ブリジットの動揺
その少女は無性に腹が立っていた。なぜならベアトリス・キャンベルが再び学院内をうろつくようになったからだ。昨日も四人組をけしかけたのにうまくいかなかった。第八王子と転入生に邪魔されたと言っていた。
(婚約者がいるのに、なんで第八王子もあの女を側に置くのよ)
使えない男共にもうんざりだ。それにあの婚約者がベアトリスを友人に選ぶなどあり得ない。転入生もきっと騙されている、そうに違いない。少女は仄暗い闘志を燃やす。あの女はダリルを散々利用して捨てた。ダリルはあの女の魔力交換会の際に魔力暴走に巻き込まれ、搬送先の治癒院でその後亡くなったと聞いた。
(許さない…許さない…なんであの女はのうのうと生きているのにダリルは死んだのよ)
気づけば少女は閉鎖された第七王子の屋敷の近くまで来ていた。静まり返った屋敷は昼間でも薄暗い森の中に沈んでいる。ゾッとして慌てて少女はその場を去ろうとした。
「お姉さん、願いを叶えてあげようか?」
不意に声がして小柄な人影が立っていた。白い髪を肩の辺りで切りそろえ、薄紫の瞳をしている。一瞬第七王子の亡霊かと思って少女は悲鳴を上げそうになった。
「そんなに驚かないで。僕はお姉さんの願いを叶えることができるよ?憎い人がいるんだね」
美しい顔が近づいてくる。少女は震えながら頷いた。
「願いを叶える代わりに、少しお姉さんの血を分けて。そうしたら願いを叶えてあげる」
少女はいつの間にか跪いていた。見下ろす顔が優しく笑う。その指先が首筋の血管を辿る。
「いい子…憎しみに満ちていて美味しそう…」
すでに術中にはまった少女にその言葉はもう届かなかった。潤んだ瞳で少年を見上げて首筋を晒す。赤い唇が近付いて鋭い牙が光った。
***
ベアトリスと共に久々に薬草学の講義に出たブリジットは、今モリス教授の研究室にいた。金髪の二人を見やってモリス教授はハーブティーを淹れながら首を傾げる。
「まさかブリジットだったとはね。そのお腹はどうなってるのよ?紅い竜の魔術?」
「あぁ…そうだな。そりゃこの格好で膨らんだ腹のまま歩いてたら悪目立ちするだろう。まるでいないみたいに軽い」
ブリジットの言葉にモリス教授は肩をすくめる。
「あの…すみません。気遣っていただいて…」
ベアトリスが小さくなる。薬草学の講義が終わってから数名の学生に絡まれた。ブリジットも割って入ったが相手は執拗だった。
「忘れ物がないか見に戻って正解だったわ」
「それにしても、聞けば昨日もだろう?誰かに恨みでも買ってるんじゃないか?」
ブリジットが優雅な仕草でハーブティーを飲む。綺麗で無駄のない所作だとモリス教授は思う。
「正直…あちこちで恨みを買いすぎてて分からないんです…以前の私はけっこう調子に乗ってて…他人の痛みに無関心だったから…」
ベアトリスはわが身を振り返り自嘲的な笑みを浮かべた。
「ジュディスにも八つ当たりしたりしたのに…友だちだって言ってくれて…でも、周りはそんな風に簡単には許してくれないから…」
ブリジットがわしわしとベアトリスの頭を慰めるように撫でていると、扉を叩く音がした。
「はぁい、どなた?」
モリス教授が扉を開けると金髪の少女が所在なげに立っていた。
「あらロージー、珍しいわね。どうしたの?」
不意に少女は中を覗いてブリジットとベアトリスの姿を確認する。フラフラと入ってきた少女にブリジットは違和感を覚えて身構えた。反射的にベアトリスを下がらせ、何故そうしたのか分からなかったが咄嗟に防御の魔術を張り巡らせた。防御の外側に強い炎の衝撃を感じた。
「ベアトリス!モリス教授!無事か!?」
ブリジットの後ろで二人はこくこくと頷く。ベアトリスは魔力が復活していないのでこの手の攻撃には為す術もなかったが、なぜか心ここにあらずといった様子で目を見開いていた。モリス教授が庇うようにベアトリスの前に出る。
少女は再び炎で攻撃魔術を何度も放つ。だがブリジットの防御には敵わなかった。
「何事だ!?」
学院長の声がして、唐突に攻撃は止んだ。
「皆無事か?」
学院長は気を失った金髪の少女を抱えている。だがブリジットの後ろでベアトリスは唐突にこんな言葉を口にした。
「お母さまの…愛ゆえの呪いだったのね…」
ブリジットはギョッとした表情になる。
「何か見たのか?」
ベアトリスはこくりと頷いた。
程なくして金髪の少女ロージーは目を開けた。何故か目の前に学院長がいる。頭が痛かった。自分が倒れて抱えられている事実にようやく気付く。
「えっ…?私…どうして…」
周りを見回すと見知らぬ金髪の少女とベアトリス、それにモリス教授がいた。
「覚えていないのか?君は研究室に入って突然魔術で攻撃を始めたんだよ」
学院長の言葉にロージーは首を横に振る。普段は目立たない真面目な少女だ。
「覚えて…いないんです…」
少女は額に触れて首を横に振った。その首に傷があるのをブリジットは見逃さなかった。学院長は少女を連れて出てゆく。呆気に取られた様子の三人が残されたがモリス教授がその沈黙を破って口を開いた。
「黙っているのも…気が咎めるから…言うわね。見ちゃったわよ。ブリジット…あなた、男女問わずモテモテだったのね」
モリス教授の言葉にブリジットは途端に渋い顔をした。
***
反射的にブリジットがベアトリスを下がらせようと触れた際にそれは起こった。パチッと何かが爆ぜるような感覚がして、ベアトリスの意識に突然知らない誰かの記憶が流れ込んできた。
栗色の長いストレートの髪に濃い青色の涼し気な瞳の少女が目の前に立っていた。
「ブリジット、本当のことを言って。あなたが…あの人を誘惑するなんて…そんなことある訳がないでしょう?あの人が手を出したのよね?」
自分の口からするすると言葉が出てきてベアトリスは驚く。
「いや…誰が何と言おうとそれが事実だ。学院長の決定は覆らない」
そんな訳はない。だって。胸の奥に沸き起こった感情の波にベアトリスは混乱する。どういうこと?
「だって、私が本当に愛しているのはあなたなのよ?あなただって、そうでしょう?違うとでも言うの?」
「…アンジェリカ…それは口にしない約束だろう?」
ブリジットは苦しげに顔を歪めた。ベアトリスはそのままブリジットに駆け寄り少し背の高い相手に抱きついた。それでようやくベアトリスは自分が母の視点に立っていることを理解した。
「ブリジットの意地悪!意気地なし!」
「アンジェリカ…君はもう既婚者なんだ。私にだって決められた相手がいるらしい…私の素行など気にせずに婿に来てくれるのだから、有り難く思えと、そういうことなんだろうな…実に手回しの早いことだ。所詮は私たちの意思など置いていかれ家の都合で先へ先へと走らされる…そういう世の中なんだよ」
ブリジットの瞳にはすでに諦めの色が浮かんでいた。
「カルヴィンは…私以外にも他所に女を囲っているわ…私の身体が弱いから…所詮はいつ死んでもいいお飾りの妻でしかないのよ…」
「そんなことはないだろう…」
ブリジットは静かにアンジェリカの頭を撫でる。大切なものを扱うようにそっと。アンジェリカは顔を上げた。
「ブリジット…この真実をあなたはきっといつか明かす日が来るわ。そうね、賭けをしましょうか。可能性は低いけれど…もしも…もしもよ?奇跡的に私の血を引く子が生まれてきたなら、あなたはきっとその子には嘘偽りない真実を語るわ。私の愛はずっと変わらない。忘れないで。愛は呪いよりも強いのよ」
アンジェリカの唇がそっとブリジットの唇に重なる。ブリジットがその日までその記憶を全て忘れるように。
***
「…なんで、今まで忘れていたんだ…アンジェリカめ…」
ブリジットが美しい少女姿のまま乱暴に足を組んだので、モリス教授はそれをそっと元に戻した。
「もうっ、その姿だと品がないわよ」
「…元々品性など持ち合わせていない体で生きてきたんだ。今さら戻しようもない」
ブリジットはわざと残ったハーブティーをぐびぐびと飲み乱暴に音を立てて置く。
「…結局はお父さまもお母さまも…それぞれ別に好きな人がいたのに家の事情で違う人と結婚させられた…そういうことになるのかしら?」
ベアトリスはブリジットの顔を見つめる。どこかでボタンをかけ違えたら、この人が父親になる可能性もあったのかしら?という思いがふと過った。
「…カルヴィンは確かに…恋多き青年ではあったが…アンジェリカのことも愛していたと、私はそう思っているよ。だが私の生まれ持った身体のせいで、カルヴィンとアンジェリカの関係は余計にややこしくなった…その点は否めないから、退学させた学院長の決定もあながち間違いとも言い切れないな…」
ブリジットは気遣わしげにベアトリスを見つめた。
「…大丈夫か?必ずしも真実が人を救うかと言ったらそうではないというのが私の持論なんだが、アンジェリカはそうではなかったんだな。今さら君にこんなことを突き付けてどうしろと言うんだ…」
ベアトリスは上品にハーブティーを飲んで考え込む。母はいったい自分に何を伝えたかったのだろう。
「母を…アンジェリカを…あなたは愛してましたか?」
ベアトリスはぽつりと呟いた。ここでベアトリスに真実を明かしたということは、ベアトリスは間違いなく母とカルヴィンの子ということにもなる。複雑な気持ちだった。
「愛していた…そうだな。あれを愛と呼ぶのなら…私にはアンジェリカの気持ちは重すぎて、この手には少し余るものだった…このくらいで許してくれないか?」
ブリジットは小さく笑ってベアトリスの頭を撫でた。
「君の瞳はアンジェリカに似ているんだ…一目見てそうだとすぐに分かったよ。だからそんな顔をされると少し心が揺らぐ。私にとっては親友で…でもアンジェリカはそれ以上を求めていた…そういう難しい関係だったんだ」
ベアトリスはブリジットの美しい顔を見つめていたが、不意に笑い出した。
「私、少し自分の気持ちが分かったかもしれないわ。少なくとも私はあなたを見ても母のように口付けしたいとは思わない。でも違った意味では好意を持っている。そうね…クレメンスの親としてのあなたと親しくなりたいと思ってるんだわ」
ブリジットは眉をピクリと上げた。だから憐憫をかけるなと言ったのにこれだ。
「カルヴィンの嫌そうな顔が目に浮かぶな…」
ブリジットが呆れつつ言うとベアトリスは強気な顔で言った。
「多分お母さまは自分の真実を見せることで、私にお父さまを許せって言いたかったのかもしれないわ。でも私はもうしばらくお父さまを許す気にはなれないの。病床のお母さまの療養院に通ったその足でお父さまは他所の女の家に行っていたのよ。お母さまが亡くなるまでその女を屋敷に連れては来なかったけれど、喪が明けた途端に私には継母と五つ歳下の弟と生まれたての妹まで現れた。これで捻くれるなっていう方がどうかしてるのよ」
ブリジットは思わず咳払いをした。
「…ついでに言っておくと…その継母も昔の知り合いだ。私のことを蛇蝎の如く嫌っているから、ロウの家に嫁に来る気があるなら相当の覚悟が必要だぞ?」
ブリジットの言葉にベアトリスは心底嫌そうな顔をした。
「弟と妹は別に嫌いじゃないけれど…私、あの人とは根本的に合わないのよ。私を助けると思って協力して貰えるなら、私きっといい嫁になるわよ?」
アンジェリカの再来のような上目遣いの瞳でベアトリスは懇願する。モリス教授は狼狽えるブリジットを見て笑ってしまった。
「怖いもの知らずみたいに振る舞うあなたにも、恐ろしいものはあったのね。ちょっと安心したわ」
「私はちっとも安心できないぞ?まったく…クレメンスは仏頂面のくせに無自覚に甘い言葉を吐くんだ。手に負えん。あれを本気で手に入れたいなら早めに掴まえておかないと、すぐに他の女に取られるぞ?」
ブリジットは諦めたようにベアトリスに忠告した。




