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トリニティ・ガイスト:亡霊と少女と軍神の航跡  作者: ベルシア


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第60話:焼け跡の値段

 ノクターン・デブリ帯に、もう巨大艦の光はなかった。

白く脈打っていた物質変換の筋も、黒い外殻を走っていた異質な輝きも、変異型エーテルクリスタルが砕けた瞬間に消えた。

残っているのは、ただの残骸だった。

ただし、ただの残骸という言葉を、自由港の船乗りたちは軽く扱わない。

装甲板。旧軍規格のフレーム。推進器。

砲身。生産設備の一部。無人艦だったものの骨格。危険なエーテリアン由来の部材は消えた。物質変換系も、混成炉も、変異型結晶も、回収できる形では残っていない。

だからこそ、残った鉄には値段が付く。


『白タグ候補、追加で三十七』


『黄タグ疑い、十二。軍監督待ち』


『大型フレームが流れてるぞ! ギアハンド、誰か押さえろ!』


『押さえる前に救助が先だって聞こえなかったのか!』


『聞こえた上で位置だけ取ってんだよ!』


 共同戦術網の中で、自由港の声が飛び交う。


 さっきまで死地だった場所が、もう仕事場へ変わり始めていた。

ブラックバナーの武装船は、まだ漂っている小型残骸を機銃で砕き、救助艇の航路を開いている。

ギアハンドの作業船は、航行不能の傭兵船へ曳航索を撃ち込み、姿勢を安定させていた。

ペイルワイヤの中継船は、救難信号、残骸タグ、撃墜記録、曳航記録をまとめて整理している。

誰が何を撃ったか。どの船が誰を助けたか。

どの残骸に誰が最初にタグを打ったか。

後で必ず揉めるからこそ、今この場で記録が必要だった。


『全艦、繰り返す』


《リレイ》の指揮官の声が、戦術網を貫いた。


『中心域への無断接近を禁止。救助、曳航、安全確認の順だ。残骸回収はその後に許可する』


『許可は出るんだな?』


『出す。協定どおりだ』


『なら文句は後だ。救助艇を前へ出せ!』


『おい、黄タグに勝手に触るなよ。あとで軍に首を絞められるぞ』


『首だけで済むなら安い』


『済まねえから言ってんだよ』


通信の向こうで、疲れた笑いが漏れた。

完全な勝利ではない。損傷船はある。

負傷者もいる。失った弾薬も、壊れた推進器も、焦げた装甲もある。

それでも自由港の船乗りたちは、帰った後の修理費と報酬金と残骸の値段を、もう頭の中で弾き始めていた。

そうしなければ、戦場から戻れない。



《リレイ》の艦橋では、勝利の余韻よりも、処理するべき事項の方が多かった。


「巨大構造体、再活性なし」


「エーテリアン系高密度反応、消失を維持」


「物質変換反応、検出不能」


「通常残骸の分離、継続中」


報告が続く。

指揮官は戦術表示を見つめたまま、短く命じた。


「中心域を臨時封鎖。救助と曳航以外は許可制にしろ」


「ハティより、残骸調査への協力申し出」


「保留」


「保留ですか」


「ここは共同作戦区域だ。危険物が消えたとはいえ、単独接収は認めない」


特務戦艦ハティは、作戦中よく働いた。


正面火力を引き受け、スパロー隊を出し、自由港側の船にも援護を行った。


少なくとも、《リレイ》の視点ではそうだった。

《リレイ》が持っている情報は限られている。

ノクターンに存在した不法な無人艦製造施設。

そこから出現した無人艦群。

施設の巨大構造体化。

自由港戦力との共同撃破。

そして、危険なエーテリアン由来反応が消失したという観測結果。

内部で誰が何をしたのかまでは、まだ確定できない。だから、現場軍としてやるべきことをする。

救助し、封鎖し、残骸を分類し、報告書を上げる。


それが《リレイ》の仕事だった。


「例の長距離砲撃は」


副官が問う。

指揮官は、デブリ帯外縁方向に残る微弱な射撃痕を見た。


「未確認支援火力として記録。詳細解析は中央本部へ送る」


「発射元追跡は」


「今すぐ艦を割く余裕はない。救助が先だ」


「中央から追及されます」


「されるだろうな」


指揮官は深く息を吐いた。


「あの砲撃がなければ、今ここに何隻残っていたか分からん。だが、正体不明は正体不明だ。現場報告ではそれ以上書けない」


副官が頷く。


「報告分類は」


「ノクターン無人艦製造施設関連情報。巨大構造体発生および撃破。未確認支援火力。危険部材消滅。通常残骸の共同処理」


指揮官はそこで言葉を切った。


「見たものだけを書け。推測は中央に任せる」


「了解」


リレイはリレイの見た戦場だけを書く。


それ以上は、別の場所で処理される。


    

同じ戦場で、ハティだけは別のものを見ていた。


ゼルギウスは、巨大艦の崩壊跡ではなく、砲撃が来た方角を見つめていた。


「砲撃波形の保存は」


「完了しています」


「発射地点の逆算は」


「複数の偽装反射が挟まれています。正確な位置は出せません」


「概算でいい」


「提出します」


士官が表示を切り替える。

九門の高密度エーテル射撃。

三門一組の発射軸が三つ。

砲弾型カートリッジらしき圧縮反応。

同期着弾。

そして、創世級試作艦の兵装構成との近似。

艦影は見えなかった。


だが、撃ったものの輪郭は残っている。


「カラスの記録は」


「保存済みです」


「照合率は」


「旧式高機動戦闘翼機カラスとの一致率、九二パーセント。搭乗者については顔認証不可。ただし機動特性はカイン・ウォーカーの記録と高い一致を示しています」


「高いではなく、数値を出せ」


「現在、照合中です」


「急がせろ」


ゼルギウスは淡々と言った。

別の士官が報告を続ける。


「セラフィック系と思われる生体共鳴波形も検出しています。発信源は小型艇群のいずれか。ノイズが多く、個体照合には不足」


「不足でいい。記録を残せ」


「追跡班を出しますか」


副官の問いに、ゼルギウスは首を横に振った。


「出すな」


「よろしいのですか」


「ここで動けば、《リレイ》に理由を問われる」


ハティは協力艦としてこの場にいる。

巨大艦撃破後、正体不明の支援火力を追って単独行動すれば、余計な疑いを生む。

ゼルギウスはそれを理解していた。


「それに、今から追って捕まえられる相手ではない」


彼は黒い翼が消えた宙域を見た。


「亡霊は逃げるのが上手い」


艦橋に沈黙が落ちた。

ゼルギウスは続ける。


「ハティは現場協力を継続。残骸接収を強く求めるな。記録だけ持ち帰る」


「ヴォルフ元帥へは」


「封鎖回線を用意。まだ送るな」


「なぜです?」


「先に中央本部がこの戦域をどう処理するかを見る」


彼は崩壊したネストの中心を見た。

黒い遺構材は消えた。

変異型結晶も消えた。

だが、必要なものがすべて消えたわけではない。

隠密艦が持ち去った保全資料。

選別された人員。カラスの記録。

セラフィック波形。九門の砲撃。

ネストは失われた。だが、得たものもある。


「報告は短くていい」


ゼルギウスは低く言った。


「ネスト喪失。保全対象の回収確認。カラス確認。少女の波形確認。エーテル・ガイスト存在可能性、極めて高い」


ゼルギウスは、外縁の闇から視線を戻した。


「ヴォルフ元帥は、それで理解する」


 エーテル・ガイストは、すでに戦場を離れていた。九門斉射の直後、アドミラルは偽装外装を再構築し、艦体熱を民間大型貨物船の範囲へ落とし込んだ。砲身は冷却中。

ハルバードの発射区画は閉鎖済み。

砲弾型カートリッジは全数消費。

残った射撃痕は、デブリ帯の電磁反射と自由港船団の通信混雑に紛れ込ませてある。

それでも、完全に消せたわけではない。

だからこそ、エーテル・ガイストは先に帰る。


『本艦は自由港帰還航路へ移行』


アドミラルが告げる。


『ノクス三姉妹は後続。自由港側帰還船団へ紛れろ』


カラスはまだ戦場近くにいる。

火器を停止し、ステルスへ戻る準備を進めていた。


『本艦は砲撃反応を発生させた。長時間の残留は危険だ』


「カラスは」


『ヴェスパーへ格納せよ』


『ハティの観測範囲から離れるまで、複数の影を挟む』


ブラッドハウンドに、迂回経路が表示される。

ヴェスパーは、ティルザ達の小型船を安全圏へ送り届けた後、アドミラルの指示で戦域側へ戻ってきていた。ティルザは了承している。

小型船は安全圏。取得データは保持。

ヴェスパーの護衛任務は完了。


次の任務へ移る条件は揃っていた。


[Karasu_AI] ステルスモード再起動可能。


[Karasu_AI] 火器熱残留、抑制中。


[Karasu_AI] ヴェスパーへの合流経路を表示します。


「行くぞ」


[Karasu_AI] 了解。


カラスは黒い翼を翻した。


光学同化外装が再び機体を包み、戦闘翼機の輪郭がデブリの影へ溶けていく。


ヴェスパーは、壊れた輸送船の影に隠れるように待っていた。


軽武装運搬船。

外見上は自由港にいくらでもいる小型貨物船の一つに見える。

だが、その内部区画は改修され、折り畳み翼を持つカラスを収容できるだけの空間が確保されていた。カラスが接近する。

ヴェスパーのハッチが開いた。

長くは開けない。

必要なだけ。

カラスは推力を絞り、機体を滑り込ませる。


[Karasu_AI] 着艦姿勢へ移行。


[Karasu_AI] 翼部格納形態。


[Karasu_AI] レイヴン・ハング、未使用。接触汚染なし。


機体底部の鳥爪型大型有線クローは、格納状態のままだった。巨大艦との戦闘中も使用していない。接触すれば、変換構造へ引き込まれる危険があった。それを避けたのは正解だった。

ヴェスパーに、カラスが静かに固定される。


《収容完了》


《ハッチ閉鎖》


《外装偽装、復帰》


外から見れば、ヴェスパーはただの小型運搬船へ戻った。その腹に、黒い翼を隠して。

カインは操縦席の中で、肩の力を抜いた。

まだ帰ったわけではない。

だが、戦場からは離れた。

それだけでも、空気が変わる。


ノクスは、アンブラの前方へ出た。

アンブラは損傷している。

右舷装甲の一部が消え、副砲基部も損傷。姿勢制御には偏りが残る。それでも主機は生きていた。

自力航行は可能。ただし、姿勢が安定しない。


ミラはノクスの操縦席で、曳航用ワイヤーの接続状態を確認した。


「曳航ワイヤー、固定完了」


ノクスの後部から伸びた強化ワイヤーが、アンブラの前方補助接続部へつながっている。


牽引というより、進路を引き戻すための補助だ。

アンブラが推進を誤れば、ノクスが前方から姿勢を抑える。ヴェスパーは後方へつく。

カラスを格納しているため、無理な牽引はしない。代わりに後方監視と接近物の警戒、必要時の押し戻しを担う。


『アンブラ、主機出力を低下』


アドミラルが指示する。


『ノクスは前方牽引。ヴェスパーは後方随伴』


「了解しました」


ミラが応じる。


「ノクス、牽引開始」


ノクスの推進器が低く震えた。

ワイヤーに張力がかかる。

アンブラの傾きが、少しずつ修正されていく。


「アンブラ、帰れる?」


アイリスが操縦席の横から聞いた。

ミラは数値を確認する。


「帰還可能です」


「よかった」


アイリスは少しだけ笑った。


緊張が抜けると、疲労が一気に戻ってくる。

胸の奥に残っていた圧迫感は、もう遠い。巨大艦が止まり、変異型エーテルクリスタルが砕けたことで、あの嫌な脈動は消えていた。

だが、感覚の残り香のようなものはまだ胸にある。


「アイリスさん」


ミラが言った。


「生体反応が不安定です。座席を倒しますね」


「…平気だよ…」


「平気かどうかは、私が判断します」


「……はい……」


 アイリスは逆らわなかった。

ノクスの小さな座席が少し倒れ、彼女の身体を支える。

ミラは操縦を続けながら、アンブラの損傷値と帰還航路を同時に監視していた。


「帰ったら、休息を推奨します」


「…うん」


アイリスは目を少し細めた。

自分の部屋で、少し眠りたかった。

自由港への帰還航路は混んでいた。

ノクターンから戻る船が、次々と外縁交通管制へ入ってくる。

損傷した傭兵船。

救助艇。曳航される船体。

白タグを打たれた大型残骸。


黄タグ扱いで軍監督を待つ部材。

医療区画へ急ぐ小型艇。


その喧騒に紛れるように、ノクス、アンブラ、ヴェスパーも自由港へ近づいていく。

エーテル・ガイストは、すでに自由港へ入っていた。


大型貨物船としての偽装を保ったまま、ドライドック六番へ帰還。

発射区画は閉鎖され、トライデントも偽装装甲の下に沈んでいる。

誰が見ても、少し古い大型船にしか見えない。

少なくとも、外からは。


『本艦、ドライドック六番へ偽装停泊完了』


アドミラルが告げる。


『以後、三隻の帰還を支援する』


「早いね」


アイリスが眠そうに言った。


『先行帰還は予定行動だ』


「カインは?」


『ヴェスパー内。カラスと共に帰還中だ』


「よかった」


それだけ言って、アイリスは目を閉じた。

眠ったわけではない。

ただ、もう少しだけ音を遠くに置きたかった。


 自由港外縁ドックは、戦後の熱気に包まれていた。あちこちで誘導灯が点滅し、作業ドローンが飛び、整備員が怒鳴り、船主が修理順を巡って文句を言っている。

ドック管制はほとんど悲鳴に近い忙しさだった。


『次の損傷船、第三待機ラインへ回せ!』


『ギアハンドの曳航船が詰まってるぞ!』


『医療艇を優先しろ! 残骸船は後だ!』


『白タグ貨物を勝手に降ろすな! タグ照合が先だ!』


その中で、ノクス三隻の帰還は目立ちすぎなかった。損傷した船が帰ってくる。

ワイヤーで牽引補助される船がある。

小型運搬船が別ドックへ回る。

自由港ではよくある光景だった。


まず、ノクスとアンブラがクロンワークス側の作業区画へ向かった。

アンブラの損傷を見せる必要がある。

右舷装甲。副砲基部。姿勢制御。再調整。


それらは、クロンワークスで確認するのが一番早い。

アドミラルは、すでにクロンへ話を通していた。

損傷発生時点で、修理予定部位と到着予定時刻を送っている。その返答は短かった。


《受領した。詳細は現物確認後だ》


カインは通信でそれを聞き、少しだけ黙った。


「短いな」


『必要情報は含まれている』


「そういう問題じゃない」


『では、どういう問題だ』


「まあいい。見てもらえるなら十分だ」


ノクスがクロンワークスの誘導灯に従い、アンブラを牽いたまま作業区画へ入る。


ヴェスパーはドライドック六番へ回った。


表向きは軽武装運搬船。

積み荷は、通常の補修用部材と記録されている。

実際には、その内部にカラスが折り畳まれて固定されていた。ドライドック六番の奥。

偽装停泊中のエーテル・ガイストが、貨物船の顔で待っている。

ヴェスパーはその横へ静かに接岸した。


『搬入経路、開放』


アドミラルが告げる。


エーテル・ガイストの側面部分がわずかに開く。

外から見れば、通常の貨物搬入にしか見えない。

しかし内部では、カラスを収めるための格納導線が準備されていた。


《ヴェスパー、ハッチ開放》


《カラス固定解除》


[Karasu_AI] 搬入準備完了。


カインはヴェスパーの狭い貨物区画で、カラスの機体を軽く叩いた。


「お疲れさん」


[Karasu_AI] 帰還できて良かったです。


「俺もだ」


搬送レールが動き出す。

折り畳まれた黒い翼が、ヴェスパーからエーテル・ガイストの格納庫へ移されていく。

外では自由港の喧騒が続いている。

誰も、運び込まれているものが旧式高機動戦闘翼機カラスだとは知らない。

少なくとも、今この場では。


    

エーテル・ガイスト格納庫に、カラスが固定された。格納庫の照明が低く落とされ、機体表面の熱残留を抑えるための冷却装置が作動する。


[Karasu_AI] 搬入完了。


[Karasu_AI] 冷却継続。


『カラス格納、完了』


アドミラルが報告する。


「エーテル・ガイストの状態は」


カインが尋ねる。


『本艦、偽装停泊中』


『主砲冷却、継続』


『トライデント砲身、全門正常』


『砲弾型カートリッジ、全数消費』


『ハルバード自由港取得分、全弾消費』


「派手に使ったな」


『必要経費だ』


「補充は」


『艦内工廠区画で生産可能』


『自由港残骸取り分から候補部材を選定済み』


「拾ってきたのか」


『現場回収はしていない』


アドミラルは即座に否定した。


『追跡リスクが利益を上回る』


「ならどうする」


『ペイルワイヤ経由で取得権を確保する』


「もう動いてるのか」


『戦闘中に候補をタグ付けした』


カインは呆れたように息を吐く。


「本当に抜け目がないな」


『兵站だからな』


その返答に、カインは短く笑った。

何度聞いても、アドミラルらしい。


クロンワークスでは、ノクスとアンブラが整備区画へ誘導されていた。

クロン本人は、まだ他の損傷船の対応に追われている。

ネスト帰りの船が一斉に入ってきたせいで、工房街全体がいつも以上に慌ただしい。

ノクスの牽引用ワイヤーが外される。

アンブラは整備台の固定具へ収まり、ゆっくりと推進を落とした。

右舷の欠損部には、まだ戦場の焼け跡が残っている。アイリスはその姿を見上げた。


「…直るよね」


ミラはアンブラの損傷ログを確認しながら答える。


「修理可能範囲です」


「よかった」


「作業確認は私が行います。アイリスさんは休息を」


アイリスは少しだけ迷ったが、すぐに頷いた。


「……うん。お願い」


ミラはアドミラルへ通信を送る。


「アイリスさんを艦へ移送します」


『了解した』


アドミラルの返答は即座だった。


『副艦長室は清掃済み使用可能だ』


アイリスは苦笑した。


「準備、早いね」


『必要になると判断していた』


「…ありがとう」


疲れた声だった。

それでも、少しだけ安心した声でもあった。


ティルザ達の小型船は、自由港の外縁にある別の安全区画へ入っていた。

ヴェスパーに護衛されていた間も後も、追跡は無かった。船内で、ティルザは持ち帰った端末を確認した。破損なし。複製可能。暗号化維持。


ネスト内部の記録は、まだ誰にも渡していない。

ティルザは指定された安全端末へ接続する。

画面に短い確認文が出た。


《複製を開始します》


《送信先:指定暗号経路》


《宛先:ライナ・ヴェルグ》


ティルザは一度だけ周囲を確認し、承認を押した。データが流れる。まずは保全領域へ。

次に、細く偽装された連絡線を通じて、ライナ副官のもとへ。


持ち帰った記録のすべてを、そのまま《リレイ》へ渡すわけにはいかない。

現場の管制艦に必要なのは、無人艦製造施設としてのネストの情報だ。

生産ライン。通常無人艦の識別情報。

残骸回収時の危険情報。施設内部の構造図の一部。それらは、ライナが整理したうえで中央本部経由の共有資料として《リレイ》へ渡される。

だが、記録は違う。内部で何が起きたか。

どのログを誰が読めば意味を持つか。

それはライナの判断に預ける。

ティルザは送信完了を確認し、小さく息を吐いた。


「送信完了」


端末に表示された文字を見つめ、彼女は背もたれへ身体を預けた。ようやく、手が震えていることに気づいた。戦場では震えなかった。

ネスト内部でも、撤収中でも、データを抱えている間は震えなかった。

役目が終わった今になって、身体が遅れて恐怖を思い出したらしい。


「……持ち帰りました」


 誰に聞かせるでもなく、ティルザはそう呟いた。

中央本部へ向かう暗号線の一つで、ライナ・ヴェルグは届いたデータを受け取った。

ネスト内部記録。無人艦製造施設情報。

執行関連ログ。退避対象の痕跡。

外部協力者の搬出記録の断片。


すべてを一度に扱えば、危険すぎる。

ライナはすぐにデータを三つに分けた。

一つ目。《リレイ》へ共有してよい現場資料。


無人艦製造施設としての概要、残骸識別、危険区域、回収時の注意点。


二つ目。中央本部監察へ回すべき秘匿資料。


施設運用ログ、実験記録、内部処理の痕跡。


三つ目。アトリー元帥へ直接上げる資料。


表に出す前に、読み方を決めなければならないもの。ライナは短い通信文を作成した。


《ノクターン作戦関連資料を受領》


《現場共有版を作成中》


《未確認支援火力に関する詳細は中央本部預かりとすることを推奨》


《カイン・ウォーカーおよび関連艦の名称は記載せず》


送信先は、エドワード・アトリー元帥。


 彼女は数秒だけ画面を見つめ、それから送信を実行した。

自由港は、夜になっても眠らなかった。

ノクターンから戻った船が、外縁ドックへ列を作る。損傷船。残骸曳航船。報酬請求へ向かう傭兵。修理予約を押さえようとする船主。

医療艇。情報屋。

そして、噂を拾いに来た者たち。

誰もが忙しく、誰もが疲れている。

だが、街は活気づいていた。

戦場の臭いは、自由港では金の臭いでもある。

壊れた船は修理費を生み、残骸は部材となり、撃墜記録は報酬に変わる。

危険な部材は消えた。

だから残った鉄は、自由港が扱える。

その喧騒の奥、ドライドック六番で、カインは静かに息を吐いた。エーテル・ガイストは戻った。

カラスも格納した。

ノクスとアンブラはクロンワークスへ回った。

ヴェスパーも搬入を終えた。

アイリスはエーテルガイストへ戻り、休息に入った。ティルザはデータを運んだ。

完全ではない。ヴォルフ側には見られた。

ハティはカラスを記録した。

九門の砲撃も、ゼルギウスに手掛かりを与えた。

それでも、帰ってきた。


『艦長』


アドミラルの声が響く。


『主要戦力の帰還を確認』


『本艦、偽装状態を維持』


『トライデント実射試験、成功』


『艦内記録には残す』


「好きにしろ」


『成功事例は重要だ』


「分かった。お前の初主砲記念日だ」


『記念日として登録する必要はない』


カインは小さく笑った。

戦闘の疲労が、今さら肩に落ちてくる。

義手の付け根が重い。右目の奥も痛む。

だが、立っていられる。それで十分だった。


「アイリスは」


『副艦長室で休息中。』


「そうか」


『疲労は大きいが、危険値ではない』


「ならいい」


カインはドックの外を見た。

自由港の灯りが、いつもより明るい。

残骸を積んだ船が入り、修理の音が響き、どこかで誰かが報酬を巡って怒鳴っている。

混乱は、追跡を鈍らせる。喧騒は、亡霊の艦を隠す。ネストは終わった。だが、終わったのはネストだけだ。持ち帰った証拠は、まだ開かれていない。ゼルギウスが何を見たのかも、ヴォルフがどう動くのかも、まだ分からない。

黒外套の一派も消えたままだ。

カインはドックの灯りを見つめたまま、低く呟いた。


「一息つくには、悪くない夜だ」


『肯定』


アドミラルが答える。


『ただし、長時間の休息は推奨しない』


「分かってる」


カインは背を向けた。

巣は焼けた。危険な卵は消えた。

鉄は街へ流れ、証拠は闇の中を走り始めた。

そして亡霊は、騒がしい自由港の夜に紛れて、次の一手を待つ。

作者のモチベになりますので、

★評価よろしくお願いします。

_| ̄|○何卒。

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