第25話:ブラックネビュラバー
ブラック・ネビュラ・バーは、昼前の自由港にしては妙に静かな店だった。
工房街と居住区の境目。
夜に騒ぐための酒場というより、仕事の途中で寄る人間が多い場所。扉の向こうにあるのは酔いではなく、まだ頭の回っている空気だった。
クロンから借りた二人乗りのホバーバイクを店の脇へ寄せ、カインはエンジンを切る。浮上音がすっと消え、機体が静かに沈んだ。後ろから降りたアイリスが、店を見上げる。
「……思ってたより、普通の店っぽいね」
「そう見えるようにしてるんだろ」
カインは短く答えた。
「中身まで普通かは別だ」
アイリスは小さく頷いた。
「……そういう言い方すると、ちょっと入りづらい……」
「今さらだ」
カインは扉を押した。
中へ入ると、酒の匂いより先に、温められた空調と古い鉄の匂いが来た。
照明は暗め。だが、見通しは悪くない。厚いカウンター。壁際に沿った席。奥には半分仕切られた区画。店の作りそのものは酒場だが、座っている連中は休むためというより“止まるため”に来ている感じだった。工房帰りらしい男。護衛屋めいた女。船員風の二人組。誰も大声を出していない。
それでいて、誰も気を抜いていない。
カウンターの奥にいた女が、二人を見る。
隣でグラスを磨いていた男も、手は止めずに視線だけ寄越した。先に口を開いたのは女だった。
「いらっしゃい」
「飲む人? 聞く人? それとも仕事探し?」
アイリスが少しだけ目を丸くする。
普通の店ならまず人数や注文を聞くところだ。
カインはすぐに返した。
「飲み物は頼む。酒はいらない」
「用件は、そのあとだ」
男が低い声で言った。
「昼前に酔われるより助かる」
女が顎でカウンター席を示す。
「ここ座って」
二人はカウンター席へ移った。
入口も奥も見える位置。背中に変な圧迫感のない席だった。店が客を試しているのか、客が店を試されているのか、その両方みたいな距離感だ。
女がメニュー代わりに言う。
「アルコール抜きなら、茶、柑橘水、炭酸水」
「どれにする?」
カインが横を見る。
「好きに頼め」
「……じゃあ、柑橘水で……」
「俺は茶だ」
「了解」
女はそれだけ言って下がった。
アイリスが小声で言う。
「……最初の聞き方、ちょっと変だったね…」
「ここじゃ、そっちの方が大事なんだろ」
カインは店内を見たまま答えた。
「食うか飲むかより、何を持ってきた客か」
「……なるほど……」
飲み物が運ばれてくるまで、カインは店の中を眺めていた。客の数は少ない。
だが、出入りする視線の数は思ったより多い。
会話が聞こえるほどではない。それでも、何となく、場に馴染んでいない動きがある。
アイリスが小さく聞く。
「…何か引っかかる?」
「浮いてる連中がいる」
カインは答えた。
「うまく紛れてるつもりだろうが」
「この店に落ち着きに来た人じゃない」
アイリスは少し考える。
「……待ち合わせとか?」
「それとも違う」
「待つ奴は一点を見る。探す奴は全体を見る」
アイリスは「へえ」と小さく呟いた。
「…そういうのも分かるんだ…」
「分かる時はな」
カインはそれ以上は言わなかった。
やがて、茶と柑橘水が置かれる。
湯気の立つ濃い茶。冷えすぎていない柑橘水。
どちらも“とりあえず出した”感じではなかった。
女が言う。
「それで」
「何を聞きたいの?」
カインはグラスに手をつける前に答えた。
「連合軍まわりの空気だ」
「深い話じゃなくていい。この辺で何が変わったか、それだけでいい」
女はすぐには返さなかった。
こちらの顔を一度見てから、静かに言う。
「その前に、こっちの名前くらいは出しておくわね」
「私はリゼット」
男が続ける。
「ガレスだ」
カインは短く頷いた。
「カイン」
「こっちはアイリス」
リゼットはカウンターに片手を置き、少しだけ首を傾ける。
「じゃあ、軽くいくわね」
「最近、この店で酒より先に情報を欲しがる客が増えたわ」
ガレスが続ける。
「お前らみたいにな」
アイリスが少しだけグラスを持ち直す。
カインは表情を動かさない。
「どういう手合いだ」
「流れ者って感じじゃないわね」
リゼットが答える。
「街に腰を下ろすつもりが薄いのよ」
「泊まる場所や飲む場所を探してるっていうより、誰が何を知ってるかを探ってる」
ガレスが低く言葉を足した。
「金の匂いより、用件の匂いが強い」
「入ってきた時から、ボトルじゃなく客の顔を見てる」
「そういうのは大体、誰かの依頼だ」
カインが聞く。
「雇われってことか」
「その言い方が一番近い」
リゼットは頷いた。
「軍人って顔でもない」
「でも、自由港のいつもの連中とは違う」
「借りた地図で歩いてるんじゃなくて、最初から当たりをつけて入ってきた動き方」
ガレスが鼻を鳴らす。
「消し方が雑じゃない」
「だから余計に、どこかの筋がついてるように見える」
アイリスが静かに聞いている。
リゼットは続けた。
「何を探してるかは見えない」
「人か、荷か、場所か、そこはまだ霧の中」
「でも、“何でもいいから仕事を拾いに来た”って顔じゃないのは確か」
カインは茶を一口飲んだ。
「数は」
「目立つほどじゃないわ」
リゼットが答える。
「でも、前より増えた」
ガレスが言う。
「普通の新顔は、まず酒か寝床だ」
「最近のは違う。席についても、喉を潤す前に周りを測る」
「長居したい奴じゃない。拾ったら動く奴だ」
カインは少しだけ視線を細める。
「連合軍に近いと思う理由は」
リゼットは肩をすくめた。
「匂いよ」
「動きの揃い方。視線の切り方。聞き方の順番」
「正規の軍人じゃないわね。でも、軍の外側で使われてる人間なら、ああいう感じになる」
ガレスが短く続ける。
「崩れた連中じゃない」
「まだ形が残ってる」
「そこが気になる」
カウンターの向こうで、短い沈黙が落ちた。
カインは二人の顔を見た。はっきり分かっていることより、分からないまま掴んでいる輪郭を言葉にしている。そういう話し方だった。
「他には」
カインが聞く。
リゼットは少し考えてから言った。
「一つだけ」
「最近の人は、“答え”より“入口”を欲しがるわ」
「何が正しいかじゃなく、誰に当たればその先へ行けるかを見てる」
ガレスが低く言う。
「遠回りを嫌ってる感じだな」
「聞く相手を選ぶ目だけは早い」
リゼットが小さく笑った。
「だからこの店でも、杯より会話を欲しがる」
「そういう客が前より増えたわ」
「……ほんと、貴方達みたいにね」
アイリスは困ったように少し笑った。完全には否定できない言い方だった。
カインは茶を置いた。
「十分だ」
「そこまででいい」
リゼットが頷く。
「賢明ね」
「ここで無理に掘ると、濁るわよ」
ガレスは片手を軽く上げた。
「必要になったらまた来い」
アイリスは小さく頭を下げる。
「……ありがとう」
酒より情報を欲しがる客が増えている。
その中には、誰かに雇われて動いているような連中も混じる。目的はまだ見えない。だが、“何かを探している”空気だけは確かにある。
それで十分だった。今はまだ、答えを取りに行く段階ではない。次にどこを叩くべきか、その方向が見えれば足りる。




