憎らしい弟3
男性キャラクターに対して、男性キャラクターが過度に接触しています。接近、親密な接触、顔舐め、等です。苦手な方はご注意願います(゜゜;)
ノヂシャは好物を頬張る幼子のように、或いは、恋い慕う女を抱擁する男のように。うっとりと蕩けた眼差しで、ニーダーの手で抉られ淋漓と流血する傷口と、ニーダーの強張った表情を交互に見る。
ニーダーはノヂシャを凝視して、奇妙な言動から、意味を正しく推し量ろうと躍起になっていた。
言葉だけを聞けば、反抗か挑発のいずれかにとれるのだが、そうだとしたら、危うくにおい立つ陶酔の説明がつかない。
しばらく黙考した後、ニーダーは自嘲して頭を振った。
(愚かな真似はよそう。常人の理屈が通じぬからこその狂人だ。それを忖度しようなどと、徒労に終わることが目に見えて明らかではないか)
気を取り直したニーダーは、戸惑いを億尾にもださぬよう細心の注意を払い、腕組をして体をおちつけると、尊大に言い放った。
「私に反抗するとは……思い上がったものだな、ノヂシャよ」
ノヂシャの言葉を、反抗として受け取った体で話を進めると、ノヂシャはきょとんと目を丸くした。次いで、絞られた双眸は不服そうに見える。見当違いだと、暗に抗議しているのだろう。ニーダーは嘲笑を深めた。
「望むことも望まぬことも、お前には一切許さん。お前はただ、私の心の向くまま気の向くまま玩弄されるだけの、哀れな人形であれ。それが出来ぬのならば」
ニーダーは氷刃のように研ぎ澄ませた視線でノヂシャを一瞥し、斬りつけるように告げた。
「今一度、調整が必要かな」
「お気に召すままに、どうぞ」
ノヂシャを脅かす、恐怖と苦痛の宣告を、ノヂシャは平然と受諾した。虚勢を張っているとは思えない。だとしたら、ノヂシャは本心から、仕置きを望んでいることになる。
面食らうニーダーを臆することなく見返し、ノヂシャは夢を見る人形のように、安らかな面持ちで言った。
「あんたがいないと、なにもない。痛みも苦しみも、救いも悦びも、なにもない。あんただけが、与えられるんだ。生きているって、俺に感じさせてくれるのは、ニーダー。あんただけだ」
やはり、ノヂシャは狂っている。どうしようもなく。ニーダーの知る暴力では、もう、ノヂシャを押さえつけていられないのかもしれない。徒労感の無力感が、大波のように、ニーダーをのみこむ。
(ここらが往生際か?)
ニーダーはさりげなく当たりを見回した。覆面をすっぽり被り、素顔と真意を闇に融かした『彼』の、雄偉な姿が何処にも見当たらないことを確かめる。
『彼』はいない。ニーダーが支配する城で唯一人の、ノヂシャの守護者は不在。即ち、千載一遇の好機だ。
ノヂシャの死を背負う覚悟が、ニーダーにあるのならば。
ノヂシャを服従させた、というのは、ニーダーの思い込みだったらしい。ニーダーはノヂシャを壊して、その心に己の存在を絶対的なものとして組み込んだけれど、ノヂシャの支配者にはなれなかった。得られたのは、絶対の忠誠ではなく、歪んだ執心。ニーダーがその脅威を軽視していたせいで、ラプンツェルはノヂシャに襲われた。愛する我が子が、危うくノヂシャの魔の手にかかるところだった。
ノヂシャは綾取られる奴隷人形にはならなかった。ノヂシャには自我がある。望みがあり、それを叶える為に行動する。歪んだ心が何を求めて動くのか、ニーダーにはわからない。
確かなことは、ノヂシャがニーダーに執着していること。さらに、ラプンツェルとお腹の子が、ニーダーの大切な宝物であると、理解していることだ。
ノヂシャが次に何をしでかすのか、想像もつかない。おそらくは、ニーダーの想像を絶する、恐ろしいことをするのだろう。ノヂシャがラプンツェルに堕胎の毒を含ませようとするなんて、昨日までのニーダーには想像もつかなかった。
ノヂシャはニーダーの手に余る。
(殺すべきだ。いまここで)
ニーダーは拳を握りしめた。硬化した手指が擦れ合い、刃が拮抗するような、冷やかで耳障りな音が沈黙を切り裂く。ノヂシャがゆっくりとまたたきをした。ブレンネン王家を象徴する青薔薇の色を宿した瞳が、殺意を漲らせるニーダーを一歩、後退させる。
知らず知らずのうちに、後ずさりをしてしまったニーダーは、奥歯を砕けんばかりに噛みしめた。ノヂシャの強い眼差しに気圧されたのではないと、己の心に弁解することで、もう一歩、退いてしまいそうなのを堪えていた。
(怖気づいたか、ニーダー・ブレンネン! ラプンツェルとお腹の子を、何をひきかえにしても必ず守ると誓ったではないか!)
叱り飛ばしたのは、実の弟を手にかける罪深さに慄き躊躇う、惰弱な己ではなかった。今更、罪を恐れて二の足を踏むことはしない。
ノヂシャを手にかけようとした瞬間に、記憶の奥深くで炸裂するのだ。ニーダーの意識が届かない奥底に眠る、後悔と罪の意識が。
思い出せない。思い出そうとも思わない。思い出すことが恐ろしい。ノヂシャの青い瞳が、封印した記憶の鍵穴に差し込まれる、唯一つの鍵となりそうで、目を合わせていられなくなった。
既視感にとらわれそうになる。冷たく突き放したような凍える瞳の奥に、未知の何かが灯る奇跡的な瞬間を、ニーダーは知っている。その正体はわからないけれど、極寒の凍土に見つけた、暖かな灯のようなものだったかもしれない。
そしてそれは、ニーダーが気付き、手を伸ばした瞬間に、ふっと消え去ったのだ。
敗走するように目を逸らしたニーダーは、惨めさを払拭するように、悔し紛れに言い捨てる。
「お前と話していると、こちらまで頭がおかしくなりそうだ」
「俺を笑わせようとしてくれた? まともなつもりでいたなんて、面白い冗談だ」
ぎこちなく微笑むノヂシャを黙らせる術が見当たらない。譴責は愚か、睨みつけることも出来ない。立っていることさえ難しい。ニーダーは崩れ落ちるように、椅子に腰をおろした。
ノヂシャは戸惑ったようだった。
「……なにか気に障ること、言った?」
小心翼翼としたノヂシャの挙動を嘲る余裕もない。今にも飛び出しそうな、禁じられた記憶を閉じ込めるため、ニーダーの精神はひどく疲弊していた。
辛うじて「枚挙に暇がない」と唸るように言う。目の奥が、ひどく重い。頭が、割れそうに痛い。なにかが暴れまわっている。ニーダーを内側から食い破ろうとしている。
ノヂシャの前だろうが何だろうが、ニーダーはもう、体裁にこだわっていられない。右手に顔をうずめて、しきりに頭をふった。何かを振り払おうとするかのように。何度も何度も、朦朧とするほどに。
何故、こんなに苦しんでいるのかわからない。こんなことは初めてだ。ノヂシャを殺めようとしたことが原因としか思えない。
(だが、しかし……いったいどうしたことだ?)
なんとか平常心を取り戻そうとして、掌で顔を強く擦る。感覚が麻痺していた。ぬめる血を顔になすりつけるおぞましさ、不快さすら感じられない。
そんな意味の無い行為を、ニーダーの手首を掴んだ、ノヂシャの手がやめさせた。
完全に虚を突かれたニーダーは、茫然自失に陥った。ノヂシャは、いつの間にかにじりよって来ていて、ニーダーの膝に上体が乗り上げている。ノヂシャに掴まれた手首が、焼け爛れそうだ。熱くて、すごく痛い。
「だめだ、ニーダー。あんたの綺麗な顔が、血で汚れる」
伸びあがったノヂシャはニーダーの耳元に唇を寄せ、睦言を囁くように言った。ノヂシャはふいごのように、熱い溜息をニーダーの耳朶にふきかける。びくりと震えて、背を逸らし逃れようとしたところに、ノヂシャの顔が近付いてきた。焦点が合わなくなるほどに、近い。
ぺちゃりと、湿った音とともに、生温かく、柔らかく、濡れたものが目元に触れて、反射的に目を瞑った。
瞼を持ち上げると、血と唾液が混じり合った朱銀の糸が、ノヂシャの唇から垂れ下がっているのが見えた。ノヂシャは笑みのかたちに撓めた唇を、見せつけるようにゆっくりと舐める。
顔に塗りたくった血を舐めとられたことは、明白だった。それなのに、なかなか理解が追いつかなかったのは、認めたくなかっただろう。それ以上に、あり得ないことだったからかもしれない。犬や猫のように、人の顔を舐めるなんて。
「この血……俺の血だけじゃない……ラプンツェルのだ」
涎を拭い取った親指を舐めるノヂシャの横面に拳を叩き込んだのは、遅れてやってきた怒りにかられて、発作的にしたことだった。たいして力も籠っていない、効果的とは言い難い一撃だったけれど、ノヂシャは面白いように、したたかに食らった。
しかし、ノヂシャは懲りていなかった。憤然と立ち上がろうとしたニーダーの足に縋りつく。体制を崩し、椅子の上に腰かけることを余議なくされたニーダーの、裸足の踝にそっと触れて、ノヂシャはひとりごちるように言った。
「なぁ、ニーダー……どうしたんだ? そんな恰好で。普段は撫で付けてる前髪も下ろしたまま、裸足で。あんたらしくない」
屈辱のあまり、頬がかっとやける。絶句するニーダーを仰ぎ見て、ノヂシャは小首を傾げた。
「ひょっとして、ラプンツェルから逃げてきたのか?」
ノヂシャに「気持ち悪い」は誉め言葉だと思っております(ФωФ)←




