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「嘘から始まる一週間」  作者: 柑橘みかん


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45/45

45話

 翌朝。


 目を覚ました瞬間、違和感があった。


 静かすぎる。


 鳥の声が遠い。


 空気が軽い。


 まるで何かが終わった後みたいな。


 私はゆっくり身を起こした。


 障子の向こうから朝日が差し込んでいる。


 綺麗な朝だった。


 不思議なくらい。


 胸がざわつく。


 理由は分からない。


 でも。


 何かが違う。


 私は急いで部屋を出た。


 廊下を走る。


 広間へ向かう。


 そこには隊士たちがいた。


 宿の人たちもいる。


 皆いつも通りだ。


 笑っている。


 話している。


 なのに。


 景色が少し遠い。


 夢の中にいるみたいに。


 「信長殿!」


 沖田が手を振る。


 その声も。


 少しだけ遠かった。


 「……沖田」


 胸が苦しい。


 沖田が首を傾げる。


 「どうしました?」


 私は答えられない。


 嫌な予感がする。


 泣きそうになる。


 理由もなく。


 その時。


 広間の入口から人が入ってきた。


 土方だった。


 いつものように。


 ぶっきらぼうな顔で。


 真っ直ぐ歩いてくる。


 それを見た瞬間。


 涙が出そうになった。


 ああ。


 そういうことか。


 分かってしまった。


 終わるんだ。


 この時間が。


 「どうした」


 土方が近づいてくる。


 私は何も言えない。


 ただ見つめる。


 土方の顔。


 声。


 姿。


 全部。


 忘れたくないと思った。


 土方の表情が変わる。


 何か気づいたらしい。


 「……おい」


 低い声。


 私はようやく口を開く。


 「帰るかもしれない」


 広間が静まる。


 誰も声を出さない。


 土方だけがこちらを見ている。


 真っ直ぐ。


 逃げずに。


 「そうか」


 静かな声だった。


 怒らない。


 縋らない。


 責めない。


 その優しさが苦しい。


 私は涙を堪える。


 「嫌だ」


 正直に言う。


 「帰りたくない」


 声が震える。


 「やっと会えたのに」


 涙が落ちる。


 止まらない。


 「やっと好きになったのに」


 広間が静かだった。


 誰も茶化さない。


 誰も笑わない。


 皆分かっているのだ。


 これが最後かもしれないことを。


 土方が近づく。


 一歩。


 また一歩。


 そして。


 私の前へ立つ。


 手が伸びる。


 涙を拭う。


 優しく。


 とても優しく。


 「泣くな」


 低い声。


 でも少し掠れていた。


 土方も平気じゃない。


 分かる。


 ずっと一緒にいたから。


 「泣く」


 意地みたいに言う。


 「無理」


 土方が少し笑う。


 困ったみたいに。


 優しく。


 それから。


 額へ額を合わせた。


 初めて会った頃なら考えられない距離。


 でも今は自然だった。


 「聞け」


 静かな声。


 私は頷く。


 「どこへ行っても」


 土方が言う。


 「お前が変えた未来は消えねぇ」


 涙が止まらない。


 「皆、生きてる」


 隊士たちを見る。


 宿の人たちを見る。


 近藤がいる。


 沖田がいる。


 皆いる。


 「だから胸張れ」


 土方が言う。


 その言葉は。


 何よりも強かった。


 私は泣きながら笑う。


 情けない顔だったと思う。


 でも。


 土方も少し笑っていた。


 その時。


 世界が揺れた。


 ふわりと。


 優しく。


 風が吹く。


 朝日が眩しい。


 視界が白くなる。


 隊士たちの声が聞こえる。


 遠く。


 遠く。


 「おい!」


 土方の声。


 手が伸びる。


 私も伸ばす。


 届きそうで。


 届かない。


 胸が苦しい。


 嫌だ。


 まだ。


 もっと一緒にいたい。


 けれど。


 光は強くなる。


 最後に見えたのは。


 土方の顔だった。


 そして。


 ――必ず見つける。


 そんな声が聞こえた気がした。


◇◇◇


 目を覚ます。


 白い天井。


 聞き慣れた機械音。


 窓の外の青空。


 私はベッドの上にいた。


 知らない場所じゃない。


 私の世界だ。


 元の世界。


 しばらく動けなかった。


 涙だけが流れる。


 夢だったのか。


 本当に。


 全部。


 夢だったのか。


 震える手を握る。


 爪の跡が残る。


 現実だ。


 ここは。


 確かに。


 その時。


 コン、と音がした。


 机の上。


 何かが落ちている。


 私はゆっくり手を伸ばした。


 そこにあったのは。


 古びた小さな組紐だった。


 見覚えがある。


 土方が怪我をした時。


 私が応急処置に使った帯紐の一部。


 あり得ない。


 あるはずがない。


 なのに。


 確かにそこにあった。


 涙が溢れる。


 止まらない。


 私はそれを胸に抱きしめた。


 そして。


 泣きながら笑った。


◇◇◇


 数年後。


 春。


 桜が咲いていた。


 私は相変わらず夢を見ない。


 あの日以来、一度も。


 それでも。


 忘れたことはなかった。


 絶対に。


 ない。


 風が吹く。


 桜が舞う。


 私は立ち止まる。


 不思議な感覚がした。


 誰かに呼ばれた気がして。


 振り返る。


 人混みの向こう。


 一人の男性が歩いていた。


 背が高い。


 黒いコート。


 鋭い目。


 ぶっきらぼうそうな顔。


 目が合う。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 その人が立ち止まった。


 私は息を呑む。


 あり得ない。


 そんなこと。


 あるはずない。


 けれど。


 その人は少しだけ笑った。


 知っている笑い方だった。


 昔。


 何度も見た。


 優しくて。


 不器用で。


 大好きだった笑い方。


 春風が吹く。


 桜が舞う。


 そして物語は終わる。


 悪夢の終わりから始まった。


 一つの恋の物語が。


 ようやく。


 幸せな未来へ辿り着いた。


                    ― 完 ―


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