愛しのラプンツェル
ニーダーは、ノヂシャの顔がある方とは、反対側に首を巡らせる。ラプンツェルは東屋の陰に、やや前のめりになって立っていた。まるで、背中を突き飛ばされて飛び出して来たかのような姿勢である。暗がりで、瞳が不安そうに揺れていた。
月が雲隠れする不吉な闇夜であっても、ニーダーの目はラプンツェルの姿を鮮明にとらえる。流れる月光のような見事な銀髪が、ミルク色の滑らかな肌が、魔法のような青い瞳が、仄かな燐光を帯びているようだ。世界が完全なる闇に閉ざされたとしても、ラプンツェルだけは白く輝き、浮かび上がることだろう。
(いつから……ラプンツェルはそこにいた?)
わからない。見当もつかない。ニーダーは衝撃を受けた。
ノヂシャとのやりとりを盗み見られ、聞かれていたかもしれない。ノヂシャに気圧される、情けない姿をラプンツェルの目に入れてしまったかもしれない。ラプンツェルの前では、常に強い男でいなければならない。侮られ、見限られたら、ラプンツェルは逃げてしまう。
しかし、真っ先に頭に浮かんだのは、その懸念ではなかった。真っ先にラプンツェルを見つけることが出来なかった、不甲斐なさを呪う後悔だった。
かくれんぼは得意なの、と悪戯っぽく笑い、ラプンツェルが言ったことがあった。
ラプンツェルが何処に隠れていても、見つけられる自信がニーダーにはある。ニーダーは何時だって、ラプンツェルを探し求めているのだから。
ノヂシャに先を越されてしまうなんてことが、あってはならなかった。ラプンツェルを見つけるのは、ニーダーでなければならない。誰にも先を越されてはいけない。出遅れたら、ラプンツェルを失ってしまうかもしれない。
(ラプンツェル……なぜ、じっとしていてくれない。なぜ、いつも、勝手にどこかへ行ってしまうんだ)
ラプンツェルを責め詰りたい気持ちがこみ上げたが、それより先に、彼女の様子が気にかかった。ニーダーは無意識のうちに細大漏らさず注意深く、ラプンツェルを観察した。
ラプンツェルは小さな拳をぎゅっと握りしめて、瑞々しい蕾のような唇をきゅっと噛んでいる。目に見えない圧力に負けないように、必死に踏み止まっているように見える。
ただ事ではなさそうだ。ラプンツェルは怯えている。
ラプンツェルは既に恐れを知っている。ニーダーが彼女の骨身に叩き込んだのだ。
しかし、ラプンツェルが怯えているのは、ニーダーのせいだけではなさそうだ。ラプンツェルの目は、ちらりとニーダーをとらえはするが、殆ど、ノヂシャに釘付けにされている。
ラプンツェルはノヂシャを恐れている。当然だ。ラプンツェルはノヂシャの卑劣な罠にかかり、堕胎の毒をふくまされるところだったのだから。
それでも、非力な身で懸命に虚勢を張り、毅然として立ち向かおうとしている。その気丈さが、かえって痛ましい。
ラプンツェルの怯えは、ニーダーにとって最も馴染み深い。気丈なラプンツェルが目に涙をいっぱいにためて震えあがると、胸が張り裂けんばかりに痛む。と同時に、血が騒ぎ鼓動が高鳴る。恐怖でラプンツェルを支配したような気になって、堪らなく高揚する。
しかし、これは違う。ラプンツェルを怯えさせているのは、ニーダーではなくてノヂシャだ。
愛するラプンツェルが、他者の脅威に晒されている。他者の為に、ラプンツェルが震え、狼狽し、涙を流そうとしている。ニーダーは雷にうたれたかのようだった。
(ラプンツェルは私のものだ。誰にも渡さない。恐怖も屈辱も苦痛も、ラプンツェルの心の欠片だ。その一片たりとも、他者に渡してなるものか!)
指先に痺れを感じる。激情がノヂシャによる謎の縛鎖から、ニーダーを解き放つ。
ニーダーはあらん限りの力でノヂシャを突き飛ばした。ノヂシャは拍子抜けするほどあっさりとよろめき、尻もちをつく。
ニーダーはノヂシャを顧みなかった。ニーダーの頭から、ノヂシャの存在は完全に締め出されていたのだ。ノヂシャだけではない。ラプンツェルはニーダーの心を埋め尽くす。他の取るに足らないつまらないものが入る余地などない。
ニーダーは一目散にラプンツェルに駆け寄ろうとした。ところが踵を返すより先に、背中にごく軽い衝撃を受けて、異物を噛んだ歯車のようにぎこちなく静止する。
振り返るまでもなくわかる。長い髪から香る品の良い椿の香りと、瑞々しい果実の皮を爪で引っ掻いたときに香るような、彼女自身の芳しい匂い。弾む吐息の熱さ、そこにまじる高く響く澄む彼女の声。
ニーダーの背中に飛びついたのはラプンツェルだった。
ニーダーは振り返りたかった。振り返って、ラプンツェルを抱きしめたい。彼女を繋ぎとめ、すぐ傍にいることを感じたい。しかし、身動きが取れない。ラプンツェルはニーダーの腰に細い腕を回している。
もちろん、ラプンツェルの細腕を振りほどくことなど、赤子の手を捻るより容易いことだ。しかし、ニーダーにはラプンツェルを撥ねつけることが出来ない。焦がれてやまない愛しい女性の抱擁を、どうして振りほどくことが出来よう。怖々とでも触れてくれる、この震える小さな掌こそ、ニーダーが求め続けて来た温もりなのに。
ラプンツェルはニーダーに抱きついたまま、ニーダーの背からひょっこりと顔を覗かせる。木陰に隠れてあたりを窺うリスのような愛らしさに、うっかり、ニーダーの目尻が下がりかける。
しかし、ノヂシャを見据えるラプンツェルの強張った表情と固い声調が、緊迫した現状をニーダーに思い出させた。
「それはどうかな。月が叢雲に隠れた暗い夜が良い夜だとは、私には思えないけど。こんな、どうしようもなく不安になる夜は、ぐっすり眠ってやりすごすべきだわ」
ラプンツェルは急きたてられるように言い、ニーダーの腰に回した腕に力をこめた。凛とした強い眼差しでノヂシャに真正面から挑み、言い放つ。
「おやすみなさい、ノヂシャ。良い夢を」
ノヂシャは尻もちをついたまま、ぼんやりとラプンツェルを見上げていた。小首を傾げる。後ろ手をついて、空を見上げる。ややあって、ノヂシャは唐突に噴出した。
「ははは……俺、君に嫌われたんだ……あははっ!」
ノヂシャは月のない空を仰ぎ、何がそんなにおかしいのか、けらけらと哄笑する。ノヂシャの支離滅裂な奇行は今に始まったことではないけれど、これにはニーダーのみならず、ラプンツェルも閉口する。
ノヂシャは笑いだすのも唐突なら、笑い止むのもまた唐突だった。ノヂシャは大笑いして逸らした頭をがくんと正面に戻す。その顔には笑みの残滓すら残っていなかった。
ノヂシャの白皙に暗い影が落ちている。彫りの深い顔が濃い陰影によって、深淵に潜む怪物を想わせた。瞳を青い炎のように燃え上がらせ、鋭い牙を剥きだしにする、恐ろしい怪物だ。
ノヂシャは地鳴りのような声を低く這わせて、言った。
「君こそ、寝室に戻ってぐっすり眠ったらどうだ。元気なこども、産みたいんだろ? だったらずっと、部屋に引き籠るのをおすすめするね。外は危ない……何が起こるか、わからないんだぜ?」
ノヂシャは明言こそ避けていたが、隠そうとしなかった。言外に、ラプンツェルを脅迫している。好機と見ればまた、お腹の子の命を狙うつもりなのだ。
ノヂシャはニーダーの血を分けた弟で、ニーダーが壊した哀れな狂人だ。しかし、かけるべき情けなど、ニーダーは持ち合わせていない。ラプンツェルが傍にいてくれる今、得体の知れない怪物めいたノヂシャに、懐かしい面影を宿すノヂシャに、恐れは感じない。
ニーダーは激怒した。
「ノヂシャ、貴様……許さん!」
ノヂシャを渇破したニーダーは佩刀せず丸腰でいることを忘れて、抜刀しようと体を極めてしまった。空を掴む利き手に鋭く舌を打つ。握りしめた拳の行き場はただひとつだ。
(ノヂシャ、その憎らしい澄まし顔に拳を叩き込んでやる。骨相が変わるまで叩きのめしてやる。瞼が房のように垂れさがり、その高く通った鼻梁がおれて、唇が腫瘍のように腫れあがっても、まだやめてやるものか!)
ニーダーは憤然と一歩を踏み出そうとした。けれど、ラプンツェルにまた阻まれる。ニーダーが行こうとする方向の反対側に、ラプンツェルが全体重をかけてニーダーを引っ張っている。
ラプンツェルは小鳥のように軽いから、まったく負荷にならない。だが、ラプンツェルを引き摺って歩き、ラプンツェルが転んでしまったらと思えば動ける筈もない。ニーダーを止めるには、馬に引っ張らせるより効果的だろう。
ニーダーは止むを得ず歩を止める。ラプンツェルを振り返り、目顔で抗議してみるが、ラプンツェルはニーダーを見ない。見ないようにしているのだ。引き攣った頬に恐れが透けて見える。ニーダーは、何も言えなくなってしまった。
ノヂシャは血走った眼でラプンツェルを凝視している。ラプンツェルを怖がらせる無礼な両目を抉ってやりたかった。だが、ラプンツェルの手前、それは出来ない。
ラプンツェルは怯みながらも、ぎこちなく微笑んでみせた。
「すぐに部屋へ戻るよ」
ラプンツェルがニーダーの腰に回した腕はそのままに、ニーダーの隣に移動する。ニーダーの胸に頬を押し付け、上目使いにニーダーを見上げて、甘く強請るように言った。
「ニーダーも一緒に。ね、ニーダー?」
ラプンツェルの微笑みを、ニーダーはよく知っている。恐れを薄い皮膚一枚の下に押し隠し、甘え上手な愛妻の演技をしている、造りものの微笑みだ。
そっと触れた、血の気が引いた青白い頬は、驚くほどに冷たい。ラプンツェルに触れるたび、掌に僅かに伝わる震えに思い知らされる。ラプンツェルにとってニーダーは憎い仇で恐ろしい怪物、呪わしい悪魔でしかないのだと。
しかし、それでもニーダーはラプンツェルが愛おしい。ラプンツェルが傍にいてくれれば、恐れるものは彼女を失うことの他には、何もないと思える。
ラプンツェルを見詰めたまま沈黙したニーダーの様子を訝しんだラプンツェルが、ニーダーの顔を覗き込む。胸の前で重ね合わせた両手が、かたかたと震えていた。
「……迎えに来ちゃいけなかった? あんまり遅いから、心配したんだよ」
ラプンツェルの優しい言葉は、例え嘘偽りであったとしても、焦土に降る慈雨のように、ニーダーの心に染みわたる。
優しいラプンツェル。ニーダーの不可解な心の発作により、不当に傷つけられたと言うのに、ニーダーを追って来てくれた。
ニーダーが逃げ出してすぐには、とても立ち上がなかっただろう。背の傷は浅く、すぐに癒えただろうが、精神的なショックは尾を引いた筈だ。
我が子をその腹に宿してからというもの、ラプンツェルは以前よりも感じやすくなった。心のありかたがどうであれ、体の方は着々と母親になっていく。我が子を守る為に、ラプンツェルは恐怖と苦痛に敏感になっている。
訳も分からず、暴力をふるわれたラプンツェルは、酷く怯えてしまっただろう。そうでなくても、ニーダーはラプンツェルを傷つけ過ぎていた。
ラプンツェルの優しさは、ニーダーが恐怖と苦痛により、無理やり引き出したものかもしれない。思いやりではなく、身を守るために、ニーダーに阿るのだろう。青ざめた顔を目の当たりにすれば、そうとしか思えない。ご都合主義の妄想でも、補えきれないほどに、真実は明白だ。
ニーダーはかっとなって、ラプンツェルの手首を強く掴んだ。ラプンツェルが短い悲鳴を上げる。恐れ慄く小さな体の当然の反応が、酷く理不尽なものに思われて、ニーダーの神経は逆立った。
自分自身を暴力から守ろうとするのは当然のことだ。我が子をその身の内に宿しているのならば、なおのこと。しかし、今のニーダーにはそのように考えられなかった。
ラプンツェルの心が遠く離れている。彼女が優先しているのは、彼女自身や我が子ではなく、もちろんニーダーでもない。彼女の心を占めるのは、その細い双肩に圧しかかる高い塔の家族のこと。そう思えてならなかった。
ニーダーはラプンツェルを吊るし上げるように拘束し、声を荒げていた。
「夜更けに出歩いたら、いけないに決まっているだろう! 危ないじゃないか! なぜ君はそう、迂闊な真似ばかりするんだ!? いつまで無邪気な少女のままでいるつもりだ。君には母親になる自覚が足りない!」
怒りを発散することで、胸がすっとするのは、いつもほんの束の間のこと。すぐ後から、それを上回る後味の悪さが追いかけてくる。後悔と自己嫌悪が。
ラプンツェルの見開いた双眸に涙が湧くのを見ていられずに、ニーダーはそっぽを向いた。
「……ごめんなさい」
蚊の鳴くような声で、ラプンツェルが謝る。怯えきったラプンツェルの旋毛を見下ろすニーダーは、最低の気分だった。凶暴な気持ちを鞭にこめて振り下ろすとしたら、その先は己の背中だ。
ラプンツェルはニーダーを恐れている。そのことに、ニーダーが文句をつける筋合いも、不満を唱える筋合いもない。ラプンツェルを支配することで繋ぎとめようと決めた瞬間に、ニーダーは真実の愛を乞う資格を、永遠に剥奪された。
ラプンツェルは、彼女が出来る限界ぎりぎりまで努力して、ニーダーを満足させようとしている。健気に演技を続けている。彼女がニーダーに与えるものは、よく出来た紛いものばかりだが、ニーダーはそれで納得するしかない。それが罰なのだ。
辛い。身を切られるように辛い。けれど、犯した罪に比べたら、科せられた罰は糖蜜のように甘すぎるくらいだ。神が腹を立てるだろう。
哀れなのはラプンツェルだ。ラプンツェルはニーダーを愛さなかった。頑なな少女は、譲ることを知らず、余所者には冷酷だった。しかし、それだけのことだ。地獄に堕ちるべき罪など犯していない。
それどころか、家族を救う為に、自らが犠牲になったラプンツェルの自己犠牲の精神は神の心をふるわせるだろう。憎い男の下に降ることは、気高い姫君には耐えがたかった筈。恋い慕う男は別にいるのに、怨敵の腕に抱かれるなど、死よりも辛い辱めに思えたのではなかろうか。
ラプンツェルは地獄の底にいる。現実の冷たい手触りがそれを裏付ける。家族と我が子を守る為に、彼女は今も非道な責め苦に耐えているのだ。
ニーダーはラプンツェルが傍に寄り添ってくれるように、この城を彼女の夢のようにしようと思った。優しく慈しもうとした。しかし、そんなことで、ラプンツェルの地獄は覆らない。
ニーダーはラプンツェルを引き裂く悪魔だ。ニーダー自身が、地獄の化身なのだ。
いつこの手で、ラプンツェルの鼓動を止めてしまうかわからない。
ニーダーはラプンツェルの手首からぱっと手を離した。吊り上げられ、爪先立ちを強要されていたラプンツェルの体が前傾する。ニーダーは慌てて、ラプンツェルの体を抱きとめた。
雛鳥のように小さく柔らかいラプンツェルは、すっぽりと胸におさまる。ニーダーの腕の中にいると気がつくと、途端に固くこわばってしまう。
もう、理不尽な怒りは湧いてこない。ただ、悲しかった。
何もかも、ニーダーが悪いのだ。ニーダーはその手で、愛するラプンツェルを不幸にした。ラプンツェルを愛しているのに、ニーダーはラプンツェルの地獄そのものになってしまった。
ニーダーはラプンツェルの髪を、触れるか触れないかの微妙な加減で撫でた。怯えさせたくなかったけれど、彼女の為を思い、はなれることは出来なかった。ニーダーの愛は、愛するひとより自分を優先する、身勝手で幼稚な、醜いものなのだ。
そんな汚物を押し付けられたラプンツェルが哀れだ。哀れで、愛おしい。
ニーダーはラプンツェルの旋毛に鼻先を擦りつけて、切実な気持ちで告げた。
「君が心配で、心配で堪らない。君は……君たちは私の命だ」
ラプンツェルが僅かに身じろぐ。ニーダーを見上げようとしているようだ。ラプンツェルが頭をもたげる前に、ニーダーはラプンツェルを抱き上げた。
横抱きにされて、目をぱちくりさせているラプンツェルに淡く微笑みかける。
(愛されないのは仕方がない。けれどせめて、ラプンツェルがこの腕の中に、少しでも安らぎを覚えてくれたなら)
心の中でそっと呟く。伝える勇気はなくて、臆病な唇は別の言葉を紡いだ。
「夜風は体に障る。……戻ろう、ラプンツェル。私たちの寝室へ」
ラプンツェルは緊張する体を、ニーダーに預けようとしない。そのよそよそしさを悲しむことすら、許されない身勝手だ。ニーダーは鈍いふりをして、歩き出す。
「ニーダー……待ってくれ、ニーダー!」
ノヂシャが追いすがってくる気配をいち早く察知したニーダーは、先手をうって振り返った。背に縋ろうとしていたノヂシャを、冷笑で向かいうつ。ノヂシャは立ちすくんだ。
ニーダーは敢えて何も言わなかった。冷やかな眼差しをノヂシャに向けるだけだ。ノヂシャに伝えるべき言葉はなかった。今はただ、一刻も早くラプンツェルを寝室に連れ帰りたい。少しでいいから、安心させたかった。
ノヂシャは焦っていた。苦痛と屈辱を悦びに変換できる狂人であっても、その心の在り方はニーダーとそうは変わらないらしい。
最も辛いのは、無関心だ。ここにいるのに、まるでいないように存在を無視されることだ。
「俺……俺を……鉤の部屋へ……連れて、行ってくれ」
ノヂシャは苦しそうに喉をふるわせる。閊えながら、苦闘して続けた。
「俺は、俺には……ニーダー。あんたが……必要なんだ」
哀願するノヂシャの醜態は見苦しく、ニーダーは眉をひそめる。ノヂシャは跪き、ニーダーの裸足に口づけようと身をかがめた。
その顎を蹴りあげようとしたニーダーだったが、寸でのところで思いとどまる。ラプンツェルが、恐る恐るニーダーの肩に頭を預けて、耳元で囁いたのだ。
「ニーダー、行こう」
ニーダーはさっと足を踏み変える。ノヂシャがつんのめり、倒れ伏したようだが、少しも興味をそそられない。いつもなら、無様な姿を笑い物にしていただろうに。
ニーダーは振り返らず、端的に告げた。
「離れに戻れ、ノヂシャ。追って沙汰申しつける」
ニーダーは足早に寝室へと向かった。ラプンツェルは、肩越し東屋を振り返っている。ラプンツェルには、ノヂシャの声にならない慟哭が聞こえていたのかもしれない。ラプンツェルは優しいから、あのような異常者のことも気にとめるのだ。
ニーダーの耳に、ノヂシャの慟哭は届かない。ニーダーの耳には、ラプンツェルの微かな息遣いが聞こえている。それだけでいいと、ニーダーは思った。




