VI 「いけないこと」
お洋服を脱がされたペン立ては、上部をくり抜かれた空き缶だった。
輝く青色の、発泡酒の空き缶である。
「これがマリアさんのやってしまった、いけないことの証拠」
才華ちゃんはその缶を振った。まさか、マリアが飲酒をしたと言っているのか!
「マリアに限ってそれはあり得ないよ!」
大声を上げると、弥くんが手であたしを制す。才華ちゃんも話したそうだった。あたしを遮った弥くんが前へ出た。
「田橋さんがそのお酒を飲んだっていう証明は? 桜井さんや才華のクラスでは、空き缶を大量に使う出し物を準備しているんだ、誰だって持ち寄る可能性がある」
的確な意見に対し才華ちゃんはその上を行く正論で応じ、小気味よい応酬に発展した。
「まず、ペン立てができた時期だよね。桜井さんだと、そのペン立ては――」
「『きょうより前に準備をしたのは夜まで残ったあの日だし、あの日の作業中にペン立てはまだなかった』らしいね」
「そう。それはつまり、ペン立てが片付け中にさくっと作られたものと解釈していいよね? マリアさんの行動がわからない時間に合致する……その時間に飲んでしまったの。
飲んでしまってから、証拠となってしまう缶を隠そうとする。けれど、片付けはもう始まっていて、しかも先生に帰るよう指示されて急いでいる状況だから、クラスで缶を集めているところへは持って行けない。この場所、ゴミ捨て場に持って来る手もあっただろうけれど、帰るそのときでは誰かしらが見てしまう。だから、ちょっとした紙や鋏と糊さえあればできるこの工作で、応急処置的にカムフラージュしておいたの。
何より、現在の状況からしてマリアさんしかこれを捨てた人はいないよね。ついさっき教室に現れたって聞いたと思ったら、すぐにペン立てと一緒に姿が見えなくなったもん。証拠隠滅だよ」
「待って、どうして急に証拠隠滅に来たの? 一度ペン立てにカムフラージュしたなら、そのままやり過ごすほうが、のちのち田橋さんを特定されにくいはずだよ」
「――言ったじゃない、告発があったからだよ。あの晩、隣のクラスも映画撮影をしていたんでしょう? なら、教室でひとりお酒を飲んでいるマリアさんを目撃したのは、隣のクラスの誰か。これはまずいと思ったその誰かが、翌日あたり『隣のクラスの田橋智夏が教室にひとりでいるところを見たのだが、お酒を飲んでいたように見えた』と先生に告げ口する。先生がマリアさんを呼んで問いただせば、まあ、アリアさんは言い逃れるでしょうね。だから、先生はこういう処分を下す――『証拠が見つかるか確固たる証言が出るまで、家で大人しくしていなさい。正式な処分はそれからだ』」
「なるほど、教室でお酒の缶が見つかれば証拠にもなりかねないし、証言も新たに見つかりかねないからね」
「そういうこと。せっかく缶を集めているクラスなのだから、作業後の教室に缶が残っているはずがないもん」
「じゃあ、そもそもお酒をどう手に入れたんだい? 家から持って来たっていうのは、正直ちょっと納得しかねるよ」
「そんなの、裏門の禁止されている自販機へジュースを買いに行ったときだよ」
「……なんだって?」
「友達の買い物に紛れて、こっそりお酒を買ったの。お酒の自販機も置いてあったから」
「いやいや、最近の自販機は免許証とか専用のカードとかで成人確認が必要なんだ。未成年者が購入できないシステムがちゃんとある」
「思い出して、あの自販機は『禁止されている』んだよ。お酒が買えなかったら禁止はされない。禁止の理由が知らされていないのは、弥が言った通り真似をさせないため。そして、『苦情が曖昧だったから』という可能性が考えられる」
「どういうことだい?」
「あの自販機のブースにあったベンチ、あの裏に、弥の言うカードが隠されていたの」
「何だって!」
「あそこに来る不良が『面倒だから』ってやったんだろうね。学校あるいは自販機の業者に寄せられた苦情は、おそらく『未成年者がお酒を飲んで騒いでいるから迷惑だし不道徳だ』ということ。つまり、若い人でもお酒を買うことができてしまっている、としか判らない。これだとカードの存在には気がつけないから、学校はあそこの自販機を使わないよう指示することしかできない。ところがマリアさんはカードの存在を知っていたか、その日偶然気づいてしまったのね。
数奇なことに、イギリスの血が混ざっていたことも小さな理由だと思う。イギリスでは、数年前まで十六歳から飲酒や酒類の購入が許されていたの。マリアさんがイギリスで生活していたころ、親類がわたしたちと同じくらいの年齢のときにお酒を飲んでいる。それに親しんでいたマリアさんは、日本ではいけないと知りつつも、その越えてはならないハードルが少しだけ低かったんだよ」
あたしはふたりに見蕩れていた。
ふたりが導き出した結論を飲み込むには時間がかかった。しかし、納得すればもうそれ以外に考えられなくなる。最初に疑っていたのが馬鹿らしく思えてしまうくらい。
もう、マリアがお酒を飲んでしまった事実は間違いがなさそうだ。変えられない事実。情けないあたしは、そんなマリアにまた愚痴をこぼしてしまう。
「そういうことなら、あたしに相談してくれればよかったのに。お酒を飲んで気分を晴らす前に、あたしが……」
「桜井さん」
あたしの言葉を遮ったのは、またもや弥くんだった。
「ぼくは才華の推理を聞いて、ぼくなりに田橋さんが連絡をくれなくなった理由がわかった気がするんだ」
「……へ?」
「田橋さんは、桜井さんと一緒に文化祭実行委員、つまりはリーダーとして活動していたんだよね? それなのに、『いいリーダーだよ』って言葉は気がかりだ。だから、ひょっとするとそれは田橋さんの心の底から出た言葉じゃないんじゃないかって」
「どういうこと?」
「ぼく個人が考えた勝手な妄想かもしれないし、言ってもいいのかわからないけれど……たぶん、田橋さんは桜井さんに相談できる状況ではなかったんだ。悩んでいただろうし、桜井さんのことをよく知っていたからでもある」
わからなかった。続けてほしいと目で訴えた。
「桜井さんはとても真面目だ。禁止されていた自販機を憶えていたし、リーダーに選ばれるのはそういう象徴でもある。これはもう、桜井さん自身が謙遜しても関係ない、事実だと思う。
たったひとりの教室でお酒を飲んだ田橋さんは、誰かに目撃されてそのことを怒られた。誰が告げ口したのか、考えちゃうよね。そうなると、真面目な桜井さんが言ったんじゃないかと考える――友人としての優しさを残した結果、田橋さんを完全に貶める形で告発していなかったんじゃないかって妄想も含めてね。だから、相談できなかったんだよ。桜井さんに相談すると、まず間違いなく『認めたほうがこれからのためにいいと思う』って返ってきちゃうから」
疑われていた?
信用されていなかった?
あたしは奥歯を噛みしめる。つまり、マリアは自己保身がしたくて、その邪魔になる存在としてしかあたしを認識していなかったのか。そんなの納得できない、腹が立ってもお互いさまだ。
あたしの気が立っていると察したのか、弥くんは穏やかに続けた。
「田橋さんはきっと、桜井さんに裏切られたとずっと勘違いしていたんだと思う。
机の整頓をいつも田橋さんひとりに任せていたんだよね? それは桜井さんにとって、信頼の証だったのかもしれない。でも、田橋さんはひとりでたくさんの重い机を並べ替える――ひどい言い方をすれば『いじめ』、それほどではなくても『面倒を押し付けられた』って感じていてもおかしくない。
そんなことが続いているとき、たまたま部活に遅刻して怒られる。でも、同じように遅刻した桜井さんと違って、自分は全体練習に加われなかった。まして桜井さんはパートリーダーなのだから、『どうして自分だけ?』って思ってしまったのかもしれないよ」
心臓が膨れ上がって、破裂した。
「え……あ、あたし――」
喉の奥に、ぽっかりと大きな穴が開いたような虚しくて苦しい感覚。その穴から、何か恐ろしくて見るに堪えない醜いものが這い出てくる。
あたしはマリアのことをあまりにも都合よく解釈していた。無二の親友と思っていたけれど、本当はお互いがお互いをどこか軽視していて、支え合う関係はただ偶然その形になったというだけだったのだ。そんなマリアが許せなくなってしまったし、自分自身も許せない。許せない自分も許せない。
「そんな、あたし、最低だ……」両手で目を覆った。真っ暗なところに逃げたかった。「マリアのことを考えてなかったんだ。だから、マリアも」
「そう自分を責めないで」弥くんの声だ。「ふたりはお互いに憧れていただけなんだよ」
「…………」
「桜井さんは田橋さんのことをずっと褒めていたよね。優しいだとか、責任感があるだとか。それって、野球留学して頑張っている近所のお兄さんにも言っていたじゃない? 一番のパートナーってだけじゃない、憧れのリーダー像そのものなんだ。
田橋さんのほうも、桜井さんは愛されているのを羨ましく思っていたんじゃないかな? 『いいリーダーだよ』って言葉が心の底からのものだろうって、さっき言ったのはそういうこと。桜井さんは、リーダーなのに怒られてもそこそこで済むし、何より頼りないミスをしてもリーダーとして信頼され続けている……田橋さんからも、みんなからも。愛されている何よりの証拠だよ。
それに、田橋さんは桜井さんにちょっとしたジェラシーを積み重ねた結果お酒に逃げてしまったけれど、それはそれでマシだったんじゃないかな? 正直、ぼくだったらどこかで『もう嫌や!』って叫んだと思う。桜井さんと喧嘩にならなかったのは、我慢というよりも、『喧嘩したくない』っていう田橋さんの気持ちがあったんだよ。それはお互いの憧れや友情があってこそのことさ」
そんな、マリアが!
ついにあたしはその場に立っていられなくなった。アスファルトに膝をつき、目を覆っていた両手の指の隙間が濡れていく。息が上手く吸えない。口を閉じることができない。いまのあたしの気持ちを表現できる言葉が欲しい。
やはりあたしは、大好きなマリアを裏切っていた。もう、告発がどうのではない。互いにどう思っているのかを一切考えず、マリアがあたしを疑っただとか、互いに軽視していただとか……
憧れのマリアが、あたしを羨ましく思ってくれていたのに――
がたん、と大きな音がした。ゴミの入った籠のほうからだ。
「さ、才華! 何しとるんや!」
弥くんが叫んで駆けて行く音がする。そういえば、しばらく才華ちゃんは何も話していない。何をしていたのだろう、そう思って、目を押さえていた手を放す。
滲んだ視界の焦点が合わさると、見えてきたのは――
「わ、才華ちゃん!」
ゴミ箱の蓋に挟まれかけている才華ちゃんと、助けようとしている弥くんである。
あんまり滑稽で、ついつい笑ってしまった。
「もう、帰ったらシャワー浴びるんだよ」
「ええ、きょうは旧ユーゴについてありったけ調べようと思ってたのに。パソコン使っていいよね?」
「それはええけど、とにかくお風呂の後やで。帰ってすぐはあかん」
「そんな、気になってもう死にそうなのに!」
ワイシャツを皺くちゃにして、埃まみれになったふたりが戻ってくる。こうして見ると、ああ、やっぱりいいコンビだ。「仲がいい」だけでは言い尽くせない絆を感じるふたりのあいだには、あたしが加わる隙間はない。
――好きになっちゃいけないんだな。
高校一年の夏は、想像していたよりもずっと儚い。
深呼吸をして、あたしは立ち上がった。ちょうど才華ちゃんが傍まで来て、あたしの手を取り何かを持たせた。見ると、
「空き缶?」
「そうだよ」
「何に使うの? ……ああ、そうか」
それは、炭酸ジュースの赤い缶だった。
なるほどね、ペン立てが教室から突然消えたらみんながびっくりしてしまう。これでペン立てをまた作ればいいのだ。ピンクの紙を巻きつけて糊で貼り、上の部分を鋏かカッターを突き立ててくり抜けばいい。
「こんなの、簡単な話だよね」
おまけ タイトル・名前の由来
タイトル:北村薫『秋の花』より
桜井円:北村薫『円紫さんと私シリーズ』の春桜亭円紫より
田橋智夏:米澤穂信『さよなら妖精』の太刀洗万智より。ニックネームおよびミドルネームのマリア(Maria)は同作品のマーヤ(マリヤ・ヨヴァノヴィチ:Marija Jovanović)より