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22/22

エピローグ

それから、数ヶ月後。


 春の穏やかな日差しが、王都を包んでいた。


 今日は、エレノアとジュリアンの結婚式の日。


 ◇ ◇ ◇


 式場の控え室で、ジュリアンは鏡の前に立っていた。


 礼装の襟を直す。


(……緊張してるのか、俺)


 敵の真ん中に立ったときでさえ、こんなふうにはならなかったのに。


 窓から差し込む光に目を細めると、ふと、ずっと昔のことを思い出した。


 まだ、子供だった頃。


 兄が段取りしてくれた、顔合わせの日。


 侯爵家の人たちを前に、大人たちはみんな笑顔だった。


 笑顔のまま、ジュリアンの母が平民であることを、子供の頭の上で話していた。


 聞こえないふりをするのには、慣れていた。


「どうして、そんなこと言うの?」


 そのとき、輪の外から、小さな声が響いた。


 自分より小さな女の子が、頬を膨らませて、大人たちを睨んでいた。


「この子、なにも悪いことしてないでしょう」


 場が、しんと静まり返った。


 女の子は、そのままジュリアンの隣まで来て、当たり前のように手を握った。


「行こう。あっちに、おいしいチーズケーキがあるの」


 それが、エレノアだった。


 それからは、婚約者として、何度も顔を合わせるようになって。


 母が亡くなった日のことは、今でもはっきりとは思い出せない。


 ただ、一つだけ覚えている。


 誰の言葉も耳に入らなかった自分の隣に、エレノアがずっといたこと。


 慰めの言葉は、何もなかった。


 ただ黙って隣に座って、最後まで、手を離さなかった。


 エレノアは、あの日のことを、ほとんど覚えていないだろう。


 それでいい、と思っている。


 自分だけが覚えていれば、それでいい。


 あのときから、ずっと。


 あの手を、離したくなかったのだから。


「叔父上、顔が固いよ」


 鏡越しに、扉のところでにやにやしているオスカーが見えた。


「……ノックくらいしろ」


「したよ。返事がなかっただけ」


 オスカーは楽しそうに笑いながら、隣まで来る。


「おめでとう、叔父上」


「……ありがとう」


「ちゃんと言えた?」


「何を」


「エレノア嬢に。好きだって」


 ジュリアンは、一瞬だけ言葉に詰まった。


「……言った」


「そっか」


 オスカーは、少し嬉しそうに目を細めた。


「よかった。ずっと待ってたもんね」


「……お前、どこまで知ってるんだ」


「叔父上の顔を見てれば、だいたい」


 昔から見てるからね、と笑って、オスカーはジュリアンの肩を叩いた。


 そのとき、控えめなノックの音がした。


「入るぞ」


 入ってきたのは、国王だった。


「兄上」


 ジュリアンは背筋を伸ばす。


 国王は、弟の姿を上から下まで眺めて、小さく息を吐いた。


「……立派になったな」


「大げさですよ」


「大げさなものか」


 国王は静かに言った。


「あの小さかったお前が、よくここまで来た」


「……」


「お前には、ずいぶん無理をさせた。あそこまでしなくてもいいと、私は言ったのに」


「俺がやりたかったんです」


「知っている」


 国王は、少しだけ笑った。


「これからは、自分のために生きなさい。お前とエレノア嬢を引き合わせたのは私だが……」


「……」


「幸せにしてやれ」


「はい」


 ジュリアンは、深く頭を下げた。


「兄上のおかげです。……ずっと、ありがとうございました」


「礼は、あの子に言え」


 国王はそう言って、扉へ向かった。


 オスカーが、その背中を見送りながら小さく笑う。


「父上、ああ見えて朝から落ち着かなかったんだよ」


「……そうか」


 ジュリアンも、思わず笑った。


 もう一度だけ、鏡を見る。


 いつもの軽い笑顔は、今日は少しだけ控えめだった。


(……エレノア、綺麗だろうな)


 そんなことを考えながら、ジュリアンは扉へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 別の控え室では、エレノアが鏡の前に座っていた。


 純白のウェディングドレス。


 細かな刺繍が施された美しいドレスは、エレノアの黒髪と水色の瞳を、より一層引き立てている。


「……綺麗」


 鏡に映った自分を見ながら、エレノアは小さく呟いた。


 このドレスを選んだのは、ジュリアンだった。


 事件が終わったあと。


 ようやく二人でドレスを見に行ったとき、ジュリアンは驚くほど真剣に選んでいた。


「これがいい」


「……これですか?」


「うん。絶対似合う」


「でも、少し華やかすぎませんか?」


「そう?」


「はい」


「じゃあ、試着してみよう」


 そう言って譲らなかった。


 結局。


 試着したエレノアを見たジュリアンが、嬉しそうに笑って。


「やっぱりこれだ」


 そう言った。


 だから、このドレスになった。


 エレノアは鏡を見つめながら、そっと胸元に触れた。


 そこには、誕生日にもらった金の鎖に水色の石のネックレスが揺れている。


「……今日なんですね」


 幼い頃に婚約が決まってから、ずっと婚約者だった。


 軽薄で、女好きで、いつも自分をからかってくる人。


 けれど。


 本当の彼を知ってからは、その印象も少しずつ変わった。


 冷静で。


 責任感が強くて。


 危険な任務に身を置いていても、最後まで自分との約束を忘れなかった人。


 そして。


 自分がこれから一緒に生きていく人。


 控えめなノックの音が響いた。


「エレノア、入ってもいい?」


「クラリス」


 入ってきたクラリスは、エレノアを見るなり、ぱっと目を輝かせた。


「まあ……! 綺麗よ、エレノア」


「……ありがとう」


「ジュリアン殿下が選んだんでしょう? オスカー様から聞いたわ。すごく真剣だったって」


「そんなことまで話しているの?」


「あの方、面白がって何でも話すもの」


 クラリスは笑って、それから少しだけ声を落とした。


「ねえ、エレノア。ずっと聞かなかったのだけれど」


「なに?」


「あなた、『事情がおありなのでしょう』って言っていたでしょう? 本当は、何か知っていたのよね」


「……」


 エレノアは、少しだけ目を伏せた。


「……ごめんなさい。話せなかったの」


「いいのよ」


 クラリスは、優しく首を振った。


「オスカー様に聞いても、笑ってはぐらかされたもの。話せないことなんだろうって、思ってた」


「クラリス……」


「でも、これからは、何でも話してね」


「……ええ」


 エレノアは、小さく笑った。


「約束するわ」


「よかった」


 クラリスは、満足そうに頷いた。


 クラリスが出ていったあと。


 入れ替わるように、父が入ってきた。


「エレノア」


「お父様」


 父は、娘の姿を見て、しばらく何も言わなかった。


「……綺麗だな」


「ありがとうございます」


 父は、少し困ったように咳払いをした。


「あのとき」


「え?」


「殿下のことを聞きに来たお前に、何も話してやれなかったな」


 ああ、とエレノアは思った。


 あの日のことだ。


『……まあ、色々と事情があるんだ』


「いいえ」


 エレノアは首を振った。


「話せない理由があったのでしょう? 分かっています」


「……そうか」


 父は、少しだけ目を細めた。


「お前は、いつの間にか大人になっていたんだな」


「お父様」


「殿下は、いい方だ。お前なら、大丈夫だろう」


 そう言って、父は腕を差し出した。


「行こうか」


「……はい」


 エレノアは、父の腕にそっと手を添えた。


 ◇ ◇ ◇


 やがて。


 式が始まる。


 扉が開く。


 ジュリアンの視線の先に、エレノアが立っていた。


「……」


 一瞬。


 言葉が出なかった。


 黒い髪。


 水色の瞳。


 純白のドレス。


 父に手を引かれ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる姿を、ジュリアンはただ見つめていた。


 父は、ジュリアンの前で足を止めると、娘の手をそっと差し出した。


「……頼みます、殿下」


「はい」


 ジュリアンは、その手を受け取った。


「必ず」


 エレノアが隣に立つ。


「……ジュリアン?」


「……うん」


「どうしました?」


「いや」


 ジュリアンは、少し照れたように笑った。


「やっぱり、これにしてよかった」


「……」


「すごく綺麗」


 エレノアの頬が赤くなる。


「……ありがとうございます」


「俺、見る目あるな」


「そこまで自分で言いますか?」


「だって俺が選んだんだから」


「……ふふ」


 エレノアが小さく笑う。


 それを見て、ジュリアンも笑った。


 やがて。


 二人は祭壇の前に並んだ。


 神官の言葉が静かに響く。


 誓いの言葉。


 指輪の交換。


 そして。


「では、誓いの口づけを」


「……」


 エレノアの顔が赤くなる。


 ジュリアンが、そんな彼女を見て少し笑った。


「大丈夫?」


「……大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


 ジュリアンはそっと手を伸ばす。


 エレノアの手を取る。


 そして。


 ゆっくりと顔を近づけた。


 今度は。


 誰かを騙すためでも。


 誰かを利用するためでもない。


 婚約者だった二人が。


 今日から夫婦になるためのキス。


 唇が触れる。


 短い、優しい口づけ。


 離れると、エレノアが恥ずかしそうに俯いた。


「……緊張しました」


「俺も」


「本当ですか?」


「本当」


 ジュリアンは笑った。


「最初にキスしたときより、ずっと緊張した」


「……」


「だって、今日から本当に俺の奥さんになるんだから」


「……ジュリアン」


「ん?」


「そういうこと、式の最中に言わないでください」


「なんで?」


「恥ずかしいからです」


「じゃあ、あとで言う」


「……もう」


 エレノアは呆れたように笑った。


 けれど。


 その顔は、とても嬉しそうだった。


 式が終わる。


 外へ出ると、春の風が二人の髪を揺らした。


 階段の下では、人々が花びらを撒いている。


 その最前列で、オスカーとクラリスが手を振っていた。


 少し離れた場所では、国王が静かに頷いている。


 そして父は、目元を押さえて、そっぽを向いていた。


 エレノアは、思わず笑ってしまう。


「……お父様、泣いていますね」


「言わないでおいてやれよ」


「ふふ」


 ジュリアンは、隣を歩くエレノアを見る。


「なあ」


「何です?」


「これからも、よろしくな」


「……はい」


 エレノアは少しだけ笑う。


「こちらこそ」


 ジュリアンも笑った。


 王弟として生まれ。


 金色の瞳を持つことで、利用されることもあった。


 誰にも言えない任務を背負い。


 誰かを騙さなければならないこともあった。


 けれど。


 これからは。


 隠し事をする必要はない。


 隣にいる彼女と。


 同じ未来を見て、生きていけばいい。


 子供の頃、この手に引かれて歩き出した。


 今日からは、同じ歩幅で、並んで歩く。


 ジュリアンは、エレノアの手を握った。


 エレノアも、その手を握り返す。


「……ジュリアン」


「ん?」


「幸せになりましょうね」


「ああ」


 ジュリアンは笑った。


「絶対に」


 二人は並んで歩いていく。


 春の陽射しの中を。


 これから始まる、新しい人生へと。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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