第三話「来光」
葉月に入った。
空がまだ白む前、咲夜は優しく揺り起こされた。
鼻孔に入ってくる爽やかで甘い香りに、ほっと息をつく。揺らす手を捕まえて頬ずりをし、まどろみに落ちる。
硬い指先が咲夜の頬の丸みを滑るように撫で――
ぎゅ、と捻り上げられた。
「……いたい」
「目が覚めたか?」
時親の声が降ってくる。捻られたところを、武骨な指がもう一度撫でていく。
咲夜は身を起こして、目を擦った。
闇は薄まっていたが、明るいというほどではない。起きるには、まだ早い時間だ。
顔が見たいと思って、黄金の光を生み出した。ふわりと部屋を満たす。
薄縹の狩衣を着た時親が、眩しさに少し目を細める。
こんなに間近で見るのは久々だった。少し、痩せたかもしれない。襟足の髪が、以前よりも伸びていた。
「紗乃を呼んでいる。準備を」
「……準備って?」
時親は、庭との間を隔てる御簾の、その先へと視線を向けた。
御簾を伝って、一粒、露が落ちる。金の光を吸って、きらりと光った。
明け方の暗い空を見る時親の横顔を見て、はっきり目が覚めた。
ああ、ついに。
「行くの?」
「ああ。行こう」
「ん。わかった」
紗乃に手伝ってもらい、着替える。
簡単に文机を整理して、筆を撫でる。
――そなたは手が小さい。女子用のものを用意させよう。
そう言って届けてくれたのが、ずいぶんと昔のことのように思える。
「紗乃」
侍女の名前を呼び、小さめの筆を差し出した。
「これは持っていけないから、あなたが使って」
「咲夜様……」
この身、この記憶以外は、すべて置いてゆく。
「綾子から文が来たら、あなたから返事を出しておいてもらえる? よかったらその後、綾子のお友達になってあげて」
彼女の支えになってくれたら嬉しい。
紗乃は、小さめの筆を胸に抱いて、そっと目を閉じる。
その伏せた瞳が震えているような気がしたが、すぐに彼女は目を開けて、微笑んだ。
「――たとえどこにおられようとも。紗乃はずっと、咲夜様のご無事をお祈りしております」
「ありがとう」
侍女と別れて、外に出る。
まだ薄暗い朝を、時親と連れ立って、南の門へ向かった。
門前に、重孝が待っていた。
旅装した青毛の馬を一頭、引いている。時親の愛馬だ。
重孝は、咲夜と目を合わせて、ただ静かに一礼した。
胸が熱くなったが、こちらも一礼するのに留めた。
時親が、咲夜に手を差し出す。
彼の手を借りて、馬の背に上げてもらう。
時親は、重孝と目を合わせる。無言で重孝がうなずく。
手綱が渡された。
時親が馬を引いて、門をくぐる。
直前、振り返った。
いろんなものが、胸の奥を、風のように走り抜けていく。
白んでいく空に、一際大きな建物の影が映った。
軒先に、白い小鳥がぽつんと留まっている。笑いかけたけれど、鳥は微動だにしなかった。
朝日が昇る中、都を出た。
復旧が進む都の街は、路地に潜む浮浪者の姿がほとんど見えなかった。この国の未来はきっと明るい。
時親の背中に、額をつけた。
二人で、東へ進んだ。
昨年の冬、大勢の従者を引き連れて旅をした道程を、時親と二人で下ってゆく。
馬上に揺られ、景色を見て、話をした。
行きは遠目で見るだけだった大きな湖に寄って、時親の趣味だという釣りに少しだけ付き合った。咲夜は一匹も釣れなくて、三匹目がかかった時親の釣竿を奪い取った。時親は呆れた顔だったが、その後も咲夜の釣竿には魚がまるで寄らず、時親が五匹目を釣ったところで、諦めた。釣った魚を、塩焼きにして食べた。
小さな村で宿を借りた際は、時親が大きな鹿を射止めてきて村に振舞い、祭になった。
地面から湯が沸いているという土地では、全身湯に浸かるという贅沢をした。
どの夜も、互いの呼吸を感じながら眠った。
そして、咲夜は戻ってきた。
葉月の十五夜。
辺境。
彼が十二年間を過ごした山城を遠目に、馬は山に入る。
出会いの山。
血と恐怖で動けない咲夜を守った手。その湖の底のような瞳に、出会った――。
ある程度深まったところで、馬から下りた。木の幹に手綱を結んで、もっと深くへ入っていく。
竹林が青々と茂っている斜面を、ひたすら上った。
言葉は自然と少なくなった。
時折、時親が、足元を注意するように促す。それに咲夜が応える。
思ったよりもきつい傾斜に息が上がる。彼の手が上から差し出されて、最後は引っ張られるようにして上った。
開けた場所に出る。小さな清流が流れていた。水のせせらぎがする。
まっすぐ伸びる竹が、天を指している。
木漏れ日が、薄暗い山中をほのかに照らしている。
川の水で喉を潤す。彼のすぐ横に腰を降ろし、日暮れを待った。
その胸に頭を寄せる。体温と、心臓の音が伝わってきた。
じっと聞き入る。
今宵の空は、晴れているだろうか。
曇っては、いないだろうか。雨が降って、月が……霞まないだろうか。
――。
少しだけ眠った。
優しく揺り動かされて目覚める。あたりは真っ暗だった。
時親の膝から身を起こすと、目の前をふわりと光がよぎる。
淡い黄緑の光が弧を描いて、闇に溶ける。
ひとつ光って、またもうひとつが応える。
ああ――蛍だ。
川辺の暗がりが少しずつ、呼吸を始める。
時親の腕が伸びて、咲夜を引き寄せる。
大きな胸に、背中を預けた。力強く抱かれる。痛い。
何か言葉をかけるべきだと思った。
けれど、唇は震えるばかりで、声にならなかった。
頭上で、鳥の羽ばたく音が鳴った。
光が下りてきた。




