006.5 経口補水液
――婚約発表の宴を数日後に控えた、ある日のこと。
「ナギ様、ご主人様が倒れられました」
エレノアさんからそう聞かされた時、私は心臓が止まるかと思った。
リュシアンは第一王子としての激務に加え、目前に迫った婚約発表の準備で無理を重ね、ついに熱を出してしまったらしい。
「……とりあえず、これを作っていこう」
熱を出して大量の汗をかいた時には、水分と塩分、そして糖分が不可欠だ。
綺麗な水に、砂糖と、少量の塩、そして風味付けのレモン果汁を絞って混ぜ合わせる。これで『経口補水液』の完成だ。
◆◆◆◆◆
寝室。
いつもはニヤニヤと意地悪く笑うあの俺様王子が、今は嘘みたいに顔を赤くして、フカフカのベッドにぐったりと横たわっていた。
「リュシアン、起きてる? 水持ってきたけど」
「……ナギか。すまないな、こんな情けない姿を見せて」
熱のせいか、いつもの威圧感はすっかり鳴りを潜め、声もひどく掠れている。
私がグラスを口元に運んでやると、リュシアンは素直に口を開き、こくこくと経口補水液を喉に流し込んだ。
「……少し甘くて、酸味があるな。それに微かに塩気も……飲みやすい」
「経口補水液って言ってね、体にすーっと水分が吸収される特製のドリンクだよ。お砂糖も入ってるから、甘党のリュシアンでも美味しく飲めるでしょ?」
「ふっ……相変わらず、君の作るものは魔法みたいだな」
水差しとグラスをサイドテーブルに置こうとした時だった。
不意に、リュシアンの大きな手が、私の手をぎゅっと握りしめた。
「リュシアン……?」
「……もう少しだけ、このままでいてくれないか」
「えっ?」
「私が……眠るまででいい。ひとりは、少し……寂しいから」
いつもは絶対の自信に満ち溢れているリュシアンの、信じられないほど弱気な言葉。
青い瞳が熱っぽく私を見つめ、行かないでくれとでも言うように、縋るように私の手を握りしめている。
(……っ、こんなの、ずるすぎるでしょ)
私は顔から火が出そうになるのを必死に誤魔化しながら、ベッドの脇の椅子に座り直した。
「……わかった。寝付くまで、ずっと手、握っててあげるから」
「……ありがとう、ナギ」
私の言葉を聞いて、リュシアンは安心したようにふっと目を閉じた。
よほど疲れていたのだろう。握られた手から伝わる彼の熱を感じているうちに、やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。
◆◆◆◆◆
「……ん……」
リュシアンが静かに目を覚ました時、窓の外はすっかり暗くなっていた。
あれほど体を焼いていた熱は下がり、視界もクリアになっている。
ふと視線を下げると、ベッドの縁に突っ伏して眠るナギの姿があった。
彼女の小さな手は、眠りに落ちた今もなお、しっかりとリュシアンの手を握りしめている。
「……本当に、君という人は」
リュシアンは呆れたように、しかしこの上なく愛おしそうに目を細めた。
空いた方の手で、彼女の柔らかな髪をそっと撫でる。
これから待ち受ける魑魅魍魎の跋扈する政治の舞台も、この温もりがあれば乗り越えられる。そう確信させるだけの、確かな光がそこにあった。
「ありがとう、ナギ……」
誰もいない寝室に、冷徹な王子の、甘く優しい呟きだけが静かに溶けていった。
ご愛読ありがとうございました!
朽木のらり先生の次回作にご期待下さい!
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
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