第一章 明日のパンと、ひとりの少年
空は、いつだって遠かった。
雲の上には、いくつもの都市が浮かんでいる。白い蒸気を吐き出す巨大な煙突。陽光を反射する硝子張りの建物。都市と都市を結ぶ豪華な飛空艇。そこでは今日も、誰かが新しい発明を祝い、誰かが上等な食事を楽しみ、誰かが明日のことを心配せずに眠っているのだろう。
けれど、その下に広がる地上の街では、空を見上げることさえ贅沢だった。
煤煙に覆われた空。錆びた配管。壊れた機械。雨が降れば泥水が流れ、風が吹けば鉄粉が舞う。上層都市から捨てられたものが流れ着くこの場所では、使い終わった部品も、壊れた家具も、時には人間でさえ、誰かに拾われなければそのまま朽ちていく。
旧市街、第七廃材区画。
その一角に、かつて水を貯めていた古い排水塔があった。
塔といっても、今では半分ほど崩れている。外壁には大きな亀裂が走り、屋根の一部は抜け落ち、雨が降れば内部に水が入り込む。壁面を這う太い配管はところどころ破裂し、役目を終えた蒸気弁が風に揺れて、時折、かすれた金属音を鳴らしていた。
人が住むような場所ではない。
少なくとも、まともな人間ならそう言うだろう。
その排水塔の中で、ロイド・バレットは目を覚ました。
「……寒っ」
毛布を頭まで引き上げる。
意味はなかった。
毛布は薄く、端には穴が開いている。床から伝わる冷気は容赦なく背中に染み込み、壁の隙間から入り込む風は、寝床の周囲を遠慮なく吹き抜けていく。
ロイドはしばらく天井を睨んでいた。
まだ暗い。
窓代わりに板を打ちつけた穴から、わずかに青白い光が差し込んでいる。街の朝は遅い。煙突から蒸気が吐き出され、工場の警報が鳴るまでは、夜と朝の境目などほとんどわからない。
それでも、仕事に出るには起きなければならなかった。
「ロイド」
すぐ近くから声がした。
「起きてる?」
「起きてる」
「じゃあ、返事くらいしてよ」
「今しただろ」
「それは返事じゃなくて、文句」
毛布の向こうから、金色の髪が覗いた。
ルカ・ヴェルナー。十七歳。
薄暗い排水塔の中でも、妙に目立つ少年だった。煤けた街には似つかわしくない、整った顔立ち。少し長めの金髪は、寝起きだというのに不思議と形を保っている。もっとも、本人が毎朝、壊れかけた鏡の前で必死に整えているだけなのだが。
「今日の仕事、何時から?」
「鐘が鳴る前」
「それ、あと何分?」
「知らん」
「時間を知らないのに起きてるの?」
「お前がうるさいからだ」
ロイドは毛布を蹴り飛ばした。
冷気が一気に入り込む。
「……最悪だ」
「おはよう、ロイド。今日も素敵な顔だね」
「殴るぞ」
「朝から暴力反対」
ルカは口元だけで笑った。
その横では、もう一人が起きていた。
バルド。
十五歳。
ロイドより背が高く、肩幅も広い。まだ少年の年齢でありながら、すでに大人の男と並んでも見劣りしない体格をしていた。古い上着の袖は短く、手首がむき出しになっている。黙っていると何を考えているのかわからないが、表情が乏しいだけで、感情がないわけではない。
彼は床に座り、鍋の中を覗いていた。
「……ない」
低い声だった。
「何が?」
ロイドが尋ねる。
「パン」
「昨日食っただろ」
「残ってない」
「そりゃ食ったからな」
「……ない」
バルドはもう一度、鍋の中を覗いた。
そこには水が少し残っているだけだった。
ルカが大げさにため息をつく。
「朝から食べ物の話? 僕はもっと優雅な話題で一日を始めたいんだけど」
「じゃあ、優雅に飢えろ」
「君って本当に言葉が荒いよね」
「お前にだけだ」
「光栄だなあ」
ロイドは立ち上がり、壁に掛けてあった古い上着を取った。
今日の仕事は、廃材置き場での仕分けだった。
上層都市から落ちてきた荷物の中から、まだ使える金属部品や機械を探し出す。価値のある部品は買い取り業者に渡し、使えないものはまとめて処分場へ運ぶ。
危険な仕事だ。
崩れた足場から落ちることもあれば、圧力の残った蒸気管が突然破裂することもある。金属片で指を切るくらいなら日常茶飯事だった。
だが、選べる仕事は少ない。
若く、身寄りもなく、まともな身分証も持たない三人を雇う場所など限られていた。
「今日は俺が先に出る」
「僕も行くよ」
「お前は昨日、買い出しに行っただろ」
「だから?」
「今日はバルドと一緒に部品を運べ」
「ええ……」
「何か文句あるか」
「ないよ。美しい僕の労働姿を見せてあげよう」
「見せなくていい」
バルドが立ち上がった。
「……行く」
「そうだな。頼む」
ロイドは腰の工具袋を確かめる。
財布の中身は、銅貨が三枚。
棚に残っている食料は、乾燥豆がひとつかみと、固くなったパンの欠片が二つ。
今日の稼ぎがなければ、明日の食事はない。
いつものことだった。
ロイドはそれを、特別なことだとは思わないようにしていた。
考えたところで、腹は膨れない。
外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
排水塔の周囲には、壊れた荷車や、ひしゃげた蒸気機関の部品が積み上がっている。少し離れた場所では、朝から子どもたちが金属片を拾い集めていた。
その中には、ロイドたちよりも幼い子どももいる。
小さな手で錆びた鉄を拾い、袋に詰めている。
誰も気に留めない。
この街では、子どもが働くことも、路地で眠ることも、珍しい光景ではなかった。
「ロイド」
ルカが背後から呼んだ。
「何だ」
「今日の帰り、パンを買ってきてよ」
「金があればな」
「金がないから言ってるんだよ」
「どういう理屈だ」
「僕たちの食生活があまりにも悲惨だからさ。せめてパンくらい、まともなものを食べたい」
「まともなパンは高い」
「じゃあ、安くてまともなパンを探して」
「そんなもんがあったら俺が先に食ってる」
ルカは肩をすくめた。
バルドは何も言わず、二人の後ろを歩いている。
その手には、空の麻袋が握られていた。
やがて三人は、廃材区画の大通りに出た。
朝の市場はすでに動き始めている。
焼きたてのパンの匂いが漂い、蒸気仕掛けの荷車が通りを横切る。露店の商人たちは大きな声で客を呼び、修理工たちは工具を鳴らしながら仕事場へ向かっていた。
ロイドは、パン屋の前を通り過ぎる。
焼きたての丸パンが、店先に並んでいた。
少しだけ足が遅くなる。
ルカがそれに気づいた。
「買わないの?」
「仕事が先だ」
「一つくらいなら買えるんじゃない?」
「一つ買ったら、三人で分けることになる」
「それでいいじゃない」
「それじゃ足りない」
バルドがパン屋を見た。
じっと。
かなりじっと。
「……バルド」
「……見てない」
「見てるだろ」
「見てない」
「目が離れてないよ」
ルカが笑う。
バルドは無言で視線を逸らした。
ロイドはその背中を軽く叩く。
「稼いだら買う」
「……うん」
それだけ言って、三人は歩き出した。
その日、仕事は思ったより順調だった。
午前中は壊れた蒸気ポンプを解体し、午後には廃材の山から銅線を取り出した。ロイドは部品の価値を見分けるのが得意だった。古い機械でも、内部の歯車が使えるものはある。表面が錆びていても、磨けば売り物になるものもある。
ルカは買い取り業者との交渉を担当した。
顔立ちの良さと、よく回る口は、こういう場所では意外に役立つ。相手の機嫌を損ねず、しかし安く買い叩かれない程度には主張する。
バルドは重いものを運んだ。
黙々と、何度も。
大きな鉄板を二枚抱えて運び、壊れた歯車の塊を肩に担ぎ、最後には誰も触りたがらなかった古い圧力弁まで運び出した。
夕方になる頃には、三人の手は真っ黒になっていた。
「今日の稼ぎは?」
ロイドが尋ねる。
ルカは買い取り業者から受け取った硬貨を数えた。
「銀貨一枚と銅貨七枚」
「悪くないな」
「まあ、僕の交渉術のおかげだね」
「お前が途中で余計なことを言わなければ、もう少し上がった」
「僕がいなかったら銀貨はもらえなかったよ」
「そうかもな」
「……素直だね」
「事実だからな」
ルカは少しだけ目を丸くした。
バルドが二人の間に立ち、硬貨を覗き込む。
「パン」
「わかったよ」
ロイドは笑いそうになるのをこらえた。
「帰りに買う」
その言葉に、バルドの表情がほんの少し緩んだ。
市場へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
街灯の蒸気ランプがぼんやりと光り、煙突の先では赤い火が揺れている。夕食を求める人々が市場に集まり、昼間とは違う喧騒が生まれていた。
ロイドはパン屋の前で足を止めた。
店先には、売れ残ったパンが並んでいる。
「三つ」
ロイドが言う。
「三つ?」
ルカが首を傾げた。
「一人一つだ」
「珍しく気前がいいね」
「今日は働いたからな」
ロイドは銅貨を数枚差し出した。
店主が紙袋にパンを入れる。
その時だった。
店の裏手から、小さな物音がした。
何かが落ちたような音。
続いて、誰かが走り去る足音。
「またか」
店主が顔をしかめた。
「最近、子どもがうろついて困るんだ。食い物を盗んでいく」
ロイドは何気なく裏手を見た。
路地の奥に、小さな影があった。
子どもだ。
痩せた少年が、壁際にしゃがみ込んでいる。
年齢は八歳くらいだろうか。
薄汚れた服は大きすぎて、袖が手の甲まで隠れている。靴は片方の爪先が破れ、髪は伸び放題だった。
少年は、こちらを見ていた。
その手には、パンの欠片が握られている。
「おい」
店主が声を荒らげた。
「またお前か!」
少年の肩が跳ねた。
逃げようとしたのだろう。
けれど、足が動かなかった。
少年は片足を引きずっていた。
「待て!」
店主が路地へ踏み込む。
ロイドは、その前に立った。
「何だよ」
「何だよじゃない! そいつが盗んだんだ!」
「見ればわかる」
「ならどけ!」
店主がロイドの肩を押した。
ロイドは動かなかった。
「パン一個だろ」
「一個でも盗みは盗みだ!」
「代金なら払う」
「お前が?」
「そう言ってる」
店主はロイドの顔を見て、舌打ちした。
「まったく、面倒な連中だ」
ロイドは銅貨を一枚、店主に渡した。
「これでいいだろ」
「次はないからな」
店主は金を受け取ると、店の中へ戻っていった。
路地に静けさが戻る。
ロイドは少年を見た。
「食ったか?」
少年は答えない。
「聞いてるんだ」
少年の手が、パンの欠片を握りしめる。
「……まだ」
「なら食え」
ロイドは紙袋から、買ったばかりのパンを一つ取り出した。
少年の目が動く。
けれど、手は伸びてこなかった。
「いらないのか?」
「……なんで」
「何が」
「なんで、くれるの」
かすれた声だった。
ロイドは少し考えた。
「余ったから」
実際には余っていない。
それでも、そう答えた。
少年はパンを見つめたまま、動かない。
「毒なんか入ってないぞ」
「……ほんと?」
「入れる理由がない」
ルカが横から口を挟んだ。
「君、ずいぶん疑り深いね。僕たちはそんなに悪人に見える?」
少年はルカを見た。
次に、バルドを見た。
特にバルドの大きな体を見た時、少年の肩が少し縮こまった。
バルドは困ったように自分の顔を触った。
「……怖い?」
少年は答えなかった。
「……俺、何もしない」
それだけ言うと、バルドは持っていた麻袋を地面に置いた。
袋の中から、今日買ったパンがもう一つ見える。
少年の視線がそちらへ向いた。
バルドは少し迷ってから、そのパンを取り出した。
そして、ロイドが差し出していたパンの隣に置いた。
「……食べて」
少年は二つのパンを見比べた。
「二つも、いいの?」
「うん」
「あとで、お金払う」
「いらない」
「でも」
「いらない」
バルドは、それ以上何も言わなかった。
少年はしばらく二人を見ていたが、やがてパンを両手で受け取った。
小さな手だった。
指先には、古い傷がいくつもあった。
少年はパンを口に運ぶ。
最初は、ほんの少しだけ。
それから、我慢できなくなったように、夢中で食べ始めた。
何度も噛み、飲み込み、また口に運ぶ。
途中でむせても、手を止めない。
「ゆっくり食え」
ロイドが言った。
少年は頷いた。
けれど、口の動きは止まらなかった。
食べ終わる頃には、少年の頬にパン屑がついていた。
それを見たルカが、ポケットから古い布を取り出した。
「ほら」
少年は受け取らない。
「顔についてるよ」
「……いい」
「いいって、何が?」
「自分でやる」
「そう。じゃあ自分でどうぞ」
ルカは布を差し出したまま、少し笑った。
少年は警戒しながらも、それを受け取った。
「名前は?」
ロイドが尋ねる。
少年は布で口元を拭いた。
「……エド」
「エドか」
ロイドは頷いた。
「俺はロイド。こっちはルカ。でかいのがバルド」
「でかいのって紹介はどうなの?」
「他に言いようがない」
「僕には名前があるんだけど」
「知ってる」
エドは三人を見た。
何かを確かめるように、ひとりずつ。
「……どこに住んでるの」
「この近くだ」
「家?」
「まあな」
エドは視線を落とした。
「帰らないの?」
「帰るけど」
「……そう」
それきり、少年は黙った。
ロイドは気になったが、無理に聞き出すつもりはなかった。
路地で拾った子どもに、いきなり事情を尋ねても仕方がない。
「行くぞ」
ロイドが二人に声をかける。
ルカは少し驚いた顔をした。
「置いていくの?」
「何だよ」
「いや、別に」
「本人が帰るって言ってるわけじゃない。俺たちが連れていく理由もない」
「……そう」
ルカはエドを見た。
少年は、パンの袋を胸に抱えていた。
食べ終わったはずなのに、まだ手放そうとしない。
バルドは何か言いたそうにしていたが、結局、何も言わなかった。
三人は路地を離れた。
しばらく歩いてから、ロイドは振り返った。
エドはまだそこにいた。
路地の壁に背中をつけ、こちらを見ている。
ロイドは足を止めた。
「……おい」
少年が顔を上げる。
「来るか?」
エドは動かなかった。
「来るなら来い。飯はある」
ルカが小さく咳払いをした。
「飯って言っても、豆の煮汁くらいだけどね」
「黙れ」
「期待させるのもよくないでしょ」
エドは二人を見た。
それから、バルドを見た。
バルドは少しだけ頷いた。
「……あったかい」
何が、とは言わなかった。
けれどエドは、その言葉を聞いて、ようやく一歩を踏み出した。
そして、もう一歩。
小さな足音が、三人の後ろについてくる。
排水塔に戻った頃には、夜が深くなっていた。
ロイドは入口の板戸を押し開ける。
「狭いけど、入れ」
エドは中を覗き込んだ。
古い寝床。錆びた鍋。壁に掛けられた工具。修理途中の蒸気ランプ。床には使い古した布が敷かれ、隅には木箱が積まれている。
家というには、あまりにも粗末だった。
それでも、雨風をしのげる場所ではある。
「ここに住んでるの?」
「ああ」
「三人で?」
「そうだ」
「……ずっと?」
「今のところはな」
エドは入口に立ったまま、なかなか中へ入ろうとしなかった。
ルカが先に入る。
「遠慮しなくていいよ。床は汚いけど、踏んでも怒られないから」
「お前が言うな」
「僕が掃除してるんだからいいじゃない」
「昨日、掃除したのは俺だ」
「細かいことは気にしない」
バルドは鍋を火にかけた。
乾燥豆を水に入れ、少しだけ塩を加える。
今日の夕食は、それだけだった。
ロイドはエドの前に腰を下ろした。
「座れ」
エドは床を見た。
「汚れる」
「もう汚れてるだろ」
「……そうだけど」
「気にするな」
エドはゆっくりと座った。
その時、ロイドは少年の足に気づいた。
右足首が腫れている。
歩き方がおかしかったのも、そのせいだろう。
「足、どうした」
「なんでもない」
「腫れてるぞ」
「転んだだけ」
「いつ」
「……前」
「いつだよ」
「覚えてない」
ロイドは息を吐いた。
無理に聞いても、答えは出てこない。
「明日、見せろ。使える薬があるか探す」
エドは顔を上げた。
「明日も、来ていいの?」
「何が?」
「ここに」
ロイドは少し黙った。
ルカも、鍋をかき混ぜていたバルドも、こちらを見ている。
「……今夜は泊まっていけ」
エドの目が揺れた。
「明日は?」
「明日になったら考える」
「その次は?」
「知らん」
「……そっか」
エドは俯いた。
その表情が、少しだけ寂しそうに見えた。
ロイドは、自分の言い方が悪かったのかと思った。
だが、簡単に約束はできない。
三人だって、明日を保証されているわけではないのだ。
食料は足りない。寝床も狭い。仕事がなくなれば、ここに住み続けられるかどうかもわからない。
それでも。
「とりあえず、今日はここにいろ」
ロイドは言った。
「それでいい」
エドは小さく頷いた。
夕食は、四人で食べた。
豆の煮汁は薄く、具もほとんどない。
それでも、エドは器を両手で持ち、ゆっくりと口に運んでいた。
ルカは自分の分を半分ほど残し、何も言わずにエドの器へ移した。
「……いいの?」
「僕はもう十分」
「でも」
「僕は少食なんだ」
嘘だった。
ルカは食べることが好きだし、食事を抜くと機嫌が悪くなる。
だが、エドは何も言わずに受け取った。
バルドも、自分のパンを半分に割った。
大きい方をエドの器の横へ置く。
「……食べて」
「バルドは?」
「俺はいい」
「お腹すいてないの?」
「……少し」
ロイドは、二人を見た。
そして、自分の器をエドの前に押し出した。
「俺も少しでいい」
「ロイドまで?」
ルカが眉を上げる。
「何だ」
「いや、別に」
「食わないと働けないからな」
「それはそうだね」
ルカは残った豆をすくい、ロイドの器へ少し戻した。
「君は食べて」
「お前が食え」
「僕は少食」
「嘘つけ」
エドは、三人を見ていた。
誰もが少しずつ自分の分を減らし、誰かに渡そうとしている。
それが不思議で仕方ないようだった。
「……みんな、食べないの?」
小さな声だった。
「食べるよ」
ルカが答えた。
「でも、今日は少しだけ」
「なんで?」
「君がいるから」
エドは器を見つめた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……ぼく、いない方がいい?」
その場の空気が止まった。
ロイドは、すぐには答えなかった。
そんなことを尋ねる子どもを、彼は知っていた。
自分が邪魔ではないか。食べ物をもらっていいのか。そこにいてもいいのか。
そういうことを、子どもが気にする街だった。
「そういう話はしてない」
「でも、食べ物が減る」
「食べ物は、また稼げばいい」
「仕事がなかったら?」
「探す」
「見つからなかったら?」
「別の仕事を探す」
「それでも、なかったら?」
ロイドは、少しだけ眉を寄せた。
「その時は、その時だ」
エドは俯いた。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
ロイドの声は、思ったより強く響いた。
エドの肩がびくりと揺れる。
ロイドは一度、息を吐いた。
「悪い。怒ってるんじゃない」
それから、少年の目を見た。
「お前が食べた分くらい、どうにかする」
エドは何も言わなかった。
ただ、器を両手で持ち直した。
その夜、エドは初めて、誰かのいる場所で眠った。
ロイドたちの寝床は広くない。
古い布を敷いた床に、毛布を三枚。そこへ四人が横になるには、どう考えても狭かった。
「僕、壁際がいい」
ルカが言った。
「好きにしろ」
「壁から水が染みてくるんだけど」
「じゃあ真ん中にしろ」
「真ん中はバルドが寝るよ」
バルドはすでに横になっていた。
「……ここでいい」
「君は本当に何でもいいんだね」
「うん」
エドは、入口に近い場所で小さく丸まっていた。
ロイドは毛布を一枚、少年の上にかける。
「寒かったら言え」
「……うん」
「足は動かすなよ」
「うん」
「痛くなったら起こせ」
「うん」
何度も頷く少年を見て、ロイドは苦笑した。
「そんなに返事しなくていい」
エドは毛布の端を握った。
「……ここ、いてもいい?」
「だから、今夜は泊まっていけって言っただろ」
「明日も?」
ロイドは、天井を見上げた。
ひび割れた天井の隙間から、夜空がわずかに見える。
遠くでは、上層都市の灯りが雲の向こうでぼんやりと輝いていた。
「明日になったら考える」
また同じ答えだった。
けれど、今度は少しだけ続けた。
「……明日、足を見てやる」
エドは毛布の中で頷いた。
「ありがとう」
その声は、とても小さかった。
やがて、排水塔の中に静かな寝息が広がっていく。
ルカは壁際で目を閉じ、バルドはいつものように横向きで眠っていた。
ロイドだけが、しばらく起きていた。
四人分の呼吸。
たった一人増えただけなのに、いつもの夜とは違っていた。
狭い。
寒い。
食料も足りない。
明日から、どうすればいいのかもわからない。
それなのに、なぜか追い出す気にはなれなかった。
ロイドは自分の毛布を少しずらし、エドの肩までかけ直した。
少年は眠ったまま、毛布を握りしめる。
「……まったく」
ロイドは小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
*
翌朝。
ロイドが目を覚ますと、エドはもう起きていた。
少年は床に座り、昨日の紙袋をきれいに畳んでいる。
「何してる」
「……これ、返す」
「何を?」
「パンの袋」
「捨てとけ」
「でも」
「いらない」
エドは袋を見つめた。
その隣には、昨日の夜に食べきれなかったパンの欠片が置いてある。
エドはそれを、紙袋の中に入れようとしていた。
「それ、食べないのか」
「あとで」
「腹減ってるだろ」
「……うん」
「なら食え」
「でも、あとでお腹が空いたら」
ロイドは言葉を失った。
食べ物を取っておく。
今食べるより、後で食べる方が安全だと考える。
それは、何度も食べ物を失ってきた子どもの癖だった。
「エド」
「なに?」
「ここにいる間は、飯を隠さなくていい」
エドの手が止まる。
「食べたい時に食べろ」
「……本当に?」
「ああ」
「なくならない?」
「なくなる時はある」
正直に答えた。
「でも、なくなったらまた買う」
エドはしばらく考えたあと、パンの欠片を口に入れた。
ゆっくりと噛む。
その様子を見ながら、ロイドは工具袋を手に取った。
「足を見せろ」
腫れは昨日より少し引いていたが、まだ痛みがあるらしい。ロイドは古い布を水で濡らし、足首に巻いた。
「今日、仕事に行く前に薬を探してくる」
「お金がかかるよ」
「知ってる」
「ぼくのために?」
「他に誰のためだよ」
エドは答えなかった。
ただ、包帯代わりの布をじっと見つめていた。
その日、ロイドは仕事を休んだ。
ルカは文句を言いながらも、バルドと一緒に部品運びへ出かけた。
「今日は僕たちが稼いでくるから、ロイドは家で看病でもしてなよ」
「看病ってほどじゃない」
「じゃあ、家の修理でもしてて」
「わかった」
「あと、昼食は?」
「何か買ってくる」
「お金は?」
「残ってる分で何とかする」
「それ、何とかならないやつじゃない?」
「行け」
ルカは笑い、バルドと一緒に出ていった。
排水塔に残ったのは、ロイドとエドだけだった。
ロイドは壊れた窓の隙間を板で塞ぎ、雨漏りしている配管を確認した。エドは少し離れた場所から、それを眺めていた。
「手伝いたいのか?」
「……うん」
「足が治ってからだ」
「ぼく、手は動くよ」
「そういう問題じゃない」
「でも、何もしないと」
「何もしなくていい」
エドは黙った。
ロイドは板を押さえながら、横目で少年を見る。
「何かしたいなら、そこにある布を畳んでくれ」
「いいの?」
「それくらいならな」
エドはすぐに布を取りに行った。
小さな手で、丁寧に畳む。
一枚。
二枚。
三枚。
使い古した布が、少しずつきれいに積み重なっていく。
それだけのことなのに、エドは真剣だった。
ロイドは釘を打ちながら、ふと思った。
この子は、何かをしていないとここにいられないと思っているのかもしれない。
何かを返さなければ、追い出される。
役に立たなければ、食べてはいけない。
そうやって考えることが、当たり前になっているのかもしれない。
「エド」
「なに?」
「布を畳んだら、休んでいいぞ」
「うん」
「終わったらな」
「うん」
少年は、また布を畳み始めた。
*
夕方、ルカとバルドが戻ってきた。
バルドの手には、紙袋がある。
「パン」
それだけ言って、紙袋を机に置いた。
「買えたのか?」
ロイドが尋ねる。
「……安かった」
「何個?」
「四つ」
ルカが横から言った。
「僕が値切ったんだよ。店主が最後まで渋っていたけどね」
「いくらだった?」
「銅貨四枚」
「安いな」
「僕の交渉術に感謝してよ」
ロイドは紙袋を開いた。
中には、小さな丸パンが四つ入っていた。
そのうち一つは、形が崩れている。
焼きすぎたのか、端が少し黒くなっていた。
バルドは、そのパンを手に取った。
そして、エドの前に置く。
「……これ」
エドはパンを見た。
「ぼくの?」
「うん」
「みんなのじゃないの?」
「みんなの」
バルドは頷いた。
「でも、これはエド」
エドは、しばらくパンを見つめていた。
やがて、両手でそれを持ち上げる。
「ありがとう」
バルドは返事をしなかった。
ただ、少しだけ頷いた。
その夜、四人は昨日より少しだけ多い夕食を食べた。
そして、食後。
ロイドはエドに尋ねた。
「明日、どうする」
エドは顔を上げる。
「どうするって?」
「ここに残るか、別の場所を探すか」
ルカが静かにこちらを見た。
バルドも、鍋を洗う手を止めている。
エドは膝の上で指を握った。
「……ここにいてもいいの?」
「今すぐ追い出すつもりはない」
「明日も?」
「ああ」
「その次も?」
ロイドは少し考えた。
明日のことさえわからない。
それでも、少年の目を見て、答えた。
「しばらくは、ここにいろ」
エドの表情が揺れた。
「……ぼく、何をすればいい?」
「まずは足を治せ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「ご飯は?」
「食べろ」
「寝るところは?」
「空いてる場所を使え」
「……お金は?」
「いらん」
エドは俯いた。
しばらくして、顔を上げる。
「ぼく、ここにいてもいい?」
今度は、少し違う声だった。
ロイドは頷いた。
「ああ」
エドは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとう」
ルカが、ふっと笑う。
「これで四人暮らしだね」
「まだ決まったわけじゃない」
「本人がここにいたいって言ってるんだから、決まったようなものでしょ」
「お前が決めることじゃない」
「じゃあ、ロイドが決めたんだ」
「……うるさい」
バルドは、食器を片付けながら言った。
「四人」
それだけだった。
けれど、その声には少しだけ嬉しそうな響きがあった。
ロイドは、壊れた壁を見た。
隙間から、夜の冷たい風が入り込んでいる。
明日も仕事に行かなければならない。
食料も足りない。
エドの足が治るまで、少しは面倒を見なければならないだろう。
面倒が増えた。
確実に増えた。
それなのに。
排水塔の中には、昨日までなかったものがあった。
誰かの寝息。
小さな食器。
畳まれた布。
そして、四人分の夕食の匂い。
この街では、家族というものは血で決まるのかもしれない。
あるいは、同じ名前を持つ者たちのことを言うのかもしれない。
ロイドには、よくわからなかった。
ただ、明日の朝も、この場所で目を覚ます少年がいる。
それだけは、確かなことだった。
そして、それで十分だと思った。
*
その夜遅く。
エドが眠ったあと、ロイドは外へ出た。
排水塔の脇にある古い配管に腰を下ろし、煙草を一本取り出す。火をつけると、赤い光が指先を照らした。
しばらく煙を吐き出していると、後ろから足音がした。
「眠れないの?」
ルカだった。
「お前こそ」
「僕はいつだって眠れるよ。今日はちょっと、考え事」
「珍しいな」
「失礼だね」
ルカはロイドの隣に座った。
少し離れた場所では、バルドが水桶を運んでいる。
「エド、どうするつもり?」
「どうするって?」
「ここに置いておくんでしょ」
「しばらくはな」
「しばらくって、どれくらい?」
「知らん」
「本当に何も決めてないんだね」
「決められるかよ」
ロイドは煙草を指で弾いた。
「俺たちだって、いつまでここにいられるかわからない。仕事がなくなれば、食えなくなる。食えなくなれば、出ていくしかない」
「うん」
「それなのに、一人増えた」
「うん」
「どう考えても、楽じゃない」
「そうだね」
ルカは、夜空を見上げた。
雲の向こうに、上層都市の灯りが見える。
「でもさ」
「何だ」
「昨日まで三人だったのに、今日から四人なんだ」
「そうだな」
「それって、ちょっと面白くない?」
ロイドは眉を寄せた。
「どこが」
「僕たちの生活、何も変わらないと思ってたから」
ルカは笑った。
「明日も同じように仕事をして、同じように食べて、同じように眠る。そんな毎日がずっと続くと思ってた」
「実際、そうだろ」
「どうかな」
ルカは、排水塔の窓を見た。
そこには、薄い毛布に包まれて眠るエドの姿がある。
「少なくとも、明日の朝は少し違うよ」
ロイドは何も言わなかった。
バルドが水桶を置き、二人の近くに立つ。
「……エド」
「ん?」
「明日もいる」
バルドはそう言った。
ロイドは煙草を消した。
「そうだな」
空の上では、今日も都市の灯りが輝いている。
地上の街では、誰かが今日の食事に困り、誰かが寝床を探し、誰かが明日の仕事を求めて歩いている。
その中で、古い排水塔に四人の人間がいた。
まだ家族とは呼べない。
約束も、保証も、何もない。
ただ、明日の朝も同じ場所にいる。
それだけの、小さな約束があった。
ロイドは、排水塔の扉を閉める。
「寝るぞ」
「はいはい」
「……うん」
四人の夜が、静かに更けていった。
明日のパンは、まだない。
けれど、明日の朝を迎える場所はある。
それだけで、今夜は少しだけ、暖かかった。
第一章・了




