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月下恋歌  作者: 梨千子
第五章「君の、香り」
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第三話「来光」

 葉月に入った。

 空がまだ白む前、咲夜は優しく揺り起こされた。

 鼻孔に入ってくる爽やかで甘い香りに、ほっと息をつく。揺らす手を捕まえて頬ずりをし、まどろみに落ちる。

 硬い指先が咲夜の頬の丸みを滑るように撫で――

 ぎゅ、と捻り上げられた。


「……いたい」

「目が覚めたか?」


 時親の声が降ってくる。捻られたところを、武骨な指がもう一度撫でていく。

 咲夜は身を起こして、目を擦った。


 闇は薄まっていたが、明るいというほどではない。起きるには、まだ早い時間だ。

 顔が見たいと思って、黄金の光を生み出した。ふわりと部屋を満たす。


 薄縹(うすはなだ)の狩衣を着た時親が、眩しさに少し目を細める。

 こんなに間近で見るのは久々だった。少し、痩せたかもしれない。襟足の髪が、以前よりも伸びていた。


「紗乃を呼んでいる。準備を」

「……準備って?」


 時親は、庭との間を隔てる御簾の、その先へと視線を向けた。

 御簾を伝って、一粒、露が落ちる。金の光を吸って、きらりと光った。

 明け方の暗い空を見る時親の横顔を見て、はっきり目が覚めた。


 ああ、ついに。


「行くの?」

「ああ。行こう」

「ん。わかった」


 紗乃に手伝ってもらい、着替える。

 

 簡単に文机を整理して、筆を撫でる。

 

 ――そなたは手が小さい。女子用のものを用意させよう。


 そう言って届けてくれたのが、ずいぶんと昔のことのように思える。


「紗乃」


 侍女の名前を呼び、小さめの筆を差し出した。


「これは持っていけないから、あなたが使って」

「咲夜様……」


 この身、この記憶以外は、すべて置いてゆく。


「綾子から文が来たら、あなたから返事を出しておいてもらえる? よかったらその後、綾子のお友達になってあげて」


 彼女の支えになってくれたら嬉しい。


 紗乃は、小さめの筆を胸に抱いて、そっと目を閉じる。

 その伏せた瞳が震えているような気がしたが、すぐに彼女は目を開けて、微笑んだ。


「――たとえどこにおられようとも。紗乃はずっと、咲夜様のご無事をお祈りしております」

「ありがとう」


 侍女と別れて、外に出る。

 まだ薄暗い朝を、時親と連れ立って、南の門へ向かった。


 門前に、重孝が待っていた。

 旅装した青毛の馬を一頭、引いている。時親の愛馬だ。


 重孝は、咲夜と目を合わせて、ただ静かに一礼した。

 胸が熱くなったが、こちらも一礼するのに留めた。


 時親が、咲夜に手を差し出す。

 彼の手を借りて、馬の背に上げてもらう。


 時親は、重孝と目を合わせる。無言で重孝がうなずく。

 手綱が渡された。

 時親が馬を引いて、門をくぐる。


 直前、振り返った。

 いろんなものが、胸の奥を、風のように走り抜けていく。


 白んでいく空に、一際大きな建物の影が映った。

 軒先に、白い小鳥がぽつんと留まっている。笑いかけたけれど、鳥は微動だにしなかった。


 朝日が昇る中、都を出た。

 復旧が進む都の街は、路地に潜む浮浪者の姿がほとんど見えなかった。この国の未来はきっと明るい。

 時親の背中に、額をつけた。


 二人で、東へ進んだ。

 昨年の冬、大勢の従者を引き連れて旅をした道程を、時親と二人で下ってゆく。

 

 馬上に揺られ、景色を見て、話をした。

 行きは遠目で見るだけだった大きな湖に寄って、時親の趣味だという釣りに少しだけ付き合った。咲夜は一匹も釣れなくて、三匹目がかかった時親の釣竿を奪い取った。時親は呆れた顔だったが、その後も咲夜の釣竿には魚がまるで寄らず、時親が五匹目を釣ったところで、諦めた。釣った魚を、塩焼きにして食べた。

 小さな村で宿を借りた際は、時親が大きな鹿を射止めてきて村に振舞い、祭になった。

 地面から湯が沸いているという土地では、全身湯に浸かるという贅沢をした。

 どの夜も、互いの呼吸を感じながら眠った。


 そして、咲夜は戻ってきた。

 

 葉月の十五夜。

 辺境。


 彼が十二年間を過ごした山城を遠目に、馬は山に入る。

 出会いの山。

 血と恐怖で動けない咲夜を守った手。その湖の底のような瞳に、出会った――。


 ある程度深まったところで、馬から下りた。木の幹に手綱を結んで、もっと深くへ入っていく。

 竹林が青々と茂っている斜面を、ひたすら上った。


 言葉は自然と少なくなった。

 時折、時親が、足元を注意するように促す。それに咲夜が応える。

 思ったよりもきつい傾斜に息が上がる。彼の手が上から差し出されて、最後は引っ張られるようにして上った。


 開けた場所に出る。小さな清流が流れていた。水のせせらぎがする。

 まっすぐ伸びる竹が、天を指している。

 木漏れ日が、薄暗い山中をほのかに照らしている。

 川の水で喉を潤す。彼のすぐ横に腰を降ろし、日暮れを待った。


 その胸に頭を寄せる。体温と、心臓の音が伝わってきた。

 じっと聞き入る。


 今宵の空は、晴れているだろうか。

 曇っては、いないだろうか。雨が降って、月が……霞まないだろうか。


 ――。


 少しだけ眠った。

 優しく揺り動かされて目覚める。あたりは真っ暗だった。

 時親の膝から身を起こすと、目の前をふわりと光がよぎる。


 淡い黄緑の光が弧を描いて、闇に溶ける。

 ひとつ光って、またもうひとつが応える。


 ああ――蛍だ。

 

 川辺の暗がりが少しずつ、呼吸を始める。


 時親の腕が伸びて、咲夜を引き寄せる。

 大きな胸に、背中を預けた。力強く抱かれる。痛い。


 何か言葉をかけるべきだと思った。

 けれど、唇は震えるばかりで、声にならなかった。


 頭上で、鳥の羽ばたく音が鳴った。

 光が下りてきた。

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