001 スキル
――朝6時前。
「ね、眠い……」
私、綿貫なぎは、眠い目をこすりながらとぼとぼ歩いていた。
お菓子作りが好きで製菓学校に通い、町の人気の洋菓子店に就職して3年。そろそろ新米卒業のパティシエだ。
パティシエの仕事はきついと聞いていたが、想像を絶していた。
朝6時までに出勤し、一日中立ちっぱなし。食事もゆっくり取れないまま、午後9時まで続く超絶肉体労働。
「ふあぁ〜……。布団の中で、羊を一億匹くらい数えたい……」
ドドドドドッッッ!!!
「な、何!?」
背後から迫る地響きのような轟音に驚きつつ、振り返る。
羊!
尋常じゃない数の羊の群れが、目の前に迫ってきている!
「エエエ!? 羊!? なんで羊ーーー!?」
私、綿貫なぎは。
近くの動物園から脱走した羊の群れに轢かれて、あっけなくこの世界を旅立った。
◆◆◆◆◆
「羊が一匹ーーーーーっ!」
ガバッと飛び起きると、そこは異世界だった。
天蓋付きのベッドは驚くほどふかふかで、ぶ厚い羽毛布団が体を優しく包み込んでいる。
石造りの壁には、色鮮やかなタペストリーが掛けられていた。
「お目覚めですか?」
「ビクッ!」
声のした方向を見ると、紺色のシックなドレスを着た30歳くらいの女性が立っている。体にフィットした、とても仕立ての良い服だ。
「お、おはようございます……」
「おはようございます。私、エレノア・ブルックと申します。エレノアとお呼びください。主人から貴方様のお世話を申し付かっております。以後、お見知りおきを」
「よろしくお願いします、エレノアさん。えっと……私は、綿貫なぎと言います」
「ナギ様、お体のお加減はいかがでしょうか?」
「ぐっすり寝て、めちゃくちゃ絶好調です!」
「それは重畳。……ちなみに、不躾ながらお聞きしますが、『羊』がどうかされたのですか?」
「……ひ、羊に……轢かれました」
「……そ、それは……大変でございましたね」
エレノアさんは、なんとも言えない微妙な表情を浮かべた。
◆◆◆◆◆
ここはどうやら、中世ヨーロッパ風の文明レベルの場所らしい。
町の一歩外にはモンスターが溢れ、剣と魔法で戦う――まるでゲームのような世界。
国の名前は、ヴァルディシア王国。
『大陸の心臓』と呼ばれ、なだらかな丘陵地帯と肥沃な大地に恵まれた、美しい王国だそうだ。
そして私のような異世界転移者は、『流れ人』と呼ばれているらしい。
なんでも、スキルと呼ばれる不思議な力を持っているのだとか。
「ナギ様は、この王宮の敷地内で倒れておいででした」
「はえー……。助けていただいて、ありがとうございます」
アンティーク調の豪華な椅子に座り、エレノアさんからこの世界のレクチャーを受ける。
まだイマイチ実感が湧かないけれど、私は本当に、羊に轢かれて異世界転移をしてしまったらしい。
「それで、早速で恐縮なのですが……ナギ様の『スキル』を教えていただけないでしょうか?」
「え!? スキル? うーーん、女神様的な人にも会ってないし、私そんなの持ってるのかな?」
「おそらくお持ちかと。……風の噂では、心の中で『スキル』と念じると、詳細が分かると言われておりますが」
「スキル? うーーーん。スキル、スキル、スキル……」
念じるように唱えていると、頭の中にピンとくる感覚があった。
「……『銅貨でお菓子作りに関係するものを買えるスキル』?」
「……ふ、風変わりなスキルですね」
エレノアさんが、顔の筋肉をピクピクさせながら精一杯のフォローをくれる。
これでも学生時代はゲームや漫画でファンタジーに触れてきたのだ。これが戦闘に全く役に立たない、ハズレ寄りの変なスキルだってことくらい、私にだって分かる。
笑うのを必死に耐えているエレノアさんから、そっと目をそらした。
窓から差し込む光を眺める。少し緑がかった半透明のガラスピースを、パズルのように組み合わせたレトロな窓。
「本当に、異世界に来ちゃったんだなぁ……」
もう会うことは叶わないだろう、実家の両親の顔がふと頭をよぎった。
◆◆◆◆◆
「それではナギ様。こちらの銅貨で、実際にスキルを使っていただいてもよろしいですか?」
笑いを堪えて乱れた呼吸を整えたエレノアさんが、腰のポーチから銅貨を1枚取り出して手渡してきた。
「スキル……どうやって使うんだろう?」
銅貨を受け取った瞬間、頭の中にポップアップが出現した。
ずらりと並ぶ文字の羅列。
「おっ!?……あ、これが買い物リストか! エレノアさん、何か欲しいものある?」
「何が買えるのですか?」
「えーっと、薄力粉、中力粉、強力粉、砂糖……」
「さ、砂糖、ですか!?」
「え!? はい、買えますよ。それじゃ、ポチッと」
掌にあった銅貨がフッと消え、代わりに透明なビニール袋に入った1kgの白い粉が現れた。
「……これが、砂糖ですか?」
「多分そうだと思いますけど……」
袋を開けて、指先でペロっと舐めてみる。
甘い。間違いない、日本でお馴染みの上白糖だ。
「エレノアさんも、どうぞ?」
「お行儀が悪いですが、失礼して……」
エレノアさんが砂糖をひとつまみ、おそるおそる口に含む。
「――っ!?」
「どうかしました?」
エレノアさんの目が、こぼれ落ちそうなくらい見開かれている。砂糖一つで、そんなに驚くこと?
「他にはね、卵、牛乳、サフラン、クローブ、シナモン、ナツメグ、ジンジャー……んぐっ!?」
「しーーーーーーっっ!!!」
エレノアさんがものすごい勢いで私の口を両手で塞ぎ、血相を変えて辺りを見回した。
「ナギ様! 今仰ったものが買えるなどと、絶対に他人に言ってはなりません!」
「んぐ! んぐーっ!」
あまりの剣幕に怯えながら、口を押さえられたまま何度も激しく頷く。
「失礼いたしました……。ちなみにですが、それらは、銅貨1枚でどれほど買えるのですか?」
「えっと……10gくらいみたいですけど……」
「……左様、ですか……」
エレノアさんは額に手を当て、ガチで頭を抱えて押し黙ってしまった。
「あの……もしかして、今言ったものって、もの凄く高価なんですか?」
「はい。間違っても、銅貨1枚で手に入るような代物ではございません」
◆◆◆◆◆
コンコンコン。
「ご主人様、エレノアです」
「入れ」
「失礼します」
エレノアさんに連れられて、私は寝室を出た。
案内されたのは、さらに広く豪華な部屋だった。
細密な刺繍が施された特大のタペストリー。さっきの部屋よりも大きなピースで作られた透明度の高いガラス窓。重厚なアンティーク調のローテーブルに、フカフカのソファー。
あからさまに、部屋のランクが跳ね上がっている。
羊皮紙が山積みにされた執務机に、その部屋の若き主が座っていた。
サラサラの金の髪に、透き通るような白い肌。冷徹そうな青い瞳が、私を品定めするように無遠慮に見つめてくる。
「やっと起きたか。……で、どんな力を持っている?」
「『銅貨でお菓子作りに関係するものを買えるスキル』だそうです」
エレノアさんが私の代わりに答える。
「そうか。ちなみに、何が買える?」
「……こちらの砂糖が、銅貨1枚で買えました」
エレノアさんが、先ほどの砂糖の袋を男に差し出した。
「これが、砂糖?」
「はい。先ほど私も頂きましたが……信じられないほどの甘みです」
「……どれ」
男は砂糖をひとつまみ、口に入れた。
「これが、本当に砂糖だと……っ!?」
エレノアさんもこの男の人も、砂糖一つでなんでここまで驚くんだろう。
ちょっと疲れたので、私は近くのソファーに目を付けた。
「ねえねえ、エレノアさん。あのソファーに座ってもいい?」
「あ! 失礼いたしました。どうぞ、お掛けください」
「ふう、よっこらしょ」
革張りの、いかにも高そうなソファーに身を預ける。最高に気持ちいい。
「おいお前、他には何が買える?」
「お前って……私、綿貫なぎって名前があるんですけど。というか、大体あなた誰ですか?」
偉そうな男は、ぽかんとした表情で私を見つめた。隣でエレノアさんがオロオロしながら、私と男の顔を交互に見ている。
「フフッ、ハハハ! 自己紹介がまだだったな。私は――」
「もしかして、王子様とか?」
「……分かっているなら、よくそんな口が利けるな。私はこの国の第一王子、リュシアン・ド・ヴァルディシアだ」
本当に王子様だった。
「ナギ、お前を最初に見つけたのは私だ。私自ら、お前をベッドまで運んでやったのだぞ? もう少し感謝の念を持ったらどうだ」
「マジ!?……運んだって、もしかして、あのお姫様抱っこ的な?」
この超絶イケメン王子にお姫様抱っこされる自分を想像して、思わず頬が熱くなる。
「お姫様抱っこ? ……その妙な反応を見るに想像がつくが、お前が期待しているようなことはしていないぞ。普通に肩に担いで運んだ」
「ぐっ……(コノヤロー!)」
ニヤニヤと意地悪そうに笑うイケメン王子。
「さて。この砂糖以外にも、何か買えるのか?」
「ご主人様……」
エレノアさんが、すかさず王子の耳元で何かをボソボソと囁いた。
すると、王子がエレノアさんと同じように額に手を当て、天を仰いで目を閉じた。
あれ? 私、また何かやっちゃいました?
「……お前、その『買い物』以外には何ができる?」
「何ができるって言われても……私、パティシエですけど」
「パティシエ?」
「あれ? この世界にはパティシエっていないんですか? パティシエは菓子職人のことです。……私はまだ、新米だけど」
「……そうか。ならば、何か作ってみせろ。エレノア、料理長に伝えて調理場の人払いを。それと、その服は目立つ。着替えを用意しろ」
「御意にございます」
エレノアさんが一礼して、慌ただしく部屋を出て行った。
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