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第一話:至高の玉座を投げ捨てたい王女と、罠に飛び込む美しき野心家


ガルディニア王国の王宮、白亜の壁に囲まれた大謁見の間には、肌を刺すような冷たい静寂が満ちていた。

高窓のステンドグラスから差し込む朝の光が、玉座に座る少女の金糸の髪を淡く照らしている。ロザリア・フォン・ガルディニア――本日、父王ユリウスの突如たる退位に伴い、この大国の新女王として即位することが内定した十七歳の第一王女である。

だが、豪奢な彫刻が施された玉座に収まる本人の胸中は、王室の威厳とはおよそ程遠い、泥のように淀んだ拒絶感で埋め尽くされていた。


(……絶対に嫌。死んでも嫌。二度とあんな地獄を味わってたまるものですか)


ロザリアの魂には、前世の記憶が焼き付いている。

極東の島国で、広告代理店の末端として消耗し尽くした日々の記憶だ。

連日連夜の徹夜作業、午前三時の冷え切った帰路、怒号を撒き散らす顧客への頭下げ。そして最後に見たのは、無機質な事務所の天井で明滅する蛍光灯の光だった。享年二十五歳、死因は急性心不全――要するに、自らの命を擦り減らし尽くした過労死である。

幸運にも異世界の王女に転生し、絹のシーツと極上の菓子に囲まれた安寧を手に入れたはずだった。

それなのに、実父であるユリウス前国王が「余の精神は限界を迎えた。残る半生は南の離宮で土いじりをして静かに暮らす」と短い書置だけを残し、即位三十年目にして早々に玉座を放り出してしまったのだ。


先ほどまで執務机に積まれていた、王国の統治に関わる膨大な報告書を思い出す。

貴族派と平民官僚の利権抗争、国境警備費の補正予算案、徴税官の汚職調査、果ては王都の下水処理改修工事の承認に至るまで、決裁を待つ羊皮紙の厚みはロザリアの身長を優に超えていた。


(王政国家の君主なんて、要するに最高意思決定者にして全責任を背負わされるトラブル処理係ではないの。これを一人でこなしたら、今世でも確実に三十を迎える前に身体を壊して死んでしまう……!)


己の魂が本能的な危険信号を激しく鳴らしている。

前世の記憶は誰にも明かさず、墓場まで持っていくと決めている。だが、その記憶があるからこそ分かる。人間が処理できる仕事量には明確な限界があるということを。


ロザリアが望むのはただ一つ。温かい紅茶と焼き立てのスコーンを味わい、天気の良い日は手入れの行き届いた庭園でまどろみ、夜はふかふかの羽毛布団で泥のように眠る――何者にも邪魔されない、優雅な隠居暮らしである。


そのためには、極めて都合の良い身代わりが必要だった。

頭脳明晰で、権力への執着が人一倍強く、「この自分こそが国を動かすにふさわしい」という傲岸な自負に満ち溢れ、喜んで国務の一切を奪い取ってくれるような、哀れで都合のいい生贄が。


「――女王陛下。ラングレー公爵閣下がお目通りを求めております」


玉座の脇に控えていた侍女のエマが、感情を削ぎ落とした静かな声で告げた。ロザリアの「働きたくない」という強い意志を察しつつ、決して表には出さず完璧に仕える忠実な腹心である。


「お通しして」


ロザリアは瞬時に表情を作り替えた。意志薄弱で、世間知らずで、重責に怯える哀れな小鳥のような瞳。

完璧な「無能な傀儡」の仮面を被る。

重厚な樫の扉が厳かに開き、一人の男が優雅な足取りで入ってきた。


ギルバート・フォン・ラングレー公爵。


夜の帳を思わせる漆黒の髪を完璧に整え、冷徹な氷細工のように整った美貌には、研ぎ澄まされた刃の如き知性が宿っている。

二十四歳にして王国軍の統帥権の一部を握り、宮廷内でも最大派閥を率いる当代屈指の俊英だ。

仕立ての良い豪奢な礼服を纏った彼の瞳の奥に、青く昏い炎が揺らめいているのをロザリアは見逃さなかった。

それは、隠しきれない強大な『野心』の色だ。愚鈍な若き女王を操り人形に仕立て上げ、自らが影の支配者としてこの国に君臨しようという、傲慢極まる欲望の輝き。


(……来たわ。極上の獲物が、自分から首を差し出しにやってきた)


ロザリアは内心で冷ややかに笑いながら、表面上は怯えたように細い肩を震わせて見せた。

ギルバートは玉座の前で歩みを止め、完璧な臣下の礼をとった。床に膝をつき、胸に当てられた白手袋の手。その洗練された所作の一つひとつが、己の優位性を暗に誇示している。


「新女王陛下へのご即位、心よりお慶び申し上げます。ラングレー公爵家当主ギルバート、謹んで忠誠を捧げます」

「あ……ありがとう、ギルバート卿。でも、私……本当にどうしたらいいか分からなくて……」


ロザリアはわざと声を上ずらせ、視線を不安げに泳がせた。

ギルバートの口元に、ロザリアにしか見えない極めて微かな冷笑が浮かぶ。


――噂通りだ。前王が温室で過保護に育て上げた小娘に過ぎない。統治の術など何一つ知らず、突然背負わされた王冠の重みに押し潰されかけている。これほど扱いやすい駒が他にあるだろうか。


ギルバートは、兼ねてから胸の内に温めていた覇道の第一歩を踏み出すべく、甘美な毒を含んだ滑らかな声で囁いた。


「陛下、どうかご安心を。この未熟なる臣ギルバート、命に代えましても陛下をお支えする所存です。……しかしながら、若き女王お一人での政務は、宮廷の古狸たちに足元を掬われかねません」

「そ、そうよね……? 私、あの難解な書類の束を見るだけで目眩がしてしまって……」

「ええ、重々承知しております。そこで恐れながら、愚考を申し上げます。……このギルバートを、陛下の王配としてお迎えいただくわけにはいかないでしょうか」


ギルバートの背後に控える彼の筆頭秘書官、ヴィンセント・ハイドが、主人の完璧な筋書き通りに進む問答に小さく頷くのが見えた。

王配となり、共同統治者としての地位を法的に確立する。女王には名目上の署名だけをさせ、実権、人事権、予算執行権のすべてをラングレー公爵家が掌握する。武力と財力を持つ自分が実権を握れば、他の貴族派も手を出せない。

ガルディニアは実質的に、ギルバートの支配下に入るのだ。


「私が陛下の盾となり、剣となり、煩わしい国務の一切をお引き受けいたしましょう。陛下はただ、美しく微笑み、玉座に座っておいでになればよろしいのです」


至高の権力を奪い取らんとする、周到に用意された罠。

ギルバートは確信していた。この愚かな王女は、統治の重圧から逃れるために泣いて縋り付いてくるはずだと。

ロザリアは、溢れ出そうになる歓喜を押し殺すのに必死だった。


(素晴らしい提案だわ、公爵様! 「全責任は自分が背負うから、君は何も心配しなくていい」だなんて、前世でも一度くらい誰かに言ってほしかった台詞そのものよ)


だが、ここで即座に飛びついては怪しまれる。ロザリアは潤んだ瞳でギルバートを見つめ、か細い声で尋ねた。


「で、でも……全権をお渡しするなんて、卿にご負担がかかりすぎてしまうのではなくて……?」

「滅相もございません」


ギルバートは自信に満ちた冷徹な笑みを深めた。己の知性と処理能力を絶対的に過信している男の顔だった。


「私にとっては、祖国と陛下にお仕えすることこそが無上の喜び。激務など、大業を成し遂げるための小事に過ぎません」

「本当……? 本当に、御前会議への出席も、法案の精査も、貴族たちへの根回しも、隣国との条約交渉も、予算の帳尻合わせも、すべて卿が代わりにやってくださるの……?」

「ええ、すべて私にお任せください。陛下のお心を煩わせるような雑務は、何一つとして陛下の元へは届かせません」


ギルバートは高らかに宣言した。

手に入れた。この国のすべてが、己の意のままになる。この無知な小娘を飼い殺しにし、自分こそがこの国の真の支配者となるのだ――と。


「……わかったわ、ギルバート卿。あなたを私の夫とし、すべての国務を代行する全権を委ねます」


ロザリアは怯えた表情を崩さぬまま、震える手で『国務全権委任状』および『婚姻同意書』にサインを走らせた。インクが乾く間も惜しいと言わんばかりに、書類をギルバートへと差し出す。

羊皮紙を受け取ったギルバートの瞳に、勝利を確信した暗い光がギラリと宿った。


「寛大なご決断、心より感謝申し上げます、我が愛しき女王陛下」


ギルバートは恭しくロザリアの指先に口づけを落とし、優雅な足取りで大謁見の間を後にした。その背中は、これから始まる輝かしい独裁への野心に満ち満ちていた。

重厚な扉が閉ざされ、謁見の間に再び静寂が戻る。

ロザリアはすっと背筋を伸ばし、先ほどまでの怯えた表情を一瞬で消し去った。そして、豪奢な玉座に深く背を預け、足を組むと、心底満足そうに息を吐き出した。


「ふぅ……! 大成功ね。エマ、お茶をちょうだい。一番上等な茶葉で、甘くしてね」

「かしこまりました、陛下。……よろしかったのですか? ラングレー公爵は野心家として知られております。実権を奪われ、お飾りの君主として幽閉同然の扱いを受ける可能性もございますが」


エマが無表情のままワゴンを寄せ、手際よく湯気の立つ紅茶を注いでロザリアの前に差し出す。


「お飾りの君主? 大いに結構じゃない」


ロザリアは焼き立てのスコーンにたっぷりのクロテッドクリームとベリーのジャムを載せながら、至福の笑みを浮かべた。


「統治の責任を負うこともなく、国庫から贅沢な暮らしを保証され、美しい離宮で誰にも邪魔されずに暮らせるのよ。面倒な仕事の一切をあの自信家な公爵が引き受けてくれるというのだから、これ以上ない好都合だわ」


ロザリアは紅茶を一口啜り、芳醇な香りに目を細めた。


「ああいう手合いはね、自分が極めて優秀で、どんな難題も一人で処理できると思い込んでいるのよ。自分から進んで責任を抱え込み、人に任せることができずに、勝手に疲弊していくタイプね」


先ほどギルバートの執務室へと運ばれていった書類の山を思い出し、ロザリアの唇に嗜虐的な笑みが浮かぶ。

ガルディニア王国の官僚機構は、長年の平和と旧弊によって腐敗し、機能不全寸前に陥っている。特権を守ろうとする貴族たちは毎日のように難解な陳情書を送りつけ、保守派の重鎮フェリクス侯爵は新法案のすべてに重箱の隅をつつくような修正を要求し、国庫の帳簿は幾重にも複雑化しているのだ。

前国王ユリウスが、なぜ身体を壊してまで退位を急いだのか。

ギルバート公爵は、その『底なしの泥沼』をまだ何一つ理解していない。


「ギルバート卿、あなたの望み通り全権は差し上げたわ。だからせいぜい、私の代わりに精を出して働いてちょうだいね。……ええ、明日の朝がとても楽しみだわ」


ロザリアは機嫌よくスコーンを口に運んだ。



――一方、ラングレー公爵邸の執務室。


「フ……見たか、ヴィンセント。実に呆気ないものだったな」

ギルバートは琥珀色の蒸留酒をグラスに注ぎ、月明かりに透かして上機嫌に微笑んでいた。デスクの上には、女王の署名が入った全権委任状が鎮座している。

「あの小娘め、私が王配になってやるというだけで、怯えきってすべての権力を差し出しおった。これでガルディニアは我が掌中にある。明日から我がラングレー家の手で、この国を真の強国へと作り変えてみせる」

「おめでとうございます、閣下。……ただ、王宮の書記官局から、早速本日の決済書類が届いておりますが」


副官のヴィンセントが、やや引きつった表情で執務室の扉を指差した。

そこには、三人の屈強な衛兵が、巨大な木箱を四つ、汗だくになりながら運び込んできているところだった。


「ふん、前王の残した雑務か。まあいい、今夜のうちに片付けて、我が有能さを行政府に見せつけてやろう」


ギルバートは自信に満ちた笑みを浮かべ、デスクの前に腰を下ろすと、山積みの書類の一番上に手を伸ばした。

その双眸には、まだ、国を統べる覇王としての輝きが満ち満ちていた。

それが――終わりのない無限の執務地獄の、記念すべき始まりであることも知らずに。


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