第二話:傲慢な覇王の夜なべと、午睡を貪る無垢な怪物
王配としての就任から、わずか三日。
ラングレー公爵邸の最上階に位置する主執務室には、夜の帳が下りてもなお、決して消えることのない魔導灯の冷たい光が満ちていた。
「……ヴィンセント。この案件の決裁印は、なぜまだ押されていないのだ」
執務机の中央に腰掛けるギルバート・フォン・ラングレーの声は、普段の氷のような張り詰めた鋭さを辛うじて保っていたが、その底には微かな濁りが混じっていた。
三日前まで、非の打ち所のない美貌を誇っていた彼の顔面には、うっすらとだが確実に疲労の影が差している。漆黒の髪は完璧に撫で付けられているものの、その額には深い縦じわが刻まれ、青い瞳の縁には赤黒い鬱血――いわゆる濃い隈が浮かび上がっていた。
机の上に山と積まれているのは、ガルディニア王国全土から吸い上げられた決裁文書の数々である。
「申し訳ございません、閣下」
副官のヴィンセント・ハイドが、自らも青白い顔を痙攣させながら、新たな羊皮紙の束を抱えて進み出た。彼の胃は、昨日の未明あたりからキリキリと鋭い痛みを訴え続けている。
「そちらは、南部諸侯による塩の専売権に関する陳情書です。保守派の重鎮フェリクス侯爵が、『王室令の条文解釈に疑義がある』として、過去三十年分の判例の照会を要求してきております」
「……三十年分だと? たかだか地方都市の関税率を二分引き上げるだけの案件に、なぜそれほどの過去資料が必要なのだ!」
ギルバートは苛立ちを露わにし、握っていた羽根ペンをインク壺に乱暴に突き立てた。ペン先が軋み、黒い飛沫が羊皮紙の余白を汚す。
「フェリクス侯爵の差し金です。閣下が新王配として実権を握られたことに反発する旧貴族派が、ありとあらゆる形式上の不備や前例主義を盾に、意図的に決裁を遅延させようと嫌がらせの書類を送りつけてきております。……現在、書記官局に届いている確認要求は、未処理のものだけで四百二十件に達しました」
「あの老いぼれどもが……! 既得権益にしがみつく蛆虫めが」
ギルバートは奥歯をギリリと噛み締めた。
愚鈍な王女を言いくるめ、国家の全権を手に入れた夜、ギルバートはこの国を意のままに再編する青写真を思い描いていた。
軍制を改革し、腐敗貴族を粛清し、王国の国庫を潤す――己の明晰な頭脳と強力な実行力があれば、わずか数ヶ月でガルディニアを大陸最強の帝国へと押し上げられると、本気で信じて疑っていなかったのだ。
だが、現実はあまりに醜悪で、陰湿な泥沼だった。
王国の官僚機構とは、何重もの利害関係と旧弊によってがんじがらめに縛られた怪物だった。法案を一つ通そうとすれば十の派閥から反対意見が届き、予算を一箇所のインフラに回そうとすれば三つの伯爵家から「我が領地への侮辱である」と抗議の書簡が飛んでくる。
「閣下、本日はすでに二十時間が経過しております。……仮眠をお取りになられては。明日の午前中には、北部防壁の修繕費に関する財務審議会が控えております」
「眠れるわけがあるか!」
ギルバートは怒声を発し、自らのこめかみを強く指先で圧迫した。
「私が一度でも書類の山から手を離せば、宮廷の古狸どもは『新王配は無能だ』と騒ぎ立てるに決まっている! この私が……ラングレー公爵家の当主が、前王の残した雑務ごときに屈するなど、断じてあってはならんのだ!」
自尊心。肥大化したプライドと野心が、彼の退路を完全に塞いでいた。
「すべて私に任せておけ」と、あの無知な小娘の前で高らかに宣言してしまったのだ。今さら「処理しきれませんでした」などと泣き言を漏らせば、自らが手に入れた至高の権力そのものが瓦解してしまう。
「書類を出せ、ヴィンセント。今夜中に、南部関税法案と王都下水道の改修計画、それに東部国境の兵糧手配書にすべて目を通す」
「……は、はい。閣下、カフェインを濃く抽出した薬草茶をお持ちいたします」
ヴィンセントは青ざめた顔で一礼し、机の上にさらに分厚い書類の束を積み上げた。
ギルバートは震える指先で眼鏡の位置を直すと、吐き気を催すような長文の儀礼文が書き連ねられた羊皮紙へと、再びその身を投じた。
彼がかつて誇っていた、獲物を狙う鷹のような冷徹な輝きは、もはやその瞳にはなかった。そこにあるのは、終わりの見えない激流に呑み込まれ、溺れまいと必死にもがく男の、昏く濁った執念だけであった。
翌日、昼下がり。
王宮の南側に位置する、咲き誇る白薔薇に囲まれたガゼボ(東屋)には、絵画のように穏やかで優美な空気が漂っていた。
「……んん、いいお天気」
ロザリア・フォン・ガルディニアは、特注の最高級シルククッションに身を預け、猫のように小さく伸びをした。
日差しは柔らかく、微風が金糸の髪を心地よく撫でていく。
目の前の大理石のテーブルには、銀の三段スタンドが置かれていた。
上段には一口サイズの色鮮やかなマカロンとベリーのタルト。中段には焼きたてで湯気を立てるスコーンと、濃厚なクロテッドクリーム。下段には薄く切られたキュウリとスモークサーモンのサンドイッチ。
「陛下、本日のお茶は東方諸国から献上されたばかりの春摘みダージリンでございます。香りを損なわぬよう、湯温を低めにして抽出いたしました」
無表情を貫く侍女のエマが、白磁のティーカップに透き通った琥珀色の液体を注ぐ。立ち上る上品な湯気とともに、華やかなマスカットの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「ありがとう、エマ。本当に素晴らしいわ。……ああ、生きてるって感じがする」
ロザリアはティーカップを手に取り、優雅に一口啜って至福のため息をついた。
昨夜は十時間半、途中で一度も目を覚ますことなく熟睡した。朝はゆっくりと起き出し、専属の庭師が手入れした中庭を散歩し、読書をし、そして今は午後のティータイムである。
(ああ……素晴らしい。天国よ。これが私の求めていた人生だわ)
前世の記憶を思い返すたび、寒気が走る。
締め切りに追われ、冷めたコンビニ弁当を胃に流し込み、鳴り止まない電話に怯えながら徹夜を重ねていた日々。それに比べて、今の生活はどうだろう。
自分は何一つ決定を下さず、何一つ責任を負わず、ただ美しいドレスを着て、美味しいものを食べ、ふかふかの寝床で眠るだけ。
前世の記憶は絶対に誰にも漏らさないと心に誓っているが、その過酷な経験があったからこそ、この「何もしない贅沢」の価値が骨身に染みて理解できるのだ。
「陛下」
エマがカップを片付けながら、声音一つ変えずに告げた。
「ラングレー公爵閣下の執務室から、本日の御前会議の欠席報告が届いております。『急ぎ処理すべき重大な国務があるため、陛下の御手を煩わせぬよう王配が単独で代行する』とのことです」
「あら、そう。相変わらず熱心でいらっしゃること」
ロザリアはスコーンをちぎり、たっぷりとクロテッドクリームを塗りながら、口元に楽しげな笑みを浮かべた。
「あの公爵様、私のことを『政務をすべて奪われて幽閉された哀れな女王』だと思って、優越感に浸っているのかしらね」
「おそらくは。公爵家の側近たちは、閣下が王権を完全に掌握したと宮廷内で吹聴しているようです」
「結構なことじゃない。権力なんて、欲しがる愚か者に熨斗をつけて差し上げればいいのよ。権力と責任は常に表裏一体。あの傲慢な男は、自分から進んでその巨大な毒杯を飲み干したのだから」
ロザリアはサクッとしたスコーンの歯ごたえを楽しみながら、目を細めた。
人間というものは、他者を支配しようとする時が最も油断している。
ギルバート公爵は、自分を「無能な操り人形」として玉座から排除したつもりなのだろう。だが、実際にはどうだ。彼は自ら進んで、王国のすべての泥を被る防波堤となり、あらゆる理不尽な陳情を一身に受ける壁となってくれているのだ。
「……ねえ、エマ。少しだけ、お散歩がてら夫の様子を見に行ってあげようかしら」
「執務室へ行かれるのですか? 閣下は機嫌を損ねられるかもしれませんが」
「いいえ、新婚の妻が、愛する夫の激務を労いにいくのよ。妻として当然の、心温まる気遣いではないこと?」
ロザリアは立ち上がり、可憐な笑みを浮かべた。その瞳の奥には、前世で幾度となく見てきた「自滅するエリート上司」を観察しにいくような、冷徹で愉悦に満ちた光が宿っていた。
数分後、ロザリアは侍女を一人だけ連れて、王宮本館の執務棟へと足を運んだ。
重厚な扉の前に立つ衛兵たちは、新女王の突然の来訪に驚愕して直立不動の敬礼を捧げた。ロザリアは人畜無害な笑みを返しながら、ノックもそこそこに扉をそっと押し開ける。
「ギルバート卿? お邪魔してもよろしくて……?」
室内に足を踏み入れた瞬間、ロザリアの鼻を突いたのは、濃厚なインクの匂いと、何杯も飲み干された薬草茶の苦い饐えた臭気だった。
そして、そこにいた「夫」の姿を見て、ロザリアは内心で歓声を上げた。
(……うわぁ、素晴らしいわ。見事に出来上がっているじゃないの)
執務机の上は、もはや書類の壁と化していた。四方に積み上がった羊皮紙の塔は、いつ崩れてもおかしくない。
その中心に埋もれるようにして座っているギルバート公爵の姿は、わずか三日前、謁見の間で傲岸不遜な笑みを浮かべていた絶世の美男子とは完全に別人のようだった。
仕立ての良い上着は脱ぎ捨てられて椅子の背もたれに掛けられ、白いシャツの襟元は乱雑に緩められている。完璧に整えられていたはずの黒髪は、苛立ち紛れに指で掻きむしられたのかボサボサに乱れ、何よりもその顔色が、まるで死人のように土気色を帯びていた。
「……陛下……? なぜ、ここに……」
ギルバートは掠れた声で顔を上げた。その青い瞳は血走り、焦点が微かに定まっていない。光を失い、深い絶望と過労の濁流に呑まれた、見事なまでの「曇り」きった瞳。
ロザリアはその瞳の暗さに、前世の自分を重ねつつも、たまらない愉悦を覚えていた。
自分が味わったあの地獄を、今、自分から望んで権力を奪い取った傲慢な男が、一歩ずつ噛み締めているのだ。
「まあ、ギルバート卿……! お顔色がとても悪くていらっしゃるわ。やはり、私がお仕事を押し付けすぎてしまったのではないかしら……?」
ロザリアは両手を胸の前で合わせ、今にも泣き出しそうな、完璧に無垢で哀れみ深い表情を作って駆け寄った。
「私が……私がやはり、少しでもお手伝いをしたほうが……。あの、この書類をどこかへ運ぶくらいなら、私でも……」
ロザリアが机の上の書類に手を伸ばそうとする。
その瞬間、ギルバートの神経が過敏に跳ね上がった。
「触るなッ!!」
ギルバートは思わず怒声を上げ、ロザリアの手を払いのけるように机を叩いた。
書類の山がグラリと揺れ、羊皮紙が数枚、床に滑り落ちる。
「……ッ、失礼いたしました、陛下」
ギルバートは荒い息を吐きながら、慌てて己を取り繕った。だが、その声の震えは隠しきれていない。
「これは……王国の機密に関わる重大な政務です。政務の訓練を受けておられない陛下の手を煩わせるわけにはまいりません。すべて、私が……このギルバートが処理いたします」
(ほらね。絶対に仕事を渡せないのよ、この手の人間は)
ロザリアは内心で冷笑した。
自分以外の人間を無能だと見下し、権力を独占したいという強迫観念がある限り、ギルバートは他人に仕事を振ることができない。そしてその傲慢さこそが、彼を永遠に残業地獄へと縛り付ける首輪となる。
「でも、あなたがあまりに辛そうだから……。私、何もできない自分が情けなくて……」
ロザリアは目元に微かに涙を浮かべ、しおらしく俯いた。
その完璧な被害者の演技に、ギルバートの胸の奥で、歪んだ加害者意識と優越感が微かに刺激される。
「……お気遣いは無用に願います。私はガルディニアの王配。この程度の重責、我が覇道においては羽毛よりも軽い。陛下はどうぞ、奥の宮殿でお好きなように遊んでおいでください」
ギルバートは自尊心を保つために、自ら退路を断つ言葉を吐き出した。
自らがこの国を支配しているのだという、唯一の誇りを守るために。
「そう……? なら、安心いたしました。ギルバート卿は本当に頼もしい方ね」
ロザリアはパッと花が咲くような無邪気な笑顔を見せた。
そして、執務室の窓の外を振り返り、無慈悲なまでの無邪気さでこう告げたのだ。
「あ、そういえば、先ほどエマから聞いたのですけれど……。明日の朝一番で、東部国境の貴族領主たち二十名が、軍事費の配分を巡って直訴のために王宮へ押し寄せてくるそうですわ。フェリクス侯爵も同席されるとか」
「…………な、何だと……?」
ギルバートの顔から、完全に血の気が引いた。
明日の朝。今夜徹夜してこの書類を片付けたとしても、一睡もできぬまま、あの狡猾な古狸たちとの泥沼の交渉に臨まねばならない。
「卿ならきっと、朝飯前ですわね! 私、あなたのために厨房に頼んで、甘いお夜食を差し入れさせますから。……では、お体に気をつけて頑張ってくださいね、愛する夫様」
ロザリアは優雅にドレスの裾をつまんで一礼すると、軽やかな足取りで執務室を後にした。
バタン、と重厚な扉が閉ざされる。
残された執務室には、死のような静寂と、山積みの書類。
そして、絶望に打ちひしがれ、ピクピクと右目の下を痙攣させながら立ち尽くす、若き支配者の姿だけがあった。
「……ヴィンセント」
「は、はい、閣下」
「……胃薬を、持ってこい。一番強いやつだ」
ガルディニア王国の夜は、まだ始まったばかりだった。




