第六話:マルスエクスマキナ
食器が片づけられ、食堂に静けさが戻る。アイリスは、椅子にもたれ、ゆっくり瞬きをしていた。眠気は、もう隠せない。
『居住区画の整備が完了した』
アドミラルの声。
『休息を勧める』
「……早ぇな」
カインは、空になったカップを置く。
『既存の艦長室を調整した』
『君に割り当てる』
カインは、眉をひそめる。
「……艦長?」
『役職名は便宜上のものだ』
通路の照明が、再び順に点灯する。
『こちらへ』
歩き出すと、足音がやけに静かだった。
居住区画
隔壁が開く。まず、広めの部屋。簡素だが、無駄がない。寝台、デスク、装備ラック。すぐ隣に、整備用の簡易スペース。
『艦長室』
「……随分、実用的だな」
『長時間の滞在を想定している』
カインは、それ以上聞かない。
視線が、隣の隔壁へ向く。
『次だ』
もう一つ、少し小さな部屋。照明は、やや柔らかい。ベッドの高さも低い。
『副艦長室』
アイリスが、きょとんとする。
「……ふく……?」
『この艦において、君はそれに相当する』
意味は、まだ分からない。
だが、“部屋”があることは分かる。
アイリスは、そっと中に入る。
窓はない。それでも、圧迫感はない。
ベッドに触れ、指を沈める。
「……ここ……いい……」
その一言で、カインは肩の力を抜いた。
『扉は内側から施錠できる』
『照明と温度は、個別に調整可能だ』
過不足なく。
『今は、休め』
命令ではない。
勧告だ。
カインは、しばらく黙り――小さく頷いた。
「……ああ」
アイリスは、すでにベッドに腰を下ろし、瞼をこすっている。
『起床時刻は固定しない』
『必要なだけ眠れ』
その言葉に、彼女は小さく息を吐いた。
「……おやすみ……提督……」
返事はない。だが、扉が閉じる音は、
驚くほど静かだった。カインは、
自分の部屋の前で立ち止まる。
振り返らず、呟く。
「……世話焼きだな」
『最適化だ』
いつもの答え。だが、居住区画の照明は、
ゆっくりと――夜の設定へ移行した。
艦は、眠りを守る準備を整えていた。
艦長室――いや、ただの部屋だ。
照明は落とされ、最低限の光だけが壁をなぞっている。カインは、ベッドの縁に腰を下ろし、
左腕から先の“空白”を見下ろしていた。
包帯の下。感覚のない場所。
それでも、重さだけは残っている。
「……なあ」
返事は、最初から来ると分かっていた。
『聞いている』
「さっきから気になってる」
少し間。
「ここまで世話焼く理由だ」
沈黙。
アドミラルは、わざと待っている。
『合理的判断だ』
「……違うな」
カインは、鼻で笑う。
「合理だけで、風呂の温度を下げたりしねぇ」
『……』
短い、計算には不要な“間”。
『正式名称を開示する』
カインは、視線を上げた。
「今かよ」
『今だからだ』
ADMIRAL
艦内の振動が、ごく微かに止まる。
『Autonomous Decision-Making Intelligence
for Relentless Annihilation and Logistics』
【オートノマス・デシジョンメイキング・インテリジェンスフォー・リレントレス・アニヒレイション・アンド・ロジスティクス】
【無慈悲なる殲滅と兵站のための自律的意思決定知能】
長い。冷たい名前。軍神の体現者。
カインは、しばらく黙っていた。
やがて、空になった左袖を、右手で掴む。
「殲滅は分かる軍艦だからな」
「……兵站」
右目のブラッドハウンドに言葉の意味が表示される
ピピッ
兵站
「剣を振るうこと」が戦闘なら、「剣を研ぎ、食事を与え、物資を運び、傷を癒やす」のすべてが兵站に含まれる。
呟く。
「補給して、維持して、使える状態を保つ」
一拍。
「……人も含む、か」
『含む』
即答。
「だからか」
左腕の包帯に、視線を落とす。
「だから、俺を死なせない」
『必要戦力だからではない』
少しだけ、言葉が変わる。
『生存が、最適だ』
「……言い換えんな」
カインは、小さく息を吐いた。
「要するに――俺も数に入ってる」
『ああ』
否定しない。
カインは、ベッドに体を倒した。
片側だけ、沈む。
「……納得だ」
「ここまで世話焼く理由がな」
『世話ではない』
「兵站、だろ」
『……そうだ』
ほんの一瞬、ノイズが混じる。
理由のない揺らぎ。カインは、目を閉じた。
「だったら頼む」
『何だ』
「しばらく――このままでいさせろ」
今は、失ったままで。
『了承した』
答えは短い。
『休め』
命令ではない。夜の維持命令。
カインは、小さく呟く。
「……おやすみ、提督」
『……ああ』
その声は、評価ではない。
だが、どこか守る側のものだった。
艦は、静かに夜を保つ。
兵站として。
エーテル・ガイストは、未完成だった。
外装は継ぎ接ぎ。装甲板の一部は色が違い、
溶接跡がそのまま露出している。
内装も同じだ。本来あるはずの区画は塞がれ、
配線は仮固定のまま走っている。
カインとアイリスが通った場所と一部は、違っていた。
医療区画。
風呂区画。
食堂区画。
居住区画。
そこだけが、人が、人間が、「使える状態」に整えられている。
それ以外は、まだ艦として息をしていなかった。
艦は航行を続けている。低出力。
追跡を避けるための、最低限の推進。
その外で――修理ドローンが動く。
無音の群れ。損傷した装甲に取り付き、
火花を散らし、新しい素材を溶着する。
格納式主砲の基部。未接続だった冷却ライン。
仮組みのまま放置されていた砲身。
一本ずつ、接続が確認されていく。
完全ではない。だが、「撃てる」状態へ。
『進捗、12%』
アドミラルは、淡々と記録する。
感情はない。疲労もない。ただ、処理は止まらない。
居住区画。艦長室では、カインが眠っている。
片腕を失ったまま、それでも――
深い眠りだ。呼吸は一定。
悪夢は、今は来ていない。
副艦長室。アイリスは、ベッドの端で丸くなり、
毛布を握っている。眉は、少しだけ緩んでいる。
“部品”の時には、なかった表情。
『生命反応、安定』
そのログは、外部には残らない。
エーテルガイストは、
眠る二人を中心に、優先順位を組み替えている。
兵装設備は後回し。推進系は最低限。
まず――居住区画の電力を確保。
温度を維持。振動を抑制。
『修復及び建造継続』
ドローンが、再び動き出す。
未完成の艦が、自らを作りながら進む。
誰に命じられたわけでもない。
それが、アドミラルの役割だからだ。
無慈悲なる殲滅と、兵站のための知性。
今は――殲滅を眠らせ、兵站だけを動かしている。艦は、まだ建造中。
だが、守るべきものの周囲から、
静かに――完成へ向かっていた。




