第12話 葛藤と矛盾
あー、何から話せばいいんだ。
というよりも話さないほうが良いって今さっき思い返したばかりだろう。三歩あるけば忘れる鶏か。
だが、今となってはお隣さん。そうだ、いままで同じようにアパートの住民にしてきたようにコミュニケーションをとればいいんだ。幸い、僕の知る限りでは死人は出ていないから安全だ。えーと、そうだな。
……うん。基本、無視だった。201号室の太った男性は僕が何回も挨拶を無視しているのに挨拶は欠かさない。多分あの人も嫌味で挨拶を繰り返しているわけではないだろう。僕は何て愚かなのだろう。あの人だって、いい気分はしないと思う。きっと傷ついている。
生まれ変わったらお喋りできるだろうか。その時はいっぱい謝って、許してくれるまで謝って、お互いの好きな話で盛り上がって、酒でも酌み交わし、友人になろう。
ん? まてよ、さっき白鳥さんは何と言った。
「おい」
「なんですか?」
「さっきなんて言った?」
え? と首を傾げる白鳥さんは指を顎に当てて考えている。
「このステップ上るの危ないですよね……でしたっけ?」
「違う! その一つ前だ!」
彼女は目を輝かせて両手を合わせる。
「ミステリーで探偵がよくやる奴ですよね? うわあ初めて聞きました。とっても興味深い!」
「そんな事はどうでもいい、早く!」
今度は両手の指でこめかみをぐりぐりと押し込み考えている。今僕の心臓は早鐘を打つ勢いで鳴らしている。希望ではない。期待でもないだろう。恋慕では断じてない。バスのエンジン音がうるさく、他の音は聞こえない。誰にもわからない。
これは警告音だ。断じて久しぶりに女の子と雑談ができて流れているファンファーレなどではない。
「あ! 初めて大学でお喋りできる友達ができた。ですね」
「と、友達……」
あの吃音症の青年の映画を見た時よりも僕は心が震えた。孤独の狂気に苛まれて二十年弱。友人が出来ることは渇望していた。心の奥底では。だが、同時に絶望してしまった。白鳥希子は僕の事を友達として認識してしまっている。もう引き返しのつかないところまで来ている焦燥は、言葉にならない。
これが戦場なら指揮官が討たれ、即時撤退レベルの警戒度だ。それを呑気な顔をしてこの子はきょとんとしている。それが一体何なのかとでも言いたげに。二人掛けの席の僕の隣で。
「だめだ、友達になるのは……ダメだ……」
声を震わせて、漸く適当な日本語を見つけ出し、僕は言葉を絞り出した。言いたくない。砂漠で遭難しているとき、漸くオアシスを見つけたが、それを素通りしろと言っているようなものだ。渇きに乾いた僕の感情は今、空中を彷徨っている。お互いの太ももが当たり、僕の横に白鳥さんがいることを意識してしまった。顔が熱くなったが、それは今考える状況ではない。
「友達を作らないんですか?」
「ふおッェ!? ああ……。一人が好きだ」
みっともなくも素っ頓狂な声を上げてしまう。恥ずかしさに拍車がかかる。何度恥の上塗りをするのだろう、僕は。この全てを見透かす彼女の前でそんな事を言ったらすぐに看破されるだけなのに……。
「ふーん。そうですか」
彼女は少し悲しそうな顔をして俯く。あれ、突っかかってこない。嘘が通じた。ははん。成る程。如何に洞察力が高くても全ての嘘を見抜けるわけではないという事か。
なんにせよ助かった。友人はいらない。欲しくない。この嘘が通じたならば。
……もしかしたら嘘ではないのか? 自分が思っている以上に「嘘」を言い聞かせているうちに、催眠術よろしくそう刷り込まれているのだとしたら。
あっぶねえ! 良かったあ。僕友達いらないじゃないか。僕は知らないうちに目標を達成していたのだ。胸を撫で下ろした。深いため息をつき、バスの中を見渡した。このバスは他の人もほとんど乗っていない。今はその誰をも落ち着いてみることが出来る。
「……安心、しましたね?」
僕の顔を覗き込み、口角をあげる白鳥さんにささやかな恐怖を覚えた。これまでこれほど美しいと思っていた彼女だが、美人の笑顔ってこんなにも妖艶で恐ろしいものなのか。
そうか、この子最初から、全てわかってやっていた。アッシュブラウンの髪が揺れ、シャンプーの良い香りが邪な妄想を駆り立てようとする。この子は昨日僕の隣の部屋でお風呂に入っていたんだな。
なんだなんだ、阿礼傑。硬派気取っておいてお前も性欲の奴隷か? 自らのみっともなさに、失望を通り越して冷笑が漏れる。この年齢で童貞ならば魔法の一つでも使えそうだ。いや、それに加えて友達もいないとなると大魔導士だな。おすすめの通信講座があるならば教えてほしい。これから先、僕は魔道の道を歩もう。
閑話休題。この話題には触れてほしくない。これ以上顔を合わせているのは拙い。だからせめてこの状況の打開策を考える。窓の外を見ると眼に入ってくるのは銀世界だった。反射する太陽光が目をくらませる。
そうだ、いいことを思いついたぞ。ここで強引に話題を逸らそう。天気の話をするのはどうだろう? これも女受け最悪の、というより会話の引き出しが無くなり、それでもなお会話を続けなければならない、という軽い拷問じみた話題だ。しかしどうしたものか、思い浮かばない。僕は日常会話で初歩の初歩。そんなこともできないのだろうか。その矢先彼女から言葉を紡がれる。しまった。先制攻撃を許してしまった。
「ふむ、ますますわからなくなりました。私に嫌われようとしている。という一点から推察するに、私に原因の一端があるのかと思いました。先ほどの発言より、友達が欲しいというのは私に限った事ではない、と。そうならば貴方の合理性を疑わなくてはいけなくなるのですが、それは不自然です。バイトでの仕事ぶりや大学に通っている事。少なくとも頭が悪くない証左にはなるでしょうね。まるで何かの制約が、人と交流することで自身に損を齎す何かがあるのではないか……どうでしょう?」
「天気良いね……」
「そうですね。……だとすると、私の推測、仮定ですが。第三者から何か脅しのようなものを受けている可能性を考慮してみましょう。現実的に可能なのでしょうか。一人暮らしで、連絡手段も持っている。いくらでも公的機関へと助けを呼ぶことが可能でしょう。今だって私たちの座席の後ろに人はいない。私に助けを求めることもできそうですが……できませんか?」
「今日、午後から冷えるそうだよ……」
「着こんでいるので大丈夫です。……しかし、仮にそれが可能だとしましょう。しかしそうすると、その第三者の合理性を疑わなくてはいけません。貴方を孤独にすることで益を得ている人間がいるのなら、いったいどうやって? 嫌がらせの範疇を逸脱している。かかるコストも膨大だ。それで損益分岐点を鑑みて行動しているのだとしたら……」
「暖かくして寝ないと風邪引くよ……」
「いや、その可能性は棄却できます。どう考えても採算が取れない。ならば別の切り口が必要ですね。ならば、貴方を苦しめるために誰かを人質に取られている? うむ。ぼろはありまくりの継ぎ接ぎ細工ですが、一応理屈は通ります。その結果として嫌われ者を演じているのでしょうか……。……あれ、今私の身体の事心配してくれました?」
琥珀色の双眸が僕を見つめてくる。彼女に見つめられて初めて気づいた。油断していた。何とか彼女が他の話題に興味を持つよう言葉を尽くしていたら、彼女に好意的な発言が漏れてしまった。心外だ。天気の話で追撃を躱そうとしたら、完全に飛んで火にいる夏の虫だ。随分と季節外れの。
「あ、いや。まあ、風邪とかひいてうつされるとたまったもんじゃないし、な」
一度下手をうつと案外自分を冷静にみられるみたいだ。すぐさま弁解の言葉は出てきたし、この言葉、嘘は言っていない。彼女のセンサーがどれほどの感度なのか知る由もないが、僕だって風邪にかかりたくはない。少しばかり彼女が笑った、ような気がした。
「まだ君の事は良く知らないけど、君に友達が少ない理由がわかったよ」
「訂正します。少ないってのは言いすぎです。ゼロです」
「……ああ、悪かった。……いや謝るところか? そして、僕が君の友人になるのはもう確定事項なのか?」
「ええ、押してダメなら引いてみろっていうじゃないですか」
口元を押さえてくすくすと笑う彼女を見て、僕は凍った心臓が融かされていくような気分だ。錆び付いた時計の秒針が動き出すような、不思議な感覚だ。
「次で降りるからな、手伝うなって言っても手伝うんだろ?」
「勿論です。また、あのフルーツを買いに行くことはお互い避けたいですしね」
「相違ない」
バスにちらほら乗っている人も大学前バス停が目的地だったようで、ぞろぞろと立ち上がり、降りていく。僕も皆が降りた後に段差の部分だけは白鳥さんに手伝ってもらいながら大学の正面へと降り立つ。
「待ってくださいよー」
「しつこいな、並んで歩いたら変な勘違いをされるかもしれないだろう?」
「勘違い? 恋仲だと思われるってことですか?」
全く物怖じせずはっきり言われるとなんだかこちらの方が恥ずかしくなってくる。赤くなった頬は寒さのせいにして、大学図書館へと歩いていく。
「勘違いされたら困るんですか?」
「悪名高い僕のそばにいる人間なんて何されるかわかったもんじゃないぞ」
「自分で悪名高いって言っちゃうのって、なんか格好悪いですね」
「……うるさいわ」
のらりくらりと肝が据わっている。悪人として有名な僕だが、この彼女が変人として有名でないのは納得がいかなかった。
■■■ 大学附属図書館
「結構被っていますね……時間割。まあこの大学自体、大きいものではないので普通といえば、普通ですけれど」
「そうだなぁ」
僕は友人と呼べる人間が一人もいない。強いて言えばさっき友人認定されたこの白鳥さんだ。勝手なものだ、僕の葛藤も矛盾も知らないで、「友人だ」の一言で終わる話ではない。嬉しいものだが。
僕が真面目に講義を聞いているのには勉学が好きというのもあるが、何よりノートを見せてくれる友人が存在しないという事も理由の一つだ。故に欠かさず出席する必要があった。
「不安そうな顔をしていますね」
「別にしてないが」
「当てて差し上げましょうか?」
「できるものならな」
「貴方これから教授の研究室を訪ねるつもりだったでしょう?」
心臓が跳ねた。ピンポイントで彼女は僕の次の行動を予測してきたのだから。上手に言い訳が出てこない。エスパーかこいつは。満足げに頷いているところを見るに、僕の心境は彼女の手の平の上なのだろう。何とも言えない屈辱感が襲うが、僕にできる精一杯の抵抗は彼女を睨みつけるぐらいの事だった。
「私“も”友人がいないので、休んだ時には教授の研究室まで行って、講義のプリントを頂くくらいしか手に入れる方法がありません」
「も」ね……。いや当たり前なんだが、当然のように僕に友人がいないのを前提としている。彼女にとってそれは推理の過程であり僕を貶める意図が無いのは分かっている。でも僕は強い男でいなくちゃいけないんだ。少なくとも彼女の前では。無意味で矛盾している感覚だが、人間の本能なのだろうか。
「そして、私、結構感動したんです。貴方の勉学への熱量に。あのプラトンの書き込みに。見惚れちゃいました。一度そう思えば、退屈な専門用語の羅列が、途端に意味を成して、魅力的な旋律を奏でてくれました。あれからしっかりノートを取り始めたんですよ」
そうか、彼女もあの講義を気に入ってくれたのか。あの教授は確かに新参者に優しくない。ある程度の事前知識がないとさっぱりだろう。
「そして、もう薄々感づいているかもしれませんが。貴方が学校を休んだ時のノート、それを交渉材料にしたら貴方はどこまでお願いを聞いていただけるのかな、と気になりまして」
ああ、彼女の笑顔は向日葵だ。だが、かつてこれほどまで意地悪な猫は見たことが無かった。




