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愛の純粋性(愛の主体としての人間)

人間は「愛する」ことができる「愛の主体」である。


人間はただ「愛」であること以上に「愛の主体」として積極的に、何かを、誰かを主体的に「愛する」ことの出来る存在だ。


それでありながら、残念なことに、愛されたいがために、愛するという「手段の目的化」により、愛の純粋性が失われているように思えます。


まず「愛の純粋性」において、奉仕、献身など見返りを求めない「行為」が正に「愛する」ということなのです、それは、マザー・テレサ然り、本来的に、親が子供に対する「愛」にしても然り。


ところが男女の愛には、それがなかなか見受けられないのです、見渡す限り、現代の男女の愛には「愛の純粋性」において


互いが「愛の主体」として「愛する」同士が(与え合う)愛は上手くいきますが、


互いが相手に、愛されんがために(奪い合う)愛は破綻する、これは少し考えてみればすぐにわかります。


これは「手段の目的化」となるからです。


なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのか?と思うかもしれません。


ます、お金についての「手段の目的化」について、お話ししましょう。


お金は、物々交換が簡略化したものであります。


物が必要なときに、いちいち、物を交換するには手間がかかりますが。


お金というものがあれば、物の代わりにお金にをやり取りすれば手間が省けますね?


例えば、米を一俵運び出して、代わりに味噌を一樽運ぶこむことで取引きするより。


お金で売ったり買ったりする方がずっと便利ですね。


つまり、お金は、物を売ったり買ったり、または何かしらの対価を支払う、または受け取るための


「手段」であり「目的」ではないはずでした。


ところが、いつの間にか、お金自体を集めるのが「目的」になってしまいました。


それと似ていて「愛」も「愛する」ことが「目的」であるはずだったのに。


いつの間にか「愛する」ことが「愛される」ための「手段」になってしまっているのです。


これが「奪う愛」となり、愛が純粋ではなくなってしまうことになります。


それはどういうことか?というと、


つまり、愛されるために、愛する、これを私たちは何気なく受け入れているふしがありますが・・…


これは、あくまで「愛されたい」のが「目的」であり。


この「あなたを愛しています」というのは、相手から愛を奪うための。


あくまで相手から愛されることで、自分を楽しませ喜ばせたいための「手段」なんですね。


だから、あくまでも、本当に愛しているのは「自分」なんですね。つまり、自己愛から発して完結するものなんです。


あなたを愛します、だから、私を愛してください。


というのは、最早取引であり、純粋に「与える」という、愛の純粋性において不純なんですね。


なぜならは、ここには「下心」があるから。


これはよく巷で言われることですが、愛と恋の違いは、恋は、下に「心」がありますが、愛は真ん中に「心」がある、とか。


このように考えてみるとわかりやすいかもしれませんね?


報いを求めるのが「恋」であり、愛するから、愛してくださいという「条件付き」


報いを求めないのが「愛」であり、ただ、愛し抜くことであり、そこにはマザー・テレサのような。



「奉仕」「献身」という人間の純粋な美徳が見られるという点があります。


このような、愛の純粋性において、与え合う愛により結ばれた人間関係は。


男女に限らずに、真の信頼と絆を深めて、死を超えて結び合うでしょう。



「奪い合う愛」


単純に考えてみるとわかりますが、


愛が欲しい人同士が、さみしさ故に、一緒になるケースがよく見られますが、


これは必ずや破綻します。


なぜなら、人は自分にないものを、人に与えられないからです。


愛のない状態の者同士が、一緒になれば、


愛の奪い合いになるでしょう。


だからまず自分を大切にして、愛し愛で満たされている状態であって、初めて人を愛し大切に出来るかと思います。


以前にも申しましたように「人は自分の持っているものしか与えられない」


私は母と一歳で離別しながら、その分を沢山の家族がむしろそれがあったために充分に同情して愛して慈しんで育てられましたので、


その点は恵まれておりましたが、


小学三年の夏休みにキリスト教会へいき。


その後にクリスチャンとして「神の愛」という圧倒的な「愛」に触れてから、


人間の「愛」というものに比較して考えるようになったのです、


私は「神」と言う言葉を意識的に避けてきました。


みなさんに宗教的なものと勘違いされてはいけないと思ったからです。


私の目的は、みなさんに時期的にも「アセンション」の波に乗り、楽しく人間を卒業し、超越して「覚醒」して頂くことを至上の喜びとしています。


現代宗教では世界は救えないし「覚醒」も無理ですが、


その「覚醒」以前の基礎的な知識や知恵を少しづつ提供していきたいと考えながら書いております。


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