第五話:未完成の休息
低い振動が、艦内を満たす。
それは爆音でも、加速の衝撃でもない。
心臓の鼓動のような、一定のリズム。
アイリスは、無意識に息を合わせていた。
ザザッ。
『――主推進、低出力稼働』
『――エネルギー効率、最適化』
『――現在航行は、逃走ではない』
その一文に、カインの眉がわずかに動く。
「……あ?」
アドミラルは、言い直さない。
説明もしない。
ただ、淡々と続ける。
『――これは「移行」だ』
『――貴様らが、既存の定義から外れた地点への移動』
沈黙。
アイリスは、その言葉の意味を理解できないまま、
それでも、なぜか安心していた。
逃げている、という言葉よりも。
捨てられた、という事実よりも。
「……ねえ」
小さな声。
カインは、視線だけを向ける。
「……私……」
言葉が、途中で途切れる。
“何だったのか”を聞くには、まだ早い。
“何になるのか”を問うには、怖すぎる。
代わりに、彼女は言った。
「……ここに、いてもいい……?」
一瞬。
カインは、答えに詰まった。
それは彼が、
許可する立場ではないからだ。
この艦は、彼のものではない。
彼自身も、もう、何かを守れる存在なのか分からない。
その沈黙に、先に割って入ったのは――
ザザッ。
『――在艦を拒否する理由は存在しない』
『――本艦は現在、所有権・所属・目的を喪失している』
『――よって、乗員定義は流動的だ』
アイリスは、ゆっくり瞬きをした。
「……それって……」
『――「居場所が空いている」という意味だ』
少しだけ、
ほんのわずかだけ。
その声は、柔らかく聞こえた。
カインは、短く息を吐いた。
「……聞いた通りだ」
「ここは、もう軍艦でも、研究施設でもねえ」
「……行き先も、決まっちゃいない」
それから、彼女を見る。
逃げるためでも、守るためでもない目。
ただ、同じ場所に立っている者の目。
「それでもいいなら……」
言葉を切る。
「……一緒に行くか?」
カインは残された生身の右手を差し出した。
アイリスは、答えなかった。
代わりに。掴んでいた軍服の裾を、そっと放し――
今度は、彼の指先に、触れた。
恐る恐る。確認するように。
それだけで、十分だった。
黄金の単眼が、静かに明度を落とす。
『――記録追記』
『――少女個体、自発的滞在を選択』
『――艦長、拒否せず』
『――本艦は現在、亡霊一名と少女一名を乗せ、航行中』
一拍。
『――この状態を、暫定的に「クルー」と定義する』
誰も、否定しなかった。
艦は、静かに進む。
***
エーテルガイスト艦内通路
***
艦内モニターに浮かんだ黄金の単眼が問いかける。
『……痛みはどうだ』
「最悪だ」
即答。
「だが……死んじゃいねぇ」
『それは、評価できる』
カインは、鼻で笑った。
「評価ね。便利な言葉だ」
左腕の断面から、まだ微かに血が滲んでいる。
床に落ちた血痕が、ゆっくりと清掃ドローンに回収されていく。
応急止血のみ。それ以上の処置は、まだだ。
『治療処置を開始する』
「ここでやる気か?」
『否』
黄金の単眼が、わずかに動く。
『医療区画へ案内する』
通路の先、照明が順に点灯する。
『歩行可能か』
「見りゃ分かるだろ」
カインは鼻で笑い、 立ち上がり一歩、踏み出す。
床に残る血痕。自分のものだと、今さら気づく。
それでも足は止まらない。 腕の中で、アイリスが小さく身じろぎした。
「……大丈夫だ」
誰に向けた言葉でもない。医療区画の扉が、無音で開く。白。過剰なほどの清潔さ。
『少女を優先する』
「分かってる」
カインは彼女を慎重にベッドへ下ろす。
軽すぎる体重。固定アームが展開し、
やわらかい拘束具が四肢を支える。
『鎮静レベル、最低値』
『意識は保持する』
アイリスの睫毛が、わずかに震えた。
『精密検査開始』
光が走る。音もなく、彼女の全身をなぞる。
カインは、隣のベッドに腰を下ろす。
「……次は俺か」
『ああ』
短い肯定。
『出血量が規定値を超えている』
「死にはしねぇ」
『死なせない』
即答。カインは、 小さく息を吐いた。
処置アームが展開された。
消毒、止血、仮固定。痛みは、意図的に遅れてくる。だが、カインは声を上げない。
『……耐性が高い』
「英雄様でな」
『評価には含めない』
隣で、 アイリスの検査が続く。
数値が跳ねる。人間の範囲を、外れている。
それでも。
『少女……安定』
その一言で、区画の緊張が少しだけ緩む。
治療は続く。まだ、失ったものの話はしない。
今はただ――生かす。それだけだった。
医療区画の照明が、処置終了を告げる色に落ちる。
『応急処置、完了』
『生命兆候、両名とも安定』
カインは、治療台の縁に腰掛けたまま、深く息を吐いた。
「……生きてるな」
『確認済みだ』
隣のベッドで、アイリスは薄く目を開けている。
視線が、天井を彷徨い――
やがて、カインを見つける。
「……まだ……ここ……?」
「ああ」
短く。
『次の工程に移行する』
アドミラルの声。
『清浄化が必要だ』
「風呂か」
『その表現で問題ない』
医療区画の扉が閉じ、通路の照明が再び順に点灯する。今度は、白ではない。
少しだけ、柔らかい光。
風呂区画
蒸気の気配。温度調整された空間。
『入浴区画』
『少女を先に』
アイリスは、少し不安そうに立ち止まる。
カインが、視線を逸らしたまま言う。
「すぐ外にいる」
『私も監視する』
その言葉に、彼女は小さく頷いた。
風呂区画の隔壁が、静かに開いた。
白い湯気が、ゆっくりと流れ出す。
消毒の匂いではない。ほのかに、清浄剤と金属の温もりが混じった空気。
『入浴環境、調整完了』
床は滑らない素材で覆われ、
壁面には柔らかな光が走っている。騒音はない。 ただ、水の循環音だけ。
アイリスは、一歩踏み出して、足を止めた。
「……あたたかい……」
『体温低下を防ぐためだ』
アドミラルの声は、ここでは少し低く、反響を抑えている。
『刺激は最小限』
『洗浄は自動化する』
天井から、細い水のラインが降りる。
雨のように、やさしく。
アイリスは、最初は肩をすくめたが、
すぐに力を抜いた。
湯気の向こうで、彼女の呼吸が整っていく。
『痛みを感じたら教えてくれ』
返事はない。だが、数秒後――
「……だいじょうぶ……」
その一言で、水圧がわずかに下げられる。
洗浄は、機械的で、正確だ。
こすらない。引っ張らない。ただ、
汚れと血の痕跡だけを、静かに流していく。
アイリスは、目を閉じたまま、湯の音を聞いていた。
「……ここ……こわくない……」
誰に向けた言葉でもない。
『安全域だ』
その返答は、即座だった。
やがて、水音が弱まる。
『洗浄、完了』
『次に、保温』
床下から、ほんのりとした熱が伝わる。
冷えないように。体が、震えないように。
アイリスは、小さく息を吐いた。
その様子を、アドミラルは記録しない。
必要なのは、数値ではなく、“今”だった。
少し離れた場所で、カインも同じように湯を浴びている。
勢いは強め。迷いなく。血と埃が、
排水に消える。赤が薄れ、金属の匂いだけが残る。彼は、何も考えず、ただ立っていた。水を止めると、急に静かになる。
黄金の単眼はただ待っていた。
風呂区画の照明が、少しだけ明るくなる。
『着替えを用意している』
次の区画へ続く扉が、静かに開いた。
回復は、戦闘の反対側にある。
アドミラルは、それを知っていた。
風呂区画の隔壁が、低い音を立てて開く。
湯気が、細く廊下へ流れ出した。
先に現れたのは、カインだった。
濡れた髪。肩にかけたタオル。下着姿。
そして――床に置かれた、元の軍服。
裂け、焼け、乾いた血で硬くなっている。
もはや、服としての役目は終わっていた。
「……ひでぇな」
自分で言って、小さく鼻で笑う。
『再使用不可』
アドミラルの声。
責める調子ではない。事実の提示だけ。
『廃棄する』
「好きにしろ」
その直後。静かに、アームが伸びる。畳まれた布。新しい服。
『着替えだ』
色は落ち着いている。軍の規格ではない。
だが、体の動きを妨げない作り。
カインは、一瞬だけそれを見る。
「……借りだな」
『記録しない』
短い返答。彼は服を受け取り、肩にかける。
その時、別の隔壁が、ゆっくり開いた。
アイリス。少し大きめの服に包まれ、
髪がまだ湿っている。
袖が、指先を隠している。
彼女は、床に置かれたボロ布を見て、
目を瞬かせた。
「……それ……」
「ああ」
カインは、視線を逸らす。
「もう使わねぇ」
アイリスは、しばらくそれを見つめ――
それから、カインの新しい服を見る。
何も言わない。
ただ、少しだけ――ほっとしたように、
息を吐いた。
『体温、安定』
アドミラルが告げる。
『次は、栄養補給と休息だ』
カインは、袖を通しながら答えた。
「……やれやれ」
だが。その声は、さっきより、ずっと軽かった。
着替えを終えると、通路の照明が、また順に点いた。
『食堂区画へ案内する』
「……まだ続くのか」
カインはぼやきながらも、足を止めない。
アイリスは、少し遅れてついてくる。
新しい服の袖を、無意識に握りしめながら。
隔壁が開いた。匂いが、先に届く。
温かい。油と穀物と、どこか懐かしい匂い。
「……飯か……」
『栄養摂取は回復に必要だ』
「分かってる」
食堂は、広すぎない。無駄な装飾もない。
だが、椅子とテーブルの配置は、妙に“落ち着く”距離感だった。
テーブルの上には、既に皿が並んでいる。
湯気。金属音ではない、ちゃんと“料理”の音。
カインの前には、肉と穀物。塩気は控えめ。
そして――『コーヒー』
黒い液体が、静かに注がれる。
カインは、一瞬だけ黙り込み、それから小さく笑った。
「……抜け目ねぇな」
『嗜好データを参照した』
「いつのだよ」
『過去の記録だ』
それ以上は、説明しない。
アイリスは、椅子に座り、目の前の皿を見つめている。
「……これ……」
『食べられる』
スプーンを持つ手が、少し震えた。カインは、
何も言わず、先に一口食べる。
噛む。飲み込む。
「……大丈夫だ」
それだけ。アイリスは、小さく頷き、ゆっくりと口に運ぶ。
一口。次に、もう一口。
「……あったかい……」
その一言で、空気が、少しだけ緩む。
食堂には、食器の音と、呼吸の音だけが残る。
誰も、過去の話はしない。
誰も、これからの話もしない。
ただ――今、食べる。
カインは、コーヒーを一口啜り、深く息を吐いた。
「……生き返る」
『それは良かった』
アドミラルの声は、いつも通りだ。食堂の照明は、少しだけ、暖色に寄っていた。
アイリスは、皿を見下ろしながら、ぽつりと言う。
「……ここ……」
一拍。
「……静か……」
『今は、安全だ』
その言葉に、誰も反論しなかった。
食堂区画は、戦場から、
完全に切り離されていた。




