3 王国が出来ました
どうやら、聞いておかねばならない事を聞き逃していたらしい。
しかし、アービドは跪いて神妙な面持ちで目を伏せている。クラリスが「さっきの話なんでしたっけ?」と、とても伺える雰囲気ではない。故に、取り敢えず当たり障りのない返答を返す。
「私は、ただ力を貸すだけです。貴方が導くのが良いかと」
「っ、貴女は」
すると、アービドが急に立ち上がったかと思えば、両手を壁に付きクラリスを挟んだ。――俗に言う壁ドンである。
(これは、一体どういう状況なの?)
「貴女様には、欲というものがないのですか……っ。神ゆえに、何もいらぬと? そんな貴女様を見ていると、縋りつき羽を捥いで差し上げたくなる。私だけが、求めてばかりだ」
「ええと」
「いっそ、穢れてくだされば――。この渇いた心は潤うのでしょうか」
「落ち着いて」
どうやら彼の地雷を踏んでしまったらしい。
クラリスの上気した頬に汗が流れると同時に、アービドの瞳から涙が伝った。
(ひええ)
クラリスには今まで婚約者など居なかったし、同じくらいの男性への耐性がない。しかも、泣かせてしまって頭の中はパニック状態だ。
「よ……よしよし?」
相手は成人男性である。しかし、クラリスは幼い子を宥めるようにしてアービドの頭を優しくなでた。彼女にも言い分はある。悲しむ瞳が、かつて母を亡くした自分の姿と重なったのだ。2人の間には気まずい沈黙が流れた。
「クラリス様……」
アービドは撫でる手をそっと自らの手で取り、頬に寄せた。
「貴女様の御心を推し量るなど、愚かな真似をいたしました。お許しいただけますか」
「(よく分からないけど)ええ、勿論ですよ」
「有難き幸せ。王として、永久にクラリス様をお守りいたします」
満足げに微笑むアービドを余所に、クラリスは今を切り抜けられてよかった、と息をついたのだった。
エルファラの森は、1つの国が建つにおいて十分な広さへと拡がっていた。
クラリスとアービドの力によって、王国から流れ着いた難民の家も確保でき、森は実質、国と名乗っても良い程の規模だ。
不安を抱える民たちを安心させるため、アービドはこの地を『ヤシュム』と名付け、国を興した。
ヤシュムとは『翡翠』、クラリスの瞳の色である。
――やがて、大陸に大干ばつが訪れた。
その渇きは、フローリア領地をも襲った。重税を敷いたフローリア伯爵家やエルファラの王室は、民たちの反乱に遭いその栄華に幕を下ろした。
そんなさ中、大干ばつの影響を全く受けることのなかった国が存在した。
白亜の神殿の前に広がる露地。
1人の女性が高台に居て、多くの民たちが彼女を仰ぎ見ていた。
彼女、クラリスは祈り手を作り、歌いだす。
広場の地面から、美しい草花が生え、その場に彩をもたらした。実る果実に、最近逃れてやって来た飢える難民たちは、どよめき奇跡を讃える。
その民衆の中から、彼女に向って大きな声がかけられた。
「く、クラリス! 私よ! 一緒に育ったでしょう。どうか、助けて」
クラリスが半眼で声がした方を向く。
(お姉さまがた……)
そこには、かつてクラリスを虐げていたフローリア家の娘たちが居た。2人しかいないという事は、彼女らの両親は断罪されたらしい。
姉妹達は下卑た笑みを浮かべ、クラリスの足元まで寄って来る。
「ねっ、家族なのだから。貴女の力でどうにかして頂戴」
「……」
クラリスは何も言わず、踵を返した。
彼女が一言命令すれば、姉妹達の命はない。だが、そうすることを望まなかったのだ。
(そもそも、私にはそんな権限ないし……)
夜。
噴水を囲んだヤシュムの植物園。
青い蝶が月光を浴び、ひらひらと舞った。
夜の寒さにクラリスが身震いすると、肩に暖かい布が掛けられる。
「アービドさん」
夜でも分かるルビーの瞳が輝き、声に応えて優しく細められた。
「クラリス様。お隣を宜しいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
浮かない顔をしたクラリスを見て、アービドがくすりと笑った。
「私は、今まで貴女様にばかりご負担をお掛けしてしまっておりましたね。お力を振るわれず済むよう、今後努めてまいります」
「いいえ、そんなこと」
そんなことはない。クラリスは心からそう思った。アービドは何もかも彼女の世話をしてくれて来たのだから。
「貴女様にかかる火の粉は、すべて払って差し上げたい。……クラリス様」
アービドがクラリスに跪く。
その時であった。
「アービド様! お休み中のところ失礼いたします。急ぎ、お伝えしたいことが御座います!」
「!」
名前を呼ばれた彼が、手に持っている何かを後ろに隠す動作をして、素早く立ち上がった。気づかないクラリスは、アービドに不安げに問いかける。
「一体何事でしょう?」
それに応えて、アービドが優しく微笑んだ。クラリスの傍に居ると霞んでしまうが、彼の笑みは、はっとする美しさがある。日よけの白い布から伺う褐色の肌に、クラリスは目を奪われた。彼の形のいい唇が動く。
「ご安心くださいませ。何があったとしても、私が、必ずや御身をお守りいたします」