エピローグ
それから、数ヶ月後。
春の穏やかな日差しが、王都を包んでいた。
今日は、エレノアとジュリアンの結婚式の日。
◇ ◇ ◇
式場の控え室で、ジュリアンは鏡の前に立っていた。
礼装の襟を直す。
(……緊張してるのか、俺)
敵の真ん中に立ったときでさえ、こんなふうにはならなかったのに。
窓から差し込む光に目を細めると、ふと、ずっと昔のことを思い出した。
まだ、子供だった頃。
兄が段取りしてくれた、顔合わせの日。
侯爵家の人たちを前に、大人たちはみんな笑顔だった。
笑顔のまま、ジュリアンの母が平民であることを、子供の頭の上で話していた。
聞こえないふりをするのには、慣れていた。
「どうして、そんなこと言うの?」
そのとき、輪の外から、小さな声が響いた。
自分より小さな女の子が、頬を膨らませて、大人たちを睨んでいた。
「この子、なにも悪いことしてないでしょう」
場が、しんと静まり返った。
女の子は、そのままジュリアンの隣まで来て、当たり前のように手を握った。
「行こう。あっちに、おいしいチーズケーキがあるの」
それが、エレノアだった。
それからは、婚約者として、何度も顔を合わせるようになって。
母が亡くなった日のことは、今でもはっきりとは思い出せない。
ただ、一つだけ覚えている。
誰の言葉も耳に入らなかった自分の隣に、エレノアがずっといたこと。
慰めの言葉は、何もなかった。
ただ黙って隣に座って、最後まで、手を離さなかった。
エレノアは、あの日のことを、ほとんど覚えていないだろう。
それでいい、と思っている。
自分だけが覚えていれば、それでいい。
あのときから、ずっと。
あの手を、離したくなかったのだから。
「叔父上、顔が固いよ」
鏡越しに、扉のところでにやにやしているオスカーが見えた。
「……ノックくらいしろ」
「したよ。返事がなかっただけ」
オスカーは楽しそうに笑いながら、隣まで来る。
「おめでとう、叔父上」
「……ありがとう」
「ちゃんと言えた?」
「何を」
「エレノア嬢に。好きだって」
ジュリアンは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……言った」
「そっか」
オスカーは、少し嬉しそうに目を細めた。
「よかった。ずっと待ってたもんね」
「……お前、どこまで知ってるんだ」
「叔父上の顔を見てれば、だいたい」
昔から見てるからね、と笑って、オスカーはジュリアンの肩を叩いた。
そのとき、控えめなノックの音がした。
「入るぞ」
入ってきたのは、国王だった。
「兄上」
ジュリアンは背筋を伸ばす。
国王は、弟の姿を上から下まで眺めて、小さく息を吐いた。
「……立派になったな」
「大げさですよ」
「大げさなものか」
国王は静かに言った。
「あの小さかったお前が、よくここまで来た」
「……」
「お前には、ずいぶん無理をさせた。あそこまでしなくてもいいと、私は言ったのに」
「俺がやりたかったんです」
「知っている」
国王は、少しだけ笑った。
「これからは、自分のために生きなさい。お前とエレノア嬢を引き合わせたのは私だが……」
「……」
「幸せにしてやれ」
「はい」
ジュリアンは、深く頭を下げた。
「兄上のおかげです。……ずっと、ありがとうございました」
「礼は、あの子に言え」
国王はそう言って、扉へ向かった。
オスカーが、その背中を見送りながら小さく笑う。
「父上、ああ見えて朝から落ち着かなかったんだよ」
「……そうか」
ジュリアンも、思わず笑った。
もう一度だけ、鏡を見る。
いつもの軽い笑顔は、今日は少しだけ控えめだった。
(……エレノア、綺麗だろうな)
そんなことを考えながら、ジュリアンは扉へ向かった。
◇ ◇ ◇
別の控え室では、エレノアが鏡の前に座っていた。
純白のウェディングドレス。
細かな刺繍が施された美しいドレスは、エレノアの黒髪と水色の瞳を、より一層引き立てている。
「……綺麗」
鏡に映った自分を見ながら、エレノアは小さく呟いた。
このドレスを選んだのは、ジュリアンだった。
事件が終わったあと。
ようやく二人でドレスを見に行ったとき、ジュリアンは驚くほど真剣に選んでいた。
「これがいい」
「……これですか?」
「うん。絶対似合う」
「でも、少し華やかすぎませんか?」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、試着してみよう」
そう言って譲らなかった。
結局。
試着したエレノアを見たジュリアンが、嬉しそうに笑って。
「やっぱりこれだ」
そう言った。
だから、このドレスになった。
エレノアは鏡を見つめながら、そっと胸元に触れた。
そこには、誕生日にもらった金の鎖に水色の石のネックレスが揺れている。
「……今日なんですね」
幼い頃に婚約が決まってから、ずっと婚約者だった。
軽薄で、女好きで、いつも自分をからかってくる人。
けれど。
本当の彼を知ってからは、その印象も少しずつ変わった。
冷静で。
責任感が強くて。
危険な任務に身を置いていても、最後まで自分との約束を忘れなかった人。
そして。
自分がこれから一緒に生きていく人。
控えめなノックの音が響いた。
「エレノア、入ってもいい?」
「クラリス」
入ってきたクラリスは、エレノアを見るなり、ぱっと目を輝かせた。
「まあ……! 綺麗よ、エレノア」
「……ありがとう」
「ジュリアン殿下が選んだんでしょう? オスカー様から聞いたわ。すごく真剣だったって」
「そんなことまで話しているの?」
「あの方、面白がって何でも話すもの」
クラリスは笑って、それから少しだけ声を落とした。
「ねえ、エレノア。ずっと聞かなかったのだけれど」
「なに?」
「あなた、『事情がおありなのでしょう』って言っていたでしょう? 本当は、何か知っていたのよね」
「……」
エレノアは、少しだけ目を伏せた。
「……ごめんなさい。話せなかったの」
「いいのよ」
クラリスは、優しく首を振った。
「オスカー様に聞いても、笑ってはぐらかされたもの。話せないことなんだろうって、思ってた」
「クラリス……」
「でも、これからは、何でも話してね」
「……ええ」
エレノアは、小さく笑った。
「約束するわ」
「よかった」
クラリスは、満足そうに頷いた。
クラリスが出ていったあと。
入れ替わるように、父が入ってきた。
「エレノア」
「お父様」
父は、娘の姿を見て、しばらく何も言わなかった。
「……綺麗だな」
「ありがとうございます」
父は、少し困ったように咳払いをした。
「あのとき」
「え?」
「殿下のことを聞きに来たお前に、何も話してやれなかったな」
ああ、とエレノアは思った。
あの日のことだ。
『……まあ、色々と事情があるんだ』
「いいえ」
エレノアは首を振った。
「話せない理由があったのでしょう? 分かっています」
「……そうか」
父は、少しだけ目を細めた。
「お前は、いつの間にか大人になっていたんだな」
「お父様」
「殿下は、いい方だ。お前なら、大丈夫だろう」
そう言って、父は腕を差し出した。
「行こうか」
「……はい」
エレノアは、父の腕にそっと手を添えた。
◇ ◇ ◇
やがて。
式が始まる。
扉が開く。
ジュリアンの視線の先に、エレノアが立っていた。
「……」
一瞬。
言葉が出なかった。
黒い髪。
水色の瞳。
純白のドレス。
父に手を引かれ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる姿を、ジュリアンはただ見つめていた。
父は、ジュリアンの前で足を止めると、娘の手をそっと差し出した。
「……頼みます、殿下」
「はい」
ジュリアンは、その手を受け取った。
「必ず」
エレノアが隣に立つ。
「……ジュリアン?」
「……うん」
「どうしました?」
「いや」
ジュリアンは、少し照れたように笑った。
「やっぱり、これにしてよかった」
「……」
「すごく綺麗」
エレノアの頬が赤くなる。
「……ありがとうございます」
「俺、見る目あるな」
「そこまで自分で言いますか?」
「だって俺が選んだんだから」
「……ふふ」
エレノアが小さく笑う。
それを見て、ジュリアンも笑った。
やがて。
二人は祭壇の前に並んだ。
神官の言葉が静かに響く。
誓いの言葉。
指輪の交換。
そして。
「では、誓いの口づけを」
「……」
エレノアの顔が赤くなる。
ジュリアンが、そんな彼女を見て少し笑った。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ジュリアンはそっと手を伸ばす。
エレノアの手を取る。
そして。
ゆっくりと顔を近づけた。
今度は。
誰かを騙すためでも。
誰かを利用するためでもない。
婚約者だった二人が。
今日から夫婦になるためのキス。
唇が触れる。
短い、優しい口づけ。
離れると、エレノアが恥ずかしそうに俯いた。
「……緊張しました」
「俺も」
「本当ですか?」
「本当」
ジュリアンは笑った。
「最初にキスしたときより、ずっと緊張した」
「……」
「だって、今日から本当に俺の奥さんになるんだから」
「……ジュリアン」
「ん?」
「そういうこと、式の最中に言わないでください」
「なんで?」
「恥ずかしいからです」
「じゃあ、あとで言う」
「……もう」
エレノアは呆れたように笑った。
けれど。
その顔は、とても嬉しそうだった。
式が終わる。
外へ出ると、春の風が二人の髪を揺らした。
階段の下では、人々が花びらを撒いている。
その最前列で、オスカーとクラリスが手を振っていた。
少し離れた場所では、国王が静かに頷いている。
そして父は、目元を押さえて、そっぽを向いていた。
エレノアは、思わず笑ってしまう。
「……お父様、泣いていますね」
「言わないでおいてやれよ」
「ふふ」
ジュリアンは、隣を歩くエレノアを見る。
「なあ」
「何です?」
「これからも、よろしくな」
「……はい」
エレノアは少しだけ笑う。
「こちらこそ」
ジュリアンも笑った。
王弟として生まれ。
金色の瞳を持つことで、利用されることもあった。
誰にも言えない任務を背負い。
誰かを騙さなければならないこともあった。
けれど。
これからは。
隠し事をする必要はない。
隣にいる彼女と。
同じ未来を見て、生きていけばいい。
子供の頃、この手に引かれて歩き出した。
今日からは、同じ歩幅で、並んで歩く。
ジュリアンは、エレノアの手を握った。
エレノアも、その手を握り返す。
「……ジュリアン」
「ん?」
「幸せになりましょうね」
「ああ」
ジュリアンは笑った。
「絶対に」
二人は並んで歩いていく。
春の陽射しの中を。
これから始まる、新しい人生へと。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




