第2話 不器用な嫌われ者
バイトはしていた。お金は要り様だった。何故なら実家には居場所がないから。従って独り暮らしであるから。
むしろ、気楽な側面もある。この呪いのおかげで、「スイッチを切る」時間に、誰かが近くにいることがとてもストレスだった。それが家族なら、尚更だった。
もっとも、当の家族からも、残念かつ当然ながら、疎まれていた。
いやむしろ恐れられていた。
僕の執着するもの全て、人からモノから消えてゆくのだから、それは当然だ。
それでも、僕は僕の家族のことが好きだ。追い出したりしないで、いつもおびえたように、腫れ物に触れるように、こちらを伺いながら、どこかに、表現が難しいが、後ろめたさとでも形容できそうな、慈悲をその目に宿していた。
家族は僕を追い出すことはしなかったが、進学と同時に僕が出てゆくことを父に告げると、ほっとしたような、それでいて今にも泣き出してしまいそうな、不思議な顔をして「分かった」とだけ、言った。
理由は、今も分からない。けれど、きっと彼らは善良で、普通の家族のように僕を愛していたかっただけなのだろうと、なんとなくそれだけは分かった。そう思いたいだけなのかもしれないけれど。
そういうわけで、僕はバイトにも行っている。バックヤードであれだけ聞こえるように僕の悪口を言いながら、それでも解雇にはしない店長のことも、嫌いにはなれなかった。もっとも、好意ではなかったかもしれないが。
「先輩、あんだけ言われて、なんか、言い返さなくていいんすか」
顔採用だな、と、彼女を初めて見た時思った。茶髪にショート。くりっと好奇心旺盛そうな目。くっきりとした鼻梁と、やんわりピンク色の唇、そして小顔。
僕の後から入った彼女は、それなのにすぐに馴染んだ。
皆して、持て囃して。
顔がいいだけじゃなく、実際好奇心旺盛でなんでも吸収し、人当たりもよく、お客様からの評判もいい。当然と言えば、当然だ。
本城百合香という名前さえ、なんだか少し都会的だ。
ちなみに本城さんの実家は都内の一戸建てらしい。育ちもいい、と。こうなってくるともはや、嫉妬という次元ではなくなってくる。むしろ、彼女を堂々と褒めちぎることのできる、店長に嫉妬してしまうくらいだ。
―――――嘘だ。
妬ましい。小さい男だ、僕は。
「いいんだよ、別に」
「なんで」
「なんでもだよ」
「向上心がない奴は馬鹿だって習ったっす」
「向上心があっても馬鹿は馬鹿なんだよ」
「向上心もなく、馬鹿な先輩が、馬鹿にされるのは、不当に貶められてるんじゃなく、順当に事実を言われてるということだと思うっすけど」
こいつ。
ずばずばモノを言いすぎだろ。
向上心はあるわ。表に出すのがリスクなだけでな。
「じゃあ放っておけ」
「でも、言われっぱなしでぼこぼこの先輩を見るのも、正直、もやもやするというか。自己防衛くらいしてよって、思うというか。まぁ見てて気分良くないんっす」
「じゃあ見るな」
「無茶でしょ」
無茶だな。しかし僕の呪いは無茶苦茶だ。
話して理解される訳がないので話すことはしない。
「あのなぁ。僕なんかと絡んでも損しかないんだって。賢いんだから分かるだろ」
「なんですか。そんな小さい人間じゃないすよ私」
「意味が分からん」
「嫌いなんすか、私のこと」
来た。来てしまった。だから人と余計に会話するとこういうことになるのだ。
別に嫌いでも何でもない。
むしろ、こうまで邪険に扱われる僕に、これだけ話ができるのだ、ある意味言う通り、小さい人間じゃない。率直すぎる物言いも、変に隠して裏で色々言われるより、よほど気持ちがいい。正直者で、善良だ。だから、仕方ないとはいえ、放っておくこともできずに、行動を起こした。それも当人である僕にだ。形式上とはいえ、先輩の僕に。勇気がある。年下であっても、見習うべきところのある女性だ。
だから、言いたい。
本当は。
「ああ。嫌いだよ」
ありがとう、と。
彼女の大きな目が細められ、眉をひそめて、こちらを睨めつけた。「あ、そうっすか」とぼそりと一言吐き捨てて、そのまま大股でバックヤードへ入っていった。「百合香ちゃん、調子どう」と嬉しげに話しかけた店長に、それでも彼女はそつなく応対しているのが聞こえる。
なんてことはない。
こんなこと。
いつものことだ。
彼女は出来た人間だ。
僕なんかにどう言われようと、あの通り。
きっと、何とも思ってやしない。
しかし上手くいった。あのキラーパスに、堂々たるシュートを僕は決めた。
無事、嫌われたことだろう。
よかった、よかった。
あんないい子が。消えていいはず、ないからな。
────嘘だ。
彼女はきっと、傷ついた。
それを、おくびにも出さないのは、それすら、僕への気遣いとプライドだ。
そんな風に、気持ちを固めなくちゃいけない様に、他でもない僕が、そうしたのだ。
なんて。
なんて、最低な奴だろうな、僕は。
だけど、最悪じゃない。
最悪は、僕が、僕の気持ちのまま、お礼をいうこと。
お礼を言うくらいで、消えることはない。それはこれまで何度も経験した地獄で、何となくは分かっている。
だけど、これをきっかけに、僕たちが仲を深めてしまったら。
恋だの愛だのじゃなくてもそうだ。
親愛。友愛。そうした気持ちが心に表れてしまえばもう、後がない。
彼女を消し去る銃のトリガーに、手をかけることになる。
そんなこと、あってはいけない。
もう、二度と。
□□□
帰り道すがら、スマートフォンでネットサーフィンをしながら不意に見つけた映画があった。いつもなら夕焼け色の空や街並みを見ながら帰る。今日は、そうしない。そういうことをしたくなくて、スマートフォンにかじりつくようにして、帰路につく。「笑える・おすすめ・映画」と検索して、一番初めに目に入った映画を、映画館で見よう。ファミレスも一体型になっている大型の複合施設だ。
そのあとは晩飯だ。今日は肉にしよう。奮発して、牛肉だ。映画を観て、分厚いのを、食べて、最高だ。
映画は、吃音症の青年が、自分の意図する発言と、周りの解釈が絶妙に食い違うせいで、殺人容疑者に勘違いされ、そうかと思えば大統領報道官に勘違いされ、米国中を飛び回る羽目になる、というストーリーだった。
あまりに素っ頓狂な状況へ、次々陥る主人公の姿に、僕は大いに笑った。
笑って。
笑って。
いつの間にか、泣いていた。
なんだ。
別に感動するシーンじゃないぞ。
おかしくなったのか、僕は。
何を言っても、上手に伝わらなくて、まるで世界そのものが、彼の意図を勘違いさせようとしているみたいに、面白おかしく物事が転じていく、そういう、面白いシーンじゃないか。
だから、これは笑い泣きだ。笑いながら、笑いすぎて、目尻ににじんだ涙が、おなかを抱えるくらいに笑うから、こぼれているだけだ。
□□□ ファミリーレストラン
涙が後から後からこぼれてきて、食べかけのステーキにぽたりと落ちる。がむしゃらにナイフを操って、乱暴に突き刺して口いっぱいに頬張る。
ああ、美味い。
やっぱりステーキは牛だな。
そうか、これはあまりの美味しさに泣けてきているのだ。
久々とはいえ、我ながら大げさだ。
ああ。
なんと、滑稽だろう。
可笑しくて可笑しくて。
それは本当に散々で、はた迷惑で。滑稽で。間抜けで。でも人が良くて。断り切れなくて。酷い目には遭ったけれど、最後はみんなに称賛されて。
それは。
それはとても、眩しすぎた。
僕の呪いと、彼の吃音症は、全然違うものだ。
なのに僕は、この映画が他人ごとじゃない気がしてきてしまっていた。
思いを伝えられないがために世界に翻弄される様を観て、笑う僕こそが、一番愚かで、滑稽で。
最高に格好悪かった。
映画の彼は、目映いほどの光に包まれて、何かの壇上でスピーチしていた。吃音症など、見る影もないくらい、堂々としたスピーチだ。
ちくしょう。
泣けるなんて、書いてなかったじゃないか。
そして、やはり僕は言うのだ、自分の心に嘘をついて、周りの客にも聞こえる声量で。
「ああ、この店の料理もクソまずいな」