【番外編】アービドside
アービドside
アービド・アル=ジュハイラはその日、民たちの様子を窺うため、王宮から離れた砂漠へと足を延ばしていた。王宮では今日も民たちから税を搾取し、王族はそれを貪っている。
アービドは、恥ずかしかった。民たちを導く立場でありながら、何もしようとしない王族。そして、第2王子という地位に居ても、たいして力を尽くせない自分が。故に彼は馬車も使わず、護衛の1人さえつけようとしなかった。それは愚かな行為だと分かっていても、彼の魂が、それを拒絶したのだ。
「本当に、このエルファラには何もないな」
アービドが呟いた。りょうりょうと吹く風には砂埃が混じっている。
さくさくと、乾いた砂を踏むたび音が鳴った。嗚呼、このエルファラを、緑で溢れ返る地にすることが出来たのなら――。
その時である。
微かに、美しい女性の歌声が耳に入った。こんな砂漠だ、女性一人ではその身が危ない。アービドは紅いルビーの瞳を心配げに歪ませ、声がする方向へと歩みを進める。すると不意に、足元に異変を感じた。
「……っ、何だ!?」
どこまでも広がる砂漠に、突然緑が出現したのである。植物たちは意志を持っているかのように、器用にアービドを避けぐんぐん空へと育っていく。彼はよろめき、余りの出来事にただ驚愕した。
噎せ返る程に漂う、春の土の匂い。強い日差しを遮る葉の影が、熱を持つアービドの体温を下げた。大木に生える苔が青々しく、まるで昔からそこに存在したかのよう。
呆然と立ち尽くすアービドは、自分が夢をみているのではと頬を叩く。
「夢ではないな」
そうしていると、再び彼の耳にあの美しい歌声が響いた。アービドは誘われるように、声の主を求め歩み始める。進んでいる間にも、幹に蔦が巻きつき、その蔦から美しい花々が咲いていった。
歌声が強くなっていくほど、草木は鮮やかさを増していく。歌声は、彼が経験したことのない感情を想起させた。甘雨に濡れる夏の木々や、湖の畔に溜まる、風に散る花びら。胸を焦がす程欲するそれらに聴き入るうち、アービドは、歌声の主の下へ辿り着く。
大樹の幹に腰かけるその女性に、アービドは思わず心を奪われた。
春を思わせる、豊かな桜色の髪。エルファラでは余り目にすることのない、白磁の肌。そこに宿る翡翠の瞳は、神妙に伏せられている。祈りながら歌う彼女は、神に見捨てられた聖女が如く寂し気で――。恐ろしいくらい、美しい。
アービドは神秘的な彼女の姿から、目を離すことが出来ない。
「女神……様?」
恐れ多くも、声をかけた言葉に疑問符が付くが、それは「ちょっと宜しいですか?」の意だ。彼は確信していた。人間離れした美に、緑を生み出す歌声。
彼女は、女神様に間違いないと。
目を輝かせるアービドに、鈴を転がすような声がかけられる。
「だぁれ?」
気だるい半眼がアービドへと差し向けられた。彼女の視線が彼を射止め、そこからじりじりと焦げていく心地がする。アービドは感じたことのない熱い疼きに、一瞬戸惑って、自然と跪いた。
「失礼を……! 私は、砂漠の民を束ねる者の血族です。名をアービド・アル=ジュハイラと。ここを女神様の聖域と露知らず、立ち入ったご無礼をお詫び申し上げます」
桜色の長い睫毛が、何回か瞬く。
アービドの言葉を聞いて、彼女は腰を上げた。そして、彼の方へとゆったりと寄っていく。その立ち居姿さえ眩しくて、アービドは眩惑された。
無表情に、人形のような形のいい唇が動く。
「そうでしたか、私はクラリスと申します。大切な地に緑を生やしてしまったこと、こちらこそ申し訳ありませんでした」
「とんでもないことで御座います。飢えた地に恵みをくださったのですから」
「喜んでくれるでしょうか?」
「勿論ですとも!」
(苦しんでいる民たちに、女神様は慈悲をかけて下さったのだ……! それにしても、我々の地に勝手をしたと気遣われるとは、なんとお優しい方か)
ただ与えるだけではない、クラリスの思慮深さにアービドは感銘を受ける。
(そうだ、この地に神殿を建て、それを以て女神様へ礼を尽くさねば)
じっとアービドを見つめていたクラリスに声がかけられた。
「恐れながら、こちらに神殿を建てても宜しいでしょうか?」
「はあ、神殿ですか。すみませんが、私には与り知らないことです」
「……! はい。我々、矮小なヒトの建物など、女神様には些末な事でありましたね」
欲のないクラリスの返答に、アービドは面食らう。エルファラの神話に出てくる神は、大きな力の見返りに、人間に様々なものを要求してきたからだ。信仰、財、或いは生贄まで。それなのにクラリスは、民の信仰心さえ要らないという。
しかし、ただ与えられるばかりというのも心苦しく、ぼんやりとするクラリスに再び彼は口を開いた。
「ご安心召されませ。私はこう見えて多少の蓄えが御座います。きっと女神様の神殿を立派なものにお造りいたしましょう。……ただ一つお願いがございます。労働者たちは私の一存で手配させていただきたいのです。働き口がないと嘆く民たちに、仕事を与えてやりたく――」
ふわり、と花が咲いた。
正確には、饒舌に話し続けていたアービドに向かって、クラリスが微笑んだのだ。彼の眼には、彼女の周りに花が咲いたように映って、その優しく美しい笑みに、ただ彼は放心した。
まるで彼女の美しい白魚の手で、魂を根こそぎ奪われた心地で、彼はその肌を赤く染める。
「……ハッ。慈悲深きお許しの微笑みに心から感謝を。それでは、ここに神殿を建立し、女神様の威厳と仁恵をこの大陸に轟かせることを、必ずやお約束いたします」
「そうですか、頑張ってくださいね」
「ははっ!」
クラリスの激励に、アービドは畏まった。心臓が激しく音を立て、彼が暫く持ち合わせていなかった感情を呼び起こさせる。すると、クラリスが不意に視線を辺りに彷徨わせ始めた。
「では、そろそろ私はお暇します」
「なんと、この地に留まってくださらないのですか……? どうぞ、お考え直しください」
「え? でも、神殿を作るんですよね」
「はい。ですのでクラリス様にはいつまでも居ていただきたいのです」
「…………?」
(この地を豊かにしたから、次の地へ行こうと思われたのだな。恐ろしい神々も、彼女の爪一欠けら分でもよいから見習ってほしいものだ。……しかし、この女神様を易々と、他の国へ行かせたくはない)
本当にそれだけか? ともう一人の彼が囁いた気がした。
(私は、この方を、まだ繋ぎとめて居たい)
その願いに応えるように、クラリスが提案を持ち掛ける。
「水源はありますか? あと、三食昼寝付きでしたらお手伝いします」
「クラリス様は何もせずとも、ただ居て下されば十分で御座います。そして、私はこう見えて水使いですので、水源には困らないかと」
「おお‥‥‥」
なんという可愛らしい願いだ、とアービドは微笑む。
いっそのこと、命を差し出せと言われたとしても、彼はこの美しい女神に身を捧げただろう。
彼は急ぎ、労働者を手配した。
普段より民たちを気に掛けているアービドは、彼らの信頼を得ていたため、直ぐに人は集まった。彼の資産は労働者たちの給金として支払われ、今日生きるのがやっとという彼らは、女神様と、アービドに感謝したのだった。
クラリスはただ座していれば良いと言われていたのに、民たちに水を手渡し、優しい言葉をかけ続けている。自らも汗を流し働いていたアービドは、またも心の底をひっくり返された思いだった。そんなアービドに、クラリスが何か言いたげに近寄ってくる。
「あのう、アービド様」
「クラリス様! どうぞ私の事はアービドとお呼びください。どうかされましたか?」
「では、アービドさん。ここで働いている皆さんは、どうしてあんなに瘦せてらっしゃるのでしょうか」
「それは‥‥‥」
純真な目でじっと見つめられて、アービドは狼狽えた。
責められているわけではない。しかし、触れてほしくはない暗部に彼女は優しく触れてきた。民たちを苦しめているのは、直接的にはアービドではない。だが、彼にもまた愚かな王族の血が流れているのだ。
「この砂漠の地エルファラでは、思う様に作物が育ちません。水は、王族が使える力により配分されますが‥‥‥。見返りに、民は重課税を強いられております。故に、民たちは常に飢えているのです」
「なるほど、そうでしたか。では、皆さんを今からお腹いっぱいにいたしましょう」
「クラリス様?」
彼女が歌うと、空気が清らかになる。
ぐらぐらと、闇を煮詰めている心が、澄んだ水へと変わっていく。
民たちは足を止め、その音に聴き入った。鮮やかな花たちがクラリスを囲い、彼女に一目見てもらおうと必死に咲いていく。早く願いを聞くために、沢山の果樹が瑞々しく生って、クラリスに捥いでもらうのを待っている。
魅了されているのだ。
それは植物たちだけではなく、その場に居る者全員が。
歌一つで、アービドがやりたかったことを叶えてしまうクラリス。アービドは強く羨望の念を抱いた。同時に、彼は羨望から育っていく、自分の中で生まれた感情に気が付いた。
(政や、民たちで心を占められていた私が、恋などとは)
アービドがクラリスに跪くと、民たちも同じく平伏していく。この瞬間から、彼の主はクラリスただ一人になった。
神殿の二階へ上がる階段を上るたび、ギシギシと音がする。
後で補強しないとな、とアービドが考えていると、彼のただ一人の主が居る部屋の前へと着いた。一瞬ためらって、彼は扉をノックする。扉越しに「お入りになってください」とくぐもった声が聞こえた。
クラリスは気づいていないかもしれないが、彼女からは馨しい花の香りがする。
入室すると、肺いっぱいにその香りが広がった。決して香水のような強いものではない。しかし微かなその香りは、人の心を惑わすには十分なものだ。アービドは罪を犯しているかのようで、胸が苦しくて、目を伏せる。振り払う様に、目的を彼女へ早口に告げた。
「お許しさえいただければ、私の力とクラリス様の力で、民たちの家を作らせていただきたいのです」
「許しなどいりませんわ。私の力は、人を助けるときに使うものです」
「‥‥‥貴女様がこの地に降りて下さって、本当に良かった」
いっそ、彼女が悪鬼羅刹の類であれば良かったのに。
目の前の美しい女神は、どこまでも優しい。ずっと大切に、カナリアの様に籠に閉じ込めて、自分のためだけに歌っていて欲しい。
それじゃあ、まるで自分が恐ろしい化け物の様だ。
振り払って、隠すようアービドは言葉をつづけた。
「この地は、既に国と名乗っても良い程の規模です。集まった民たちの心に安寧をもたらす為にも、この地は保証されているのだと証明せねばならなくなりました。貴女様に、ヒトの絡まった事情を押し付けたくはありません。しかし……。どうぞ、我が願いを聞いては下さいませんでしょうか」
真剣なアービドを余所に、クラリスはぼうっと宙を見つめている様子だ。
「クラリス様?」
彼が声をかけると、クラリスはその瞳に光を取り戻した。困ったように彼女が微笑んで、その笑みさえ美しく、アービドはくらくらとさせられる。もうとっくに、心は決まっていた。彼は跪く。
「我が花よ、私の命、剣、英知を全て貴女様にお捧げいたします。どうぞこの、新エルファラをお導きくださいませ――」
「‥‥‥‥‥‥んん?」
沈黙が流れて、彼は女神の返答をただ待った。
(きっと、困っておられるのだろう。しかし、私に差し出せるのは“王”という身分だけだ)
どうか、導くと言ってほしかった。
権力を手にし、シロユリの如く白い心にも、欲があるのだと証明してほしい。しかし、返答は彼の望んだものではなかった。
「私は、ただ力を貸すだけです。貴方が導くのが良いかと」
「っ、貴女は」
答えを聞き、アービドの心は真っ黒な何かに埋め尽くされた。彼は闇に導かれるまま、彼女を壁際に追い詰め、両手に閉じ込める。
「貴女様には、欲というものがないのですか……っ。神ゆえに、何もいらぬと? そんな貴女様を見ていると、縋りつき羽を捥いで差し上げたくなる。私だけが、求めてばかりだ」
「ええと」
「いっそ、穢れてくだされば――。この渇いた心は潤うのでしょうか」
「落ち着いて」
彼は分かっていた。彼女の心は平等で、決して自分のみに与えられるものではないのだと。しかし、それでも縋りたくて、たまらない。だから少しでも彼女に人間らしいところがあれば、安心することが出来たのに。クラリスは一切の隙を見せることはなかった。
「よ……よしよし?」
その時、アービドの頭を、クラリスが優しく撫でた。彼は目を見開く。
(ああ。彼女は、本当に真っ白なのだ。この醜い私にさえ、手を差し伸べてくださるのだから)
なら、自分に出来ることは一つ。アービドは撫でる手をそっと自らの頬に寄せた。
「貴女様の御心を推し量るなど、愚かな真似をいたしました。お許しいただけますか」
「ええ、勿論ですよ」
「有難き幸せ。王として、永久にクラリス様をお守りいたします」
彼女が永遠に染まらぬよう、守り続けるのみ。
アービドが治めることとなったエルファラの森は、クラリスの瞳の色を取り『ヤシュム』と名付けられた。
ヤシュムは新しい国ながらも、クラリスとアービドの力により、大きな混乱もなく平和だ。しかし、そんなヤシュムとは裏腹に、大陸に大干ばつが訪れる。
皮肉なことに、大陸の領地や砂漠の国が亡びる程、ヤシュムは大国へと育っていった。
今日も今日とて、命からがら辿り着いた難民たちに、クラリスは手を差し伸べている。アービドは正直、この状況を憂いていた。規模が大きくなれば、今までは保てていた平和も掌握するのが難しくなる。
そんな彼の不安が体現したように、クラリスへ大きな声が掛けられた。
「く、クラリス! 私よ! 一緒に育ったでしょう。どうか、助けて」
――なぜ、彼女の名前を知っている?
彼女の身の安全に過敏になりつつあったアービドは、冷たく目を光らせた。衛兵に、連れ立った2人を捕らえるよう命じる。
暗い地下牢。ひたひたと雫が滴る音が冷たく響いた。
クラリスが知る筈もない場所だ。
彼女が光なら、アービドは闇。
クラリスが心地よく、何の心配も抱くことのないよう、彼は心を砕いた。
手元のランタンに火をつけ、彼のルビーの目が、炎に鮮やかに反射する。
「なぜ、女神様の名前を知っていたのだ?」
「……!」
かつては煌びやかであっただろう、ボロボロのドレスを纏った女性二人が、身を寄せ合って震えている。
「ごめんなさい……! クラリスが女神だなんて知らなかったの。謝ります。罪を、償いますから」
(罪を、償う?)
領地で散々な目にあったのだろう。半狂乱で、怯え切って話にならない彼女らから、気になる単語を拾い上げる。
「彼女に何をした?」
「…………ずっとずっと、虐げてきました。でも、仕方なかったの。お母さまが命令したから……だから、だから」
「許して、お願いっ」
アービドが氷の瞳で令嬢たちを見下す。そしてそのまま、踵を返した。
「いやあああっ! 行かないで! 償う、償うから!」
絶叫を背後に、アービドは二人が一番望まない刑を、衛兵に命じた。そして一人、納得する。
(私の知らない空白の時間。彼女はヒトに虐げられて苦しんできたのだな。それなのに、クラリス様は――)
辺りは真っ暗。
アービドは、彼女が居そうな場所を知っていた。
ドーム状の植物園は、覆っている素材に、珍しい硝子を使ってある。その中には白い噴水があり、美しい青い蝶を閉じ込めていた。クラリスは良く、その噴水に腰かけている。
アービドはその姿を紅い目に映した。
寒そうに震える肩にそっと、布を掛けてやる。
「アービドさん」
美しい声が彼を呼ぶだけで、アービドの心は満たされていく。守るだなんて烏滸がましい。ただ、少しでも彼女のためになることをして、翡翠の瞳に映してほしいだけだ。
「クラリス様。お隣を宜しいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
浮かない顔をしたクラリス。その元凶は先ほど彼が処理したのだが、自分の未熟さに、アービドは自らを嘲笑する。
「私は、今まで貴女様にばかりご負担をお掛けしてしまっておりましたね。お力を振るわれず済むよう、今後努めてまいります」
「いいえ、そんなこと」
気安く声を掛けられるのも、隣に座れるのも、自分だけだ。それだけで、彼は満足だった。しかし、どうだろう。今日の夜は、彼を少し可笑しくさせた。
「貴女様にかかる火の粉は、すべて払って差し上げたい。……クラリス様」
だから、どうか私と。
彼が跪いてクラリスに言葉を告げようとしたその時、焦っている様な、怯えている様な声が掛けられた。
「アービド様! お休み中のところ失礼いたします。急ぎ、お伝えしたいことが御座います!」
「!」
その声を聞き、アービドは持っていた翡翠の指輪を後ろに隠す。
「一体何事でしょう?」
クラリスが不安げに眉を顰め、立ち上がる。
「ご安心くださいませ。何があったとしても、私が、必ずや御身をお守りいたします」
アービドは、クラリスを安心させるよう優しく微笑んだ。
そう、何があっても、彼は。
何をしてでも、彼女を守るのだから。




