第40話 祈りの線、補給の線
新宿外縁線の地下防衛区は、その日、いつもの戦場の顔とは少し違っていた。
もちろん、戦争が止まったわけではない。
地上では相変わらず高高度観測ドローンが円を描き、遠くでは散発的な砲声も響いている。地下でも発電機の低い唸りが途切れることはなく、補給班は走り、医療班は眠れぬ顔で担架を押していた。
それでも、目に見える景色の一部が変わっていた。
通路脇へ雑に積まれていた空箱が片づけられ、壁際の破損資材が選別され、倒れた簡易棚が起こされ、床の乾ききった血痕へ水が撒かれている。
民間区画では布仕切りの位置が調整され、避難導線を塞いでいた私物が少しずつ整理されていた。
戦場のど真ん中で、まるで大掃除のようなことが始まっている。
だが、それは単なる清掃ではなかった。
「そこ、その箱は左じゃなくて奥。通路を細くしちゃだめ」
三崎雫は、毛布を肩へ引っかけたまま、民間区画の一角で声を張っていた。
相手は避難民の中年男性と、その隣で小さな荷物を抱える少女だ。二人とも最初は戸惑っていたが、雫の言い方が不思議と具体的で、しかも押しつけがましくなかったので、今では素直に手を動かしている。
「こっちですか?」
「うん。そこに寄せると、いざって時に人が流れやすいから」
「いざって時、って……」
「また何かあった時」
雫は曖昧に笑った。
「ここ、何もない日の方が少ないでしょ」
「……それはそうだな」
男は苦い顔で頷き、段ボール箱を抱え直した。
雫はそこで一度、区画全体を見回す。
薄い布で区切られた生活スペース。
毛布。保存食。子供用の古い絵本。水のポリタンク。
それらが全部、ぎりぎりの空間へ押し込められている。
今までは、生きるだけで精一杯だった。
置ける場所へ置き、寝られる場所へ寝て、凌げるだけ凌ぐ。それでよかった。
だが今は違う。防衛区そのものを、次の召喚のための土台にしなければならない。
玲奈はそれを“聖域化”と呼んだ。
雫にはまだその言葉の半分も分かっていない。
ただ一つ分かるのは、ちゃんと整えることが、次の仲間を呼ぶために必要らしいということだけだ。
「雫」
静かな声がして振り返ると、セレフィアが立っていた。
黄金の騎士鎧ではなく、防衛区支給のジャケットを羽織った軽装だ。
それでも立ち姿には変わらぬ張りがあり、この雑然とした地下通路の中で妙に目を引く。
「そちらはどうですか」
「今のところ順調」
雫が答える。
「最初はみんな“何で今こんなこと”って顔してたけど、理由を話したら手伝ってくれる人が増えてきた」
「良いことです」
「セレフィアさんの方は?」
「医療区画を一通り」
彼女はわずかに頷いた。
「物品の位置、寝台の間隔、出入口の導線。少し変えるだけで流れはかなり良くなります」
「……ほんとに何でもできるなあ」
「そうでもありません」
「いや、だいぶ何でもできるよ」
雫は少しだけ笑ってから、小声で続けた。
「でもさ」
「はい」
「正直、まだちょっと不思議」
「何がです?」
「こういうの」
雫は民間区画を見回した。
「敵と戦うために掃除する、っていうか。整理して、整えて、それが召喚に繋がるって」
「不思議ではありません」
セレフィアは穏やかに言う。
「守るために剣を振るうのと、守るために場を整えるのは、本質的には同じことです」
「……」
「人が立つ場所が乱れていれば、心も乱れます。心が乱れれば、術も、判断も、祈りも歪む」
彼女は真っ直ぐ区画を見た。
「ですから今やっていることは、決して回り道ではありません」
その言葉には、不思議な説得力があった。
雫はこくりと頷き、それから少しだけいたずらっぽく言う。
「そういうの、天城さんには効かなそうだけどね」
「……コーイチは少々例外です」
「やっぱり」
「ですが、例外にも支える場は必要です」
「それは分かる」
その時、区画の奥から小さな子供の声が聞こえた。
「ねえ、おねえちゃん」
振り向くと、昨日も見かけた少女が紙を一枚持って立っている。
「これ、ここに置いていい?」
紙には拙い字と絵が描かれていた。
大きな丸。
笑った顔らしい三つの線。
その下に、子供らしい文字で、みんなかえってきますように。
雫は一瞬、何も言えなかった。
「……それ、描いたの?」
「うん」
「誰が帰ってきますように?」
「おとうさんも、おにいちゃんも、あと、みんな」
少女は当然のように言う。
「だめ?」
セレフィアが、その紙を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「だめではありません」
彼女は静かに言う。
「むしろ、置いてほしいものです」
「ほんと?」
「ええ。とても、大事なものです」
「じゃあ、ここ!」
少女は嬉しそうに、通路脇へ新しく張られた白布の一角へその紙をぺたりと貼った。
それを見て、雫は小さく息を吐く。
「こういうのでも、意味あるの?」
「あります」
セレフィアは即答した。
「ミレーネは、そういう願いに強く応える子です」
「……」
「人が守りたいと願った痕跡は、思っているより場へ残ります」
「そういうものなんだ」
「そういうものです」
その紙一枚をきっかけに、不思議と周囲の空気が動き始めた。
別の子供が、自分も描くと言い出す。
近くにいた年配の女性が、じゃあ布をもう少し綺麗に張り直そうと言う。
補給班の隊員が通りがかりに、通路へはみ出ていた荷物を黙って奥へ寄せる。
大きな変化ではない。だが、小さな整えが連鎖し始めていた。
防衛区の別の一角――医療区画でも、似たような変化が起きていた。
寝台の並びが見直され、出入り口に近い場所へ重傷者、奥へ安定者。
点滴具と薬品箱は手前へ寄せられ、通路に面した位置からは敵残骸由来の検体が撤去される。
看護要員たちは最初こそ戸惑っていたが、セレフィアが一つずつ理由を説明すると、みるみる動きが変わった。
「そこを空けるのです」
「でも、ここに薬品箱があると便利で……」
「今は便利でも、搬送時に詰まります」
セレフィアははっきり言う。
「一人を助けるための近道が、次の一人を遅らせることもあります」
「……」
「秩序は冷たく見えますが、結果として多くを守ります」
「……分かりました」
その横で、医療班の年若い女性がぽつりと呟いた。
「本当に、騎士様みたい」
「騎士です」
セレフィアが即答し、周囲にいた何人かが思わず吹き出した。
その笑いが、妙にやわらかかった。
一方その頃、補給路の再編はもっと現実的で、もっと泥臭い仕事になっていた。
「いや、だからこの箱はこっちじゃねえって!」
木村三曹が怒鳴る。
「医療回しと前線回しを混ぜるな! 次に取り違えたら俺が泣くぞ!」
「泣くんですか」
横から玲奈が言う。
「泣かねえよ! 比喩だ!」
「でもかなり切実そう」
「切実なんだよ!」
恒一はそのやり取りを、補給路の端で見ていた。
自分は今、玲奈とリュミエルと一緒に、搬入口区画と各支点区画を繋ぐ魔力導線の仮設計をしている。
足元の簡易地図へ色線を引き、どこに高純度コアの負荷を逃がし、どこで人の意思を拾い、どこを“清浄な支点”にするかを調整する作業だ。
それは派手さとは無縁の、だが間違いなく重要な仕事だった。
「ここ」
リュミエルが地図を指す。
「医療区画と民間区画のあいだ、今のままだとノイズが溜まる」
「何で?」
恒一が聞く。
「人の流れが交差しすぎてる」
玲奈が答えた。
「交差点って、物理的な意味でも魔力的な意味でも乱れが生まれやすいの」
「じゃあ分けるか」
「分けるだけじゃなく、一方向化」
玲奈が言う。
「補給路と祈りの線を混ぜない方がいい」
「祈りの線って言い方、いまだに慣れねえ」
「でも本質よ」
リュミエルが言う。
「ここ、面白いくらい“人が願った痕跡”が残ってる」
「……それ、見えるのか」
「少しね」
彼女は肩をすくめた。
「防衛区全体、ぐちゃぐちゃのくせに、中心だけ妙に踏ん張ってる感じがある」
「それを土台にする、と」
「そう」
玲奈が頷く。
「だから今回の聖域化は、“綺麗にする”っていうより“揃える”の方が近い」
恒一はその言葉を反芻する。
揃える。
人の流れ。
物資の流れ。
祈りの流れ。
戦場の中に散らばったそれらを、一つの方向へ寄せる。
敵中枢攻略のために。
ミレーネを呼ぶために。
この終末日本の防衛区全体が、一つの意思を持った構造へ変わろうとしている。
「……悪くないな」
思わず漏れると、玲奈が横目で見た。
「何が」
「この感じ」
恒一は補給路の向こう、紙を貼る子供たちと、それを見守る避難民を見た。
「みんなで次を呼ぶって感じ」
「ロマンチスト」
玲奈が言う。
「違う」
「でも嫌いじゃないでしょ」
「……まあな」
「私は結構好きよ」
彼女はあっさり認めた。
「珍しく、理屈と人間の気持ちが綺麗に噛んでるから」
「博士にそう言われると、ちょっと嬉しくない褒め方だな」
「失礼ね」
その時、リュミエルがふと顔を上げた。
「来た」
「何が」
恒一も周囲を探る。
高高度観測ドローンだ。
直接攻撃ではない。
だが明らかに、搬入口上空から医療区画側へ向けて旋回軌道が変わっている。
「観測角度、変えたわね」
玲奈が言う。
「再配置に気づいた」
「気づくだろうな」
恒一が言う。
「隠せる規模じゃない」
「ええ」
リュミエルは頷いた。
「でも全部は読ませない」
その声はいつもの軽さが少し消えていた。
敵もまた、こちらの変化を見ている。
ならばこの再編は、ミレーネ召喚の準備であると同時に、敵への偽装でもなければならない。
戦争は、相手より少しだけ先に読むことの積み重ねだ。
魔法も銃も、その原則からは逃れられない。
雫が、少し離れた民間区画の入口から恒一へ向けて手を振った。
「天城さん!」
「何だ!」
「こっち、子供たちの紙もっと増えてる! どうする!」
「増える分にはいいんじゃないか!?」
「いいの!?」
「多分!」
「多分って何!」
セレフィアがその横へ来て、静かに言った。
「良いのです」
「ほら」
「でも、位置は揃えましょう」
「そっちはちゃんとしてるな!」
その声に、周囲の何人かがまた笑った。
笑い。
整理。
補給の線。
祈りの線。
それらは今、確かに防衛区の中で繋がり始めている。
終末世界のただ中で、人々は次の仲間を迎えるために場を整えていた。
それは奇妙で、無茶で、でも確かに前へ進む行為だった。
防衛区を“聖域”に変える仕事は、始まったばかりだった。




