第86話:偽りの船名
正規航路へ入ってから、しばらく。
エーテル・ガイストはハルモニアへ向け、一定の速度で航行を続けていた。
ステルスモードは使用していない。
航行灯も、外部識別信号も通常通り。
自由港へ向かっていた時のように身を潜める必要はなく、今のエーテル・ガイストは正規航路を行く大型貨物船の一隻として、その存在を周囲へ知らせながら飛んでいる。
《巡航速度――航路規定内》
《民間船籍――照合継続》
《目的地――宇宙都市ハルモニア》
《推定到着時刻――更新》
艦橋を満たす低い駆動音の中、カインは艦長席の肘掛けへ右腕を置いたまま、正面表示へ目を向けていた。
推定到着時刻が更新される。
「もう少し出せるか」
『本艦の性能だけを考えるなら可能だ』
アドミラルの返答は早かった。
『ただし、現在登録されている大型長距離貨物船として考えれば、この速度でも速い部類に入る』
カインは表示された巡航速度を一度見直す。
「これ以上やると目立つか」
『そう判断している』
「なら、このままでいい」
『了解した』
背もたれへ身体を預ける。
本来の性能を使えば、到着までの時間はさらに縮められる。
だが、今回は速さを競っているわけではない。
ハルモニアまで何事もなく民間船として通る。
その方が重要だった。
「何か来た」
副艦長席からアイリスが言った。
それまで一般情報網を眺めていた顔が上がる。
ほぼ同時に、正面表示の端へ新しい識別枠が現れた。
《前方船舶――一》
《航路識別――一致》
《進行方向――同方向》
『民間貨物船を捕捉した』
アドミラルが遠距離観測の情報を展開する。
まだ肉眼で確認できる距離ではない。
センサー情報を元にした輪郭と識別情報だけが、表示の中へ浮かび上がった。
《中型貨物船》
《船名――ARGOS》
《航行情報――正常》
《目的地――ハルモニア方面》
「同じところに行く船?」
「今の航路ならな」
カインが答える。
アイリスは表示された船影へ少し身を寄せた。
「追いつく?」
『現在の速度差を維持した場合、四十分余りで追越位置へ入る』
「追い越すんだ」
「横をぎりぎりで抜くわけじゃないぞ」
カインが横目を向ける。
アイリスもすぐにそちらを見た。
「それくらい分かってるよ」
返事は早かった。
だが、すぐにまた表示へ顔を戻す。
《船舶間識別――交換》
《航行情報――受信》
《追越経路――算出》
『十分な分離距離を取る。互いの航行情報も共有済みだ』
「向こうにも、こっちが見えてるんだ」
『正規航路だからだ。むしろ識別できない船舶の方が問題になる』
「そっか」
アイリスはそのまま、表示された船を見ていた。
これまでなら、知らない船影があればまず警戒した。
軍の宙域なら、敵味方の識別が先に来る。
だがここでは、知らない船がただ目的地へ向かって飛んでいる。
それだけだった。
カインはそんな横顔をしばらく見ていたが、やがて艦長席から腰を上げた。
「アドミラル」
『何だ』
「しばらく任せる。何かあれば呼べ」
『了解した』
艦橋を出ようとしたところで、後方にいたミラが顔を上げる。
「艦長は?」
「少しやることがある」
「分かりました」
カインは副艦長席を見る。
「アイリスは?」
「ここにいるね」
即答だった。
正面表示の脇では、すでに一般情報網の画面も開き直されている。
「忙しそうだな」
「見るものが多いから」
「ほどほどにな」
「うん」
カインはそれだけ言い残し、艦橋を出た。
◇
艦長室へ戻ると、カインは壁際の保管庫を開いた。
照明が内部へ差し込み、固定されていた装備が順に姿を見せる。
艦内製造品の大口径リボルバーとエーテル拳銃。自由港で手に入れた、銃身を切り詰めたレバーアクション式ショットガン。
カインの愛刀、傭兵の格好に合わせた拵の崩兼元。
そして、その隣には見慣れないケースが一つ増えていた。
カインはそれを引き出し、作業台へ置く。ケースの留め具を外した。
中に収められていたのは、ファロスαの武器庫で見つけた旧式のアサルトライフルだった。
あの時、比較的状態の良いものを一つエーテル・ガイストへ回しておくよう頼んでいた。
すでに整備は終わっている。
表面の汚れは落とされ、長い休眠で劣化していた部品も必要な範囲で交換されていた。
カインは銃を持ち上げる。
折り畳まれていた銃床を開き、肩へ当てた。
一度構える。
銃口を壁から外したまま重心を確認し、ボルトを動かす。
古い。
だが、手の中で妙な遊びはない。
一通り確かめてから銃口を下げた。
「使えそうだな」
『整備記録でも、通常使用に問題なしと判定されている』
室内端末からアドミラルの声が返る。
「弾は?」
『使用可能な旧規格弾薬も確認した。ただし、ファロスαから持ち出した数は多くない』
カインはケースの脇に置かれた弾倉へ目をやった。
「材料があれば増やせるな」
『可能だ。工廠区画へ製造データを回せばいい』
「なら、そのうち頼む」
アサルトライフルをケースへ戻す。
蓋はまだ閉じず、今度はリボルバーへ手を伸ばした。
手の中で重さを確かめる。
シリンダーを開き、状態を見て戻す。
視線はショットガンとエーテル拳銃に向いた。どれもすでに整備は済んでいる。
使えるかどうかを見ているわけではない。問題は、これから向かう場所だった。
「アドミラル」
『何だ』
「こいつら、ハルモニアへは持ち込まない方がいいな」
『私もそう判断する』
カインは作業台へ片手をつき、並んだ武器を順番に見る。
「ショットガンは自由港。こっちは艦内で用意した物。ライフルはファロスα」
指先でリボルバーを軽く押し、位置を直す。
「どれも正規都市で通せる登録はない」
『その認識でいい』
カイン自身、正規宇宙都市での武器登録がどういうものかくらいは知っている。
都市ごとに細かな違いはあっても、武器そのものと所有者、携行資格の照合を求められるのが普通だ。
「偽装身分の方に登録を足せるか?」
『可能ではある』
アドミラルの返答まで、わずかに間があった。
『ただし、推奨はしない。武器登録まで偽装すれば、その分だけ照合される情報も増える』
「そこまでして持っていくか、だな」
『肯定する』
カインはリボルバーを持ち上げかけ、結局そのまま元へ戻した。
民間人として正規都市へ入るために偽装している。
その人間が、わざわざ出所の説明が面倒な武器を持ち込む。
余計な危険を増やしているだけだ。
「護身用に一丁くらいは欲しいんだがな」
『非殺傷装備であれば別だ』
カインの指が止まる。
「そういえば、非殺傷なら持ち込みの手続きがあったな」
『登録船舶の乗員へ支給された非殺傷護身装備であれば、規格適合の確認後、一時携行登録が可能だ』
「ハルモニアも同じか?」
『基本規則は同じだ』
カインは一度頷いた。
「なら、アイリスのは通せるな」
『副艦長用装備として本艦の装備記録に登録してある。出力もハルモニアの規格内だ』
「艦内製造品でも問題なし、か」
『現物検査は必要だがな』
「それならいい」
「何を持ち込むか、ですか?」
背後から声がした。
カインが振り返る。
開いた扉の前に、ミラが立っていた。
「ああ」
ミラは室内へ入り、作業台の前で足を止める。
黄金の瞳が並んだ銃器を順に追い、最後に崩兼元で止まった。
「ハルモニアへ携行する装備を選んでいたのですね」
「選んでたっていうより、持っていけるか考えてた」
「結論は?」
「全部置いてく」
ミラは武器をもう一度見回してから、静かに頷く。
「私も、その方がいいと思います」
「アドミラルと同じか」
「リスクがありますので」
カインは小さく息を吐いた。
「軍の身分が使えないと、こういうところが面倒なんだよな」
「自由港より安全である理由でもあります」
「それも分かってる」
最後に崩兼元へ手を伸ばした。
黒い鞘を左手で支え、右手で柄を握る。
少しだけ抜く。
照明が刃の上を細く滑った。
刃毀れはない。
歪みもない。
状態を確かめ、そのまま静かに納刀する。
自由港では気にならなかった。
傭兵風の衣服に複数の銃。
そこへ刀を一本携帯していても、周囲から大きく浮くことはなかった。
だが、今は違う。
ハルモニアへ入るために選んだのは、正規都市を歩いても違和感のない服装だ。
その格好で黒鞘の刀を腰へ提げれば、否応なく目を引く。
わざわざ目立つものを持ち歩く理由はなかった。
「……今回は留守番だ」
カインは崩兼元をケースへ戻した。
蓋を閉じる音が、静かな室内に小さく響く。
「副艦長の非殺傷銃は、そのまま持ち込む予定ですか?」
「ああ。そうだ」
「スタンバトンは?」
「置いてく。余分な物は無しだ」
「私もそれで問題ないと思います」
カインは作業台へ残った武器を見た。
「俺の分は向こうで探すか」
「ハルモニアで?」
「ああ。正規に買って、そのまま登録した方が早いだろ」
「その方が安全です」
「店を見て決める」
「了解しました」
カインは武器を一つずつ保管庫へ戻していく。
最後にアサルトライフルのケースを押し込み、扉を閉じた。
「何か好みはありますか?」
「使う物くらい、自分で選ぶさ」
「それは知っています」
返事が妙に早かった。
保管庫へ向けていた手を止め、カインが振り返る。
「知ってるのか」
「これまでの行動から判断できます」
「そうか」
ミラの黄金の瞳が、一度だけ静かに瞬いた。
カインはその仕草をしばらく見てから、少しだけ目を細める。
「お前、前よりまた自然になったな」
「そうでしょうか」
ミラがほんの少し首を傾ける。
「最初からアドミラルよりは柔らかかったけどな」
今度は返事までにわずかな間があった。
「自覚はありません」
「昨日だって、服を選ぶのに悩んでた」
「……選択基準が曖昧でしたので」
「前なら、もう少し早く決めてた気がする」
「そうでしょうか」
「多分な」
会話が途切れる。
艦の低い駆動音が、床の向こうからかすかに伝わっていた。
ミラはすぐに次の言葉を返さず、閉じられた保管庫へ一度視線を落とす。
「前にアドミラルから聞いた」
カインが言った。
ミラの視線が戻る。
「お前は、あいつと同じところを持ってても、同じにはならないって」
「はい」
「体を持って、外へ出て、人と話して。そこで積んだものが、お前の方に残る」
「その認識で問題ありません」
「なら、成長の途中か」
ミラは黙った。
黄金の瞳が一度伏せられる。
返答を探しているというより、自分の中にあるものを確かめているようにも見えた。
「……私は、変化しているのでしょうか」
「してるんじゃないか」
「艦長から見ても?」
「ああ」
カインは短く答えた。
「それは、問題でしょうか」
「お前が嫌なら別だけどな」
今度は少し長い間があった。
やがて、ミラが顔を上げる。
「いいえ」
声はいつもと大きく変わらない。
それでも、答えそのものは迷っていなかった。
「ならいい」
「はい」
カインも、それ以上は何も言わなかった。
ミラはわずかに視線を下げたあと、本来の用件へ戻る。
「ハルモニア到着後の行動について、もう一点あります」
「何だ」
「副艦長についてです」
「アイリスは今どうしてる?」
「現在も一般情報網を閲覧しています」
「まだ見てるのか」
「はい。ハルモニアの案内もかなり見ています」
「そうか」
カインは壁際へ軽く寄りかかる。
ミラは少しだけ間を置いた。
「艦長」
「何だ」
「副艦長をハルモニアへ連れて行くことに、不安はありますか?」
「そりゃあるさ」
答えは早かった。
「正規都市だから何も起きない、ってわけでもないだろうしな」
「ファロスαへ残すこともできました」
「そうだ」
カインも否定しなかった。
ティルザがいる。
クロン達もいる。
ファロスαへ残るという選択肢は、最初からあった。
「でも、あいつは自分で来るって決めたしな」
ミラが静かにカインを見る。
「止めることは考えなかったのですか?」
「止めようと思えば、理由はいくらでもあったさ」
危険がないわけではない。
何が待っているのか分からない場所へ向かっている。
それでも。
「本人が来るって決めた」
カインは続ける。
「それに、ここまで来てエーテル・ガイストの中に押し込めておくのも可哀想だろ」
「副艦長は、かなり外へ出たがっています」
「見れば分かる」
「観光にも興味を示しています」
「そっちは後だ」
「調査を優先しますか?」
「ああ」
カインは頷く。
「まずローゼンだ」
「調査後に時間があれば?」
「好きにすればいい」
「副艦長と私で行動しても?」
カインは少し考えた。
「構わん」
「では、そのように」
「俺も一緒なら、その時は先に調査だ」
「了解しました」
ミラが頷く。
カインは念を押すように片手を上げた。
「もしアイリスが先に観光へ行こうとしたら止めとけ」
「私がですか?」
「お前なら止められるだろ」
「努力します」
「そこは止めるって言え」
「副艦長が納得するかは別問題です」
カインがミラを見る。
一拍遅れて、口元がわずかに緩んだ。
「……お前、本当に言うようになったな」
ミラの黄金の瞳が、一度だけ静かに瞬いた。
◇
艦橋では、アイリスが一般情報網を開いたまま、時折正面表示へ目を向けていた。
ニュース。
料理番組。
映像配信。
旅行案内。
ハルモニアの公共交通。
気になったものを開いては、少し見て、また別のものへ移る。
『副艦長』
「何?」
端末から顔を上げる。
『先ほどの貨物船へ接近している』
アイリスはすぐに一般情報網を閉じた。
《前方船舶――追越位置接近》
《航路変更――承認済》
《側方分離距離――確保》
遠距離映像が拡大される。
最初は点にしか見えなかったものが、ようやく船として分かる程度まで補正された。
エーテル・ガイストより小さな中型貨物船。
左右へ張り出した貨物区画には、同一規格のコンテナが整然と固定されている。
船体には大きな塗装剥がれもなく、側面の会社標章と船籍表示もはっきり読めた。
規定位置の航行灯が、一定の間隔で明滅を繰り返している。
自由港で見た、元の形が分からないほど継ぎ足された船とは随分違う。
アイリスは背もたれに預けていた身体を起こした。
「……ちゃんとしてる」
『正規航路を運航する貨物船としては普通だ』
「そうなんだ」
しばらくして、短い通信が入る。
《船舶間通信――受信》
『こちら貨物船アルゴス。イサナ、追越を確認。こちらは現航路を維持する』
「イサナ?」
アイリスが正面表示を見る。
そこには、普段とは違う船名が表示されていた。
《ホエール級大型貨物船》
《イサナ》
《ペラゴス トランスポート所属》
『現在、本艦が外部へ使用している船籍だ』
「これが?」
『ライナ副官から提供された偽装船籍情報の一つだ。現在の外装と登録条件に合わせて使用している』
「ホエール級のイサナ……」
アイリスは表示された文字をもう一度読む。
「エーテル・ガイストと全然違うね」
『そのための偽装だ』
「そっか」
十分な距離を取ったまま、エーテル・ガイスト――《イサナ》は貨物船アルゴスを追い越していく。
表示の中で、整った貨物区画と航行灯が少しずつ後方へ流れていった。
しばらくすると、今度は反対航路へ別の反応が現れた。
《反対航路――大型旅客船》
《出発地――ハルモニア》
《目的地――内側圏》
「今度は向こうから来た」
『ハルモニア発の定期旅客船だ』
遠距離映像の中では、細長い船体の側面へ規則的に灯りが並んでいる。
船腹には運航会社と便番号らしい表示が入り、航路に沿って滑るように進んでいた。
「人、いっぱい乗ってるのかな」
『乗船者数までは公開されていない』
「そうなんだ」
旅客船も、遥か離れた反対航路を通過していく。
肉眼なら、小さな光点にしか見えない。
それでも、あの小さな光の中には誰かが乗り、決められた時間に出発して、別の場所へ向かっている。
アイリスは、その光が遠ざかるまでしばらく見ていた。
◇
それから数時間。
周囲の船舶反応は、少しずつ増えていった。
一隻、二隻と増え、さらに遠方にも複数の反応が見える。貨物船に旅客船、小型の連絡艇。企業所属らしい作業船も混じっていた。
それでも、識別表示や航行灯の位置は揃い、どの船も互いに十分な距離を保ちながら指定航路を進んでいる。
航路ビーコンも増えていく。
船舶識別信号や管制情報、民間通信も絶えず流れてくる。
人の暮らす場所へ近づくほど、エーテル・ガイストの周囲を流れる情報も増えていった。
《ハルモニア外周管制圏――接近》
《推定到着――二時間十一分》
《速度規制情報――受信》
《周辺船舶――複数》
『艦長』
訓練区画へ移っていたカインへ、アドミラルから通信が入る。
カインは軽く動かしていた左肩を回し、壁面端末へ顔を向けた。
「どうした」
『そろそろ戻った方がいい』
「近いか」
『外周管制圏まで二時間余り。ここから先は交通量も増える』
「分かった」
カインはタオルで首元を拭き、訓練を切り上げた。左肩にも、今のところ違和感はない。
近くでハルモニアの情報を確認していたミラも端末を閉じる。
「戻りますか?」
「ああ」
◇
艦橋へ戻ると、アイリスは一般情報網ではなく正面表示を見ていた。
遠距離センサー上には、いくつもの船舶反応が浮かんでいる。
カインは艦長席へ向かいながら画面を見た。
「船が増えたな」
「うん」
アイリスが振り返る。
「さっき貨物船を追い越した」
「見てたのか」
「イサナって呼ばれた」
「ああ」
「カインは知ってた?」
「船籍データに入ってたのはな」
カインが艦長席へ腰を下ろす。
『現在はその船籍で統一している』
アドミラルが表示を切り替えた。
《ハルモニア外周管制――信号捕捉》
《進入航路――照会》
《民間船籍――送信準備》
《乗員情報――送信準備》
「ここからは向こうの指示に従う」
『そうなる』
続いて、乗員情報が表示された。
《船長――ケイル・ランダー》
《乗員――エナ・ノーン》
《支援アンドロイド――ミラ》
アイリスが表示を見つめる。
「……エナ・ノーン」
「お前の外での名前だ」
「名前も変わるんだ」
「偽装身分だからな」
アイリスは自分の偽名をもう一度小さく読んだ。それから、少しだけ口元を緩める。
「なんか、スパイみたい」
「面白がるなよ」
「ちょっとだけ」
視線が今度はカイン側の表示へ動く。
「船長、ケイル・ランダー」
「ああ」
「全然違うね」
カインが眉を上げる。
「お前に言われたくない」
「私は覚えたよ」
「なら問題ないな」
その横で、ミラが表示を確認する。
「外部との本人確認や身分照会が必要な場合のみ、偽装身分を使用します。それ以外は本名でよろしいかと」
アイリスがミラを見る。
「ミラはミラのままなんだ」
「はい」
「そこは変わらないんだね」
「民間支援アンドロイドとして現在の名称で登録されています」
「ちょっとずるい」
ミラがほんの少し首を傾ける。
「そうでしょうか」
カインは二人のやり取りを聞きながら、管制情報へ視線を戻した。
「偽装情報は?」
『問題はない。現時点で不整合は検出されていない』
「ならいい」
◇
さらに進むにつれ、正面の景色にも人工の光が混じり始めた。
最初は星と見分けがつかないほど小さかった。
だが、距離が縮まるにつれて輪郭が広がっていく。
「……あれ?」
アイリスが正面を見たまま声を出した。
カインも顔を上げる。
遠方に複数の巨大構造物が、光の集まりの中から少しずつ姿を現していた。
外周へ張り出した港湾区画。そこから中央部へ伸びる複数の構造体。規則的に並ぶ航路灯と識別灯。その周囲を、大小の様々な船が決められた経路に沿って出入りしている。
自由港のように、必要になるたび外へ継ぎ足された印象はない。居住区も港湾区も、船の進入経路まで計画的に配置されている。最初から一つの都市として造られたことが、遠目にも分かった。
「ハルモニア?」
『そうだ』
《宇宙都市ハルモニア》
《距離――更新》
アイリスは副艦長席の前へ少し身を寄せた。
港へ入っていく貨物船の脇には、小型の曳航艇が並んでいる。
別の係留区画では旅客船へ複数の連絡橋が伸び、さらにその先では整備ドローンが船体に沿って動いていた。
「……なんか、揃ってる」
「何がだ」
「船も。港も」
アイリスは表示の中を目で追う。
「自由港はもっと、色んなものがくっついてた」
「確かに」
カインも正面を見る。
放棄された施設や船体を使い、必要になるたび形を変えてきた自由港。それとは成り立ちから違う。
「……大きいね」
「宇宙都市だからな」
アイリスが横目を向けた。
「またそれ?」
「他に何て言えばいいんだ」
少しだけ笑い、また正面へ向き直る。
《ハルモニア外周管制――接続》
《船籍情報――送信》
《航行計画――照合》
《乗員情報――照合》
艦橋に短い受信音が鳴った。
『ホエール級大型貨物船イサナ。船籍情報を確認しました。指定進入航路を送信します』
《進入航路――H-12》
《指定速度――受信》
《入港順位――確認》
カインが肘掛けへ指を置く。
「通ったか」
『現時点では問題ない』
「そのまま行こう」
『了解した』
《イサナ》としてのエーテル・ガイストが、指定された進入航路へ乗る。
前方にも入港中の船が数隻いる。
だが、一列に詰まっているわけではない。
それぞれに別の進入番号と経路が与えられ、速度を調整しながら異なる係留区画へ向かっていた。
右舷遠方を大型貨物船が先行する。
外部コンテナは所定の位置へ揃えて固定され、船体にも目立った損傷はない。
そのさらに向こうでは、出港した旅客船が別航路へ静かに加速していく。
小型連絡艇も、その間を横切らない。全てが管制の中で動いていた。
カインにとっては珍しくもない光景だったが、アイリスは違う。
正面表示の中を動いていく船を、忙しそうに目で追っていた。
◇
ハルモニアへ近づくにつれ、速度はさらに落とされた。
《入港管制――接続》
《大型船舶係留区――割当》
《接舷誘導――受信》
《自動誘導補助――接続》
『ここからは入港管制の誘導を受ける』
「任せる」
『了解した』
港湾区画が正面いっぱいに広がっていく。
大型船用の係留部は、外壁に沿って一定の間隔で並んでいた。区画番号、誘導灯、固定アーム、気密接続設備まで、同じ規格で配置されている。
少し離れた区画では、別の貨物船が曳航機に導かれながら所定の位置へ収まりつつあった。
その横を整備用の機械が走り、船腹を順に走査している。
《係留区画――H-CARGO-27》
《接近速度――正常》
《固定アーム――待機》
エーテル・ガイストの巨体が、ゆっくりと指定位置へ滑り込む。
外部カメラの端を、灰白色の係留設備が流れていく。床を伝う振動がわずかに変わった。
《係留完了》
《気密接続――開始》
《ハルモニア港湾システム――接続》
「着いたか」
『到着した』
カインは艦長席から立ち上がった。
アイリスもすぐに続く。
「行く?」
「その前に入港手続きだ」
「あ、そうだった」
後ろからミラが歩み寄る。
「副艦長の装備確認もあります」
「これだよね」
アイリスがホルスターに収められた非殺傷拳銃へ手を添えた。
『本艦の装備記録では、副艦長用の非殺傷警備装備として登録してある』
「艦内で作った物でも大丈夫なんだよね?」
『規格に適合していれば問題ない』
「現物検査後、ハルモニアでの一時携行登録が発行されます」
ミラの説明に、アイリスが頷く。
「分かった」
カインは無意識に自分の腰へ手をやりかけ、途中で止めた。
いつもの重さはない。
崩兼元も。
拳銃も。
何もない。
「軽いな」
「何がですか?」
「こっちの話だ」
◇
港湾側との接続が完了すると、三人は乗降口へ向かった。
エアロックの先に、ハルモニア側の入港区画が続いている。
外部扉が開く。
艦内とは少し色味の違う白い照明が、足元へ伸びた。
《入港者確認》
《乗員身分照合》
最初にカイン。
《ケイル・ランダー》
《船長/イサナ》
カインは検査端末の前で立ち止まり、表示を一瞥する。
走査線が身体を上から下へ通過した。
《照合――正常》
《入港資格――確認》
何事もなかったように表示が切り替わる。
続いてアイリス。
《エナ・ノーン》
《乗員/イサナ》
《携行装備――申告あり》
アイリスがカインを見る。
「ここに置けばいい?」
「ああ」
非殺傷拳銃を取り出し、検査台へ置く。
走査装置が左右から動き、銃全体をなぞっていった。
《装備走査――開始》
《非殺傷警備装備》
《所属船舶装備記録――一致》
《出力――規格内》
《殺傷設定――非搭載》
《使用者――乗員情報一致》
アイリスは表示を黙って見守る。
少し間を置いて、最後の表示が切り替わった。
《一時携行登録――承認》
肩から力が抜けた。
「通った」
「通るって言ってただろ」
「実際に通るまでは分からないよ」
「まあな」
アイリスは拳銃を受け取り、目立たない位置へ戻した。
最後にミラが前へ出る。
《ミラ》
《支援アンドロイド》
《所属船舶――イサナ》
《登録情報――確認》
黄金の瞳が検査端末の光を受ける。
《入港許可――承認》
表示が切り替わった。
《入港手続き――完了》
《宇宙都市ハルモニアへようこそ》
「行くぞ」
「うん」
◇
港湾区画を抜ける。
最初に違いを感じたのは、人の数ではなく、その流れ方だった。
都市内部へ向かう旅行者。
荷物を確認しながら通路脇へ寄る船員。
揃いの制服で交代へ向かう港湾職員。
人の流れと搬送機の経路は分けられ、荷物を積んだ無人搬送車は専用レーンを一定の速度で進んでいる。
頭上では公共交通の案内表示が切り替わり、その下を案内ドローンが静かに通り過ぎていった。
自由港で聞いたような、あちこちから重なる金属音や怒鳴り声はない。
作業音そのものは聞こえる。
だが、必要な場所から必要な分だけ響いてくる。
アイリスは歩きながら、行き交う人々へ視線を向けていた。
船員や作業員、旅行者が同じ通路を行き交っている。作業服には所属表示が入り、船員の上着には会社や船の識別章が付いていた。
旅行者は普通の外出着。端末を見ながら歩く会社員風の人間もいる。
自由港のように、隠さず腰へ武器を吊った者を探す方が難しい。
警備員も、自由港で見た用心棒とは見るからに違っていた。揃いの制服と同じ規格の装備を身につけている。
通行人を睨みつけることもなく、必要な場所だけへ視線を配っている。
「……全然違うね」
アイリスが小さく言った。
「まあな」
カインは周囲を見ながら歩き続ける。
その横を港湾職員が二人通り過ぎた。
少し先では、旅行者らしい家族が案内表示の前で立ち止まり、職員に道を訊いている。
「みんな、ちゃんとしてるね」
「そうか?」
「だって、そう見えるから」
カインは否定しなかった。
頭上の案内表示が切り替わった。
《中央居住区》
《商業区》
《公共交通ターミナル》
《宿泊施設》
《企業区画》
壁面では広告映像が流れ、その下には飲食店や交通機関の案内が並んでいる。
「……同じだ」
「何が?」
「さっき見てたやつ」
一般情報網で見ていたハルモニアの映像。
それが今は、目の前にある。
アイリスの視線が右へ動く。
左へ動く。
また頭上の案内へ向く。
カインにとっては珍しい景色ではない。
だが、アイリスにとっては違った。
「迷子になるなよ」
「ならないよ」
「副艦長。周辺地図を共有します」
ミラの声に、アイリスが振り返る。
「ありがとう、ミラ」
ミラが都市内情報を展開した。
アイリスの端末へ周辺地図が送られる。
カインも同じ情報へ目を通す。
港湾区画。
交通網。
宿泊施設。
地図のさらに先には、アステリア・ライフサイエンスの表示もあった。
旧アステリア生体工学研究所。そして、アーデルハイド・ローゼン。
手掛かりを探す場所は、もう目の前にある。だが、到着したばかりで動き回る必要はない。まずは足場を作るべきだった。
カインは人の流れから少し外れた場所で足を止めた。
「やることは一緒だ。最初に宿を取る」
「ホテル?」
アイリスがすぐに反応する。
「そうだ。毎回船まで戻るのも面倒だ」
ミラが端末を操作し、周辺の宿泊施設を並べていく。
「複数あります。価格帯もかなり広いですが」
「場所と安全性優先でいい。値段は気にするな」
「了解しました」
アイリスがカインを見る。
「高いところでも?」
「必要ならな」
その答えを聞いて、アイリスの表情が少し明るくなる。
「……ちょっと楽しみ」
「観光はまだだぞ」
「分かってるよ」
そう答えながらも、アイリスの視線はすでに通路の向こうに並ぶ店へ向いていた。
ミラもその視線を追い、それからカインを見る。カインは何も言わず、小さく息を吐く。
三人はそのまま、人の流れへ入っていった。
◇
ミラが提示した候補の中から、カインが選んだのは中央居住区に近い都市型ホテル、《アークウェイ・ハルモニア》だった。
港湾区画から公共交通で数駅。企業区画にも商業区にも出やすく、宿泊者用のセキュリティも悪くない。
料金も、気にするほどではなかった。
「ここでいい」
「承知しました。空室を確認します」
ミラが端末を操作する。
数秒後、宿泊情報が表示された。
《宿泊予約――仮登録》
《利用者――三名》
《客室――二室》
《チェックイン――当日》
「二部屋?」
アイリスが表示を見る。
「はい。艦長が一室、副艦長と私でもう一室でよろしいかと」
「私はそれでいいよ」
カインは二人を見てから頷いた。
「なら、それで取ってくれ」
「承知しました」
予約処理が進み、端末上の表示が確定へ切り替わる。
「じゃあ行くぞ」
公共交通の案内に従い、三人は港湾区画を離れた。
車両内にも船員や旅行者、仕事帰りらしい人間が乗っている。
窓の外を、ハルモニアの内部構造が流れていった。
居住区へ続く通路や、上下に分かれた交通路。その先には明かりの点いた店舗が並び、少し離れた区画には人の背丈を超える植栽も見える。
アイリスは座席に座ったまま、ほとんど窓から顔を離さなかった。
何かを見つけるたび視線が動く。
そのたびに口を開くわけではない。ただ、流れていく景色を目で追い続けている。
カインは向かいの席から一度だけその様子を確認し、そのまま何も言わなかった。
◇
《アークウェイ・ハルモニア》へ着いた頃には、港湾区画の雰囲気はかなり遠ざかっていた。
正面入口を抜けると、落ち着いた照明のロビーが広がっている。
豪華さを前面へ出した造りではない。
仕事で都市を訪れた船員や企業関係者の長期滞在も想定しているのか、受付の横には荷物預かり用の自動設備と、小さなラウンジが設けられていた。
三人が受付端末の前へ立つ。
《予約情報――確認》
《代表者情報を提示してください》
カインが偽装身分証を端末へかざした。
《ケイル・ランダー》
《照合――正常》
《同行者――二名》
続いてアイリス。
《エナ・ノーン》
《照合――正常》
最後にミラの登録情報が読み込まれる。
《ミラ》
《民間支援アンドロイド》
《照合――正常》
《チェックイン――完了》
《客室情報を送信します》
アイリスが表示を見て、小さく息を吐いた。
「またエナだった」
「外じゃ間違えるなよ」
「分かってる」
「さっき楽しんでただろ」
「ちょっとだけって言ったでしょ」
二人の横で、ミラが客室情報を確認する。
「二室とも同じ階で、隣り合っています。副艦長と私は同室です」
「それでいい」
カインも送られてきた部屋番号を確認した。
「荷物は?」
「必要な物だけ後で船から回す。今日はこのままでいい」
「承知しました」
三人はエレベーターへ向かった。
扉が閉まり、階数表示が静かに上がっていく。
「カイン」
「何だ」
「明日は?」
アイリスの問いに、カインは壁面表示から視線を外した。
「まず調べ物だ」
「ローゼン?」
「ああ」
短く答える。
「観光はその後だ」
「分かってるよ」
今度の返事には、少しだけ不満が混じっていた。
ミラが隣でアイリスを見る。
「副艦長」
「何?」
「調査が早く終われば、その分だけ自由時間も増えます」
「……それなら頑張る」
カインは二人を見て、何も言わずに前へ向き直った。
やがて軽い電子音が鳴り、扉が開く。
ハルモニアで最初の夜を過ごす場所は、ひとまず決まった。




