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トリニティ・ガイスト:亡霊と少女と軍神の航跡  作者: ベルシア


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第44話:準備

 ノクスの仮改修が一区切りついた頃、工房街の外は少しだけ夜の色へ傾き始めていた。

自由港に、本当の意味での夜はない。

リング都市の照明は区画ごとに調整され、工房街では昼も夜も工具の音が途切れない。

それでも、人の動きは少しだけ変わる。

昼の搬送と取引の流れが引き、代わりに整備、片付け、夜間仕事の準備が表へ出てくる。

クロンワークスの係留ドックでは、ノクスの左右に取り付けられたアンカーランチャーが、白い作業灯を鈍く反射していた。

右舷に一基。

左舷に一基。

どちらもまだ仮装着だが、基部はしっかりしている。

B-17から抜いた補助フレームが、船体の内側で負荷を逃がすように組まれていた。

クロンは船体下から這い出して、工具を腰に戻した。


「今日やる分はここまでだ」


ミラが端末を確認する。


「アンカー射出系、左右とも仮接続完了」


「巻き取り負荷制御、緊急切断、姿勢制御補正も初期同期済みです」


『ノクス側制御パッケージ、仮反映完了』


アドミラルの声も重なる。


『明朝、出発前に最終チェックを行う』


「それでいい」


カインは短く答えた。


アイリスはノクスを見上げていた。


「……明日、これで行くんだよね」


「ああ」


カインが答える。


「だが、行くのは外縁の手前までだ」


「深入りはしない」


「分かってる」


アイリスは頷いた。


その時、工房の入口側から搬送車両の音が近づいてきた。


低い浮上音。重いものではない。

小型の搬送台車が、何かを積んでこちらへ入ってくる音だった。

クロンワークスの従業員が一人、端末を見ながら声を上げる。


「親方、車両オークションから搬入です」


クロンが顔を上げた。


「早いな」


カインもそちらを見る。


「落ちたのか」


従業員は頷いた。


「はい」


「例のホバーバイク、落札できたそうです」


アイリスの顔がぱっと明るくなった。


「本当?」


「本当です」


従業員は少し笑った。


「おめでとうございます」


搬送台車が工房前で止まる。

固定フレームの上に載っていたのは、昼に会場で見たホバーバイクだった。

低重心で、無駄な飾りがない。

外装には擦り傷があるが、主要フレームは真っすぐで、推進系もきちんと整備されている。

派手ではない。だが、街中の足としては十分すぎる。


アイリスが近づいて、ぐるりと車体を見た。


「……ほんとに来た」


「縁があったな」


カインが言う。


クロンは車体の周りを一周し、膝を落として下回りを覗き込んだ。


「悪くねえ」


「記録どおりだな」


従業員が搬入タグを差し出す。


「受取先、クロンワークス」


「落札者名義は市場登録どおりです」


ミラがすぐに端末で照合する。


「所有移譲確認」


「登録更新も問題ありません」


アイリスはまだ少し嬉しそうに車体を見ている。


「これ、二人乗りだよね」


「ああ」


カインが答える。


「三人で動くなら、何か足さないと無理だな」


「サイドカー?」


アイリスが言うと、クロンがこちらを見た。


「その話、まだ生きてたのか」


「生きているらしい」


カインが答える。


クロンは鼻を鳴らした。


「付けるなら脱着式だな」


「常に付けっぱなしだと邪魔だ」


「街中の移動だけなら二人乗りでいい」


「三人で動く時、荷物が多い時、荒事を想定する時だけ付ける」


アイリスが少しだけ楽しそうに聞く。


「付け外しできるんだ」


「できるように作るんだよ」


クロンは当然のように返す。


「ただし、遊具じゃねえぞ」


「分かってるけど……ちょっと楽しそうで」


「楽しさは否定しねえ」


クロンは真顔で言った。


「だが、転がったら笑えねえ」


カインはホバーバイクの車体を見ながら言う。


「武装化はどう見る」


その言葉に、アイリスが少しだけ瞬いた。


「これも武装するの?」


「可能性の話だ」


クロンは即座に首を振った。


「街中の足に銃むき出しで付けるのはやめとけ」


「お前ら、隠れてんだろ」


カインは黙って聞く。


「だったら、普段は普通のホバーバイクに見える方が良い」


「車体側に露骨な武装は載せるな」


クロンは車体の側面を軽く叩いた。


「武装はサイドカー側に」


「外せば普通の足」


「付ければ荒事用」


「そういう作りにしろ」


ミラが端末に設計案を出す。


「脱着式サイドカーユニット」


「基本用途は人員輸送および荷物搬送」


「後部または前部に、半自動タレット用マウントを設置可能」


「車体側には給電、照準連動、姿勢補助用の隠蔽端子を増設」


「通常時はカバーで隠せます」


カインが頷く。


「車体本体は目立たせない」


「サイドカー側に後で武装を載せる」


「前後左右へ撃てるようにするなら、タレットの方が合理的か」


『同意する』


アドミラルが言う。


『固定機銃は火力方向が限定される』


『小型車両での市街戦闘を想定するなら、旋回式小型タレット一門の方が射界を確保しやすい』


クロンが片手を上げた。


「今日はそこまでやらんぞ」


「明日ノクス出すんだろ」


「こっちは足として動く状態を確認して、サイドカー用の基部だけ見る」


「本格改造は帰ってからだ」


「それでいい」


カインは答えた。


アイリスが少しだけほっとした顔をする。


「じゃあ、今はまだ普通のバイク?」


「普通より少しだけ下準備済みのバイクだ」


ミラが訂正する。


「隠蔽式の電装マウントと、サイドカー連結基部の設計だけ行います」


「作業は最小限です」


クロンが従業員へ声を飛ばす。


「車体チェック」


「推進系と制動系だけ先に見ろ」


「連結基部は採寸だけでいい」


「穴は開けるな。今日は設計までだ」


従業員たちが返事をして動き出す。

ホバーバイクが作業台へ移され、外装の一部が開かれる。中の配線は綺麗だった。

市場で見た時の記録どおり、前の持ち主は丁寧に使っていたらしい。

アイリスはその様子を見ながら、小さく言った。


「なんか、どんどん自由港っぽくなってるね」


「何がだ」


「船を買って、部材を抜いて、残りを売って、バイクを落として、サイドカー付けようとしてる」


カインは少しだけ考えた。


「確かに、まともな奴の動きじゃないな」


「今さらだろ」


クロンが横から言った。


「お前、最初に来た時からまともな奴の顔してなかったぞ」


「そうか」


「ああ」


クロンは工具を取りながら続ける。


「だが、自由港で生きる顔にはなってきた」


カインは返事をしなかった。

自由港で生きる。軍へ戻らず、ヴォルフに見つからず、情報を集め、必要なものを拾い、使い、売り、また動く。それが今の自分たちのやり方になりつつあった。日が落ちた、という言い方が正しいのかは分からない。それでも工房街の照明は夜間作業用に切り替わり、白い光が少し冷たくなった。ノクスは係留ドックで明朝の出発を待っている。左右のアンカーランチャーは仮装着のまま、最終調整を残して沈黙していた。

落札したホバーバイクは、作業台の上で推進系のチェックを受けている。サイドカーの基部は、まだ図面の中だけだ。武装化も、今はまだ先の話。

今夜は、それでいい。カインはノクスを見た。

明日、ミラとアイリスがあれで外へ出る。

自分は残る。それが正しい判断だと分かっている。だが、正しいことと、軽いことは違う。


アイリスが隣に来た。


「カイン」


「何だ」


「がんばる」


カインは一度だけアイリスを見る。


「約束は守れ」


「無理をするな」


「うん」


カインは短く言った。


「近づく判断はするな」


アイリスは少し考えてから、頷いた。


「分かった」


クロンが遠くで工具を片付けながら言う。


「いい教え方だ」


「聞いてたのか」


「工房は音が響く」


クロンは悪びれずに返した。


「用が済んだなら、もう戻れ」


カインはノクスから視線を外した。


「ああ」


ミラが端末を閉じる。


「本日の外部作業はここまでにします」


「私は最終チェックを終え次第、エーテルガイストへ戻ります」


『本艦側も受け入れ準備済み』


アドミラルが言う。


『ノクス偵察任務、明朝実施予定』


その声はいつも通り静かだった。

だが、カインはまだ気にしていた。

限定的な救援手段。必要時に開示する。否定しない。アドミラルが何かを隠している。

それが何かは、まだ分からない。

カインは短く息を吐いた。


「……使わずに済めばいいがな」


『同意する』


アドミラルはそう答えただけだった。

ノクスの影。アンカーランチャーの鈍い光。

落札したホバーバイクの小さな機体。

それぞれの準備が、少しずつ形になっていく。

明日、ノクスは旧外縁航路K-9の手前へ出る。

表向きは、漂流ビーコンの確認。

本当の目的は、ノクターン・デブリ帯の外縁を覗くこと。まだ闇の中へ踏み込むわけではない。

だが、その縁にはもう立っている。

カインは最後にもう一度だけノクスを見てから、アイリスとともにエーテルガイストへ戻る通路へ向かった。

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