第3話 向日葵のような少女
翌日、その日の講義は三講からで、かなり時間に余裕のある朝だった。鏡で見るまでもなく目元はパンパンに腫れており、湯船につかれば少しは改善されるかと思ったが、さっぱり駄目だった。
随分みっともない顔で登校する羽目になり、やや気持ちが沈んだが、考えてみればあの大学で自分の目元の変化に気づくほど親密な者もいないかと思い当たり、更に気持ちが沈んだ。
講堂に入ると、一瞬、視線が集まった。そして瞬時に、散ってゆく。小さい講堂はこれだから嫌なのだ。
僕は最後列か、最前列にしか座らない。理由は、もう言うまでもないことかもしれないが、誰にも見られないか、誰も見ないで済むか、どちらかが好ましかったからだ。
割合、偏差値は高い大学だが、どこにでも勉強嫌いは居る。後ろに行くほど生徒の密度が増してゆく様はなんだか可笑しかった。従って最後列に座る機会は非常に少なく、今日も例によって最後列は満員御礼だ。
緩やかな階段を下りながら最前列を目指す。先ほど散ったはずの視線が、時々後ろから突き刺さる。ひそひそと何かを話す様子も感じる。
もう、慣れた。
無事最前列に座ると、あの、と通路を挟んだ隣から声をかけられた。昨日のバイトといい今日といい、どうなっているのかと思いつつ、横を見遣るとそこには向日葵が大輪の花を咲かせていた。
いや、比喩である。
しかし真実、そのように錯覚したかと思われるほどの美しさだった。
アッシュブラウン、ショートボブ。きり、と結ばれるはずの眉は、しかし困ったようにハの字に眉尻を下げている。眼は大きく、くっきりと幅広な二重はしかし、眠たげな印象が全くない。
そして瞳は美しい琥珀色で、そこだけが日本人離れした印象を与えているが、彼女の日本語は流暢だ。色白な肌はしかし、不健康さとは全くの無縁で、つやつやと輝いているようだった。
うっすらと桜桃色の唇はふっくらとして、触れずともビロードのように柔らかな触りであろう。もはや疑いようがない。
その唇が、「あ」の字に開く。その様すら、目が離せなかった。
「あの……」
まずい。我を忘れるとは、このことか。傾国の美女とは、こういうものなのだな。他の有象無象が何か月も何年もかけて積み上げる物を、たった一瞬、一挙手にて成し得てしまう。それも自身の美しさによって。
圧倒的な美の前に、人間はなんと無力であろう。鮮やかに、何もかも奪われてしまうのだ、抵抗など無意味。この輝きの奔流の中に唯身を横たえることの他に何もできはしない。いやむしろそうしたい。しかしこれほど美しい人を、キャンパス広しと言えど、知らなかったことが悔やまれる。いや悔やむ謂れもないわけだが。
「あの!」
まずい。
我を忘れるとは、このことか。
「……悪い、ぼーっとしてたわ。なんだ?」
「実は、テキストをロッカーから取り忘れてきてしまって」
「あぁ」
「あの、見させていただけないかな、と」
断るべきだ。昨日の今日だ。悪い流れが来ている。少しでも隙を見せれば、途端に土俵際、この美しさを失うのは世界の損失だ。
「いいよ」
何を言っているんだ僕は。いや、発言と意図とが食い違っている。こんなことは初めてだ。なんだ、昨日の映画が尾を引いているのか。吃音症と僕の呪いは全然違うだろう。いやそこじゃなく。
そうだ、そもそも彼女は通路を挟んでの隣席。見せるには距離があり過ぎるだろう。届きそうで届かない。近いのに遠い。何を考えているんだ僕は。
「ありがとうございます」
そこには向日葵の大輪が花を咲かせていた。
ええい。いちいち美しすぎる。
僕の心は乱れっぱなしである。
と、彼女が前かがみに少しだけ腰を浮かせて、一つ奥の席へ腰かけ直した。
いや、それは。遠すぎる距離だったけれど。
いや、しかし。この近くて遠い距離にあったからこそ、直視に堪えられる後光の美しさが、すぐ隣に座るなど、眩しすぎて僕は焼き尽くされるのではなかろうか。いや、そうじゃない。待て。僕には呪いがあることをまずは打ち明けるべきではないか。危険を知らぬ無垢なる少女をだますなんて真似は僕にはできない。いや落ち着け。何を考えているのだ僕は先ほどからずっと。全く馬鹿げている。そんなことを話しては彼女に嫌われてしまうだろう。いや。いやいやいや。本当に狂ったのだろうか僕は、それは避けるべき事態ではなく、あってしかるべき状況だろうが。とにかく、まずは落ち着くことだ。深呼吸をしよう。落ち着かねば。落ち着かねばならないのに小首をかしげて此方を伺う貴女が美しすぎるのでやめてください。伏してお願い申し上げる。
ぽんぽん、と。先ほどまで彼女が座っていた席を手のひらで優しく叩く。
ああ。
抗うことなど無意味、圧倒的な美の前に人間はなんと無力だろう。
機械じみてぎこちなく、手荷物を持って彼女の隣に、座った。まだ、やや暖かい。待て、止めろ、変態の思考だそれは。
くすくすと、僕を見て笑う彼女。
「悪いな……」
何となく、謝ってしまう。僕は日本人だった。
いえ、と短く彼女が応えると、講堂の扉が開く。講義が始まった。
中学二年男子さながら、すぐ隣の女性に極度の緊張を強いられながら、講義時間はまだ開始十分ほどである。なるべく、隣を見ないようにするためだけに、前方黒板に全神経を集中させている。
教授から次のページを、と発言を受け、雷より早くテキストに手を向けると、ちょうど同じくページを捲ろうとした彼女の手の甲に指が触れる。
「あ、すまん」
謝ってばかりだな僕は。
大袈裟な僕の様子がまた可笑しかったのか、くすくすと指を唇に当てて笑う。
「いえ。じゃあ、はい。次はあなたの番ですからね?」
なんだ。それは。僕はいまだかつてこれほどまでに可愛いターン制を聞いたことがない。衝撃的な可愛さである。近寄りがたい眩しいまでの美しさの中には、あたたかな癒しの光をも内包しているとでもいうのか。
教授は次のページの内容を、テキストを矯めつ眇めつしながら、黒板に要点をまとめている。すると彼女は囁くように話しかけてきた。
「これ、すごいですね」
何のことかと指し示されたテキストを見るが、何のことを言われているのか分からない。
「えっと……何かおかしかったか?」
「ううん。そうじゃなくて。こんなにテキストに書き込んだり線を引いたり。とても真剣に取り組んでらっしゃるんだなと」
確かに、言われてみれば僕のテキストは、僕の予習した跡でびっしりと埋められていた。今更客観視できたが、これは他人に見せられるテキストでは、断じてなかった。
「とても読みにくいだろ?」
「いえ、もうなんだか、圧倒されちゃって。途中からテキストじゃなく、貴方の書き込みを見ていました」
「え」
「すごいです。私、この教科がこんなに面白いものだとは、知らなかったんです。必修だから取っただけで。でも、このプラトンのエピソードなんて……」
「……恥ずかしいこと言うなよ、ほんと」
「そうですか? でも、なんか分かったんです。あなたがどうしてこんなに書き込みをするのか。それはこの教科が面白いからなんだなって」
女神であった。そうだ。僕は勉強が好きなのだ。何故ならただひたすらに没入し、好意を伝えずに済むからである。だからどこまでもどこまでも、この知識の海に浸っていられる。これは僕にとっては究極の自由でもあった。
「お好きなんですね」
ふっ、と。
我に返った。
そうか。そうだろうとも。そんなに甘くはない。僕の呪いというやつは。こうして最高潮に幸福を味わった後に、強烈な苦みを与えてくるのだ。忘れていた。僕の抱く地獄を、ひと時でも、忘れてしまえるほどに、彼女の光は強烈だったのだ。
僕は、僕の愛を、行動には表せない。
僕は心から感謝した。
何の由縁もない僕に、そんなつもり毛ほどもないのは分かっているけれど、ひと時、幸せをくれた名も知らぬ彼女に。
同時に申し訳ない気持ちで、胸が痛んだ。僕がこれから発する回答の不可解さに、一貫性のない不愉快さに、彼女を巻き込むことに、貰った恩を仇で返すが如き所業に。
久々に、心底、死にたくなった。
「……いいや、大嫌いだね」
にっこりと。
貼り付けたような笑み。
鏡で見たら嘔吐する自信がある。
「ぷっ」
なんだ。あれ、どういうことだろうか。笑った、のか。嘲笑じゃなかった。本当に可笑しいみたいに。
ちゃんと伝わらなかったのか。それなら、それで、何という僥倖だろうか。言わずに済んだことと同義だ。何と粋な神の計らいだろうか。
「変わった嘘をつかれるんですね」
「え、ああ、いや……」
教授が黒板から振り返る。要点は書き終えたようで、講義が再開される。
講義が終わると、彼女はありがとうございました、とお礼を言ってさらりと去って行ってしまった。真意を聞きたくて仕方なかったが、引き止めるのは遠慮された。
最高の結果だ。望むべくもない。美しい彼女と、幸せなひと時を過ごし、嫌われることもなく、かつ何の縁も結ばれない。これ以上ないほどの、贅沢を味わったのだ。これ以上は罰が当たると、僕は本気で考えていた。
今日の夕日は、綺麗だ。
今日も世界は美しいな、といつものように帰り道を歩く。
今日の晩飯はモヤシ炒めの予定だったし、観たい映画もなかったけれど、それでも、心なしか足取りも軽かった。
高層ビルの窓ガラスは夕焼け色が溶け込んで、なんだか無性に、家路を急ぎたくなった。その不注意さが奇妙な縁を結ぶことになるのに、僕はまだ気づかなかった。




