、この施設を取り囲む夜は深い。
だけど、机の上の蛍光灯の下には、ふたりが泥臭く描き始めた、確かな未来の設計図が広がっていた。
お金がない。後ろ盾もない。
けれど、ふたりには自分の足で立つための知恵と、互いを信じて手を取り合う強さがあった。
「ねえ、大翔」
「ん?」
「私、絶対に看護師になるよ。誰かを助けて、自分たちも守れる、強い人になる」
「ああ。俺も絶対、お前に恥じない男になる。……約束な」
ふたりは小指を絡め合わせた。
冷え切った秋の夜気配の中で、重なり合った指先だけが、まるで小さな火を灯したように温かかった。
――完――




