『茜色の約束と、私が描く地図』
# 『茜色の約束と、私が描く地図』
夕暮れ時の児童養護施設「ひだまりの家」の学習室は、いつも独特の匂いがする。少し古びた紙の匂いと、食堂から漂ってくる夕飯のカレーの匂い、そして窓の外から吹き込む、乾いた秋の土の匂い。
14歳の日葵は、スチール製の学習机に向かって、一枚のプリントを見つめていた。 それは学校で配られた進路希望調査用紙と、その傍らに広げられた「女性の給料が高い仕事TOP20」と題された手刷りの資料だった。 日葵は肩にかかる暗い髪を一つに結び、セーラー服の袖を少しだけ捲り上げて、真剣な眼差しでペンを握りしめていた。
「またそれ見てるのか、日葵」
隣の机で、頬杖をついた同じ歳の幼馴染、大翔が少し呆れたように、でもどこか優しげな声をかけてきた。大翔の着る少しサイズの大きな学ランの襟元から、あどけなさが覗いている。
「またって言わないでよ。私は本気なんだから」
日葵はプリント(image_0.pngを参照)を指先でトントンと叩いた。
「1位、医師。2位、大学教授。3位、法務従事者……。ここにある仕事ってね、どれも簡単にはなれない。でも、これくらい『自分の力で食べていける力』がないと、私はダメなんだよ。大翔、私たちは18歳になったら、この場所を出ていかなくちゃいけない。誰も助けてくれないんだよ?」
「分かってるよ。そんなに焦らなくたってさ」
「焦るよ!」
日葵の声が少しだけ尖った。自分の声が、静かな学習室に少し響いたことに気づき、日葵はハッとして声を潜めた。
「……焦るよ。私は、誰かに寄りかかって生きるのが怖い。自分で自分の行く道を決めて、自分の稼いだお金で、自分の責任で暮らしたいの。自立して、自律した、カッコいい女性になりたいんだ。誰のせいにもしないで、ちゃんと一人で立っていられるように」
大翔は日葵の少し強張った横顔を、静かに見つめていた。窓の外は、燃えるような茜色の夕焼けが広がっている。庭の古いブランコが、風で小さく揺れていた。
「日葵はさ……いつも一人で背負おうとするよね」
大翔は、教科書を閉じると、ふっと視線を落とした。
「俺さ、日葵のそういう強いところ、本当に尊敬してる。でも、たまにちょっと寂しくなるよ。そんなに全部一人でやろうとされたら、俺のいる意味がないみたいじゃん」
「大翔がいる意味って……大翔は、大翔でしょ?」
「そうだけどさ」
大翔は少し耳を赤くして、照れくさそうに頭を掻いた。
「俺ら、ずっと一緒に育ってきたじゃん。親がいないことも、ここでいろんな我慢をしてきたことも、全部お互いに知ってる。だからさ、俺、ずっと思ってたんだ。いつか大人になって、この家を出たら……」
大翔の声が少し小さくなった。日葵はペンを止め、隣の幼馴染をじっと見つめた。
「出たら、何?」
「……いつか、二人で一緒に暮らせたらいいなって」
「え?」
「だから、その……結婚とか、できたらいいなって。そしたら、お前が一人で頑張らなくても、俺が半分背負えるだろ? 俺だって、仕事探して、ちゃんとお前を支えられるくらいになるから」
日葵の胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。 大翔の言葉は不器用で、14歳のいま言うには少し背伸びが過ぎる。だけど、その真っ直ぐな瞳に嘘がないことは、誰よりも日葵がよく知っていた。 幼い頃、熱を出して心細かった夜も、学校で嫌なことがあって泣きそうだった夕方も、いつも大翔が隣にいてくれた。
「大翔……」
日葵は少し視線を彷徨わせたあと、小さく微笑んだ。
「ありがとう。すごく、嬉しい」
「お、おう。ならさ……」
「でもね」
日葵は遮るように、でも優しく大翔の手元を見つめた。
「結婚ってさ、どっちかがどっちかを『支える』とか『寄りかかる』ためのものじゃないと思うんだ。私が大翔と結婚したいって思うのは、大翔に食べさせてもらうためでも、寂しさを埋めるためでもないよ」
「……じゃあ、どうして?」
「お互いが、ちゃんと一人で立っていられるからこそ、二人でいる時にもっと強くなれる。そういう関係が、いいな」
日葵は資料をそっと引き寄せた。
「私が『自立したい』って言うのはね、大翔を頼りたくないからじゃないの。大翔とずっと一緒にいたいからこそ、私が大翔の『お荷物』になりたくないんだ。もし大翔が倒れそうになった時、私がその体をしっかり支えられるくらい、強くて自律した人間になりたいの。対等でいたいんだよ、私たちは」
大翔は目を見張った。日葵の言葉には、14歳とは思えないほどの重みと、未来への覚悟が詰まっていた。 窓から差し込む夕日が、日葵の真剣な瞳をきらきらと照らしている(image_1.png)。
「……やっぱり、日葵には敵わないな」
大翔は降参するように苦笑いした。でも、その表情には日葵への深い信頼と、少しの誇らしさが滲んでいた。
「分かった。じゃあ、俺も負けてられない。俺だって、日葵が『この人なら対等でいられる』って思えるくらい、しっかりした男になる。自分の足でちゃんと立つよ」
「うん。約束だよ、大翔」
日葵はそう言って、進路希望調査用紙に、まだぼんやりとした、だけど確かな一歩となる夢を書き込み始めた。
「ねえ、いつか本当に、二人の家を持てたらいいね」
「ああ。小さくてもさ、俺たちだけの、誰も奪いに来ない家を建てよう」
「うん。その時は、美味しいカレーを私が作るね。大翔は片付け担当!」
「え、そこは折半じゃないのかよ?」
「ふふ、私は稼ぐから、大翔はいっぱい動いてね」
二人の笑い声が、夕暮れの学習室に静かに溶けていった。 今はまだ、何もない。頼る親も、帰る家も、保障された未来も、ここにはない。 だけど、14歳の日葵の胸には、自らの手で未来を切り拓くという強い意志と、隣で同じ未来を見つめる少年の温もりが、確かに息づいていた。
茜色の空が、ゆっくりと藍色に染まり始めていく。 その暗闇の先に待つ世界へ、二人は手を携え、それぞれの足で、一歩ずつ歩き出そうとしていた。
――完――




